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スポーツの歴史 第2章 オリンピックとは

2-5 初めての金メダリストに学ぶべき「純粋無垢むくな」思い

 
 

   日本で初めてのオリンピック金メダルは、いかにも日本ならではの気質や方向性から生まれたように見える。すなわち、小柄なハンディをカバーする独自の工夫や試行錯誤の積み重ねと、そうして生み出した技をみがきぬく勤勉な努力である。
   1905(明治38)年、広島県海田市町(現海田かいた町)に生まれた織田幹雄おだみきおが陸上競技を本格的に始めたのは、旧制広島一中に進んでから。1920年、アントワープオリンピックに出場した草分け選手の一人、野口源三郎が全国で開いた陸上講習会に参加したのをきっかけとして中学に部がつくられ、そこから取り組むようになったのだが、その部の名前は「徒歩部」。陸上競技という言葉さえまだ一般的ではなかった時代というわけだ。
   主として取り組んだのは走り高跳びと走り幅跳び。とはいえ、専門的知識があるわけではなく、情報も乏しかった。解説書や教本もほとんど見当たらない。最初は、友だちが探してきてくれた野口の著書が唯一の手がかりだったという。試合で見る他の選手の動きも参考にした。アントワープ大会優勝者の写真を見つけてきて、そこから正しい脚の使い方を学びもした。棒高跳びや三段跳びも試みた。身長155cmの小柄な体ながら、わずかなヒントも見逃さず、あらゆるものから学ぼうとしたのである。
   のちに彼はそのころの努力を「暗闇の中で、手探りでものを探すような」と表現している。織田幹雄の競技人生はその第一歩から、自ら考え、工夫し、試行錯誤を繰り返してはい上がっていく形だった。 広島一中から広島高師臨時教員養成所に進んで極東選手権に出場し、走り幅跳び、三段跳びに優勝した。最大の収穫は、この経験で照準がはっきり定まったことだ。身長は165 cmまで伸びていたが、高跳びでは無理がある。ならば走り幅跳びと三段跳びで世界を目指した方がいい。「日本選手には跳躍で大きな可能性がある」と、この時点で正確に見通していたのである。
   1924年、織田は19歳で早くもパリオリンピック出場を果たした。走り高跳びも走り幅跳びも予選敗退で、三段跳びで辛うじて6位に入っただけ。が、何でも吸収しようとする努力家にとって、これほど貴重な学びの場はなかった。上位選手のフォームをじっくり観察すると、それがそのまま最高の手本となった。 金メダルへ向かって大きな一歩を踏み出したのはこの時。三段跳びでメダルを目指すと決断したのだ。パリでの記録は優勝者とは1m以上の差があったのだが、それ以上に伸びしろの大きさを実感していた。

早稲田大学時代の織田幹雄 早稲田大学時代の織田幹雄

   翌年、東京に出て早稲田大学に入ると競技力はさらに上がった。十種競技もやり始めたのは、やはり、何でも取り入れて自らの糧にしようという旺盛な探求心ゆえ。よりよい跳躍のために考え抜き、あらゆる工夫を惜しまない姿勢はいっそう強まった。
   「跳ぶというのは、曲げたひざを伸ばして上に伸び上がることだ。伸びる力があってこそ、本物の跳躍になる。上に伸び上がる練習をしなきゃいけない」
   そこで、ことあるごとに高いところに飛びつく練習を始めた。天井に飛びつき、道を歩いていれば木の枝に飛びついた。ジャンプという行為をあらゆる角度から考えることで頭の中はいっぱいだった。
   といって、やみくもに突っ走るわけではなかった。分析の結果、15mのジャンプを行うには、ホップ、ステップ、ジャンプをそれぞれ6m、4m、5mの割合で跳ぶのがいいという結論を得たうえで、最適なバランスで跳躍を構成することに集中したという。ゼロから始まった競技理論は、そこまで高いレベルに達していた。
   ホップ、ステップからとって「ホ・ス・ジャンプ」と呼ばれていたのを、自ら「三段跳び」と名づけた。1927年には当時の世界記録まであと18cmの15m34を出し、世界の頂点が見えてきていた。それでも油断や慢心がなかったのは、そのころの練習日記が示している。
   「何だか心にすきがあった様と思へる…今更ら練習の尊さを感じる。唯々ただただ真面目な練習だけだ」(原文のまま)
   現状に満足せず、考え、工夫するのを止めない。立ち止まらず、前へと進み続ける。中学以来、一貫して守ってきた姿勢がついに花開くのは翌1928年のことだ。
   23歳で臨んだ1928年アムステルダムオリンピック。その時点で世界記録に11cmまで迫っていた織田は、メダル候補として「どうしても勝ちたい」と思い詰めていた。そのまま気負い過ぎていれば結果は違っていたかもしれない。が、競技前日に気づいたと彼は書き残している。
   「自分の思った通りにやればいい。自分の力を出し切れるようにしっかり準備をしよう。それでも自分より強い選手がいたのなら、それはそれで仕方がない」
   競技本番、平常心に戻った織田は1回目の試技から好記録を出した。15m13。2回目には15m21。一方、ライバルの強豪たちは気負ったままだったのか、記録を伸ばせない。3回目以降はかかとを痛めて記録を伸ばせなかったが、あせりの出たライバルも追いつけなかった。「自分の力さえ出せばいい」と、思い切って最初から勝負に出た気迫が大一番でその背中を押したのだった。

 
アムステルダムオリンピック三段跳びの織田 アムステルダムオリンピック三段跳びの織田
    「大會場だいかいじょうの中央に高く うれしや日章旗ひるがえる」「邦人観衆 泣いて君が代を合唱」 

   当時の新聞の見出しに、オリンピック4回目の参加にしてついに初の金メダルを獲得した感激がにじんでいる。欧米に追いつきたいと必死に突っ走ってきた日本の夢がひとつ実現した瞬間。語り継がれる歴史が、こうして誕生した。
   ただ、本人には「日本初」や「国のため」という気持ちはさほどなかったようだ。「自分の楽しみ、自分の力をどこまで伸ばせるかといった、自分の問題として競技に没頭していた」と著書にはある。「自分が、この競技の場でいったいどこまで行けるのか」という根本の問いをひたすら追求していたのが織田幹雄というアスリートの姿勢だったのである。
   「そこまでやれたのはやはり努力だった。努力していれば道は開けていくとあらためて思わずにはいられない。試行錯誤しながらもさまざまなことを試み、練習でつちかってきた自分の努力が最大の力となっている」
   快挙を振り返っての著書の記述。悔いなくやり切った自信があればこそ、「努力すれば道は開ける」と明快に言い切れたのだろう。そしてまた、そこにはこんな言葉もある。
   「楽しみながらやったのだから、どんなつらい思いをしても苦痛にはならなかった。わずかながらでも、トレーニングのなかから進歩を見出したり、記録が伸びたり、また技術が改められたりするとき、それはいいしれぬ喜びであって、苦しいトレーニングのなかにも楽しみを見出せるのである」
   自分はどこまで行けるのか。自分の力はどれほどのものなのか。それを追い求めることこそが競技の真髄だ。真髄を味わおうと思えば、努力するのも苦にならない。厳しい練習も楽しみに変わっていく。織田幹雄はいつもそう感じていたに違いない。競技者として最も純粋無垢な思いを持ち続けたことが、この小柄なアスリートを金メダリストの座に押し上げたのである。
   と、こう振り返ってみると、日本初の金メダリストの歩みは、いまもそのままアスリートたちの何よりの手本となっていると思わずにはいられない。
   まずは自分で徹底的に考え、工夫をこらしていく。体格差を嘆く前に、ハンディを乗り越えるための技や練習方法を探す。自分の専門分野にとどまらず、幅広く目を配り、体験して役立てる。試行錯誤をいとわず、少しずつ進歩していくのに喜びを感じ、それをエネルギーにしてまた前進する。どれもが時代を超えて、競技の道を志す者に必須のことばかりではないか。
   いまはトップアスリートの競技環境も大きく変わり、またそのレベルも飛躍的に進化している。が、その反面、とかくコーチやトレーナーに頼って自ら考える姿勢を失いがちではないか。近道ばかりを探して、地道な試行錯誤を厭う傾向はないか。報酬やメダルばかりに目がいって、少しずつ力を伸ばしていくことに喜びを感じる競技者本来の純粋さを忘れがちになってはいないか。
   昔に比べてはるかに巨大になり、かつ複雑な要素がからみ合うようにもなった現代のスポーツ界。が、いつの世も競技の原点は変わらないはずだ。織田幹雄の陸上人生には、その「原点」が詰まっている。現在の選手たち、2020年を目指す若者たちにとっても、それは大いに役立つものに違いない。

 

(参考文献)

  • 人間の記録 織田幹雄 わが陸上人生 日本図書センター(1997)
  • 世界への跳躍、限界への挑戦 早稲田大学大学史資料センター(2014)
  • 東京日日新聞
 

佐藤 次郎
スポーツジャーナリスト
笹川スポーツ財団 評議員

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