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古橋廣之進
「古橋を責めないでください」-時代の不幸を思う

【オリンピック・パラリンピック アスリート物語】

2019.05.08

古橋廣之進の豪快な泳ぎ

古橋廣之進の豪快な泳ぎ

ひとりプールに残され、コースロープに体を委ねた。広い背中がまるまり、頭が落ちた。1952年ヘルシンキ・オリンピック男子400m決勝。古橋廣之進は8位に終わった。

「日本の皆さん、どうか古橋を責めないでください。古橋の活躍なくして戦後の日本の発展はあり得なかったのであります」

実況するNHKのアナウンサー、飯田次男はあえぐようにマイクに向かって声を絞り出した。涙の絶叫であった。

古橋廣之進は、日本人初のノーベル物理学賞を1949年に受賞した湯川秀樹とともに、敗戦にうちひしがれた日本人に生きる希望を灯した「戦後日本のヒーロー」であった。

それは、1948(昭和23)年8月6日にさかのぼる……。

この日、東京・千駄ヶ谷の神宮プールには入場を待ちわびる長い列が伸びていた。昭和23年度全日本水上選手権2日目、お目当ては日本大学の古橋が出場する男子1500m自由形である。

大会は戦後初のオリンピック第14回ロンドン大会の競泳と日時を合わせて開かれた。日本が参加を望んだロンドン大会は、開催国・英国の強い反対によってドイツとともに招待リストから除外された。戦争責任という名目の政治利用である。怒った当時の日本水泳連盟会長田畑政治が連合軍最高司令官総司令部(GHQ)に掛け合い、接収されていた神宮プールを借り受け、全日本選手権実現にこぎつけた。

田畑はプログラムに"檄"をしたためた。「いうまでもなくオリンピック大会は世界選手権大会を兼ねており、もし諸君(参加選手のこと)の記録がロンドン大会の記録を上回るものであるならば、ワールド・チャンピオンはオリンピック優勝者にあらずして、全日本選手権大会の優勝者である」

田畑の思いが観客に伝わる。「古橋なら、やってくれる」。それが開場前の長い行列につながった。古橋は前年、ところも同じ神宮プールで開かれた全日本選手権400m自由形で世界記録を破る4分38秒4をマーク。日本が国際水泳連盟から除名されていたために公認されることはなかったが、「幻の世界新記録」をマークして人々を熱狂させたのである。

競技が始まった。古橋はライバル、橋爪四郎と激しく争う。ターンするごとに差は縮まったり開いたり。しなやかな肉体で美しいフォームで泳ぐ橋爪に対し、古橋は丸太ん棒のような腕を水車のように振り回す。ゴールは、頭ひとつの差で古橋が勝った。優勝タイムは18分37秒0。それまでの世界記録を21秒8も縮める驚異的な記録だった。わずかに遅れた橋爪も18分37秒8。同じ頃、ロンドンで優勝したジェームズ・マクレーン(米国)のタイムは19分18秒5。距離に換算すると、古橋よりも60mは遅れていた。

さらに2日後の400m自由形、古橋は世界記録を1秒8、ウィリアム・スミスのロンドン優勝タイムを7秒6うわまわる4分33秒4で泳いだ。もし日本がロンドン大会に参加できていたら、古橋によって金メダル2つ、橋爪の銀メダルが記録に刻まれただろう。

「失礼ながらそんなに遅くて、なんでオリンピックで優勝できるのかという思いだった」。後年、古橋から直接聞いた言葉である。

古橋廣之進は1928年9月16日、静岡県浜名郡雄踏町(いまは浜松市西区雄踏町)に生まれた。父の宇八は米俵を軽々と担ぐ力自慢で、地元の相撲大会では強豪と知られた。その父からも進められて大相撲の力士になろうかと思っていたが、小学4年生のとき、転機が訪れた。浜名湖東岸にある雄踏町の地元篤志家が、浜名湖畔の一角を板で区切って観覧席も設けたプール(山崎プール)を造った。プール開きに父と一緒にでかけたことがきっかけとなり、水泳を始めたのである。

山崎プールで毎日、「魚に負けるものか」と泳ぐ日々が古橋少年を強くした。6年生になると、静岡市で行われた県大会で自由形の100m、200mに全国学童新記録を出して優勝。地元の新聞に「豆魚雷あらわれる」と大きく紹介されたのだった。

1941(昭和16)年、県立浜松第二中学(現在の県立浜松西高)に進むと当然のように水泳部に入った。「日本一の水泳選手」がその頃の目標である。ところが、中学1年の12月に始まった太平洋戦争の戦火は拡大し、中学2年の夏を最後に運動部活動が中止された。中学3年からは勤労動員として軍需工場で旋盤を使って高射砲の弾丸を削る日々をおくった。

そんなある日、とんでもない悲劇に見舞われた。旋盤を使った作業中、誤って左手の中指が旋盤の歯車に巻き込まれ、中指を第一関節だけ残して切断してしまった。水をかく大切な手の中指にハンディキャップを負った。「もう水泳も終わりだ」と絶望のふちに立たされた。

1945(昭和20)年、日本大学予科に進む。水泳はあきらめ、農学部で勉学に励むつもりだった。その年の夏に終戦。さらに半年後、母なをが45歳で亡くなる。辛く、苦しい時代である。しかし、母の残した遺言が古橋を奮い立たせた。

「水泳、頑張って」。そのひと言で再び泳ぐことを決意、2年に進学した春、水泳部に入部した。当時、下宿していた横浜から藤沢の学校に通い、その後、東京に出てプールで泳ぐ。1日2万mから3万m泳ぐこともあった。

第3回福岡国体(八幡市)300m自由形で3分20秒8をマークした古橋

第3回福岡国体(八幡市)300m自由形で3分20秒8をマークした古橋

「魚になるまで泳げ」-古橋が常に口にする言葉である。そうした猛練習に支えられて、7月には明治大学、立教大学との3大学対抗戦で400mと800mに優勝、さらに8月の第1回国民体育大会兼全日本選手権でも400mで勝利してすっかり自信を取り戻した。和歌山で開かれた水泳講習会で優秀な選手を見つけ、日本大学にスカウトしたのもこの頃。後のライバル、橋爪四郎である。

古橋にこの時代の話を聞くと、切なくなる。

「食べるものといったらスイトンや豆かす。イモのしっぽをかじって練習していた。ほんとうは水泳どころじゃなかったんだ」

ロンドン大会の日程に合わせて実施された昭和23年度全日本水上選手権での驚異的な"世界新記録"に、しかし国際社会の目は冷たかった。
「日本のプールは短いのだろう」
「敗戦でストップウオッチもなく、計時を間違えたのではないか」
「きっとターンを1回抜いたんだろう」

国際社会の疑いの目を晴らしたのは、古橋自身である。

翌1949(昭和24)年6月15日、国際水泳連盟が日本水泳連盟の再加盟を認め、古橋の800m自由形9分45秒6が戦後の日本人による公認世界記録第1号となった。そして、古橋、橋爪ら6選手が8月、ロサンゼルスで開催される全米水泳選手権に招待された。

「米国に行くため、ビザをもらいにGHQに行ったら、突然、マッカーサーに呼ばれたんだ。何事かと思って部屋に行くと、にこにこ笑って『米国をやっつけてこい。負けたら、帰りのビザは知らんよ』っていうんだ。連合軍総司令官に背中を押されたんで、こりゃ負けられないと思ったよ」

マッカーサーと家族(1950年)

マッカーサーと家族(1950年)

元米国オリンピック委員会会長でもあるダグラス・マッカーサー元帥は粋なはからいで古橋たちを応援していたのである。ロサンゼルスに渡ると、今度は日系二世のフレッド・イサム・ワダ(日本名・和田勇)と彼の家族、日系人社会の支援を得て、いよいよ古橋廣之進はその真価を発揮するのである。

大会初日の8月16日、1500m自由形予選A組で橋爪が18分35秒7の世界新記録をマークした。すると、B組の古橋はその記録を16秒短縮、18分19秒0という驚異の記録をたたきだした。米国、いや世界中が目を見張るなか、古橋は400m、800m、1500m、そして800mリレーにすべて世界新記録を樹立して優勝したのだった。

日本国内が大騒ぎになったのはもちろん、大会前は反日感情むき出しだった米国の新聞の論調ががらり一転、「ザ・フライイング・フィッシュ・オブ・フジヤマ(フジヤマのトビウオ)」と、歴史に残るタイトルをつけて大きく称賛したのである。そして、戦争相手国の人間だとして「ジャップ」と蔑まれた日系人社会とロサンゼルスの米国人社会との和解が進んだことも特筆しておかねばならない。古橋廣之進はまさに「時代のヒーロー」であった。

選手たちは、国内ばかりか、海外の日本人社会でも引っ張りだことなった。翌1950(昭和25)年には南米5カ国の日本人社会から招待された。古橋ら3選手が海を渡り、子どもたちを指導するのである。

その最初の訪問地ブラジルで、古橋のその後の運命を変えたできごとが起きた。不注意から起きた悲劇といってもいい。

「生水は飲むな」ときつく言われていた。そんなある日、リオデジャネイロでレースをし、クタクタになってホテルに戻ってきた。みると、ホテルの食堂にコップが並んでいた。ボーイに「ここの水は飲めるか」と聞いたところ、「飲める」と答えがかえってきた。そこでコップ1杯の水をあおった。「のどが渇いてしかたなかったんだ。1杯だけなら大丈夫だろうという思いもあった」。

激しい腹痛に襲われた。虫垂炎かもしれないと思っていたら、下痢がひどくなる。現地の日本人医師に診てもらうと、「アメーバ性赤痢」。医師がつきっきりで看病してくれたが、下痢は止まらない。病名を隠したまま予定をこなす日々が続いた。

結局、このアメーバ赤痢が古橋の頑強な身体をむしばんだ。負けを知らなかった男が国内でも敗れ、衰えが指摘された。1952年、日本が戦後初のオリンピック参加となったヘルシンキ大会に出場して日本選手団主将もつとめた。1種目出場した400m自由形は決勝に進んだ。しかし、結果は8位に沈んだ。「1杯のコップの水」が引き起こした悲劇である。

2009年にオープンした古橋廣之進記念浜松市総合水泳場。前列中央が古橋

2009年にオープンした古橋廣之進記念浜松市総合水泳場。前列中央が古橋

ヘルシンキ大会を最後に現役を引退後、古橋はオリンピックでかなわなかったおのれの夢を後輩に託すように、日本水泳連盟、国際水泳連盟、日本オリンピック委員会、アジアオリンピック評議会、国際大学スポーツ連盟(ユニバーシアード)などに深く関わる。長く日本水泳連盟会長、日本オリンピック委員会会長を務め、2009年8月2日、国際水泳連盟副会長として参加した世界水泳選手権開催中のイタリア・ローマで急死した。その前年、数々の功績に対して贈られたスポーツ界から初の文化勲章に見事な水泳人生の完結をみる。

一方、常についてまわる「戦争」「イモのしっぽ」「1杯の水」に、彼の時代の不幸を強く思うのである。

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スポーツ歴史の検証
  • 佐野 慎輔 尚美学園大学 教授/産経新聞 客員論説委員
    笹川スポーツ財団 理事/上席特別研究員

    1954年生まれ。報知新聞社を経て産経新聞社入社。産経新聞シドニー支局長、外信部次長、編集局次長兼運動部長、サンケイスポーツ代表、産経新聞社取締役などを歴任。スポーツ記者を30年間以上経験し、野球とオリンピックを各15年間担当。5回のオリンピック取材の経験を持つ。日本スポーツフェアネス推進機構体制審議委員、B&G財団理事、日本モーターボート競走会評議員等も務める。近著に『嘉納治五郎』『中村裕』(以上、小峰書店)など。共著に『スポーツレガシーの探求』(ベ―スボールマガジン社)『これからのスポーツガバナンス』(創文企画)など。