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スポーツの歴史 第2章 オリンピックとは

2-4 オリンピックの扉を開いた2人の若者

 

   その入場行進で第1歩をしるしたのは2人の若者だった。白い半そでシャツに白の短パンという簡素なユニホーム。1人は大きな日章旗を高く掲げ、もう1人は「NIPPON」と書かれたプラカードを捧げ持っている。写真に残るそれぞれの表情は、やはりいささかの緊張をたたえているようだ。その時、彼らは日本のスポーツ選手として、まったく未知の舞台へと歩を進めていたのである。

日本が初参加した1912年ストックホルムオリンピック入場行進。旗手は三島 日本が初参加した1912年ストックホルムオリンピック入場行進。旗手は三島(出典: ORGANISATIONSKOMITEE FÜR DIE XI. OLYMPIADE BERLIN 1936 E. V., THE XIth OLYMPICGAMES BERLIN, 1936 OFFICIAL REPORT, WILHELMLIMPERT(1937)/1912NIPPON.jpg)

   ピエール・ド・クーベルタンから駐日フランス大使を通じて、東京高等師範しはん学校校長だった嘉納治五郎かのうじごろうにオリンピック参加の要請があったのは1909年。ここから嘉納を中心に日本のオリンピック運動が始まり、大日本体育協会の設立をへて、第5回となる1912(明治45)年のストックホルム大会で初参加が実現した(詳細は前々項)。7月6日、日本初のオリンピアンとして開会式に臨んだのは三島彌彦みしまやひこ(弥彦)と金栗四三かなくりしぞうだ。
   旗手を務めた三島は26歳の東京帝大生。法科に学ぶ優秀な学生で、一方では野球、陸上、柔道、相撲、ボート、スキーとスポーツ万能だった。当時の雑誌「運動世界」には、友人の筆で「真に我が帝国の代表者として世界の檜舞台に立って活動すべき最も好適なる人」と紹介されている。前年に東京・羽田で開かれた国内予選会では陸上の100mを12秒0で制するなどして代表に選ばれていた。

   プラカードを持って行進した金栗は、まだ少年の面影を残す20歳の若者だった。東京高師の学生として嘉納の指導を受け、入学後に陸上の長距離に取り組み始めると、たちまち頭角を現した。国内予選ではマラソンに圧勝して代表の座をつかんでいる。近代化を果たした日本が世界へと飛躍しようとしていた明治の末期。2人の陸上選手も、まだ見ぬ大舞台での活躍を夢みてストックホルムにやって来たのだった。
   が、先駆者が必ず出会う苦難を2人も味わうことになる。そもそも、国際的な競技についての知識がきわめて乏しかった時代なのだ。国内では、オリンピックの存在もほとんど知られていなかったのではないか。当時の新聞の表記も「國際オリンピツク大會」「國際オリンピツク競技」「オリンピヤ競技會」などとまちまち。三島は前年の「運動世界」への寄稿でオリンピックに触れており、ある程度の知識を持っていたようだが、その彼にしても、いざ代表選手に選ばれると、帝大総長に「かけっくら(かけっこ)をやりに外国に出かけるのは帝大生にとって価値があるだろうか」と悩みを打ち明けていた。はるか極東では、オリンピックもまだそんな受け止め方をされていたのである。
   トレーニングに関する知識に乏しかったのは短距離もマラソンも共通していた。短距離に欠かせないクラウチングスタートを三島が学んだのはオリンピックイヤーになってから。アメリカ大使館員から教えられて、辛うじて本番前に身につけた。金栗にしても、練習はただがむしゃらに長い距離をこなすだけだったに違いない。彼が25マイルの国内予選で出した2時間32分45秒のタイムは驚異的な世界記録と伝えられたが、それも26マイル強で行われた前回オリンピックの記録と比べたから。情報もなく、練習も自己流というのが当時の実情だったのだ。
   大会への出発は5月半ば。敦賀つるがから船でウラジオストックに渡り、シベリア鉄道に乗ってスウェーデンを目指した。到着は6月初め。長旅の間は不自由な生活が続き、もちろん練習などできない。役員として同行した体育協会理事の大森兵蔵おおもりひょうぞうは旅行中に体調を崩し、帰路に立ち寄ったアメリカで亡くなっている。当時、ヨーロッパに行くというのはそれほど大変なことでもあった。2人の選手も戦う前から心身をすり減らしていたのだろう。

ストックホルムへ向かう船の甲板で練習する金栗四三ストックホルムへ向かう船の甲板で練習する金栗四三

   そしてオリンピック本番。世界のトップアスリートは想像をはるかに超えて遠い存在だった。三島は100m、200m予選落ち。400mでは予選で棄権が相次ぎ、準決勝に進んだが、右脚の痛みで出場を断念した。完敗。のちに彼は「運動世界」の「オリンピツク競技會きょうぎかい實見談じつけんだん」でこう語っている。
   「お恥ずかしい次第で、とても勝負にはなりませんでした…スタートはうまくいったが、中途以後からきれいに抜かれてしまいました」「日本人が勝利を得るには、先ずどんな贔屓目ひいきめで見ても短距離では敵しません。さればとふて力や體格たいかくを要するものも覚束おぼつかない…」  マラソンに出場した金栗も不本意なレースに終わった。スタートから最後方追走となり、追い上げようとしたが、27km手前あたりで倒れてしまった。本人の日誌に「はなはダ暑シ」「非常ニ暑ク」とあるように、おそらく30度を超えていたと思われる高温が体力を奪ったのだろう。近くの民家に運ばれ、住人に手厚い看護を受けたのはよく知られたエピソードだ。日誌の「残念至極しごく」の文字が本人の無念を物語っている。金栗にしろ三島にしろ、何も知らないまま、いきなり分厚く高い壁にぶち当たったような気分だったに違いない。
   未知の大舞台で選手がたった2人というのもつらい状況だったようだ。
   「(敗因は)走力の及ばざる点にあるが、走力を一層鈍らせたものは『孤獨こどくの淋しさ』とふものでした」と三島は述べている。短距離とマラソン。それぞれ練習パートナーも相談相手もなく、すべてを1人でこなさなければならない。初めての海外遠征、見るもの聞くものすべてが初体験の環境で、「孤獨」はいかにも大きなハンディだった。

ストックホルムオリンピック400m予選の三島弥彦 ストックホルムオリンピック400m予選の三島弥彦

   こうして、国際舞台の厳しさを嫌というほど味わわされたオリンピック初参加。が、2人とも打ちのめされてばかりはいなかった。
   「一ハ衣食住ノ変化。二ハ昨年ヨリノ無理。三ハ暑気」
「失敗ハ成功ノもとニシテ又他日、ノ恥ヲそそグノ時アルベク」
   レース後、すぐに敗因を分析して雪辱を誓い、それを日誌に書きつけたのは金栗だ。完走さえできなかった悔しさをすぐさま次へのかてとしたのである。その姿勢が、のちに「マラソンの父」と呼ばれるようになる精力的な活動へとつながっていく。帰国後は教師となり、自ら走り続けながら後進の指導にもあたって、日本の長距離競技を先頭に立って引っ張る役目を果たした。箱根駅伝に「金栗杯」があるように、その功績は多岐にわたっている。合わせて3回走ったオリンピックのマラソンでは思うような結果を残せなかったが、挫折のたびに「日本の長距離を強くしたい」の思いがより強まったのではないか。

 

       「マラソンの父」の原点は、ストックホルムの無念にあったと言ってもいい。
   三島はオリンピック出場後、欧州各国を回ってから帰った。日本では行われていなかった競技を見る機会もあったと思われる。スキーの板など、目についた用具を買い集めて送ったのには、世界に立ち遅れていた日本のスポーツを少しでも盛り立てたいという思いも含まれていたのではないだろうか。
   また三島は前出の「實見談」で、日本の可能性について「水泳はどうやら競争が出来さうに思ひました」「(陸上の)1000m以上の長距離ならあるいは世界の舞台に立つ程の選手も出ないとは限らない」と述べている。その後の水泳ニッポンの活躍や陸上・長距離での台頭を見通していたというわけだ。
   厚い壁にあっさりはね返された初陣。だが、その経験は確かに次へとつながっていったのである。
   100年以上も前の北欧の夏。スポーツ史を彩る数々のメダル獲得も、世界一といわれる国民のオリンピック熱も、すべてはそこから始まった。何もわからないまま大舞台に挑んだ2人の若者の勇気と闘志が、未知の扉を押し開いたのだった。
   「世界は広い」「スポーツは楽しい」――後半生を銀行家として過ごした三島弥彦は、折に触れてそんなことを身内にぽつりぽつりと語ったという。
   金栗四三は1967年、スウェーデンに招待された際、オリンピック委員会のはからいで競技場におもむき、1912年には帰ってこられなかったゴールに入った。ゴールテープを切った時、「54年8カ月6日5時間32分20秒3」の記録がアナウンスされたという。

(参考文献)

  • 「運動世界」 明治44年3月号、明治45年3月号、大正2年3月号
  • 東京朝日新聞
  • 東京日日新聞

佐藤 次郎
スポーツジャーナリスト
笹川スポーツ財団 評議員

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