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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

和田勇=フレッド・イサム・ワダ
東京オリンピックへの無私の献身

【オリンピック・パラリンピック 歴史を支えた人びと】

2019.01.30

それは1949(昭和24)年8月1日、ロサンゼルス西南部の住宅地サウスバンネスにある日系人フレッド・イサム・ワダ(日本名・和田勇)邸で起きた。夕食の後、居間ではいつものようにコーヒーがいい香りをたてていた。すると突然、夫人のマサコ(日本名・正子)が夫に話しかけた。

右が和田勇、左は大島鎌吉。1979年岸記念体育館で行われたJOC名誉委員和田勇氏来日歓迎会にて

右が和田勇、左は大島鎌吉。1979年岸記念体育館で行われたJOC名誉委員和田勇氏来日歓迎会にて

「パパ、きょうの羅府新報らふしんぽう、読みましたか?」

ロサンゼルスに本社を置き、現地の日本人向けに発行されている新聞である。正子はその日の紙面の3面記事について話した。

「選手に宿舎提供 奉仕ご希望あれば 招致委員会より発表」と見出しがついた記事は、こう書き出されていた。「いよいよ日本水泳選手の羅府到着は旬日後となり、日白團体(日本選手歓迎団体)より選手の宿舎を奉仕的に申出があるが、今回選手招致委員会では、出来れば食事等の関係上奉仕等の面倒を見て下さる同胞の家庭を探している」

記事は「静かな」「七、八歳の子供がいる」家庭を好都合とし、「一家庭で三、四人の選手」の面倒を見てほしいと続く。この記事の発信元は、8月18日から3日間、ロサンゼルスで開く全米水泳選手権に出場する日本選手団監督の清川正二である。

清川は戦前の1932年ロサンゼルス・オリンピック男子100m背泳ぎ金メダリスト。オリンピック運動や後輩の指導に熱心で、後に社長となる商社・兼松(その後兼松江商)に勤務し英語も堪能だ。そこをかわれて戦後、日本スポーツ界初の海外遠征の責任者となった。古橋廣之進、橋爪四郎、浜口喜博ら8人の選手たちは前年8月のロンドン・オリンピックと競技日程を合わせて開かれた全日本水上選手権で好記録を連発。日本水泳連盟の田畑政治会長の尽力と米国代表チームのロバート・キッバス監督の協力によって全米水泳に招かれていた。

当時、太平洋戦争を戦った日本に対する米国の国民感情は最悪である。あてにしていた日系人が経営するホテルは街中にあり、安心して宿泊できない。先乗りして準備にあたる清川は、思いあまって日系人で組織された招致委員会に相談した。「できれば8人の選手団が全員一緒に泊まれ、日本料理が上手な奥さんが居て、リラックスできるよう子供が2、3人いるような家庭」。そんな虫のいい条件の理由を、清川は後年私に語ってくれた。「古橋や橋爪、浜口たちを少しでもいい環境で試合に臨ませてやりたかったんだ」

「ええやないか」。あっけらかんと和田勇は答えた。

和田は1907年9月、米国ワシントン州べリングハムで生まれた日系2世である。父の善兵衛は和歌山県日高郡名田村(現・御坊市名田町)から出稼ぎ漁民としてカナダに渡り、国境近くのべリングハムに移り食堂を経営していた。母の玉枝も同県日高郡由良町戸津井出身。一家の暮らしは豊かではなく、1911年から5年間、2人の妹とともに「口減らし」のため、和歌山の母方の祖父母の家に送られた。漁村で人々が助け合って暮らす姿を見知ったことがその後の勇の生き方に大きく影響したように思う。

和田勇が生まれた頃の米国ワシントン州べリングハム

和田勇が生まれた頃の米国ワシントン州べリングハム

1916年に再び米国に戻ると実母は死去しており、父は再婚しシアトルにいた。居場所がなくなり、12歳で家を出た。シアトル郊外の農園に住み込み、雑役夫をしながら通学。3年後、乳製品会社に転職した。その後農作物の小売りチェーン店で働き、やがて店長となる。1927年に独立、オークランド市内で青果店経営で成功し、1933年、同じ帰米2世で6歳年下の田端正子と結婚した。正子の父も和歌山県日高郡美浜町出身の出稼ぎ組である。

太平洋戦争勃発後、日系人は収容所入りか内陸部への疎開を迫られた。和田は1942年3月、ユタ州のキートリーに集団移住、130人のリーダーとして共同農場経営に乗り出した。自ら2万ドルの資金をつぎ込んだが、反日感情による嫌がらせや劣悪な環境のために農場は2年で崩壊した。苦労の末に戦後を迎え、ロサンゼルスで再び青果業で成功、スーパーチェーンの経営者となっていた。

日系人の悲哀をたっぷりと味わった和田だが、望郷の念は強く、日本と日本人をこよなく愛した。4人の子どもに恵まれて、前年夏には郊外に敷地1000坪、建坪200坪の豪邸を建てた。日本選手を合宿させることは愛する日本への献身、喜びでもあったという。わざわざ日本人のコックを雇い、練習用のプールを借り受け、自ら送り迎えまでかってでた。その献身によって選手たちは豊富な食料、当時日本にはなかったテレビ放送に驚きながら、リラックスして練習に打ち込むことができた。

清川のねらいはあたった。全米水泳初日、いきなり1500m自由形予選で橋爪、古橋が次々と世界記録を塗り替えた。翌日の決勝では表彰台を独占、古橋は400m、800m自由形を含む3種目に世界新記録を出して優勝。浜口が200m自由形を制し、800mリレーにも優勝。100mを除く自由形種目に勝利した。

古橋の快挙は「フジヤマのトビウオ」と称賛され、日系人社会を大いにわかした。新聞の報道によって日本中が盛り上がったが、誰よりも喜んだのが和田である。選手全員をロサンゼルス市内のデパートに連れて行き、パリッとしたスーツをプレゼントした。「ジャップ」とさげすまれてきた日系人が「ジャパニーズ」とよぶ畏敬の念に変わったことがうれしかったのである。

これがきっかけとなり、日本から数多くの人たちが和田を頼って海を渡った。戦後の日本復興に尽力した人も少なくなく、政治家の尾崎行雄、東大総長・南原繁、西武鉄道の創業者・堤康次郎、日本画家・伊東深水らの名が和田家に残る。

和田が戦後初来日したのは1951年4月。全米水泳をきっかけに国際スポーツ界復帰を果たしたお礼に、日本水泳連盟が招いたのである。「旅費は自己負担」を条件に正子夫人とともに35年ぶりに日本の土を踏んだ。このとき、東京・世田谷区奥沢の自宅に招いてくれた水連会長の田畑からこう告げられた。

「東京でオリンピックを開催するのが私の夢なんです……」

和田の再来日は7年後の1958年夏、次女の日本留学準備のためだった。すでに東京は1964年大会招致を公言し、田畑が中心となって準備を進めていた。その田畑が、翌年東京都知事となる国際オリンピック委員会(IOC)委員の東龍太郎とともに滞在先のホテルを訪ねてきた。ふたりは口をそろえて和田に懇願した。

「昭和39年に東京でオリンピックを開きたいんだ。和田さん、いろいろと協力していただけまいか」

「田畑さん、そういえば前に日本に来たときにもオリンピックのことをおっしゃってましたなあ。わかりました」

和田はそのとき即座に、自ら「中南米のIOC委員の説得」を口にしている。スポーツフィッシング以外はスポーツに興味のない和田だったが、東京の立候補と最大のライバル、米国デトロイトの支持基盤が中南米であること報道で知っていたのである。いうまでもなく、7年前の田畑のひと言が頭にあった。その年の秋、和田は日本人以外では唯一となる招致委員会委員を委嘱された。

1964年大会の開催都市は1959年5月26日、ミュンヘンのIOC総会で決まる。和田は3月29日ロサンゼルスを出発、中南米をまわる予定をたてた。出発の1週間ほど前、突然、正子に切り出している。「ボクと一緒にでかける気にはならんか」

IOC委員に接触するには夫人同伴の方が都合がいい。

正子はあまり気乗りしていなかった。当時の岸信介総理大臣から協力を依頼する信書が届き、特命移動大使並みの権限を与えられてはいたが、渡航費用はすべて和田家持ちである。長期になる旅の出費と店の経営、残していく子どもたちのことも頭にあった。

結局、正子は折れた。「ボクは日本と日本人が大好きなんや。日本のためなら全財産をなげうっても惜しくはない」という勇の心根を誰よりも理解していたし、何より治安の悪い国々への旅、勇をひとりで行かせたくはなかったのである。

ふたりは3月29日午後3時、自費で購入した土産を3つのトランクに詰め込み、ロサンゼルスを出発。メキシコを皮切りに、パナマ、キューバ、ベネズエラ、ペルー、ブラジル(リオデジャネイロとサンパウロ)、アルゼンチン、チリ、ウルグアイ、コロンビアと10カ国11都市をまわり、IOC委員たちに東京開催を訴えた。

すぐに会ってくれない委員や、デトロイトと東京を秤にかける委員もいた。旅の途中、アルゼンチンのブエノスアイレスからチリのサンティアゴに飛んだとき、アンデス山中で飛行機の片方のエンジンが止まって急降下。危うく遭難しかけたこともあった。ロサンゼルスに戻ってきたのは5月5日午後2時半、文字通り「命をかけた旅」は38日間に及ぶ「私を無くし公に貢献する」旅でもあった。

そして東京は、第1回投票で58票中過半数の34票を獲得、見事に1964年大会の開催都市に選ばれた。デトロイトは10票に留まった。和田の献身が原動力となったことは言うまでもない。

1964年東京大会の聖火台点火。和田勇もこのシーンを見ていた

1964年東京大会の聖火台点火。和田勇もこのシーンを見ていた

1964年10月10日、和田勇は正子とともに国立競技場のロイヤルボックスに近い招待席にいた。組織委員会から招かれ、戦後3度目の来日である。「戦争で負けて4等国になった日本が、ようやく立ち直った」と涙を流した。

思えばあの1949年8月1日、和田正子が「羅府新報」に目を留めず、主人の和田勇に新聞記事を話題にしなかったら、そして勇が「ええやないか」と答えていなかったとしたら……日本スポーツ界や東京オリンピックはどうなっていただろう。IOC副会長も務めた清川正二は生前、そんな和田について質問する私にこう答えてくれた。「戦後の日本を勇気づけたフジヤマのトビウオは和田さんなくしてあり得なかった。日本スポーツの国際復帰も遅れていただろうし、1964年の東京オリンピックや東海道新幹線の開通も遅れていたと思う……」

和田勇は2001(平成13)年2月12日午前1時半、93年の人生に幕を引いた。日米の架け橋となり、民間の駐米大使のような存在であった人の葬儀は5日後、ロサンゼルスの西本願寺羅府別院で営まれた。そこには古橋や橋爪、浜口らの顔もあった。

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スポーツ歴史の検証
  • 佐野 慎輔 尚美学園大学 教授/産経新聞 客員論説委員
    笹川スポーツ財団 理事/上席特別研究員

    1954年生まれ。報知新聞社を経て産経新聞社入社。産経新聞シドニー支局長、外信部次長、編集局次長兼運動部長、サンケイスポーツ代表、産経新聞社取締役などを歴任。スポーツ記者を30年間以上経験し、野球とオリンピックを各15年間担当。5回のオリンピック取材の経験を持つ。日本スポーツフェアネス推進機構体制審議委員、B&G財団理事、日本モーターボート競走会評議員等も務める。近著に『嘉納治五郎』『中村裕』(以上、小峰書店)など。共著に『スポーツレガシーの探求』(ベ―スボールマガジン社)『これからのスポーツガバナンス』(創文企画)など。