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大島鎌吉とカール・ディーム
スポーツに高潔を求めて……

佐野 慎輔           【オリンピック レガシー 人物編】

 
71歳の大島鎌吉(1979年) 71歳の大島鎌吉(1979年)

  東京オリンピックの開幕を10カ月後に控えた1963(昭和38)年12月14日、日本体育協会(現在の日本スポーツ協会)選手強化対策本部長の大島鎌吉は報道陣を前にこう宣言した。

  「日本の金メダル獲得目標数は米・ソに続いて、最低15個」

  集まった記者たちを驚かせた。年が明けた1月28日には参議院のオリンピック東京大会準備促進特別委員会で、再び「金メダル目標は最低15個」を公言している。

  国内外からは疑問の声があがった。前回ローマ大会の金メダル数は4個、すべて体操である。戦前の1932年ロサンゼルス大会の7個が最高、日本の金メダルは戦後3大会(1952年ヘルシンキ、1956年メルボルン、1960年ローマ)合わせても9個にしかならない。どこから強気な発言がでるのか、多くの人がいぶかしがった。

  ところがどうだ。オリンピック本番、ふたを開けてみたら金メダルは大島予想をも上まわる16個、米国、ソ連に次ぐ3位だ。同時に銀5、銅8個も獲得して開催国の面目を保った。ただ、これほどの成績を確信していたのは大島ひとりではなかったか。

  ルポライター岡邦行の労作『大島鎌吉の東京オリンピック』によれば、大島は結果に自信を持っていたという。1960年1月、強化対策本部長だった田畑政治の強い要請で副本部長に就くと、「選手強化5カ年計画」を策定し、スポーツ科学研究委員会を発足させた。この年のローマ大会など毎年のように海外のスポーツ事情を視察。とくに1962年夏は50日以上もかけてソ連やハンガリー、チェコスロバキアなど東欧を含む欧州で情報を収集し、同時期に米国やカナダなど北米から中南米を視察した強化対策本部員の東大教授、加藤橘夫とジャカルタのアジア競技大会で合流し、情報を分析している。新聞記者たちからも情報を集め、「金15個」を導き出したのである。情報収集と科学の目、徹底した分析の重要性はいまに通じるが、当時そうした観点でものをみていた組織トップは大島だけではなかったか。背後にひとりのドイツ人が思い浮かぶ。カール・ディームである。ディームとの出会いについては後述したい。

  眼鏡をかけ、高い鼻に意志の強そうな口元、櫛目の通った半白の頭髪。その風貌と理路整然とした言動から、大島は「孤高の人」のように思われがちだが、後輩たちから慕われる優しさがあった。

 
1932年ロサンゼルスオリンピックで銅メダルを獲得した大島 1932年ロサンゼルスオリンピックで銅メダルを獲得した大島

  1908(明治41)年11月10日、大島鎌吉は金沢市の手広く履物商を営む商家に生まれた。金沢商業学校(現在の石川県立金沢商業高校)に進むと陸上競技に目覚め、2年生で出場した第四高等学校(現在の金沢大学)主催の中等学校陸上競技大会三段跳に好記録で優勝。これが後の進路を決めた。

  大学は早稲田や慶應義塾、明治など強豪校から誘われたが、大阪の関西大学へ。へそ曲がりというか、権力とみなすものへの反骨心だといいかえてもいい。

  関大に進んだ1928年はアムステルダム・オリンピックが開かれた。6月の予選会を兼ねた全日本選手権に出場した大島は走幅跳2位、三段跳3位。残念ながら選に漏れた。2カ月後のオリンピック日本代表に選ばれたのは早大の織田幹雄と南部忠平。織田が三段跳で15m21を跳び、日本人初の金メダルに輝いた。

  続く1932年ロサンゼルス大会は織田、南部とともに出場を果たした。当時、世界トップクラスの日本跳躍界は3人の鼎立時代、誰が勝っても不思議ではなかった。だが、大島に突然、災難が降りかかる。本番を4日後に控えた8月1日の朝のことだ。

 
1936年ベルリンオリンピックの開会式 1936年ベルリンオリンピックの開会式

  選手村宿舎のガス風呂が爆発、ちょうど脚を温めようとしていた大島は大やけどを負った。両腕、両脚、そして腹部。包帯でぐるぐる巻きにされて安静にしていなければならない。とうてい競技に出場できる状態ではなかった。

  ところが、大島は棄権を潔しとはしない。試合当日の朝、初めて包帯を外して両脚に薬を塗り込むと、ピットに立った。もちろん本調子にはほど遠かったが、最後の6度目の跳躍は15m12。15m72の世界新記録で優勝した南部には及ばなかったものの、堂々たる銅メダルであった。

  2年後、大島は大阪毎日新聞社に入社、運動部記者となる。この年、15m82の世界新記録を樹立し円熟期を迎えた。さらに2年後の1936年、ベルリン大会には主将として出場。京都大学生、田島直人による日本の三段跳3連覇を"演出"したものの、自身は6位に終わった。「ロスの織田さんもそうだったが、やっぱり主将のメダル獲得は無理だ」と後に述懐している。

  それでも、大島は幸せだった。かねて会いたいと強く願っていたカール・ディームと親しく語らう場がもてたからだ。

 
カール・ディーム(1936年) カール・ディーム(1936年)

  1882年6月24日生まれのディームはこのとき54歳。ベルリン大会組織委員会事務総長として、いまやオリンピックのハイライトとなっている聖火リレーを考案、史上初めて実現した。金メダリストに月桂樹の枝であんだ月桂冠とゼウスの神木、樫の木を授与するなど表彰式に意義をもたせ、青少年を対象としたユースキャンプを開催、いかにもオリンピック研究の泰斗らしい演出で大会を盛り上げた。

  クーベルタン研究の大家でもあるディームだが、守備範囲は体育スポーツの文化史に留まらない。哲学、考古学から医学、科学に広がる。アスリートは練習だけしていればいいとの風潮を嫌い、学生の本分は学問だと考える大島にとって、ディームとディームの著作は格好の素材であった。とりわけスポーツと科学との融合は「体育史上最初の試みであり、驚異でさえあった」と後に指摘している。

  ドイツ語を学び、通訳を交えないで語る大島にディームは科学的トレーニングを教えた。インターバルを取り入れたウォーミングアップ、シーズンオフに行うべき体力強化、とりわけ跳躍の基本となる腰の強化……ディームは自らがアスリートではなかったが、ベルリン陸上競技連盟を結成するなどドイツ陸上競技の発展に貢献、ドイツ陸上競技チームを率いて来日したこともある。同じ競技の後輩に国を超えて講義したのは、教えを請う姿勢への評価だったのか。

  ベルリン大会のドイツはアドルフ・ヒトラーの督励もあり、金メダル33、銀メダル26、銅メダル30、計89個のメダルを獲得してアメリカの56個(金24、銀20、銅12)を圧倒、世界の頂点に立った。若くしてドイツ競技者スポーツ連合会長を務め、ドイツ体育大学学科長、ドイツ体育委員会事務局長、ドイツオリンピック委員会事務局長などを歴任、ドイツ体育教師養成会議を組織してスポーツ政策の立案と実行に長く携わったディームの力が大きい。

 
カール・ディーム編/大島鎌吉訳『ピエール・ド・クベルタン オリンピックの回想』(ベースボール・マガジン社) カール・ディーム編/大島鎌吉訳『ピエール・ド・クベルタン オリンピックの回想』(ベースボール・マガジン社)

  大島は1939年夏、国際学生競技大会に出場する日本選手団団長としてドイツ、オーストリアのウィーンを転戦、同地で第2次世界大戦勃発に遭遇、帰国命令をうけた。苦労して選手団は帰国させた大島はしかし、日本に戻らなかった。毎日新聞社と交渉して従軍記者となりドイツ戦線に舞い戻った。ソ連侵攻後も、日の丸を体に巻き付けポケットに2挺のピストルを突っ込み、死と背中合わせの取材を続けた。1945年5月にはベルリン陥落を見届け、ポーランドの収容所を経て、帰国したのは終戦直前の1945年8月1日である。

  ヨーロッパ各地を取材する合間にも大島は「生涯の師」ディームとスポーツ、オリンピックなどについて語らっている。そしてディームがドイツ語に翻訳したピエール・ド・クーベルタン著『オリンピックの回想』を常に傍らに置き、繰り返し読みふけった。ディーム翻訳の本書は大島の生涯にわたる座右の書となり、1962年には『ピエール・ド・クベルタン オリンピックの回想』(表題ママ)として大島が日本語に訳し出版した。

  戦後、毎日新聞東京本社に復社した大島は政治部を経て運動部に戻り、日本のスポーツ界の復興に東奔西走した。

  一方のディームは考案した聖火リレーのコースがナチス・ドイツが南下し侵攻していく行路に重なったため、「ナチスへの協力者」と批判された。もちろんディームもささやかながら抵抗を試み、事務総長を解任されかかったこともあったが、ドイツのナチス化は止められるはずもなく、大会後はナチスと距離を置いた。ベルリンに「国際オリンピック研究所」を設立して所長となり、研究所で体育・スポーツ史とスポーツ思想研究に没頭した。

  それが奏功したか、批判をかわし戦後のドイツにおける体育・スポーツの再建の先頭に立った。やがて1947年、ドイツ体育大学ケルン(通称・ケルン体育大学)創設とともに学長に就任、80歳で亡くなる1962年まで学長の座にあり続けた。

  ドイツ連邦共和国(西ドイツ)スポーツ顧問官ともなり、西ドイツ・スポーツを1950年に「ドイツ・スポーツ連合」として一元化を成し遂げた。1960年には計画を立案、15年間にわたって推進していく世界に名高い『ゴールデンプラン』である。

  「ドイツ人みんなのための体育・スポーツ」を唱え、連邦政府、連邦議会の強い後押しのもと、各州や各市町村など地方自治体における指導者、施設の拡充を進めた。この間の施設建設費の投資総額は約150億マルク(約1兆1000億円)で、1975年の計画終了後も施設整備は継続された。財源は「サッカーくじ」の収益、地域住民のスポーツ活動の拠点となったスポーツクラブは住民の社交の場となり、ボランティアによる運営でスポーツ普及の下支えとなった。これによりスポーツクラブ人口は600万人から2600万人(全人口の約3分の1)に増加した。

  ここまでくればお気づきになろう。現在、日本のスポーツ界が推進している政策の根幹がどこにあったのか。ディーム、そして、おそらく日本における推進役を務めた大島にほかならない。

  ゴールデンプランと平行して1950年に創られたのが、青少年育成のための「ドイツ・スポーツ少年団」である。ヒトラーのナチスに蹂躙された国土と青少年を立ち直らせるべく、ディームはレクリエーション運動やワンダーフォーゲル(野外活動)運動を復興し、宿泊施設など環境整備に力を注いだ。これもまた11年後、1962年の日本スポーツ少年団創設に大きく影響したことはいうまでもない。日本版スポ少創設において大島は理論的支柱となり、有名な「哲理」を説いた。

  ディームはまた"クーベルタン思想の広報官"ともいうべき立場から、「オリンピック研究機関」設立を提言した。まずオリンピックの祖国、ギリシャ・オリンピック委員会へ。そして1947年には国際オリンピック委員会(IOC)に。ディーム提案に大きな興味を示したのがIOC委員エイベリー・ブランデージ。実現に向けて尽力したものの簡単に賛同はえられず、ようやくブランデージIOC会長時代の1961年、クーベルタンのスポーツ実践と科学との融合との考えをうけた「オリンピック・アカデミー(現在の国際オリンピック・アカデミー=IOA)」としてアテネに創設された。

  ディームはアカデミー創設にあたり、こう述べた。

  「オリンピズムの高潔な精神は、ギリシャの輝かしい太陽の下で人々の心に刻まれるべきである。この研究機関の開催期間としては大学の休暇約3カ月をあてることが望ましい。世界各国の大学がオリンピック研究に意義を見いだし、これを大学に組み入れるならば1学期をこれに充ててもよいと思う」

  さて、大島だ。日本スポーツ少年団創設は先に触れた。これは1951年、前日本体育協会で横浜市長の平沼亮三からかかってきた電話が発端である。平沼は横浜市役所の健康教育課長が「健民少年団」を創設したいといっていると話した。聞き慣れない「健民」に反応した大島はすぐに発案した課長、青木近衛に会った。敗戦で荒廃した人々、とくに子どもたちにはもっと健全な生活を送らせたいと語る青木に、大島は敗戦国・西ドイツのスポーツ政策、とくにスポーツ少年団について教え、協力を約束した。健民少年団はやがて大島の尽力とディームの協力を得て西ドイツのスポーツ少年団と交流を重ねて、日本スポーツ少年団結成に結びついた。

  大島が東京オリンピックに本格的に関わるのは1958年、東京が正式に第18回大会に立候補して以降である。この年の暮に「オリンピック・メダリスト・クラブ(OMC)」が創設され、織田幹雄会長のもと、大島は理事となった。IOC加盟72カ国(当時)のうち50カ国ほどのメダリストの住所を調べ、OMCの名前であいさつ状を送った。「東京は本気だと思わせる作戦」である。

  さらに同じ理事の西田修平(陸上棒高跳・銀)、北村久寿雄(競泳1500m自由形・金)らとともに岸信介首相の私邸を訪ね、オリンピック招致のためには「日本スポーツ少年団結成は大きな価値がある」と力説した。

  1959年、日本オリンピック委員会(JOC)委員となり、招致運動の中心にいた田畑政治からの要請を受けてソ連、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ユーゴスラビアをまわり、東京招致をよびかけた。東欧8票のうち7票が日本を支持したのは、大島の功績にほかならない。

  開催決定後に選手強化対策本部副本部長、1963年にはジャカルタでのアジア競技大会の参加トラブルが引き金となって辞任した田畑の後を引き受け、強化対策本部長となった。

  1964年東京大会本番を迎える前、大島は重要な提案を行った。聖火リレーである。当初、組織委員会原案ではリレーされる道府県の知事を筆頭に自治体の首長や議員、商工会などに所属する財界人、スポーツ界の重鎮たちがリレーすると提案された。異を唱えたのが大島だ。 「スポーツとは無縁のビール腹の大人が走るのでは世界から笑われる。未来を担う若者に任せたほうがいい」

  聖火の最終走者も織田、もしくは織田、南部、田島のトリオが想定された。「元気な若者に任せるべきだ」との大島発言が通ってあの1945年8月6日、原爆が落とされた広島県三次市で生まれた19歳の早稲田大学生、坂井義則が選ばれた。大島の正論、反骨心が導き出した未来への使者だといってもいい。

 
1964年東京オリンピックの選手村で入場行進の練習をする日本選手団。旗手の後ろが選手団長の大島 1964年東京オリンピックの選手村で入場行進の練習をする日本選手団。
旗手の後ろが選手団長の大島

  大島には大役もまわってきた。日本選手団団長である。選出に異論を挟む者はいなかった。結果は16個の金メダル。だから大島は「東京オリンピックをつくった男」とも呼ばれた。

  ほんとうならスポーツ界の本流を歩いても不思議ではなかった。しかし、歯に衣着せぬ言動はいつも波紋を投げかけ、たとえ、それが正論であろうと波風を立てる存在は煙たい。同じスポーツに高潔を求めながら、しかし、ドイツ・スポーツ界の中心に座ったディームと異なり、大島がその後、中央に立つことはなかった。いや、大島の反骨心がそれを許さなかったようだ。

 

  オリンピックの翌1965年、ケルン体育大学を目標に大阪体育大学が創設された。大島は副学長兼教授に就任。以後、スポーツを通した青少年教育を旗頭にスポーツ界に独自な地位を築いた。

  その反骨心と不屈の闘志は1985年3月30日、77歳を迎える年に亡くなるまで揺らぐことはなかった。不祥事ばかりが目立つ昨今のスポーツ界、大島なら何と言って叱っただろうか。


佐野 慎輔

産業経済新聞社 特別記者兼論説委員
笹川スポーツ財団 理事/上席特別研究員

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