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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

スポーツアカデミー2014 第7回

1964から2020へ=歴史を伝える意義

11月26日、第7回スポーツアカデミーが行われました。
今回は、スポーツ白書2014のトピックスで「1964から2020へ=歴史を伝える意義」をご執筆頂いた産経新聞社 特別記者 兼 論説委員の佐野慎輔様にご講義いただきました。

【当日の概要報告】

※以下の報告は、別掲の当日資料と合わせてご覧ください。

産経新聞社特別記者 兼 論説委員 佐野 慎輔 氏

産経新聞社特別記者 兼 論説委員
佐野 慎輔 氏

主な講義内容

1. 1964の意義

(1)日本にもたらしたもの

① ハード面でのレガシー

1964年開催の東京オリンピック(以下、1964大会)は日本に多くのレガシーをもたらした。社会インフラの整備はその最たるものである。国家予算が年間約3兆2,000億円の時代に約1兆円をオリンピック・パラリンピックに投じ「1兆円プロジェクト」と呼ばれた。内訳は運営費が99億4,600万円、施設建設費165億8,800万円、インフラ整備費9,608億2,900万円など。インフラ整備費は新幹線や高速道路の整備にあてられた。こうした交通網に加え、国立競技場や武道館、代々木競技場などの施設は、50年たった今でも現役で活躍している。上下水道の整備にも729億円が投じられ、衛生的に劣悪と言われた東京の上下水道は飛躍的に改善された。これらは現在老朽化の憂き目にあっているとはいえ、今日の社会インフラは1964年東京オリンピック・パラリンピックの遺産が土台となっている。そういう意味で東京はオリンピック・パラリンピックの「レガシー都市」と言える。

② ソフト面でのレガシー

1964大会に向けて、オリンピックの意義を青少年に知らしめようと1960年に「オリンピック青少年運動」がスタートした。これが契機となり、ドイツの例を参考にして1962年にスポーツ少年団が作られた。高度成長期に入っていた当時の社会では、一方で核家族化や受験戦争の激化により、青少年犯罪が増えるという問題をかかえていた。スポーツ少年団は、スポーツを有効に使って青少年の健全な育成を促し、こうした問題を解決するという狙いがあった。

団数22、団員数753人でスタートしたスポーツ少年団は、その後国民の支持を集めて大きく発展し、最盛期の1986年には団員数は112万1,875人に達した。現在は少子化や価値観(楽しみ方)の多様化などの影響により減少しているものの、スポーツ少年団出身者からオリンピックやプロスポーツの現場で活躍する選手も多数輩出されており、1964大会が残した重要なレガシーと言える。

民間のスポーツクラブが発足したのも1964年が契機だった。1964大会の体操競技金メダリストの小野喬、銅メダリストの小野清子夫妻が1965年に池上スポーツ普及クラブ(現池上スポーツクラブ)を設立。小野夫妻は海外遠征をしながらヨーロッパ型の地域スポーツに関心を抱き、地域スポーツを日本でも根付かせようと考えてスポーツクラブを立ち上げた。山田スイミングクラブ(その後、イトマンスイミングスクールに継承)がスタートしたのも1965年。のちにオリンピック選手を多数輩出した。1964大会水泳日本代表の後藤忠治氏は1969年に小野夫妻の協力も得てセントラルスポーツクラブを設立。同クラブでは、今でも水泳と体操が2本柱となっている。

現在さまざまな競技で存在している日本リーグが発足したのもオリンピックが引き金となった。1965年に発足したサッカーの日本リーグを皮切りに、バスケットボール、ハンドボール、バレーボールなどさまざまな競技で日本リーグが始まった。

③ 両面でのレガシー

1964年を契機に日本人のマナーは大きく向上した。当時の日本ではごみを道端で平気で捨てたり、列に並ばなかったり、今では考えられないほどマナーが悪かった。海外から外国人を多く迎えるにあたり、各省庁などが協力してオリンピック国民運動を創設。公衆道徳の高揚、交通道徳の高揚、衛生観念の発達など7つの柱を掲げ、外国人に不快な思いをさせないよう、国民の意識向上に努めた。

学校ではオリンピック読本が作られ、子どもたちがオリンピックの歴史などを学んだ。日本の選手だけでなく、海外の選手への応援を奨励するなど啓蒙的な側面があった。観光地や東京近隣の自治体は、マナーの向上に重点を置いた大人向けのオリンピック読本を独自に製作した。

1964年パラリンピックの開催は日本に大きなレガシーをもたらした。東京大会の前、パラリンピックの前身とも言える国際ストーク・マンデビル競技大会は車いすだけの大会で、東京大会では第1部をストーク・マンデビル大会、第2部を国際身体障害者スポーツ大会とした。言葉の持つ意味は異なるが、パラリンピックという名称も1964年に考案されて、現在のパラリンピックの原型を作ったのがこの東京大会だった。

東京でのパラリンピックは日本に障害者が外に出てスポーツをするきっかけをもたらしたともいわれている。パラリンピックが遺したレガシーは「組織」「大会」「施設」の3つ。組織としては1963年に日本ろうあ体育協会が設立され、1965年には日本身体障がい者スポーツ協会が発足、のちの日本障がい者スポーツ協会設立につながった。

(2)日本が世界にもたらしたもの

オリンピックのテレビ中継は1948年のロンドン大会から行われていたが、当時のテレビ放映権料は3,000ドル。テレビカメラを座席に設置することから座席占有料と呼ばれた。1964大会の放映権料は160万ドルで、テレビの普及、浸透と相まって放映権料がこの大会から大きくクローズアップされようになった。

1964大会では史上初めて開会式をカラーで中継し、その模様は世界に衛星中継(当時の名称は宇宙中継)された。マラソンの全中継をしたのも東京大会が初めて。全20競技中、16競技がテレビ中継された。即時の記録集計など計時環境の飛躍、ポスターなど印刷技術の向上もあり、国内技術による「科学の五輪」を世界にアピールした。

競技施設やトイレ、非常口を絵で表示するピクトグラムも日本が世界にもたらした発明となった。英語をはじめとする外国語ができる人が少ないという当時の日本人の弱点を逆手に取ったアイデアであった。今日、オリンピック競技大会のみならず、日常生活でもピクトグラムはグローバルスタンダードとなっている。

沖縄から聖火リレーを始めたことも社会に大きな影響をもたらした。返還前の沖縄で聖火リレーを始めたことは日本国内のみならずアメリカをも刺激し、国民の悲願であった沖縄返還(1972年)が早まったと言われている。

アジア初のオリンピック・パラリンピックという側面はアジア各国に大きな影響を与えた。アジアからの初参加国が増加し、国威発揚型の大会は、1988年のソウル大会、2008年の北京大会へとつながっていくモデルとなった。

2. 2020への挑戦

(1)遺すべきレガシーとは

① 2020年東京パラリンピックが目指すバリアフリー

2020年に東京が成熟都市として何ができるのか。1964年大会時のような国威発揚型から脱却し、成熟都市としてのオリンピック・パラリンピックを開催する必要がある。2020年はオリンピックとパラリンピックが初めてひとつの組織で運営される大会であり、ハード面ではバリアフリー社会の実現があげられる。東京の施設やインフラは、バリアフリーの観点から見ると先進国の中で遅れているのが現状。トイレひとつとっても競技用の車いすでは入れない場所もある。バリアフリーに関しては、人々の心の問題も大きなテーマとなる。たとえば車いすの人が階段の上り下りをするのに、大きな昇降機を使うのは、本人にとってあまり気持ちのよいものではないという意見がある。周りにいる人たちが自然に手助けするようになるのが一番よいのではないか。人々の心の中をバリアフリー化することが理想だ。

② 子どもたちに何を遺すのか

ソフト面では子どもたちに何を遺すのかを考えることが重要だ。1964大会はスポーツ少年団というレガシーを子どもたちに遺した。オリンピック・パラリンピックは一流のアスリートに触れる貴重な機会であり、あこがれを普及などにつなげていくことが課題となる。

③ スポーツの文化としての定着

スポーツの楽しみ方には「する」だけではなく「みる」「ささえる」「まなぶ」「ふれる」等さまざまな側面があり、スポーツが生活の中に溶け込むには、どの側面も重要だ。オーストラリアでは、企業がオフィスにシャワーを設置し、社員の通勤前や昼休みのスポーツを奨励するケースもあると聞いている。日本でも自転車専用道路の設置など、スポーツを文化として定着させる施策を検討し、実行に移す必要がある。

④ 多様性(Diversity)/共生

多様な個性、たとえば高齢者と子ども、健常者と障害者などが分け隔てなくスポーツに親しめるよう、心と環境のバリアフリー社会を実現すべきである。「障害は人の持つ個性のひとつである」。誰もがそう思う社会の実現が大きなテーマ、そしてレガシーになろう。

(2)集中と分散

2020年の東京オリンピック・パラリンピックは当初、競技場を半径8キロ以内に収める予定だったが、現在はその範囲を広げようとしている。これには公約違反ではないか、アスリートファーストに反するではないか、という批判がある。しかしコストを考えると、分散することにより約2,000億円の削減が可能となる。スムーズな移動や、会場でのおもてなしで、アスリートファーストは実現できると考える。会場が分散することで会場のある地域が活性化する可能性もあり、デメリットをメリットに変える発想が必要だ。

長野五輪で実施された1校1国運動を東京でも計画しようとしているが、これを分散させて全国の自治体に広げ、1自治体1国運動などにすることで、東京の盛り上がりを全国に波及させたら面白いのではないか。組織委員会と大学連携は現在761校に及んでいる。地方の大学も巻き込むと分散のメリットはさらに増える。また被災地からの発信も重要なテーマだ。被災地である岩手県釜石市は2019年のラグビーワールドカップの試合会場に立候補している。たとえば、ラグビー場に加え、防災拠点としての機能を兼ね備えた屋内施設も建設し、その施設を利用して2020年にも何がしかの競技を実施すれば、釜石市をスポーツ都市として世界にアピールできるのではないだろうか。

ディスカッション:主なやりとり

Q.(フロア)1964大会のポジティブなレガシーを中心にお話しいただいたが、負のレガシーとしてはどういった点があるとお考えか?
A.

(講師)ひとつには、政治とスポーツの関係という点での負のレガシーがある。1962年のアジア競技大会をめぐってIOCから資格停止処分をうけたインドネシアがIOCに対抗して1963年に新興国スポーツ競技大会(GANEFO)を設立。IOCは1964大会へのインドネシアチームの出場を認めなかった。また、北朝鮮チームもインドネシアに同調しIOCから処分をうけており、日本に入国までしながら参加できなかった。先日(2014年10月30日)、国連でスポーツの(政治や宗教などからの)独立性が宣言されたが、政治の影響による1964大会の負の側面ということではそうした事実があげられる。
また、東京に生まれ、長く居住する人たちの間では、古き良き東京の風景が失われたという声も聞かれた。たとえば首都高速が川を覆い、日本橋にふたをするように通されたことを指してのことだが、これは用地買収が間に合わず、開催に間に合うよう建設されたことが原因。施設の新設と立ち退きの問題、環境問題は常に負の面として指摘される。

Q.(フロア)1964大会は子どもたちにスポーツ少年団を遺したが、2020大会は子どもたちにスポーツの楽しさという点では何を遺せる、あるいは遺すべきとお考えか?
A.

(講師)スポーツ基本法、基本計画が推進しているのは「する・みる・ささえる」スポーツの楽しさ。その前までは「する」側面が強調され「みる」と「ささえる」への視点が欠けていた。2020大会がその「みる」と「ささえる」というスポーツの楽しさを子どもたちにいかに伝えていくかというのが課題。
見る人たちのためにどのような施設があるべきか、支えたいと考える人たちにどのような機会が提供されるべきかを考える。さらには「学ぶこと」への視点も大事。本を読んだり、このようなセミナーに出たりして、スポーツを学ぶ楽しさもある。2020大会をきっかけに、さまざまなスポーツの楽しみ方を子どもたちに普及、定着させていくことが今後、重要となる。とりわけスポーツが苦手だという子どもたちに、スポーツに触れ「楽しさ」を知ってもらうきっかけを与えることが大きなテーマとなるだろう。

ディスカッションの様子

以上