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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

9. 日本の体操『体操ニッポンの遺伝子』

【オリンピックの歴史を知る】

2016.12.12

2004年アテネオリンピックの体操競技で、日本は男子団体の金メダルを獲得した。

予選をトップで通過していた日本だったが、決勝1種目めの「ゆか」では、出場8カ国中7位と出遅れた。だがそこから怒涛(どとう)の追い上げをみせる。5種目めの平行棒を終えた時点で2位に順位を上げる。だがこのとき1位〜3位の得点差はわずか0.125。日本のメダルの色は最終種目の「鉄棒」にかかっていた。鉄棒の最終演技者は冨田洋之とみたひろゆき。フィニッシュの着地がピタリときまったとき、実況のアナウンサーが言った。

伸身しんしんの新月面が描く放物線は、栄光への架け橋だ!」

2004年アテネ大会で、フィニッシュの着地をきめる冨田

2004年アテネ大会で、フィニッシュの着地をきめる冨田

大きな歓声とともに、日本は体操男子団体で念願の金メダルを獲得した。1976年モントリオール大会以来28年ぶりの体操団体の金メダルだった。

この体操の決勝を日本で深夜にテレビ観戦していた少年がいた。当時高校1年生の内村航平うちむらこうへいである。両親が長崎県に内村スポーツクラブを開設した1992年、3歳の内村は体操をはじめた。

東京の高校に入学し、朝日生命体操クラブに入った年の夏に行われたオリンピックが2004年アテネ大会だった。そのとき手に汗握りながらテレビを見ていたときの感動を、内村は忘れられないでいた。「団体の金メダル」はみんなで喜びあえる分、個人の金メダルより魅力的だと思えてきた。高校生の内村の目標は「オリンピックに出場して、団体で金メダルをとる」ことに決まった。

それを内村は実行に移していく。2008年北京オリンピックに出場し、個人と団体でそれぞれ銀メダルを獲得する。出だしは好調だった。

4年後のロンドン大会の団体も前大会と同じ銀。しかしこのときはほろ苦い銀メダルだった。内村があん馬で落下したことがひびいて4位と発表されたが、チームの抗議によって見直された末の銀。あと味が悪かった。個人総合では金メダルを獲得し、世界の頂点に立ったものの、最高の目標に掲げていた団体の金メダルをとれなかったことが、内村には心残りだった。

そして迎えた2016年リオデジャネイロ大会の団体。内村にとって金メダルへの執念は人一倍強かった。メンバーは、内村航平、山室光史やまむろこうじ加藤凌平かとうりょうへい田中佑典たなかゆうすけ白井健三しらいけんぞうの4人。
最初のあん馬で5位と出遅れたが、跳馬と平行棒で高得点を挙げて2位に浮上する。
5種目めの鉄棒でロシアを抜いて首位に立つと、最終種目のゆかで白井の高得点や内村の安定した演技で差を広げ優勝。終わってみれば2位ロシアに2.5点もの大差をつけた。日本の圧勝だった。
「5人で戦うから喜びも5倍になる」と言っていた内村は、オリンピック出場3度めにして5倍うれしい金メダルを手にすることができた。

2016年リオデジャネイロ大会の団体で金メダルに輝いた日本チーム

2016年リオデジャネイロ大会の団体で金メダルに輝いた日本チーム

2日後の個人総合、5種目めの平行棒で内村は2位にいた。1位はウクライナのベルニャエフ。伸び盛りの若手選手である。
だが内村は最終種目の鉄棒で15.800という高得点をたたきだし、2位との点差0.099で優勝を飾った。体操個人総合での連覇は、1972年ミュンヘン大会の
加藤澤男かとうさわお以来44年ぶりの快挙となった。

試合後の会見で海外のメディアから内村に質問が飛んだ。

「審判から好意的に見られているのではないですか?」

僅差きんさで勝った内村に対する、皮肉を交えた質問である。

内村は「まったくそんなことは思っていません。どんな選手でも公平にジャッジしてもらっていると思います」と答えた。

そのとき怒りの表情で口を開いたのは2位のベルニャエフだった。

「採点するということはフェアで神聖なものだとみんな知っている。今の質問は無駄です!」

ベルニャエフは別の取材で次のようにも答えている。

「ぼくは内村を尊敬している。彼は体操の王様なんだ。マイケル・フェルプスやウサイン・ボルトのように」

オリンピックに3回出場し、金メダル3個、銀メダル4個、合計7個のメダルを獲得した内村航平は、世界最高の選手たちの仲間入りを果たした。

1964年東京大会で痛みをこらえながら鉄棒の演技をする小野

1964年東京大会で痛みをこらえながら鉄棒の演技をする小野

話は半世紀以上さかのぼる。

かつて日本には4度オリンピックに出場し、金メダル5個、銀メダル4個、銅メダル4個、日本人選手最多となる合計13個のメダルを獲得した、世界に誇る体操のスーパースターがいた。小野たかしである。

日本が初めてオリンピックの体操競技に出場したのは1932年のロサンゼルス大会だった。このときの団体の順位は5位。しかし5チームしか出場していなかったのだ。4年後のベルリン大会も13チーム中9位という成績に終わっている。

戦後初めて出場したオリンピックは1952年ヘルシンキ大会。この大会でも体操は5位だった。しかし20年前の「5チームで戦って5位」とは違い、「23チームで戦って5位」と大きく躍進したのである。種目別で上迫忠夫うえさこただおが銀と銅、竹本正男が銀、小野喬が銅と、合計4個のメダルを獲得している。

4年後のメルボルンオリンピックで小野喬は種目別鉄棒で「ひねり飛び越し」という技を成功させ、金メダルを獲得した。さらに、あん馬で銀、平行棒で銅。個人総合では銀メダルに輝いた。団体でも銀メダルを獲得している。このころから体操の世界選手権で日本とソ連(現在のロシア)がトップ争いを繰り広げるようになる。

日本が勝利の道を本格的に走り始めたのは、1960年ローマオリンピックからだった。古代ローマのカラカラ浴場跡で行われた体操競技の団体で日本は金メダルを獲得し、ついに世界のトップに立つ。
さらに小野喬が種目別の鉄棒と跳馬でそれぞれ金、平行棒とつり輪で銅メダルを2つ追加し、個人総合で銀メダルを獲得。結果、個人で5個、団体を合わせると6個のメダルに輝いた。この大会で日本が獲得した全メダル数18個の3分の1を小野がもたらしたことになる。そしてローマ大会で日本が獲得した金メダルは、すべて体操チームによるものだった。

1931年に秋田県で生まれた小野は旧制小学校4年生のとき、体操で全国優勝したことのある地元の中学生の美しい模範演技を見て、体操に憧れるようになる。
見よう見まねで体操の練習を開始し、教師にかけあって体操部を作ってもらった。その後日本は戦争に突入するが、戦後、小野は高校時代に体操でインターハイに出場し優勝。東京教育大学(現・筑波大学)に進み、大学3年生のとき1952年ヘルシンキオリンピックに出場して、跳馬で銅メダルを獲得した。
以前にアメリカの体操選手の演技を見た際に小野は、アメリカ選手の演技が大柄で雄大なのにスピードとキレがあることに驚いたことがあった。小柄な日本人がこれに対抗するには、機敏さをもっと活かした技を開発し、スピーディーな演技をすべきだと気づき、練習した。その結果、小野の演技は急激に伸びていったのだ。

4年後のメルボルンオリンピックで小野は金メダルを獲得。さらに1960年のローマ大会では強豪ソ連を破り、チームを世界一に押し上げた。そのローマ大会の2年前に小野は同郷の体操選手(旧姓・大泉)清子と結婚している。
ローマの次のオリンピックは東京。小野は仲間たちとともに、地元開催のオリンピックで圧勝するための準備に入った。このころ小野は「鬼に金棒、小野に鉄棒」というフレーズで語られることが多かった。鉄棒では怖いものなしという意味である。

小野夫妻が立ち上げた池上スポーツクラブ。中央は清子夫人

小野夫妻が立ち上げた池上スポーツクラブ。中央は清子夫人

そして1964年東京オリンピック。小野は開会式で選手宣誓の重責を果たした。肩を傷めていたが、競技には痛み止めの注射を打ちながら臨み、遠藤幸雄、鶴見修治、山下治広はるひろ、早田卓次らとともに体操チームを再び世界一に導いた。妻・清子は女子団体で銅メダルを獲得した。

小野は東京大会を最後に現役を引退した。そして翌年、清子とともにスポーツクラブを立ち上げた。
スポーツに親しんでもらいながら、子どもたちの体力増進を図り、ゆくゆくは将来のオリンピック選手に育ってもらうことを目指して、指導を開始したのだ。
自宅の近くの寺の施設を借りて始めた、我が国第1号のスポーツクラブだった。このムーブメントはやがて大きなうねりとなり、国内にいくつものスポーツクラブが誕生し、そして体操や水泳などの競技でトップアスリートを数多く輩出するようになった。
2004年のアテネの体操で金メダルを獲得したメンバーや、それ以降のオリンピックで活躍した選手たちにも、そうしたスポーツクラブ出身者は多い。小野喬・清子の遺伝子は確実に受け継がれ、育っている。

(参考文献)

  • 近代オリンピック100年の歩み ベースボール・マガジン社(1994)
  • 日本男子体操競技・栄光のV10 日本加除出版(1995)
  • 東京オリンピック1964・2016 メディアパル(2006)
  • 大野益弘 オリンピック・ヒーローたちの物語 ポプラ社(2012)
  • 清水正典 日本のスポーツ種目別オリンピックメダル獲得数の推移とその社会的背景Ⅰ─日本男子体操競技の事例─ 吉備国際大学紀要第22号(2012)
  • スポーツ歴史の検証vol.1 笹川スポーツ財団(2013)

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スポーツ歴史の検証
  • 大野 益弘 日本オリンピック・アカデミー 理事。筑波大学 芸術系非常勤講師。ライター・編集者。株式会社ジャニス代表。
    福武書店(現ベネッセ)などを経て編集プロダクションを設立。オリンピック関連書籍・写真集の編集および監修多数。筑波大学大学院人間総合科学研究科修了(修士)。単著に「オリンピック ヒーローたちの物語」(ポプラ社)、「クーベルタン」「人見絹枝」(ともに小峰書店)、「きみに応援歌<エール>を 古関裕而物語」「ミスター・オリンピックと呼ばれた男 田畑政治」(ともに講談社)など、共著に「2020+1 東京大会を考える」(メディアパル)など。