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清川 正二
水泳とオリンピックにかけた一生

松原 茂章           【オリンピック レガシー 人物編】

第22回オリンピック競技大会報告書 第22回オリンピック競技大会報告書

  手元に「第22回オリンピック競技大会報告書」と題された赤い冊子が残されている。1980年の第22回オリンピックモスクワ大会は、前年のソ連のアフガニスタン侵攻に抗議し、アメリカをはじめとする西側諸国が大会をボイコット。日本も紆余曲折の末に大会不参加を決めたが、不参加決定後に、日本体育協会(現日本スポーツ協会)及び当時その内部組織であった日本オリンピック委員会(JOC)は、幻となった"代表"を後世に残すため、あえて選手名を載せたこの報告書を制作したのである。選手団名簿には、柔道の山下、レスリングの髙田、マラソンの瀬古など参加していれば金メダルを獲得したであろう選手が名前を連ねている。この報告書に、当時IOC(国際オリンピック委員会)副会長で、JOC理事も務めていた清川正二がメッセージを寄せている。

  骨子を紹介する。「日本のスポーツ界はモスクワ大会をボイコットしたことにより大きな汚点を残した。これを修復するためには『オリンピック・ムーブメントの理念』を今一度思い直し、JOCなりの『哲学』を持つ必要がある。その上に立ってJOCの組織と運営に関しては真剣な再検討がなされなければならない」。IOC副会長としておひざ元である日本不参加決定の無念さが滲みでている。しかしそれだけではない。今後JOCが進むべき道の指針も示されている。事実、1988年ソウル大会の日本選手成績不振を経て、1989年のJOCの日本体育協会からの分離独立につながり、清川の思いが結実した。

 
1932年ロサンゼルスオリンピックの男子100m背泳ぎで金メダルを獲得 1932年ロサンゼルスオリンピックの男子100m背泳ぎで金メダルを獲得

  清川正二は、戦前の"水泳ニッポン"を築いた立役者であった。1932年のロサンゼルスオリンピックの100m背泳で金メダル、続く1936年ベルリン大会でも同種目で銅メダルを獲得している。清川は、1913(大正2)年2月11日に愛知県豊橋市で生まれた。豊橋は水泳のメッカであった浜松に隣接していたこともあり水泳が盛んであったが、清川も尋常小学校1年の頃から自然に水泳を覚え、4歳違いの兄が背泳をやっていたことから「背泳選手」を目指すようになったと。1928年、15歳の時、アムステルダムで開催されたオリンピックで陸上の織田、水泳の鶴田が金メダルを獲得したが、この活躍をニュースで知り「日本人でも金メダルが取れるんだ」と志を強くしたという。早速中学に「水泳部」を創り練習を始めた。翌年、中学5年生で出場した「全国競泳大会」100m背泳では全国の精鋭に伍して3位入賞を果たした。

  1930年、名古屋高等商業学校(現在の名古屋大学経済学部)に入学。恵まれた環境の中で記録は飛躍的に伸びていった。8月の「全日本選手権大会」に初出場を果たし、50m、100m共に3位入賞、一躍1932年のロサンゼルスオリンピック日本代表候補選手に名乗りを上げた。そして迎えた1932年のオリンピックイヤー。7月の代表選考会100mで優勝し晴れて日本代表の座をつかんだ。8月の本大会では1分8秒6の日本新記録で金メダルを獲得した。2位に入江稔夫、3位に河津憲太郎が入り、日本選手でメダルを独占するという快挙を成し遂げた。現在と違い、当時の表彰式はメインスタジアムで行われる閉会式で一括して行われていた。12万人もの観客で埋め尽くされたスタジアムに、荘厳な「君が代」が流れ、南カリフォルニア特有の紺碧の空に3本の日の丸が翻った。この大会、日本の水泳陣は6種目中5種目で金メダルを獲得し、"水泳ニッポン"の名を世界に示したのである。

  翌1933年には名古屋高商を卒業し東京商科大学本科(現在の一橋大学)に入学し、水泳を続けた。1936年に東京商大を卒業し、"羊毛の兼松"として知られていた商社「兼松商店(現在の兼松)」に入社、神戸本社勤務となり、社会人としてのスタートを切った。スポーツ選手としての特別扱いはなかったので通常の業務を終えてから夜間練習を行い、ベルリンオリンピックの選考会では3位となりかろうじて代表に選ばれた。水泳日本チームの主将として臨んだ本大会では銅メダルに終わった。この年で清川は現役生活に終止符を打つ。翌1937年1月には「豪州兼松商店」への転勤を命ぜられ着任、1940年12月に帰国するまで4年間をオーストラリアで過ごした。

  1941年から1945年の終戦までの5年間は、日本が戦争につき進み、そして敗戦に至った暗黒の時代であり、前年東京で開催される予定であった第12回オリンピック大会も戦争拡大により1937年に返上された。清川はすでに、1935年には22歳の若さで日本水泳連盟理事に選出されており、帰国後も社業を務めながら連盟の仕事に携わっていた。上海で終戦を迎え、翌1946年に内地に引き揚げ、連盟の常務理事に就任。清川に託された仕事は、これまでに培った国際人脈を活かし、日本水連の国際連盟復帰を実現することであった。1949年には陸上の織田幹雄と共に渡米、日本のスポーツ界を代表し、アメリカのスポーツ人に接触、日本スポーツ界の国際スポーツ界への復帰の援助を依頼した。その効果もあり、日本水連は早くも国際水泳連盟に復帰を果たしたのである。早速同年、清川はヘッドコーチとして古橋廣之進、橋爪四郎等を率いて渡米し、「全米水泳選手権大会」に参加。この大会では古橋等が世界新記録を連発、古橋は"フジヤマのトビウオ"として人気を博し、アメリカの反日感情を払拭した。1952年のヘルシンキオリンピックに清川は水泳日本チームのヘッドコーチとして参加。1954年から1961年までの約7年間はアルゼンチン、アメリカ、イギリス勤務となり、さらに国際人脈を広げる。この間1956年メルボルン大会では日本選手団役員、1960年ローマ大会では国際水連の決勝審判を務めた。1961年に帰国。1964年東京大会では、国際水連、日本水連両方の立場で活躍、大会終了後に国際水連名誉主事に選出された。この「名誉主事」という役職は、国連で言えば「事務総長」にあたり、実務の最高責任者である。以降4年間は国際水連の本部が清川の勤務していた名古屋支店内に置かれた。1968年のメキシコシティー大会の水泳競技は国際水連名誉主事である清川の全責任において実施されたのだ。在任期間中に清川は「ルールブック」の大改訂も行った。競技者としての戦績に加えこれらの国際水連での業績が評価され、後年「国際水泳殿堂」入りしている。

1982年、IOCサマランチ会長(当時)来日記念パーティーで、サマランチ会長と語る 1982年、IOCサマランチ会長(当時)来日記念パーティーで、サマランチ会長と語る

  清川は1969年に、東龍太郎の後を受けて日本人として10人目のIOC(国際オリンピック委員会)の委員に就任し、その後の国際スポーツ舞台での活躍の端緒を開くことになった。

  IOC委員として初めて迎えたオリンピックは1972年札幌で開催された第11回冬季大会。この大会で清川はいきなり大きな課題に直面した。オーストラリアのアルペンスキー選手で金メダル獲得が期待されていたカール・シュランツが「アマチュア規定違反で出場資格なし」ということで大会から追放されてしまったのである。続くミュンヘン大会では、アラブゲリラが選手村のイスラエル選手を襲撃、結果的にイスラエル選手11人が死亡するという事件に遭遇した。1975年にはIOC理事に就任。翌年の1976年モントリオール大会でも、経済と政治で大きな問題が起こった。経済では「オイルショック」により組織委員会が歳入不足に陥り、大会の開催が危ぶまれた。政治では台湾の入国拒否問題と、アパルトヘイトに反対するアフリカ諸国の大会ボイコット問題である。大会は台湾チームの帰国とアフリカの22の国・地域の不参加はあったものの、無事開催された。

 
1988年ソウルオリンピックの男子100m背泳ぎで優勝した鈴木大地に金メダルを授与 1988年ソウルオリンピックの男子100m背泳ぎで優勝した鈴木大地に金メダルを授与

  1979年には日本人として初となるIOC副会長に就任。この頃、清川は当時のキラニンIOC会長と2人3脚でIOCとして長年にわたる懸案であった中国・台湾問題に取り組んだ。1979年末のソ連のアフガニスタン侵攻に端を発する西側諸国のモスクワ大会ボイコット問題に関しては冒頭にも触れたが、清川はモスクワ大会の円滑な開催、全NOCの参加等を働きかけた。1984年のロサンゼルス大会は、清川の努力も空しく東側がボイコット。1988年のソウル大会は、久しぶりに東西両陣営が揃ったが、陸上競技男子100mで優勝したベン・ジョンソンがドーピングで失格になるという問題が起きた。そのソウル大会ではうれしい出来事もあった。水泳男子100m背泳ぎで鈴木大地が、1932年のロサンゼルス大会の清川以来56年ぶりに金メダルに輝いたのである。清川は表彰式でプレゼンターを務め、自ら鈴木に金メダルを授与した。

  清川は1969年にIOC委員に就任して以来、1999年に逝去するまで30年間を委員、名誉委員としてIOCに席を置いた。この間、3名の会長に仕えている。アマチュアリズムの信奉者であったブランデージ、そのアマチュアという言葉をIOC憲章から削除したキラニン、そしてマーケティングシステムの導入、プロ選手の参加を推進したサマランチだ。この30年間を通して、清川はオリンピック・ムーブメントの普及に信念を持って取り組んだ。

  1981年から亡くなる1999年まで約20年間、筆者は氏とお付き合いをさせていただいた。1994年パリで開催されたオリンピック・コングレスの折りには、がらんとした広いプレスセンターに氏がポツンと一人座っていたのを見つけ、朝日新聞の記者と共に1時間ぐらいじっくり話を聞いたことを覚えている。印象に残っているのは、どんな事態に遭遇しても、慌てず騒がず、冷静沈着に対応していたことである。語り口や表情は温和なのだが、目の奥からは常に強い意志と揺るぎない信念を伺うことができた。

  オリンピズムを深く理解していた清川正二。相も変わらず国際スポーツ社会に蔓延するドーピング、近年相次いで発生している日本の競技団体の不祥事。彼が生きていればどのような苦言を呈するだろうか。


松原 茂章

株式会社フォート・キシモト顧問
スポーツ庁スポーツ・デジタル・アーカイブ構想調査研究会議委員

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