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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

ベラ・チャスラフスカ
日本人の心に残る東京大会の名花

【オリンピック・パラリンピック アスリート物語】

2019.07.17

アジアで初めて開催された1964年の東京オリンピックは、その成功で日本の戦後の復興を内外に強くアピールした。開催国日本はこの大会から正式競技となったお家芸の柔道や、レスリング、体操などで史上最多の16個の金メダルを獲得しその活躍に日本中が湧いたが、同時に目の前で繰り広げられる海外のスーパースターの超一流のプレーに酔いしれた。女子体操のベラ・チャスラフスカ、柔道のアントン・ヘーシンク、マラソンのビキラ・アベベ、陸上男子100mのボブ・ヘイズ、等など。まさにキラ星のごとく、選手名が上がってくる。

なかでも、日本人に最も人気の高かったのが"東京大会の名花"と謳われた、ベラ・チャスラフスカ(チェコスロバキア)である。彼女は1942年5月、第二次世界大戦の最中、当時ナチス・ドイツによる併合・占領下にあったチェコスロバキアのプラハで、7歳違いの長女、2歳違いの次女に次いで3女として生まれた。その後に3歳下の弟が生まれている。自伝によると、その活発さは他の3人の姉弟と比べても際立っており、両親が不在の時に留守番で来ていた老夫人から「ベラのおもりだけはごめんだ」と言われたり、3歳で屋根の上を一人で歩いたり、などその腕白ぶりを示すエピソードが残されている。

2人の姉のバレエの練習についていって自然とバレエに親しみ、身体を動かすことの基本や人の前で演技する能力を身につけていった。8歳の頃からは、後にチェコスロバキアのチャンピオンにもなった長姉の影響を受けてフィギュアスケートも始めた。その後、あるテレビ番組で知り合った女子体操トップ選手エバ・ボサコワ選手から声をかけられ、彼女は本格的に体操競技に取り組むようになる。そして短期間で頭角を現し、世界選手権やオリンピックの代表にも選出され、一躍1964年東京大会の金メダル候補にも挙げられるようになった。

1964年東京大会、チャスラフスカの体操段違い平行棒

1964年東京大会、チャスラフスカの体操段違い平行棒

迎えた1964年東京。体操競技女子では、個人総合でソ連(当時)のベテラン、30歳のラリサ・ラチニナが1956年メルボルン、1960年ローマの両オリンピックに続いて東京大会で3連覇を達成するのか、それともチェコスロバキアの新鋭、22歳のベラ・チャスラフスカが初優勝を果たすのか、に注目が集まっていた。
規定演技4種目で首位にたったチャスラフスカは、自由演技でも次々と高度な技を決めて高得点をあげ、その後に演技したラチニナをおさえオリンピックで初の金メダルに輝いた。新旧女王の交代である。種目別の平均台、跳馬も制し、3個の金メダルを獲得、一躍大会のヒロインとなった。
彼女の演技の魅力は、持ち前の運動神経、たゆまぬ練習で培った技術に加え、持って生まれた美しい容貌、女性らしい華麗、優美などの言葉で表現される。だが、それだけでは表せない内面的な芯の強さや優しさが会場全体に伝わり、観客が一瞬にして彼女のファンになり声援を送ってしまう稀有のアスリートである。団体総合ではソ連に敗れ、オリンピックにおける挑戦は次回のメキシコシティー大会に持ち越された。

東京オリンピックの活躍で国民的英雄となったチャスラフスカは、母国に凱旋帰国し熱烈な歓迎を受けたのは言うまでもない。ちなみに、日本女子はこの大会の団体総合で銅メダルを獲得している。

1968年1月に、チェコスロバキア国内に政治的な大きな出来事があった。長らくソ連を中心とした国際共産主義の支配下にあったが、その息のかかった指導者の圧政に批判が高まり、改革派の旗手ドプチェクが共産党のトップに就任したのだ。同年6月には、知識人が集まり大衆に民主化への決起を呼びかける「二千語宣言」が起草された。この宣言には共鳴した著名人70人が署名したが、その中には"人間機関車"の異名で知られるマラソンのエミール・ザトペックとチャスラフスカが含まれていた。

これらの一連の改革の動きは"プラハの春"と呼ばれている。しかし、この動きをソ連は見過ごさなかった。8月20日にソ連率いるワルシャワ条約機構軍が国境を越えて侵攻し、チェコスロバキア全土を占領したのである。そして民主化運動が弾圧化される課程で、「二千語宣言」に署名した人々への迫害がはじまった。その結果、ほとんどの人が署名を撤回したが、チャスラフスカはあくまで信念を貫き通し、終生撤回することはなかった。
世間では、2カ月後に迫ったメキシコシティーオリンピックにチェコスロバキアが参加するかどうかが焦点となっていたが、彼女は何が何でも出場するという決意で、3週間もの間、たった1人で秘密の隠れ家で練習を続けた。そして、開会の直前になりようやく出国を許可され出場を果たした。

1968年メキシコシティー大会の種目別ゆか、チャスラフスカとソ連のラリサ・ペトリックが同点優勝

1968年メキシコシティー大会の種目別ゆか、チャスラフスカとソ連のラリサ・ペトリックが同点優勝

メキシコシティー大会の体操女子は、チェコスロバキアの女王チャスラフスカと、ソ連でラチニナの後継者と言われた美少女クチンスカヤの対決に話題が集まった。抗議の意思を示すため、チェコスロバキアの選手は濃紺のレオタードで競技を行い、チャスラフスカは円熟味の加わった演技で個人総合と種目別で計4個の金メダルを獲得し、女王の座を守った。種目別のゆかはチャスラフスカとソ連のラリサ・ペトリックが同点優勝した。表彰式でソ連の国家が流れ国旗が掲揚される間、彼女は顔を背けることで抗議の態度を示した。チャスラフスカは競技終了後に、東京オリンピック陸上男子1500mの銅メダリスト、ヨセフ・オドロジル陸軍中尉とメキシコ市内の教会で結婚式を挙げた。

帰国後、チャスラフスカをはじめとする「二千語宣言」署名の非撤回組は弾圧を受けた。彼女は母国の英雄でありながら、まともな職業につけないという残酷な仕打ちを受けている。1979年から3年間、政府の許可が降りてメキシコに滞在し体操コーチとして働いたことがあったが、状況の改善は再び改革派が息を吹き返す1989年の"ビロード革命"まで続いた。

この革命のきっかけとなったのは、1985年にソ連共産党のゴルバチョフ書記長が提案した「ペレストロイカ(再構築)」である。その後東欧諸国で民主化が進み、1989年11月9日には、東西冷戦構造の象徴であったベルリンの壁がついに崩壊し、直後にチェコスロバキアで"ビロード革命"が起こった。1993年にチェコとスロバキアの連邦制が廃止され、ハベルは初代のチェコ共和国大統領に就任した。この新大統領の下でチャスラフスカは復権を遂げ、大統領顧問、チェコオリンピック委員会会長などの要職を歴任。1996年には国際オリンピック委員会(IOC)委員にも就任した。

チャスラフスカには『私は日本が忘れられない』という自伝がある。彼女が初めて来日したのは、東京オリンピックの2年前の1962年横浜で開催された国際大会のときである。この折りに受けた日本人の奥ゆかしく親切な態度に親しみを感じたという。東京オリンピックの折りにスポーツフォトグラファーとして、競技会場や選手村でチャスラフスカを撮影した岸本健は、すっかり彼女に魅了され、メキシコオリンピックを前にした1968年3月、海外取材の帰途にプラハに立ち寄り、彼女の自宅や市内の公園等で撮影を行った。
彼女の家には日本人から贈られた日本人形や扇子などが飾られており、レコードで坂本九の「スキヤキソング(上を向いて歩こう)」が流れていた。現役選手として最後の舞台となったのも日本である。メキシコオリンピックの2カ月後の1968年12月に来日し、名古屋、京都、東京の3都市で「引退興行」と銘打った大会に参加したのである。

2011年にはローマ、東京両オリンピック体操の金メダリスト鶴見修治、元時事通信の堀壮一、フォート・キシモト代表の岸本健などが中心となり、筆者が事務局となってチャスラフスカを日本に招待したが、予算の当てがなかったので、原宿の岸記念体育館で彼女の来日記念講演会とパーティーを行うことにし、1人1万円の会費と企業からは1口10万円の協賛金を集めることにした。不安を感じながら事業をスタートさせたが、短期間で予定額に達し、チャスラフスカ、娘のラドカ、通訳のバチカージュ3名の渡航費、滞在費ほか全ての費用を賄うことができた。会費を送ってきた人の中には「会には参加できないが会費だけでも協力させてほしい」という人が何人もいた。1週間の日本滞在中、彼女は過密なスケジュールをいやな顔一つせずにこなしてくれた。

1964年東京大会のチャスラフスカと遠藤幸雄

1964年東京大会のチャスラフスカと遠藤幸雄

東京オリンピック体操競技でお互いに男女の個人総合金メダルを獲得し、体操競技を通じて長らく親交があった故遠藤幸雄の墓参も行った。チャスラフスカと遠藤は浅からぬ縁で結ばれている。1960年ローマオリンピックの頃から、男女に違いがあるとは言えお互いの美しい演技を認め合い、交流を深めていき、東京オリンピックでの個人総合金メダル獲得を誓いあった。
そしてそれが実現することにより、お互いの信頼関係は更に強まった。後年、遠藤が病に侵され生命が危ぶまれていることを聞いたチャスラフスカは、遠藤に激励の手紙を出したが、その書状には遠藤の主治医宛の「私の大切な友人であるエンドーをどうか助けて下さい」というメッセージが添えられていた。遠藤夫人と現在日本体操協会常務理事の要職にある長男幸一氏に伴われて遠藤の墓を訪れ、日本式に手を合わせて祈りを捧げた。

女子の体操は、技術に重きが置かれる競技へと変貌し、選手は低年齢化していった。いまや、チャスラフスカやクチンスカヤのような技に加えて優美な女性らしい演技を競う体操は、過去の映像を通してしか目にすることはできない。チャスラフスカは2017年8月に74年の生涯を閉じた。彼女は"日本人に最も愛された外国選手"として私たちの心に生き続けるだろう。

スポーツ歴史の検証
  • 松原 茂章 1953年東京都生まれ。慶応義塾大学法学部法律学科卒業。株式会社フォート・キシモト顧問。スポーツフォトエージェンシーのフォート・キシモトで長らく企画・営業を担当。取締役を歴任し現在顧問。オリンピック、FIFA ワールドカップなど取材多数。スポーツに関する「写真展」「出版」等に携わる。日本スポーツ芸術協会事務局長、長野オリンピック文化プログラム専門委員、長野パラリンピック広報報道専門委員などを歴任。現在、一般財団法人日本スポーツマンクラブ財団理事・事務局次長。著書に「大相撲クイズ」(ポプラ社)、共著に「JOA オリンピック小事典」(メディアパル)など。