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ファン・アントニオ・サマランチ
「光と影」に包まれた剛腕

佐藤 次郎          【オリンピック レガシー 人物編】

  ファン・アントニオ・サマランチについて語られる時、結論はだいたい「光と影が相半ばする」というところに行き着く。オリンピックに未曾有の隆盛をもたらした一方で、それに伴う負の課題も多く残したというわけだ。それだけ、オリンピックを取り巻く環境が激変、激動した時代だったということだろう。在任21年にわたった国際オリンピック委員会(IOC)第7代会長。いまオリンピックにかかわる者たちは、その「光と影」をあらためて真摯に見つめ直し、重要な教訓として今後に生かしていかねばならない。

1998年長野冬季大会、記者会見に臨むIOCサマランチ会長 1998年長野冬季大会、記者会見に臨むIOCサマランチ会長

  1920年、スペイン・バルセロナで生まれたサマランチ氏は、家業の繊維事業を引き継ぐ一方、ローラーホッケーを入り口としてスポーツの世界と関係を持つようになった。総合競技大会の「地中海大会」開催の中心となったのち、1956年にスペイン・オリンピック委員会委員に就任したのが、国際スポーツ界とのかかわりの始まりである。実業界での活動を拡大するかたわら、スペインを長く独裁化に置いたフランコ政権のもとで政治の要職にもついた。のちにミスター・オリンピックともいうべき存在となってからも、このフランコ支持者としての経歴はしばしば指摘されることになる。

  オリンピックでのスペイン選手団団長や国内オリンピック委会長などを歴任したのち、ブランデージ会長時代にIOC委員となったのは1966年のことである。1974年には副会長となり、有力な会長候補にのし上がった。スペインの駐ソ連大使を務めたのち、ついにIOCのトップに立ったのは、モスクワオリンピック終了後の1980年だ。待ち望んだ末に意欲満々でついた第7代IOC会長の座。そしてこれは激動の中での船出だった。
  ソ連のアフガニスタン侵攻に対して、西側諸国がモスクワ大会をボイコットしたこともかつてない危機だったが、それより何よりオリンピックの存続そのものを根底から揺さぶっている状況があった。深刻な財政危機である。

  1976年のモントリオール大会でそれは明らかになった。杜撰な財政計画によって、その後も長く関係者や市民を苦しめる巨額な赤字が残り、オリンピックの行く末がにわかにお先真っ暗となったのだ。同じ年の冬季大会の開催地に決まっていたデンバーが、環境破壊や経費負担への批判を受けて開催権を返上したこともオリンピックの価値低下を加速させた。大会開催を考えていた都市が次々に背を向ける中で、モスクワでのボイコットがさらに追い打ちのダメージとなる。まさに「オリンピック消滅」が現実の危機として迫っていたと言ってもいい。

1984年ロサンゼルス大会の開会式。中央がIOCサマランチ会長 1984年ロサンゼルス大会の開会式。中央がIOCサマランチ会長

  致命的とも見えた危機を脱する突破口となったのが1984年のロサンゼルス大会だったのはよく知られている。組織委員会のピーター・ユベロス会長がとった民営化路線、スポンサーを集めてオリンピックを民間ビジネスとして成立させる手法が大成功をおさめたのだ。そこで、この路線をひたすら推し進めたのがサマランチ会長だった。いわゆる商業化路線の徹底は、ビジネスにも政治的な動きにも精通したこの会長だったからこそ、なし得たことに違いない。

  一業種一社に限定し、オリンピックのマークを独占的に使用させる形で、数々の世界的大企業から巨額の協賛金を集めるのを可能にしたスポンサーシステムの確立。同一年に開かれていた夏季、冬季の大会を2年おきの開催に変えた改革。テレビ放送権料の高騰を呼んだ複数大会対象の一括契約。テニス、バスケットボールなどのトッププロの参加――。こうした商業化路線の推進により、状況は一変した。消滅危機までささやかれたオリンピックが「カネの成る木」へと大変身を遂げたのである。

  サマランチ氏は就任以来、IOC本部のあるスイス・ローザンヌに常駐し、週末だけバルセロナの自宅に帰る生活を続けた。常勤の会長はこれが初めて。「朝、執務室の扉を開けるのが最高の喜びだ」という言葉が残っているように、彼はすべてのエネルギーを会長職にそそいだ。世界中を精力的に飛び回ったのもその一環だ。そのかたわら、常に細部にまで目を配り、「会長がこんなことまで」としばしば周囲を驚かせたことも、その猛烈な働きぶりを物語っている。

  それまでは依然として貴族的なサロン体質が色濃く残っていたIOC。そこに、利益を生んで発展と成長を目指す経営者感覚を持ち込んだのは、まさしくサマランチ氏ならではと言っていい。その卓越したビジネス感覚が、オリンピックのかつてない隆盛をもたらし、定着させたのである。「サマランチ氏がいなかったら、今日の繁栄はなかったろう」とは、関係者の誰もが口にする評価だ。

  世界の経済成長が飛躍的に進んだ時代。それに伴って、スポーツがビジネスとなる時代もやって来た。サマランチ氏はその時代の波をいち早くつかんだのである。オリンピック再生の舵を切った剛腕。オリンピック中興の祖としての功績はきわめて大きいと言わねばならない。

1994年リレハンメル冬季大会 1994年リレハンメル冬季大会

  が、オリンピックを再生させた商業主義の徹底が、やがて負の側面を生み出すようになる。ビジネス最優先の姿勢をとり、さらにオリンピック大会の商品価値を高めるために、より大きく、より華やかな方向へと突っ走り続ければ、さまざまなゆがみを生じるのは避けられない。肥大化や経費高騰の弊害が誰の目にも明らかになっていくのに時間はかからなかった。いまや、オリンピック開催を望んでいた候補地が相次いで撤退する状況に至っているのは、まさしく、行き過ぎた商業主義、拡大路線ゆえと言わねばならない。

  これらのゆがみは、さらに次々と深刻な問題を生んでいく。「カネが第一」「勝利がすべて」の意識はドーピングの蔓延を呼び込んだ。開催招致に関しては「オリンピックをカネで買う」動きまで出てきた。ソルトレークシティ冬季大会の招致をめぐる賄賂のやり取りで、多くのIOC委員が追放をはじめとする処分を受けた大スキャンダルは、「カネになるオリンピック」がIOC内部をも腐敗させていたことを如実に示している。

  商業化路線の成功により、サマランチ会長の権力は飛躍的に強まっていた。二度の定年延長により、在任期間は歴代2位にまで伸びた。そうなると、誰も表立って批判しようとはしない。重要な案件を会議で採決する時、会長がしばしば「反対の人は挙手を」と議事を進めたことが、その強権ぶりを物語っている。「自分への反対は許さない」との強い意志表示がそこには込められていたのだろう。さまざまな問題に対して、IOC内部に自浄作用が働かなかったのは、あまりにも会長の権力が強大になり過ぎていたゆえでもあった。

  「私はオーケストラの指揮者だ」とは、サマランチ氏がよく口にしていたことだ。が、この指揮者は個々の音色を生かしながら全体の調和をはかるのではなく、すべての音を自分の思うように染め上げたいと思っていたのではないか。

2010年にスイスのローザンヌで行われたファン・アントニオ・サマランチ氏追悼式 2010年にスイスのローザンヌで行われたファン・アントニオ・サマランチ氏追悼式

  ところで、筆者にはささやかな思い出がひとつある。地元バルセロナでのオリンピック開催を間近に控えた1991年、そのバルセロナの自宅に会長在任中のサマランチ氏を訪ねたことがあるのだ。
手違いで早朝の訪問になってしまったにもかかわらず、会長は、一面識もないまま訪れた記者たちに対して親切だった。手ずからコーヒーを淹れてもてなしてくれたのが印象に残っている。隣室に居合わせたバルセロナ大会組織委員会委員長にも引き合わせてくれた。当時は71歳で、権力の絶頂に差しかかりつつあるころだったが、その朝はなぜか、強権的、独裁的に組織に君臨するドンというイメージはほとんど感じさせなかった。

「オリンピックは、もっと近代化をはからねばならない」「IOCの会長職にあることを非常に誇りに思っている」

  語られた言葉の端々には、やはり、オリンピックビジネスのさらなる隆盛を目指そうとする思いと、トップに君臨し続けるのだという強い意志がにじんでいた。が、その一方では「この人物は本当にオリンピックが好きなのだな」と思わせるような表情も垣間見えた。人当たりよく、周囲を惹きつける魅力を振りまきながらも、自分の思うように容赦なく強大な権力を振るい、時としては非情にも強面の策士にもなるドンの中のドン。ただ、そうした表の顔の奥には、オリンピックを心から愛する一スポーツ好きとしての素朴な顔も隠れていたように思う。

  2001年、81歳の誕生日の前日に会長を退任。2010年、89歳で死去。オリンピックの激動期に変革へと舵を切った人物の足跡は、もっと多角的に、もっと詳細に見直され、分析されるべきだろう。今後のオリンピックを考えるうえで、それは絶対に欠かせない作業だと思う。


佐藤 次郎

スポーツジャーナリスト
笹川スポーツ財団 評議員

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