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ジェシー・オーエンス
「政治」を超えて輝いた

佐藤 次郎           【オリンピック レガシー 人物編】

  ジェシー・オーエンスの名は大方のスポーツファンの頭にあるだろう。だが、詳しい知識や具体的なイメージとなると、どうだろうか。母国のアメリカはともかく、日本では「戦前に陸上競技で活躍した黒人(アフリカ系)の大選手」「ベルリンオリンピックの金メダリスト」といったあたりにとどまっているように思う。スポーツ史の中でもひときわ大きな存在でありながら、その記憶は歴史のはざまに半ば埋もれかけているのである。そこで、このアスリートの価値ある足跡、近代スポーツ発展の中で果たした役割をあらためてたどってみたい。それは、数十年が過ぎたいまも輝きを失っていないはずだ。

  1913年、アラバマ州で10人きょうだいの9番目として生まれた。父は貧しい小作人で、先祖は奴隷の身だったという。少しでもいい暮らしをと、一家がオハイオ州のクリーブランドに移住したのがジェシー少年に思いがけない道を開いた。貧しいながらも伸び伸びと育ち、中学校ですぐれた指導者に出会って陸上競技を始めることになったのである。ちなみに、本来はジェームズ・クリーブランド・オーエンスだった少年がジェシーと呼ばれるようになったのは、通称だった「J・C」を小学校の教師が「ジェシー」と聞き間違えたことからだ。

  短距離におけるジェシーの才能に目をとめて競技へと導いたのは、中学の教師で陸上コーチも務めていたチャールズ・ライリーである。小さいころから走ることが好きだったジェシーの秘めた力は並外れていたが、それをすぐさま見抜いたライリーの存在がなければ、のちの栄光は生まれなかったに違いない。加えて、中学時代にはもうひとつ重要な出会いがあった。学校に講演に訪れたアントワープオリンピック・男子100メートルの金メダリスト、チャーリー・パドックから大きな刺激を受けたのだ。のちにジェシーは「私はその日世界でいちばん速い人間になってやろうと決心した」と書き残している。こうした話に接すると、若い時期での出会いの大切さ、トップアスリートが少年たちに及ぼし得る影響力の大きさを強く思わずにはいられない。

  高校に入ってスプリンターとしての成長は加速した。高校生のレベルをはるかに超え、全米トップクラスの一角に食い込む力を示すようになったのである。彼は記録を更新し続けた。100ヤード 注1) では当時の世界記録をマークし、走り幅跳びでは全米選手権優勝も果たしている。チャーリー・パドックとの出会いで強く意識するようになっていたオリンピック出場も視野に入ってきた。

オハイオ州立大時代、ハードルの練習をするオーエンス オハイオ州立大時代、ハードルの練習をするオーエンス

  20歳でオハイオ州立大に入学。ジェシーは一気にアメリカの、いや、世界の頂点へと突き抜けた。スプリントと走り幅跳びでは連戦連勝の快進撃。1935年の大会で、わずか45分の間に220ヤード、走り幅跳びなど3種目で世界記録を出し、他の1種目では世界タイをマークしてみせたのは長く語り草となっている。走り幅跳びの記録は8メートル13。これは、その後25年間も破られなかった大記録だ。その翌年には100メートルでも10秒2の世界記録を打ち立てている。ジェシーは次々と壁を破り、そのたびに陸上界にセンセーションを巻き起こした。
ちょうど大恐慌のさなかだった。貧しい家庭に生まれ、平穏な暮らしなど一度もないままだった。激しい黒人差別にも日々さらされていた。そうした苦難をすべて乗り越えて、この若者は陸上界の頂点に立ったのである。

  そして、彼が最も光り輝いたのは1936年だった。ナチスドイツのもとで開かれたベルリンオリンピック。22歳のジェシーは4種目で金メダルを獲得するという偉業を達成したのだ。成績だけではない。その大活躍は、オリンピック大会、さらにスポーツそのものにとってもきわめて価値あるものだったと言っておきたい。 のちに彼は、金メダルを目指す戦いに臨む重圧がいかにすさまじかったかを語っている。それでも、いざ勝負となれば、培ってきた力を存分に発揮した。最初の100メートルでは10秒3のタイムで優勝。続く走り幅跳び、200メートルでもそれぞれ8メートル06、20秒7と好記録をマークして圧勝した。3日間で金メダル3つ。さらに400メートルリレーにも出場し、金メダルをもうひとつつけ加えた。当時は海外の情報が少なく、自国選手に関する報道がほとんどだった日本の新聞も、「超人」「羚羊」「理想的フォームで驀進」などとたたえている。自らがオリンピック史上最高のアスリートであることを、彼は世界の隅々にまで証明してみせたのだった。 誰もが喝采を送る中、一人だけ苦い顔をしていたのが当時のドイツ総統、アドルフ・ヒトラーだ。この独裁者は、オリンピック開催によってナチスドイツの偉大さを、またアーリア人種がすぐれた「支配民族」であることを誇示しようとしていた。だが、黒人アスリートであるジェシーのかつてない活躍によって、そのゆがんだ思惑はあっさりと外れたのである。大会成功のため、ヒトラーは会期中、人種差別的な言動を抑えていたともいわれるが、黒人選手の躍動を苦々しく思っていたのは間違いないだろう。そこには、自らの思い通りにならなかったことへの「敗北感」さえあったかもしれない。

1936年ベルリンオリンピックで活躍 1936年ベルリンオリンピックで活躍

  ジェシー自身は、独裁者の思惑や、自分を無視したことなどをさほど気にかけなかったらしい。試合を勝ち抜いてオリンピックのチャンピオンになることだけを考えていたのだとのちに語っている。つまり、持てる力を出し尽くして勝利を目指すというアスリートの本分のみに集中していたのだろう。結果として、それが、政治や権力誇示やゆがんだ思想宣伝にオリンピックを、スポーツを利用しようとした思惑を挫いたのだ。

  ベルリンオリンピックはそれまでを上回る参加国、参加選手を集め、豪華な施設によって華やかに行われた。ナチスの宣伝意図はある程度達成されたといえるかもしれない。ただ、一方でこれは「ジェシー・オーエンスの大会」ともいわれた。国威発揚の色彩が濃い大会であっても、長く人々の記憶に残っていくのはアスリートの姿であり、競技の純粋な感動なのだ。これは、いつの時代にあってもスポーツ人が心に刻んでおくべきことだろう。その意味でも、ジェシー・オーエンスの名を歴史のはざまに埋もれさせてはならない。

 
1936年ベルリンオリンピック走り幅跳びの表彰。中央はオーエンス、3位(左)は田島直人 1936年ベルリンオリンピック走り幅跳びの表彰。中央はオーエンス、3位(左)は田島直人

  この不世出の大選手を忘れてはならない理由は、もうひとつある。ベルリンオリンピックの後、彼がまたしても苦難の道を歩まねばならなかったところだ。
  金メダル4つを携えて帰国したジェシーは大歓迎を受けたものの、その一方では相変わらず露骨な黒人差別を受け続けた。偉大な王者にふさわしい仕事も見つからなかった。抜群の人気と知名度を当て込んだ高額のオファーは多かったというが、本当にやりがいのある仕事はほとんどなく、金メダリストに対する敬意を欠いた申し出も少なくなかった。そのひとつが、馬と競走させるエキジビション・レースだったのはよく知られている。そんな仕事も引き受けねばならなかったのは、前人未到の実績をつくりながらも、自らの将来を見通すことさえできなかった苦しさゆえだろう。

  戦火によって続くオリンピック2大会が中止になり、再び大舞台を踏む機会を得られなかったジェシーは、その後も不安定な暮らしを送らねばならなかった。スポーツの指導・普及役や親善大使として公的な仕事に携わりもしたが、その名声に見合う地位につくことは少なかったようだ。金メダル4個を獲得した名選手が、不遇ともいえる後半生を送らねばならなかったのは、やはり差別のために違いない。このことは常に振り返っておくべきだろう。いまも差別はさまざまな形で残っており、スポーツの世界でもしばしば顔を出す。その面からも、ジェシーの存在を忘れてはならないのである。

  後年、その名が思いがけず浮上したのは1968年のメキシコシティーオリンピックの時だ。男子200メートルで1位と3位に入ったアメリカのトミー・スミスとジョン・カルロスが、表彰台で黒手袋の拳を突き上げた「ブラックパワー・サリュート」。激しい論議を呼んだアスリートによる黒人差別への抗議行動に対してジェシーは賛同せず、白人にすり寄る「アンクル・トム」注2) とののしられた。だが、彼もまた、栄光に包まれた選手時代からずっと差別に苦しめられてきていたのである。その真意は「アスリートは政治や思想に左右されず、競技のみに集中すべきだ」ということだったに違いない。「スポーツの純粋な力を信じよ」と彼は叫びたかったのではないだろうか。

  1976年、ジェシーは、米国の一般市民にとっての最高の栄誉である大統領自由勲章を受けた。66歳で死去したのはその4年後のことだ。輝かしい栄光に包まれながらも、常に理不尽とも思える不遇がついて回った波乱の生涯は、やっと最後にその偉業にふさわしい称賛を受けた。ジェシー・オーエンス。近代スポーツ史に意義ある1ページを開いたアスリート。その人生は、長く語り継いでいくべきさまざまな教訓や指針に満ちている。

注1) 当時はメートル単位の種目とヤード単位の種目が混在していた(1ヤードは0.9244メートル)。

注2) 米国の小説「アンクル・トムの小屋」の主人公である黒人奴隷のトムが白人に従順だったことから、現在の黒人社会では「白人に媚びる黒人」を「アンクル・トム」と呼ぶことがある。


佐藤 次郎

スポーツジャーナリスト
笹川スポーツ財団 評議員


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