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田中英光、虫明亜呂無、デービッド・ハルバースタム(スポーツ文学)
「競技のこころ」伝えてこそ

佐藤 次郎           【オリンピック レガシー 人物編】

  スポーツの素晴らしさを広く伝えていくのに文学は欠かせない。小説であれノンフィクションであれ、文章による表現は読み手の想像力を大きくはばたかせる力を秘めている。さまざまな競技のさまざまな魅力や面白さ、また競技者たちの心の奥底にあるものを文学は生き生きと描き出し、読む人々をスポーツの真髄へといざなうのだ。スポーツ文学は、まさしくスポーツにとっての大事なパートナーと言えるだろう。

  すぐれたスポーツ文学はあまたある。ここではオリンピックを舞台とした小説とノンフィクションの3篇を取り上げたい。そのすべてがボート競技をテーマとしているのは、意図的に選んだためではなく、まったくの偶然である。ボートの世界には、書き手の意欲をそそる何ものかがひそんでいるのだろうか。

1932年ロサンゼルス大会のボート・エイトの決勝

1932年ロサンゼルス大会のボート・エイトの決勝

  田中英光の「オリンポスの果実」は、その印象的なタイトルもあって、多くの人々の記憶に残る作品となっている。1940(昭和15)年に発表され、長く読み継がれることとなった。田中は早稲田大学在学中にボートの日本代表に選ばれて、1932年のロサンゼルスオリンピックでエイトに出場しており、その時の経験をもとにして書いたこの中編小説では、遠征中に芽生えた淡い恋愛感情を、当時の世相や選手団の人間模様を交えながら描いている。

  田中はこの時19歳。小説の語り手の「坂本」はもちろん著者自身のことだろう。「坂本」はエイトの最年少選手としてロスに赴き、長い船旅の中で陸上の若い女子選手に恋心を抱く。その彼女、「秋子」のモデルは、当時18歳だった走り高跳び選手。うぶな恋に年若い主人公は心を浮き立たせ、また一方では周囲の嘲弄の言葉や中傷を受けて悩み苦しむこととなる。当時の若者ならではのナイーヴな葛藤がこの小説のメインテーマだ。

  だから、これをスポーツ文学の一篇としてとらえるのはいささか的外れのようにも思う。オリンピック本番のレースに関する記述は短く、そもそも競技のことはほとんど書かれていない。「ぼくにとって、あのオリンピアへの旅は、一種青春の酩酊のごときものがありました。あの前後を通じて、ぼくはひどい神経衰弱にかかっていたような気がします」との一文からして、田中自身もオリンピック出場という経験からさほど感銘を受けなかったのではないか。

  それでも、当時のオリンピック選手団の様子がさまざまに伝わってくるところはスポーツ好きとしても興味深い。底意地の悪い先輩選手たちの姿や、選手団の役員が「男子と女子の交際は、絶対にこれを禁止する」「スポオツマンとしての資格の欠けるものに、日本は選手として、出場して貰いたくないのだ」などと言い渡す場面は、いかにも「戦前」の重苦しさ、不自由さを感じさせる。一方、船上で選手たちがそれぞれに練習する光景を描いた部分などは、いつの時代も変わらぬスポーツの輝きを伝えているようだ。いずれにしろ、この作品は、オリンピックに向かう選手団に日本代表アスリートとして加わっているという稀有な立場でなければ構想し得なかったろう。その意味では、これもまたオリンピックの一面、ひいてはスポーツの一断面を描いた文学と言っていいのかもしれない。

 
1964年東京大会のゴール直後、疲れ切った日本のエイト 1964年東京大会のゴール直後、疲れ切った日本のエイト

  次には、虫明亜呂無の中編小説「ペケレットの夏」を取り上げたい。これは1973(昭和48)年の作品で、1964(昭和39)年の東京オリンピックにボートのエイトで出場した日本代表クルーのひと夏を描いている。

  虫明は1960-80年代に多くの作品を発表した作家・評論家である。映画評論、文芸批評でも活躍したが、スポーツや競馬にも造詣が深く、それらに題材をとった小説、エッセイも数多い。そのひとつが「ペケレットの夏」だ。

  主人公の「堀川」は、1960年のローマオリンピックに東北大クルーを率いて赴き、欧米の強豪を相手にメダルにも近づく健闘をもたらしたボート指導の第一人者で、そこを買われて次の東京大会でもエイトの指導にあたることとなる。それまでオリンピック代表エイトは単独チームが選ばれていたが、これは各大学から選手を選ぶ史上初の混成クルーだった。彼は、日本協会幹部の陰湿な政治性を嫌悪しながらも、選抜クルーの指導に心血をそそぎ、自ら設計した艇と、それを生かす独自の漕法によって、若いクルーを世界トップクラスに迫るレベルへと押し上げていく。

  しかし、快挙へと順調に突き進んでいたクルーは、直前の北海道合宿で燃え尽きたかのように調子を崩し、精神的な重圧にも見舞われて、オリンピック本番では実力を発揮できないまま敗れ去った。「堀川は選手たちにかけてやるねぎらいの言葉を探そうとしたが、ふさわしい言葉はなかなか思いつかなかった」という一文で、虫明はこの作品を締めくくっている。ちなみに、「ペケレット」とは、チームが北海道で夏合宿を行った時に訪れた公園の名である。

  東北大クルーのローマでの健闘、東京大会での混成クルーの編成、それに異を唱えた大学チームの挑戦を圧勝で退けた経緯、世界トップに迫るタイムを練習でマークしたこと――などは事実そのまま。主人公の「堀川」も実際の指導者をモデルにしている。ただ、「堀川」の人物像や細かなストーリー展開、物語のキーとなる合宿中の挿話などは、すべて著者の創作だ。実際の指導者も人格、識見、学識、コーチング力のすべてにすぐれた人物だったが、「堀川」とは違うキャラクターの持ち主だった。史上初の選抜クルーがはるかな世界の頂点に挑んでいく構図に触発されて、作家は自らの想像力をふくらませていったのだろう。

  それでもこの物語は、すべてが実話ではないかと思わせるほどの迫真性と現実味を備えている。ボートの構造や漕法といった専門的事項や、協会幹部の政治的な動きなどを具体的かつ詳細に書き込んでいることもあるが、これを迫真のスポーツ文学たらしめているのは、スポーツの意味そのものを正面から見つめようとする視点ゆえだろう。

  肉体を極限まで鍛え、さまざまな技を磨き抜いて、けっして立ち止まらず、自らをより高いレベルへと引き上げていく。カネも名誉も勝利の喜びも一部分でしかない。ただ、より高みを目指す無償の、ある意味では究極の虚無とさえ言えそうな行為。それがスポーツの真髄というものではないか。著者はそこにひたと目を据えている。だからこそこの小説は、つくりものではない輝きを放っているのだ。

  そしてまた、この一篇は数々の美しく、印象的な表現に彩られている。
「ボートの影はみえず、水上を九つの肉体だけが滑ってゆく。風景はとまり、雪は沈黙し、肉体だけが生命を獲得した」「彼らは、思い思いに、手をとりあって歌を唱和した少女の声を記憶によみがえらせながら、オールに全身のバネをたくして、手首でその調和をはかり、漕力と体重の収斂と拡散を円滑なものにしている」「彼はたぶん、一年半にわたる歳月がすべて無為に帰した悲哀は、後日、過ぎさった日々のかずかずの記憶として、風の輝きや、食べ物の味や、だれかの声の断片などをともなって、確実に、適切に甦ってくるのだろう、と、思った」

  抑えた筆致の、だがみずみずしさにあふれた表現の数々。それもまた、スポーツの真髄をさまざまに切り取ってみせているようだ。

 
1984年ロサンゼルス大会のかじつきフォア

1984年ロサンゼルス大会のかじつきフォア

  最後に、デービッド・ハルバースタムの「栄光と狂気」に触れておきたい。邦訳書の出版は1987(昭和62)年のノンフィクション作品だ。田中英光が出場した大会から52年が過ぎた1984(同59)年に、再びロサンゼルスで開かれた夏季オリンピック。その米国代表の座を争うボートのスカル選手たちが繰り広げる戦いの物語である。

  原題が「ジ・アマチュア」であるように、登場人物は企業に勤めたり大学院に通ったりしているアマ選手ばかりだ。ハーバードやイェールといった超一流大学出身のエリートも多いが、仕事や学業に追われ、遠征費の捻出にも苦しむ環境に変わりはない。そうした中、邦題にあるように、まるで狂気にも似た一途さで彼らは過酷な練習をこなし、ライバルをしのごうとするのである。その心にある情熱や信念を、著者は持ち前の取材力を発揮してぐいぐいと描き出していく。

  もちろん、シングルスカル(ボートのスカル種目、一人で漕ぐ)、またはダブルスカル(同、二人で漕ぐ)の代表の座を獲得したのは一部の者のみ。その彼らにしても、オリンピック本番のシングルスカルでは熱望したメダルを逃す結果となった。勝者にしろ敗者にしろ、金銭的な報酬や名声を手に入れたわけではない。それぞれの心の中に、力の最後の一滴までを絞り尽くして自らを高めようとした日々の記憶が残っただけだ。まさしく「アマチュア」。おそらく著者はこの作品で、近代スポーツにおけるアマチュアリズムの最後の残照を描きたかったに違いない。

  著者のハルバースタムは政治や経済を支配する巨大エスタブリッシュメントの内幕を鋭くえぐる作風で知られ、「ベスト&ブライテスト」「覇者の驕り」「ザ・フィフティーズ 1950年代アメリカの光と影」「ザ・コールデスト・ウィンター 朝鮮戦争」などの大作を次々と発表してきた。ノンフィクション界の巨人と言うべき存在である。その彼は、そうした政財界の内幕に鋭く切り込む一方で、スポーツの世界をテーマに選ぶことも多かった。古き良き時代のメジャーリーグ。バスケットボールのNBAチーム。そしてこのオリンピックを目指すオアズマン(ボート選手)たち。時には国を戦争にも向かわせる非情な権力や、容赦なく弱者を切り捨てる冷徹なビジネスの論理に相対していると、スポーツの「人間くさい」世界が無性に恋しくなるのが常だったのかもしれない。

  ところで、こうしてスポーツ文学の秀作を3篇選んでみたところ、すべてテーマがボートだったのはなぜか。それはやはり、ボートという競技にスポーツらしさ、スポーツの真髄が見てとれるからではないだろうか。

  オールを引くという単純きわまりない行為を練り上げ、磨き上げて、ひたすらによりよい漕ぎを追い求めていく。漕艇競技はその果てしない作業の繰り返しだ。「栄光と狂気」にもあるように、金銭的な見返りや名声にもあまり縁のない競技である。それはすなわち、スポーツ本来のある種の純粋さを色濃く含んでいるということではないか。作家やライターはそこに創作意欲、取材意欲をかき立てられるのではないだろうか。

  人気や華やかさだけではない。勝負の面白さだけでもない。スポーツは幅広く、奥深いものだ。そこを伝えるのがスポーツ文学の役割である。注目種目やスター選手にかたよるのではなく、広く深く、競技のこころを伝えてこそのスポーツ文学なのだと言っておきたい。


佐藤 次郎

スポーツジャーナリスト
笹川スポーツ財団 評議員

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