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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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レニ・リーフェンシュタール
「美」だけを見ていたナルシシスト

【オリンピック・パラリンピック 歴史を支えた人びと】

2020.02.19

オリンピックの公式記録映画が撮影されるようになったのは、1912 年ストックホルム大会からである。だが、初期の作品は競技のプロセスをニュース的に記録したもので、質的評価は高くない。

レニ・リーフェンシュタール(1933年/ドイツ連邦公文書館)

レニ・リーフェンシュタール(1933年/ドイツ連邦公文書館)

初の本格的長編オリンピック公式記録映画は、ドイツのレニ・リーフェンシュタールが監督を務めた1936年ベルリン大会の『オリンピア』であった。この映画は陸上競技や開会式を記録した『民族の祭典』と、競泳、飛び込み、体操をはじめとする陸上以外の競技をまとめた『美の祭典』の2部構成となっている。日本選手では、三段跳び金メダリストの田島直人、棒高跳び2位と3位の西田修平と大江季雄、陸上5000m、10000mともに4位の村社講平などが登場している。

この1936年ベルリン大会は「ヒトラーのオリンピック」といわれるように、ナチスのプロパガンダ及び国威発揚の場と位置づけられた。10万人が収容できる大規模なスタジアムを建設し、盛大に行われた大会である。人種差別政策を採っていたナチスが、国際オリンピック委員会(IOC)の強い要求により、このときばかりは政策の執行を凍結したため、アメリカの黒人選手ジェシー・オーエンスなど有色人種も活躍の場を得ることができた。その様子は映画『オリンピア』に描かれている。

それまでのオリンピック公式記録映画とは異なり、『オリンピア』の芸術的完成度は極めて高かった。さまざまな焦点距離のレンズを駆使し、効果音の使用、撮り直しなどにより、競技を美的に描き、観る者を圧倒した。一方で、ヒトラーを精悍な指導者としてクローズアップし、集団体操(マスゲーム)の様式美・構成美を強調するとともに、観衆がヒトラーに対して一斉にナチス式敬礼をするシーンをダイナミックに描いた。そのため、監督のレニ・リーフェンシュタールは、芸術的で美しい記録映画であるという称賛と、ナチスのプロパガンダ映画であるという批判の両方を一身に集めたのである。このことについては、「ナチスに加担したことは許せないが、記録映画としてはたいへん美しいことを評価すべきである」とする声が多い。もっとも批判の方は、『オリンピア』以前にオリンピックとは関係のないナチスのプロパガンダ映画をリーフェンシュタールが制作していたことにも向けられていた。

1902年8月22日にベルリンの裕福な家庭に生まれたレニ・リーフェンシュタールは、小さい頃からスポーツをはじめとするさまざまな習い事を体験する。12歳で水泳を開始し、その後体操クラブに入ったものの、器械から落下して脳震盪を起こしたことから父親に体操を禁じられ、スケートをはじめる。ピアノも習い、ダンス学校にも通い、さらにはテニスのレッスンも受けるようになった。だが、たまたま観た映画に感動したリーフェンシュタールは、映画監督のもとへ押しかけ、映画に出演させてもらう。女優として活動を開始する一方、映画づくりにも興味を持つようになり、撮影や編集の技術、さらには監督としての仕事も学んでいった。彼女の監督デビュー作は、自ら主演も務めた『青の光』という美しくも悲しい作品。この映画の成功でレニ・リーフェンシュタールの名は広く知られるようになり、ヒトラーと出会うことになる。

映画「オリンピア」で再撮影された棒高跳びの西田修平

映画「オリンピア」で再撮影された棒高跳びの西田修平

ヒトラーからナチス党大会の撮影を依頼されたリーフェンシュタールは、1933~35年に『意志の勝利』などのプロパガンダ映画を撮る(現在、ドイツ国内で『意志の勝利』は一般上映禁止)。この映画で評価され、1935年、翌年に行われるベルリンオリンピック公式記録映画の撮影を依頼された。

制作にあたり、リーフェンシュタールはあえて「記録」「ドキュメンタリー」にこだわらなかった。夜間に行われた競技で、明るさが不足して良い映像が撮れないときは、別途撮影用に選手を集め、撮影に適した条件を作った上で競技を再現してもらい撮り直した。『民族の祭典』で、棒高跳びの西田、大江はその再撮影に協力している。また『美の祭典』では、水泳の飛び込みの映像を重ね合わせることで美を際立たせるテクニックを効果的に使用。スポーツするアスリートをすぐれた演出で美しく表現し、非常に高い評価を得た。

しかし、第二次世界大戦後、リーフェンシュタールは一連の映画をヒトラーの指示により制作したことで激しく糾弾され、連合国側に逮捕される。裁判では「ナチスに同調しているものの、戦争犯罪への責任があるとはいえない」という判決で釈放。だが、誹謗中傷から科学的・理性的な批判まで、多くの攻撃を受けるものの、彼女は戦い続けた。裁判には勝訴することが多かった。

1962年にはアフリカのスーダンでヌバ族に会い、10年間の取材を経て写真集『ヌバ』を上梓。70歳を過ぎてからスキューバダイビングを始め、水中写真を撮り写真集を出版した。100歳で結婚し、101歳で永眠した。

話を映画『オリンピア「民族の祭典」「美の祭典」』に戻そう。

どうしてリーフェンシュタールは、ヒトラー、ナチスという"悪"を美しく描くことに抵抗がなかったのだろうか。それを理解するには、レニ自身や彼女を知る人のコメントが参考になる。

  • レニのコメント「ファシズム美学?全然分からない。見当もつきません。ヒトラー式敬礼、高く挙げた右手、あれ以外は」(レニ・リーフェンシュタールのドキュメンタリー映画『レニ』を制作したレイ・ミュラー監督とのインタビュー/平井正著「レニ・リーフェンシュタール──20世紀映像論のために」)。
  • レニのコメント「私がユダヤ人の強制収容所の存在を知らなかったと言っても信じてくれないのです」「オーウェンスの美しさは際立っていました。私はアメリカの黒人をこの眼で見たのは初めてでしたが、すぐに魅了されてしまいました。私に人種的な偏見がないのは『ヌバ』でもわかるでしょう。私は人種差別ということを知らないのです」(沢木耕太郎とのインタビュー/「オリンピア ナチスの森で」)
  • 映画研究者の記述「彼女はつねに、私たちが敬意を捧げることを期待していた」「彼女の能力は、つねに驚くべき自己中心主義と一対になっていた」(ライナー・ローター著、瀬川裕司訳「レーニ・リーフェンシュタール 美の誘惑者」※タイトル原文ママ)。
移動カメラで撮影するリーフェンシュタール(1936年/ドイツ連邦公文書館)

移動カメラで撮影するリーフェンシュタール(1936年/ドイツ連邦公文書館)

おそらく、リーフェンシュタールにとってヒトラーは"悪"ではなかった。当時の(ユダヤ系ではない)ドイツ人は、多くがそのように思っていたのである。そして、彼女にとって被写体はどうでもよかった。「美を創出するテクニック=美的な演出や編集」という強い武器を持っていたリーフェンシュタールは、ナチス党大会も、ヒトラー自身も、そしてベルリンオリンピックも、すべてを美しく表現することができた。そのことによって彼女は当時のドイツという国家において、自らのポジションを高めていけたのだと考えられる。

リーフェンシュタールは自分自身の容姿と同様に、自らが生み出した作品も美しくなければ嫌だった。いや、美しいと"評価"されなくてはいけなかったのだ。それも極めて多くの人たちに。そのためには、偉大なる絶対権力者の評価が効果的だ。彼女には権力者に評価されるための芸術的能力という武器があった。それを使って世界的な名声を得たのである。

しかし、ヒトラーの死とドイツの敗北は、リーフェンシュタールの評価を180度変えた。彼女を協力に支援していたはずの絶対権力者が死去して力を失っただけでなく、彼女自身がヒトラーに協力した犯罪者、つまり悪の手先として糾弾されることになったのである。

だが、先に引用したコメントにあるように、リーフェンシュタールがヒトラーの犯罪行為を知らなかったとしたら、あるいは犯罪性を認識していなかったら……もしそうなら、彼女が主体的にナチスに協力したとまではいえない。発言が真実だったとすれば、彼女はヒトラーの思想やナチスの政治など知ろうとしなかったし、そもそも興味がなかったということになる。

「タイム」誌の表紙を飾ったリーフェンシュタール (1936年)

「タイム」誌の表紙を飾ったリーフェンシュタール (1936年)

リーフェンシュタールは典型的なナルシシストだった。自分自身と自分の芸術的創造にしか関心がなかった。ヒトラーが人種差別主義者であることや、あのおぞましい大量殺戮の元凶であることは、重要ではなかった。彼女にとって大事なことは、ある決められた対象(『意志の勝利』であれば「ヒトラーと偉大なるドイツ民族」、『オリンピア』では「オリンピックで活躍する各国のアスリートとヒトラーと偉大なるドイツ民族」)を美しく表現することだった。リーフェンシュタールは裁判で、倫理観が欠如しているという指摘をたびたび受けているという。おそらく、その通りだったのだろう。レニは"映画"と"自分"だけを見ていたのだ。まわりは見えていない。

美を追求するあまり、アスリートの競技中の映像ではなく、別の場所での再撮影を何度も行ったり、多くの編集上のテクニックを施したりすることで、『オリンピア』はドキュメンタリーの枠を飛び出していた。だが、この手法によって鑑賞者・視聴者は大いに感動するとともに、作品の美的評価は極めて高くなった。

自己顕示欲が強く、ナルシシストで倫理観が欠如していたリーフェンシュタールは、しかしながら卓越した芸術的才能によってすぐれた作品を残し、のちのオリンピック記録映画に大きな影響を与えたのである。

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スポーツ歴史の検証
  • 大野 益弘 日本オリンピック・アカデミー 理事。筑波大学 芸術系非常勤講師。ライター・編集者。株式会社ジャニス代表。
    福武書店(現ベネッセ)などを経て編集プロダクションを設立。オリンピック関連書籍・写真集の編集および監修多数。筑波大学大学院人間総合科学研究科修了(修士)。単著に「オリンピック ヒーローたちの物語」(ポプラ社)、「クーベルタン」「人見絹枝」(ともに小峰書店)、「きみに応援歌<エール>を 古関裕而物語」「ミスター・オリンピックと呼ばれた男 田畑政治」(ともに講談社)など、共著に「2020+1 東京大会を考える」(メディアパル)など。