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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

アントン・ヘーシンク
日本柔道に立ち塞がったオランダの巨人

【オリンピック・パラリンピック アスリート物語】

2019.07.02

日本で古くから行われている武道であった柔術を、柔道に作り変えたのは嘉納治五郎である。嘉納は身体が弱かったことから柔術に取り組み、様々な流派の長所を研究して改善を図り、新しい技術や指導も取り入れて体系化し、「道」(原理)があって「術」(技芸)が生まれるとの考えから「柔道」と名付けた。1882(明治15)年には、東京下谷の永昌寺内に道場を開設、「講道館」を設立し柔道発展の礎を築いた。嘉納はその後アジア初の国際オリンピック委員会(IOC)委員となり、大日本体育協会(現在の日本スポーツ協会)を設立、日本のスポーツの近代化に貢献した。

「柔道(講道館柔道)」は、現在世界中で行われているスポーツ競技となっているが、その発展段階では、紆余曲折もあった。国内のスポーツ競技統括団体としての全日本柔道連盟は1949年に設立。柔道が次第に世界に広まっていくにつれ、本家の日本と世界との間には徐々に軋轢が生じていた。事実、1951年に欧州柔道連盟が改組され国際柔道連盟が設立された時点では日本は加盟しておらず、加盟は翌年となった。

1956年に東京で開催された第1回世界選手権は、無差別級のみで行われ日本人選手が制した。1958年の第2回も東京で開催され同様に日本人選手が優勝したが、1961年にパリで開催された第3回大会は、オランダのアントン・ヘーシンクが、日本代表の3選手を次々に撃破し、外国人選手として初めての優勝を飾る。これに先立つ1959年のIOC総会で、1964年東京オリンピックの正式競技として柔道を導入することが決定されていたが、ヘーシンクに敗れたこの時から柔道の本家日本の「打倒ヘーシンク」への本格的な動きが始まった。

東京オリンピックの柔道は、軽量級、中量級、重量級、無差別級の4種目が実施された。結果は軽、中、重量各級では順当に日本人選手が金メダルを獲得したが、無差別級では本家の期待を一身に背負った神永昭夫が、決勝でヘーシンクに敗れた。日本の柔道が世界のJUDOになった瞬間であった。オリンピックでの正式種目としての実施、そしてヘーシンクが日本人選手を破って金メダルを獲得したこと、この2つの事実が重なったことがその後の柔道国際化の嚆矢となったのは間違いない。
もし無差別級でも神永が勝ち、4種目を日本が独占していたならば、国際化の動きは鈍っていたのではないかといわれている。

1964年東京大会柔道無差別級決勝のヘーシンク

1964年東京大会柔道無差別級決勝のヘーシンク

オランダの巨人アントン・へーシンクの足跡を辿ってみよう。ヘーシンクは1934年4月にオランダ第4の都市、首都アムステルダムの30km南に位置するユトレヒトで生まれた。父は運河の小さな船の船乗りという貧しい家に育ち、12歳の時から建築現場で働いていた。14歳で地元の柔道教室に通い始めたが、1955年20歳の時にオランダ柔道連盟の招きで指導に訪れていた道上伯との運命的な出会いを果たす。

198cmの長身、85kgの体重、手足が長く、技にスピード感のあるヘーシンクに道上の目がとまった。指導次第では伸びるという直感が働いたのである。道上とへーシンクの関係は、眞神博の労作「ヘーシンクを育てた男」(文藝春秋/2002年)に詳しく紹介されている。道上は1912年に愛媛県八幡浜で生まれている。14歳で柔道を始め、すぐに頭角を現し昇段試験を受け合格したがあまりに若いということで免状が発行されず、翌年15歳になるのを待って正式に初段を取得したというエピソードが残っている。

道上の父や長兄がアメリカへ渡り事業で成功していたこともあり、道上もアメリカ渡航を企てたが途中で頓挫し、八幡浜へ戻ってまた柔道にのめり込み、19歳で三段に昇格。武道専門学校で学んだ後、高知高校、上海東亜同文書院で教員を務め終戦を迎える。戦後すでに七段になっていた道上に転機が訪れるのは1953年のことである。フランス柔道連盟から指導者としての招聘を受けたのだ。道上はその誘いに呼応しフランスに渡った。はじめは1年間の契約であったが、滞在は長期に渡ることになり、父の死にも立ち会うことができなかった。そして、フランスから指導に行ったオランダでヘーシンクと遭遇したのである。

道上がオランダを訪れるのは2カ月に一度で、20日間程度滞在したが、この間ヘーシンクを徹底的に指導した。柔道の指導はもちろん、サッカー、レスリング、水泳、ランニングも行い、さらに当時は珍しかったバーベル等を使ったウエイトトレーニングも取り入れ、頑強な身体を作り上げていった。その甲斐あって、ヘーシンクはヨーロッパでは無敵の存在としてその名を知られるようになる。

ヘーシンクが最初に日本を訪れたのは、1956年の第1回世界選手権に出場するためである。この時は準決勝で吉松吉彦七段に敗れている。続く1958年の第2回大会にも来日したが、この大会でも準々決勝で山鋪公義六段に敗れた。第3回大会は1961年末にパリで開催されることになっていたが、ヘーシンクはその年の1月に来日し、2カ月間滞在、講道館や警視庁で練習を積んだ。そして迎えた第3回パリ大会では、前述の通りヘーシンクが初の世界一に輝いたのだ。この瞬間、道上はオランダの柔道関係者により抱えられて試合場に押し上げられ、駆けよってきたヘーシンクに握手され至上の喜びを味わっている。

世界選手権で優勝し帰国したヘーシンクを待っていたのは熱狂的な歓迎の嵐であった。オランダ政府は由緒ある「オレンジ・ナッソー勲章」を彼に与えその功績を讃えた。ヘーシンクはすでに故郷ユトレヒトに小さな柔道場を有していたが、石油メジャー企業からの援助により新たに大規模な道場が建設され、ヘーシンクは道場主に収まるとともに、デラックスなガソリンスタンドも併設されその経営も任された。道場に面した通りは「ヘーシンク通り」と名付けられた。道上・ヘーシンク師弟の次なる目標は当然のことながら、3年後の東京オリンピックでの金メダル獲得であり、新たな研さんの日々が続いた。

1964年東京大会の柔道で日本チームは、無差別級に出場するヘーシンクに、前回の世界選手権ですでに対戦している神永昭夫を当てるか、まだ一度も対戦していない猪熊功をぶつけるかで大いに悩んだ。天理大学でヘーシンクを指導した経験のある日本チームの松本安市監督は、重量級に猪熊、無差別級に神永を出場させることに決定。日本人の間では、地元日本でのオリンピックで神永がヘーシンクに雪辱し、覇権を奪還することに期待が膨らんだ。

決勝で神永を抑え込む

決勝で神永を抑え込む

決勝当日、日本武道館には1万5000人の大観衆が詰めかけ、世紀の大一番を見守った。無差別級には9カ国9人しかエントリーがなかったために変則的な方式が採用された。その予選リーグでいきなり神永対ヘーシンク戦が実現し、ヘーシンクが優勢勝ち。神永は敗者復活戦に回ったが、決勝で両雄が再び合いまみえることになった。

試合は一進一退を繰り返したが、開始8分過ぎにヘーシンクが一瞬のすきをついて得意の寝技で神永を抑え込み、そのまま一本勝ちとなった。それまでの軽、中、重量級で日本は3つの金メダルを獲得していたが、無差別級の覇者こそ真の王者であると思われていただけに、この結果はやはり日本の柔道が世界に敗れたことを意味した。

落胆している日本の観客の前で、もう一つの印象的な光景が繰り広げられた。ヘーシンクの勝利の瞬間、オランダの関係者が狂気乱舞して畳の上に駈け上がり母国の英雄に抱きつこうとしたのを、ヘーシンクは押さえこみの体勢のまま右手を挙げ制したのだ。この行為は、「礼にはじまり礼に終わる」という柔道の精神を具現化する行為として現在でも高く評価されている。

翌1965年にリオデジャネイロで開催された第4回大会世界選手権。この大会では、68kg級、80kg級、80kg超級、無差別級の4階級が実施された。ヘーシンクは80kg超級と無差別級にエントリーしていたが、80kg超級で優勝を果たした後、最終日の無差別級の出場を辞退し、そのまま引退を表明してしまった。無差別級は猪熊が優勝したが、ヘーシンクを倒しオリンピックの雪辱を果たそうと燃えていた猪熊にとってははしごを外された形となってしまった。

ヘーシンクはその後1967年のヨーロッパ選手権で現役復帰し、準決勝で次代を担うフランスのウィルム・ルスカを破るなどして金メダルを獲得した。引退後は柔道の指導者や石油会社の経営等を行っていたが、1973年には全日本プロレスに入り、プロレスラーとしてデビューする。1978年には引退し、その後は柔道の指導に専念。1987年にはIOC委員に就任。国際柔道連盟の役員も長く務め、国際大会におけるカラー柔道衣の導入を提唱、1997年には世界選手権におけるカラー柔道衣採用が実現した。2004年には国際柔道殿堂入りを果たしている。

東京オリンピック40周年記念イベント(2004年)で紹介されるヘーシンク

東京オリンピック40周年記念イベント(2004年)で紹介されるヘーシンク

ヘーシンクは晩年にもたびたび来日したが、その人柄を示すエピソードが残されている。1964年の東京大会から連続してオリンピックの写真取材を続けているフォート・キシモトが、2004年に東京で「東京オリンピック40周年記念写真展」を開催したときのことである。

会場を訪れたヘーシンクは、1枚の写真の正面に立った。そして当時を懐かしむ表情を浮かべながら、開会式の日本選手団の写真に向かって深々と頭を下げたのだ。そこには、ヘーシンクが現役時代に来日した際に指導を受けていた天理大の松本安市師範が小さく写っていた。

スポーツ歴史の検証
  • 松原 茂章 1953年東京都生まれ。慶応義塾大学法学部法律学科卒業。株式会社フォート・キシモト顧問。スポーツフォトエージェンシーのフォート・キシモトで長らく企画・営業を担当。取締役を歴任し現在顧問。オリンピック、FIFA ワールドカップなど取材多数。スポーツに関する「写真展」「出版」等に携わる。日本スポーツ芸術協会事務局長、長野オリンピック文化プログラム専門委員、長野パラリンピック広報報道専門委員などを歴任。現在、一般財団法人日本スポーツマンクラブ財団理事・事務局次長。著書に「大相撲クイズ」(ポプラ社)、共著に「JOA オリンピック小事典」(メディアパル)など。