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稲田 悦子
女子フィギュアスケートの先駆者"えっちゃん"

松原 茂章           【オリンピック レガシー 人物編】

えっちゃんこと稲田悦子 “えっちゃん”こと稲田悦子

  昨年惜しまれて現役を引退した浅田真央や、ソチ、平昌の両オリンピック男子シングルで2連覇を果たし、国民栄誉賞を受賞した羽生結弦等の活躍で、冬季スポーツの中でもフィギュアスケートの人気は群を抜いている。

  そんなフィギュアスケート、いや日本のスポーツの歴史の中で、現在でも燦然と輝く実績を残したフィギュアスケーターがいた。"えっちゃん"の愛称で親しまれた稲田悦子だ。

  まず稲田悦子のスポーツ人生を簡単に振り返っておこう。稲田は1924(大正13)年2月8日、大阪で時計店を営む稲田家の3人姉妹の末娘として生まれた。8歳(小学校2年)の時から本格的にフィギュアスケートを始め、女子ジュニア部門が試験的に実施された1934年の第5回全日本選手権で好成績を収め、女子部門が正式種目になった次の第6回大会では圧倒的強さで初代チャンピオンとなり、1936年のガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピックの日本代表に選ばれた。オリンピックでは10位の成績に終わったが、戦前の冬季オリンピックに出場した女子唯一の日本選手であり、12歳0カ月での出場は、現時点におけるオリンピック出場日本選手最年少記録である。その後、小学校卒業後梅花高等女学校に進学、競技を続け、1937年~1941年の間、全日本選手権5連覇を果たしている。この間、1940年に開催予定の札幌オリンピックへの出場を目指していたが、同大会は日中戦争の影響で返上、代替地も指名されたが結局中止となり、オリンピック連続出場の夢は潰えた。終戦の翌年22歳で結婚し、1949年には競技選手として復活した。1951年には7度目の全日本選手権優勝、ミラノで開催された世界選手権出場を果たし、翌1952年に現役を引退。指導者としての道を歩み、上野純子、石田治子(歌手石田あゆみの姉)、福原美和などの一流フィギュアスケーターを育てた。皇族への指導も行ったという。晩年は一般愛好者の指導やダンスに取り組んだ。また青山にブティックを開いていた。2003年7月、胃がんのため千葉市内の病院で生涯を終えた。享年79歳。

 
1936年ガルミッシュパルテンキルヘン大会に冬季オリンピック日本人最年少出場した稲田 1936年ガルミッシュパルテンキルヘン大会に冬季オリンピック日本人最年少出場した稲田

  こうしてみると稲田の人生は、前半の競技者としての人生と後半の指導者としての人生に2分される。もちろん光輝いているのは競技者人生だ。稲田が生まれた1924年、大正末期から終戦の1945年までの21年間の日本は、政治、経済、社会の各分野で激動の時代であった。昭和の時代に入り、徐々に戦争への足音が近付いてくる中で、稲田がスケートを始めた1932年には五・一五事件が、オリンピックに出場した1936年には二・二六事件が発生している。彼女の生活はフィギュアスケート一色であったが、その活動の中で、歴史に名をとどめる人たちと交流を深めている。その背景には、フィギュアスケートという競技が、皇族、政治家、軍人といった当時のハイソサエティの人たちに親しまれていたということがある。世相は暗さを増してきても、彼女のこの時期の物語にはフィギュアスケートに前向きに取り組む明るい少女の姿しかない。これは持って生まれた彼女の性格からくるものであろう。

 

  話を彼女の少女時代に戻そう。生家の稲田時計店は繁盛しており裕福な家庭で二人の姉と共に何不自由なく育った。稲田がフィギュアスケートと出合ったのは、1932年、小学校2年、8歳の時。前年に大阪朝日新聞が自社ビルを建設した際に、屋上にテントを張って130坪ほどのスケートリンク(ABCリンク)を作ったが、そのこけら落としのアイスショーを父親に連れられて二人の姉と共に見にいったのがきっかけであった。ほどなく3人娘はスケートを始めたが、二人の姉はすぐに飽きてしまい、結局続けたのは悦子一人だった。 ABCリンクに通いつめていた稲田の才能に目をつけたのは永井康三だ。永井自身はスケート選手としての経験はないが、スケート愛好家としてスケート競技の普及に貢献した人物として知られている。永井は、稲田の父に自ら悦子の指導を申し出、了解を得ると、ABCリンクやその後にできた歌舞伎座リンクで稲田を熱心に指導した。この熱血指導と本人の努力で稲田のフィギュアスケートの実力はぐんぐんと上昇し、周囲を驚かせた。

  オリンピックに参加するには、全日本選手権を兼ねた選考会に出場しなければならない。
しかし、1929年に第1回大会が開催された全日本フィギュア選手権大会には女子部門がなかった。稲田が幸運だったのは、1935年に開催された第5回大会に試験的に女子ジュニア部門が取り入れられたことだ。しかも会場は稲田のホームグランド、大阪のABCリンクと歌舞伎座リンク。この大会には稲田を含む女子3選手が出場したが、稲田は規定、自由とも抜群の成績を収め、一気にオリンピック代表候補として名乗りを上げた。

  1935年11月に東京で開催された第6回全日本選手権では女子のジュニア部門、シニア部門が正式に実施された。この大会は翌年のオリンピックの代表選手選考会も兼ねていた。シニア部門に出場した稲田はこの大会でも圧倒的な強さで初代チャンピオンとなり、同時にオリンピック代表の座も手にしたのだ。結局オリンピックの代表に選ばれたのは、女子は稲田1名のみ、男子は全日本を制した片山敏一等4名であった。

1936年ガルミッシュパルテンキルヘン冬季大会の稲田悦子(右から2番目) 1936年ガルミッシュパルテンキルヘン冬季大会の稲田悦子(右から2番目)

  1936年冬季オリンピックのフィギュアスケート日本代表チームは、本隊に先立ち1935年12月25日に日本を出発した。下関から釜山まで連絡船、ウラジオストックを経て、シベリア鉄道でモスクワまで行き、モスクワからポーランドを経てようやくベルリンに着いたのは1月の半ばであった。そして数日後、オリンピックの開催地ガルミッシュパルテンキルヘンに入った。その後稲田たちは、1月末にベルリンで開催されたヨーロッパ選手権に出場。結果は10位であったが、この大会で稲田は、当時ドイツ首相でナチス総統であったアドルフ・ヒトラーとの劇的な出会いをしている。リンクサイドまでおりてきたヒトラーに声をかけられ、握手をされたのである。さていよいよオリンピック本番。2月6日に開会式が行われ、フィギュアスケートは11日、12日が規定、15日が自由、という日程であった。稲田はこの大会で白い服に赤いカーネーションを付けたコスチュームで演技し人気を呼んだ。成績は26人中10位であった。この大会で3連覇を飾ったソニア・ヘニーは「近い将来必ず稲田の時代が来る」と断言したという。このオリンピック期間中にも稲田はヒトラーに再び握手をされている。稲田のヨーロッパ遠征、オリンピック参加には父光次郎が同行し、稲田のあれこれと面倒をみた。フィギュアスケート一行は、その後3月にパリで開催された世界選手権にも出場し、稲田はこの大会も10位となった。そして船旅で帰国。二・二六事件はベルリン滞在中に起こり、帰国時には戒厳令が敷かれていたものの平穏な日々に戻っていた。

 
選手時代の平松純子氏 選手時代の平松純子氏

  稲田のオリンピック後の足跡は概略前述したが、戦後の指導者としての活動にもふれておこう。稲田と関わりのあった二人の方に話を聞くことができた。一人は、全日本選手権で5回優勝、その後国際審判員、日本スケート連盟理事、国際スケート連盟理事などの要職を歴任された平松純子(旧姓上野純子)氏。11歳の頃、大阪スケート倶楽部が月4日、東京から片山敏一、稲田悦子の両コーチを招聘しアサヒアリーナで選手の指導を行っていたが、平松もこれに参加し、稲田コーチから直接指導を受けたという。平松は稲田から技術的な指導をたくさん受けたが、一番印象に残っているのは、明るく、元気で、パワフルな指導ぶりだった。練習には常に母が付き添っていて稲田の指導をメモしていたそうだが、気弱な性格であった平松を叱咤激励する言葉が残されている。もうひとりは後に荒川静香や浅田真央等を指導した佐藤信夫氏。佐藤の母、節さんは稲田とともに永井の指導を受けていた。佐藤の稲田に対して抱いた印象も平松に近い。前述のアサヒアリーナで、佐藤は片山コーチから指導を受けていたが、稲田からも直接指導を受けたことがあり、声が大きく、身振り手振りで分かりやすい指導方法だったという。

2010年NHK杯の浅田真央と佐藤信夫コーチ 2010年NHK杯の浅田真央と佐藤信夫コーチ

  戦後の日本の女子フィギュアスケート界は、前出の上野(平松)純子、福原美和に始まり、大川久美子、山下一美、渡部絵美、伊藤みどり、荒川静香、そして浅田真央とつながる系譜を紡いできた。戦前からその礎を築いた稲田悦子の功績は大きい。オリンピックそのものには年齢制限はないが、現在の国際スケート連盟の規定では、オリンピック前年の7月1日時点で15歳に達していなければオリンピックに出場できないことになっているので、稲田の12歳0ヶ月での最年少出場記録は、今後規則が変更されない限り破られない。日本のスポーツ史で記録と記憶に留めておきたい人物である。

   「規定(コンパルソリー)」は課題の図形を描き、その滑走姿勢と正確性を競うもので、競技としてのフィギュアスケートは「規定」と「自由」の合計点で競われた。その後、見た目に地味な「規定」は1989-1990年のシーズンに廃止され、翌シーズンから競技はショートプログラムとフリースケーティングで行われるようになった。

2018年9月執筆

 
松原 茂章

松原 茂章

株式会社フォート・キシモト顧問
スポーツ庁スポーツ・デジタル・アーカイブ構想調査研究会議委員

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