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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

23. マラソンはオリンピックの華 ~マラソンの歴史~

【オリンピックの歴史を知る】

2020.02.22

マラソンは1896年のオリンピック第1回アテネ大会で初めて行われた。それがあまりに観客を激しく熱狂させたことで、このスポーツがオリンピックに定着したと言ってよいだろう。

第1回アテネ大会のマラソンの様子を見てみよう。

マラソンはこの大会の陸上競技の最終日に行われた。距離は40km。選手は男子だけだ。

マラソンの由来は、紀元前450年、アテナイ(アテネ)とペルシャとの戦争で、アテナイの街からおよそ40km離れたマラトンに上陸したペルシャ軍をアテナイが撃退。勝利の報告を届けるため、1人の若い戦士が選ばれた。戦士は約40 kmを走りぬき、「われ勝てり!」と告げた直後に疲れはてて息をひきとったという。この故事にもとづいて考え出されたのが、マラソンという競技であった。

1896年オリンピック第1回アテネ大会の開会式

1896年オリンピック第1回アテネ大会の開会式

言い伝え自体は古いが、マラソンが競技として実施されたのは、この1896年第1回アテネオリンピックが初めてだった。古代オリンピックでは行われていない。

その競技を見るために、およそ10万人が競技場や沿道に集まった。

優勝候補として名前が挙がっていたのは、アメリカやオーストラリアの選手であり、ギリシャ人ではなかった。競技場に集まった選手たちは、馬車に乗ってスタート地点のマラトンへ移動。スタートは午後2時だ。

午後4時を過ぎ、馬に乗ったスタート係が競技場に戻ってきた。国王の耳元でささやく。国王は興奮した表情で立ちあがり、そして大声で叫んだ。

「ギリシャだ!」

当時はまだ放送の設備はない。近くにいた観客が国王の生の声を聞くと、みんな口々に叫び、ギリシャ選手の優勢がスタジアム全体に伝わった。

祝砲がとどろき、観客席の6万人が一斉に立ち上がる。選手が入場すると同時に、係員が選手の名を大声で告げた。

「スピリドン・ルイス!」

みんな競技場に入ってきたルイスの勇姿に熱狂した。

たくさんの白い鳩が放たれる。興奮して叫び続ける観客が見守るなか、コンスタンティノス皇太子が競技場のトラックに降りた。ルイスの最後の200mを皇太子は一緒に走る。そこに王子も加わり、3人はほぼ同時にゴールした。

競技場のポールにはギリシャ国旗が掲揚され、多くの観客がルイスの近くに集まった……。

この大会の陸上競技では、なかなか地元ギリシャの選手が優勝できなかった。活躍していたのはアメリカ選手たち。12種目中9種目でアメリカが優勝していた。その陸上競技の最終日に行われたマラソンで、優勝候補でもないギリシャ選手のスピリドン・ルイスが優勝した。これで地元の観客が喜ばないわけがない。この興奮が近代オリンピック第1回大会を成功に導いたのだ。

マラソンにはドラマもあったが不祥事もあった。2大会後の1904年セントルイス大会では不正が行われた。マラソン史上に語り継がれる「キセル・マラソン」事件である。

地元アメリカ選手のフレッド・ローツは、疲労のため20kmすぎで倒れてしまった。そこへたまたま1台の自動車が通りかかった。その車にローツは乗せてもらう。棄権して競技場に戻ろうとしたのだ。ところが途中で車が故障。一方、ローツは回復したため、そこから再び走り出して競技に参加しまう。そしてなんと1着でゴールしたのだ。しかし、のちに車のドライバーが告発したため優勝が取り消された、という事件だ。

その4年後、1908年ロンドン大会のマラソンでは、係員のミスで1着の選手が失格になるという事件が起こった。40kmすぎでトップに立った、イタリアが誇る長距離ランナーのドランド・ピエトリは、暑さと疲労、渇きのため、意識がもうろうとしていた。スタジアムに入ってきたものの、ゴールとは違う方向に進もうとしたのだ。そしてゴール直前でついに彼は倒れてしまった。

ドランド・ピエトリ(イタリア)

ドランド・ピエトリ(イタリア)

それを見た係員は、ピエトリに手を貸して立ち上がらせる。その後4回も倒れたが、そのたびに係員は助けた。そして1位でゴール。2位にはアメリカのジョニー・ヘイズが入った。アメリカチームはすぐに、ピエトリが係員の手を借りてゴールしたと抗議。それが認められてピエトリは失格になった。この事件は「ドランドの悲劇」と呼ばれた。

ところで、ふらふらになってゴールを目指すピエトリの姿は、スタジアムにいた7万人を超える観客を感動させた。それはアレキサンドラ王妃も同様だった。王妃はメダルの代わりとしてピエトリに銀のカップを授与している。

ちなみに、マラソンの距離が42.195kmに決まったのはこの1908年ロンドン大会からである。アレキサンドラ王妃が「スタート地点は宮殿の庭、ゴール地点は競技場のロイヤルボックス席の前に」と指示し、それがたまたま42.195kmだったという説があるが、真偽は不明である。

オリンピックでは、次第にマラソンだけでなく複数の長距離種目で優勝する選手が出現するようになる。まずはフィンランドのハンネス・コーレマイネンである。彼は1912年ストックホルム大会の5000m、10000m、クロスカントリー個人の3種目で金メダルに輝き、1920年アントワープ大会でマラソンの金メダルを獲得した(1916年ベルリン大会は戦争で中止)。

この時代の陸上長距離ではフィンランド勢が活躍する。1920年アントワープ大会ではパーヴォ・ヌルミが10000m、クロスカントリー個人、同団体の3種目で金メダル。1924年パリ大会では1500m、5000mなどで5個の金メダルを獲得した。

このパリ大会の10000mでは同じくフィンランドのヴィレ・リトラが10000m、3000m障害など長距離で4個の金メダルを手にしている。さらに、1928年アムステルダム大会では5000mでヴィレ・リトラが、10000mでパーヴォ・ヌルミが金メダリストとなった。20世紀初頭の陸上長距離はフィンランド勢が席巻した。

時は流れて1952年ヘルシンキ大会。パーヴォ・ヌルミを目標にして練習に打ち込んできた1人のチェコスロバキア人が大活躍する。その選手の名は、エミール・ザトペック。顔をしかめ、苦しそうにあえぎながら走るスタイルから「人間機関車」と呼ばれた。1948年ロンドン大会の10000mで優勝したザトペックは、1952年ヘルシンキ大会で5000m、10000m、そしてマラソンの3種目で金メダルを獲得。誰も破れないといわれるオリンピック長距離三冠の達成である。

次の大会1956年ヘルシンキ大会のマラソンをザトペックの友人アラン・ミムン(フランス)が制し、いよいよ1960年ローマ大会、アベベが登場する。

ローマの石畳、アッピア街道を裸足で走り、世界記録を樹立して金メダルに輝いたエチオピアのアベベ・ビキラ。それまでは無名だったこともあり、世界中のメディアが驚きをもって報道した。

4年後の1964年東京大会、アベベは1カ月半ほど前に盲腸の手術をしており、そのため、前回大会の王者であったにもかかわらず優勝候補に名前はなかった。ところがレースが始まると圧倒的な速さを見せ、20km付近では独走態勢。そのまま一人旅を続け、2時間12分11秒2の世界最高記録でフィニッシュした。オリンピック史上初のマラソン2連覇である。ちなみに東京大会ではシューズを履いて走った。

この東京大会では円谷幸吉が2番目に国立競技場に戻ってきたものの、トラックでイギリスのベイジル・ヒートリーに抜かれて3位になるというドラマがあった。そして4年後の1968年メキシコシティー大会では、東京大会で期待されて入賞できずに終わった君原健二が銀メダルを獲得。そして次にマラソンで日本男子選手がメダルを獲得したのは、1992年バルセロナ大会の森下広一である。

女子マラソン始まる

ガブリエラ・アンデルセン(スイス)

ガブリエラ・アンデルセン(スイス)

オリンピックで女子マラソンが始まったのは、1984年ロサンゼルス大会からである。この大会には日本から増田明美、佐々木七恵が出場。結果は佐々木が19位、増田は途中棄権に終わっている。このとき注目されたのは、スイスのガブリエラ・アンデルセンだった。アメリカのジョーン・ベノイトがトップでフィニッシュした20分後、スタジアムに入ってきたのはふらふらになったアンデルセン。約1周半のトラックを5分もかけて走った。最後の直線100mは歩くこともままならない状態だったが、係員の助けを拒否してひたすらフィニッシュラインを目指す。観客からは大きな拍手が贈られた。

やがて日本に女子マラソンの黄金時代が到来する。まずは、1992年バルセロナ大会の有森裕子だ。

この大会の女子マラソンに出場したのは有森裕子、山下佐知子、小鴨由水の3人。このうち銀メダルの快挙をなしとげたのは、有森だった。
3位集団を走っていた有森は29km付近でスパートし、トップを走っていたロシアのワレンティナ・エゴロワに追いつく。そこからは2人の戦いだった。上り坂で繰り広げられたデッドヒートは6kmにおよんだが、最後はエゴロワに振り切られ、有森は8秒差の2位。だがこの瞬間、日本女子選手初のオリンピック・マラソンのメダリストが誕生した。4位には山下が入り、日本女子マラソンの明るい未来を感じさせた。

この有森の銀メダルは、1928年アムステルダム大会の人見絹枝以来64年ぶりとなる日本女子選手による陸上競技のメダルである。

有森は4年後の1996年アトランタ大会にも出場した。スパートをかけたのは、30 km地点。集団から抜け出してトップを走るファツマ・ロバを追う。33kmすぎで前回同様エゴロワと2位争いのデッドヒートを繰り広げた。しかし抜くことはできず、4位のカトリン・ドーレ(ドイツ)にも追い上げられるものの、3位をキープしたままフィニッシュし、銅メダルを獲得。マラソン2大会連続メダル獲得の快挙をなしとげた。

フィニッシュ後のインタビューで「初めて自分で自分をほめたいと思います」と涙ながらに語った有森の姿が、大きな話題となった。

そしていよいよ、日本に金メダリストが誕生する。1998年のアジア競技大会の女子マラソンで2位に13分以上という圧倒的な差をつけて優勝した高橋尚子が、2000年シドニーオリンピックに登場した。

18km付近の給水所の直後で、高橋は1回目のスパートをかけた。トップ集団は高橋、市橋有里とルーマニアのリディア・シモンの3人。

34kmすぎで、高橋はかけていたサングラスをはずして道に投げる。それをきっかけとしてスパート。40kmをすぎると、高橋は単独トップに立つ。そのままスタジアムに入り、1位でフィニッシュテープを切った。

記録は2時間23分14秒。オリンピック記録を更新した。日本のオリンピック陸上競技史上、高橋は女子ではじめての金メダリストになったのである。

4年後、2004年アテネオリンピックの女子マラソン。スタートは酷暑をさけるため午後6時にされたが、気温は35度もある。

レースは中盤まで野口とイギリスのポーラ・ラドクリフ、ケニアのキャサリン・ヌデレバなど世界の強豪が先頭グループを作っていた。25km付近で野口が早めのスパートをかける。27km付近で給水用のスポンジを使って頭に水をかけ、野口はもう一度スパートした。ここから一人旅がはじまった。当時の世界記録保持者だったラドクリフも、野口についていくことはできず、途中棄権。37km付近でヌデレバがせまってきたが、野口は逃げた。

2004年アテネ大会のマラソン。1位でパナシナイコ競技場に入る野口みずき

2004年アテネ大会のマラソン。1位でパナシナイコ競技場に入る野口みずき

そのままトップでフィニッシュ地点のパナシナイコ競技場に入る。1896年第1回オリンピック・アテネ大会のマラソンで、あのスピリドン・ルイスが1位で入場し、大きな喝采を浴びたマラソン発祥の地だ。そこに野口はトップで駆けこんだ。

記録は2時間26分20秒。日本選手によるオリンピックの女子マラソン2連覇が達成されたのである。

ところで、「最近のマラソンはアフリカ勢が強すぎて、日本人選手はもうメダルをとれない」などという声をよく聞く。しかし、はたしてアフリカ勢がそんなに速くなったのだろうか。2008年以降のオリンピック女子マラソンの優勝タイムと選手を見てみよう。

  • 2008年北京大会 2時間26分44秒 コンスタンティナ・トメスク(ルーマニア)
  • 2012年ロンドン大会 2時間23分07秒 ティキ・ゲラナ(エチオピア)
  • 2016年リオ大会 2時間23分07秒 ジェミマ・ジェラガト・スムゴング(ケニア)

この記録を見ると、最近の大会の優勝タイムが、高橋や野口の記録とそれほど大きく変わっていないことがわかる。高橋と野口という日本の2人の金メダリストの記録は、決して色あせていない。彼女たちは実際に、ずば抜けて速かったのだ。

野口みずきは2004年アテネ大会で金メダルを獲得した翌年、ベルリンマラソンを2時間19分12秒で走った。この記録は、日本国内ではまだ誰にも破られていない(2020年1月時点)。この記録を切る選手が出てくれば、ふたたび世界の頂点に立つことは夢ではない。

2019年9月、2020年東京大会のマラソン代表を決めるマラソングランドチャンピオンシップ(MGC)がおこなわれた。女子の1位になったのは前田穂南。タイムは2時間25分15秒だった。夏の女子マラソンとしては、よい記録である。本番に向けて期待したい。

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スポーツ歴史の検証
  • 大野 益弘 日本オリンピック・アカデミー 理事。筑波大学 芸術系非常勤講師。ライター・編集者。株式会社ジャニス代表。
    福武書店(現ベネッセ)などを経て編集プロダクションを設立。オリンピック関連書籍・写真集の編集および監修多数。筑波大学大学院人間総合科学研究科修了(修士)。単著に「オリンピック ヒーローたちの物語」(ポプラ社)、「クーベルタン」「人見絹枝」(ともに小峰書店)、「きみに応援歌<エール>を 古関裕而物語」「ミスター・オリンピックと呼ばれた男 田畑政治」(ともに講談社)など、共著に「2020+1 東京大会を考える」(メディアパル)など。