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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

10. 日本のレスリング『脈々と流れる“日本ならでは”の伝統』

【オリンピックの歴史を知る】

2016.12.12

レスリングという競技は、オリンピックの場で日本と深く結びついている。しばしば波はあるものの、「お家芸」のひとつと言って差し支えない。そして、その第一歩は大正時代に印された。日本のレスリング協会設立より8年も前のことである。
第8回のパリオリンピックは1924(大正13)年の夏に開かれ、初めて選手村が設けられた大会として記憶されている。3回目の参加となった日本からは陸上、水泳、テニスなど19選手が出場したが、そこに、まだ国内競技団体もないレスリングの選手が1人含まれていたのは、一般にはさほど知られていないかもしれない。米ペンシルベニア州立大に留学していた内藤克俊ないとうかつとしがアメリカからパリにおもむき、代表チームに加わっていたのだ。

日本でレスリングが始まったとされるのは、早稲田大学に部が創設された1931年。その翌年に大日本アマチュアレスリング協会が誕生している。つまり、まだ誰も本格的にこの競技をやっていなかった時に、早くもオリンピック選手が誕生していたのだ。これもまた、オリンピックにおける日本とレスリングの深い縁の象徴と言えるかもしれない。

もともと柔道をやっていた内藤は留学先でレスリングに出合い、大学チームのキャプテンを務めるまでになっていた。それを知った駐米大使の推薦によってオリンピック選手団に加えられたのである。アメリカでは新たな移民法によって排日の気運が高まっていたころ。そういう中でも認められるだけの人望と実力があったということだろう。推薦の裏側には、そうした人物の存在をアピールして、日米間の摩擦まさつを少しでも和らげる役に立てばという狙いもあったのではないか。

日本のレスラーとして初のオリンピック出場。欧州滞在中の柔道家が介添え役についたとはいえ、たった一人で未知の舞台に挑まねばならない。しかも渡航中の船上で左手の人差し指をひどく痛めてもいた。ところが、この29歳の青年が大仕事をやってのける。フリースタイルのフェザー級でなんと銅メダルを獲得してみせたのだ。

1924年パリ大会のレスリングで銅メダルを獲得した 内藤克俊

1924年パリ大会のレスリングで銅メダルを獲得した 内藤克俊

現地でわずか3日間練習しただけのグレコローマンでも1勝を挙げる健闘を見せた内藤。当時はキャッチ・アズ・キャッチ・キャンと呼ばれていたフリースタイルでは、アメリカで培った力を存分に発揮した。ベルギー選手に勝ってベスト8に。金、銀に輝いたアメリカの2選手には惜しくも敗れたが、3位決定戦ではフィンランド、スウェーデンの強敵を連破して銅メダルをもぎ取った。パリ大会ではこれが日本唯一のメダル。歴史的な快挙の達成である。 「ただ衷心ちゅうしんより嬉しさのあまり涙が頬をつたはり…終始正々堂々たる態度はじつに日本青年の意氣と體力たいりょくと人格とを表現するに充分であつた」

介添え役が書き残している。初の大舞台で力を出し尽くした若者の力闘ぶりが、古めかしい文体からも生き生きと伝わってくるようだ。

内藤自身は貴重な経験をどう受け止めたのか。まず、レスリングにおける日本の活躍の見通しについては「オリムピツクみやげ」という本にこう記している。 「柔道とレスリングの差を充分に研究し、さらにグレコローマン型と自由型の區別くべつを十分に研究して柔道家始め多くの人がこれを行ひ、次回アムステルダムの大會たいかいにはフルチーム(七人)を出すやうにすれば大に勝算あると思ひます。ことにキャッチ・アズ・キャッチ・キャンは、グレコ・ローマンに比し、日本柔道家には特に適當てきとうかと存じます」(原文ママ)

さらに内藤は、大日本体育協会のパリ大会報告書の中でレスリング競技の詳細を紹介したうえで、オリンピックに参加して感じたこと、スポーツやその国際大会出場が競技の枠を超えて大きな意味を持っていることなどを書き記し、より幅広い視点からのスポーツ論を展開してもいる。 「堅忍不抜けんにんふばつ稽古振けいこぶりや従順潔白じゅうじゅんけっぱくな彼等の『スポーツマン、スピリット』は大いに吾人ごじんまなぶべきてんであらうと信ずる」(原文ママ)

「彼等」とは欧米の強豪のこと。西欧を中心につちかわれてきたスポーツマンシップや競技に取り組む姿勢を率直に評価しているのだ。続いて「民族的接觸せつしょく」は「時勢の」こえという表現で、スポーツを通じて他文化・他民族との相互理解を進めることの重要性を指摘してもいる。 「民族的接觸を解決するものは、大政治家にあらず大金融の力にあらずして、眞に膝と膝との衝突によって達し得らるるものでなくてはならぬ」(原文ママ)

すべての問題は、所謂不理解とふ三字からはつして居ることは打ち消しがた事實じじつで…健全にしてつ善良なる靑年を交換し、國技をもつて現實げんじつな民族的紹介をやる必要がある」(原文ママ)

多様な文化、多様な民族との協調、融和が求められる時代。その点からして、スポーツは相互理解の有力な方法となる―それがこの論の趣旨だ。
彼はまた、そこで柔道のオリンピック入りにも触れている。
レスリングにおける日本の将来性や柔道の国際化を見通し、海外のスポーツ文化のありようも理解して、さらに競技の場から一歩を進めて多文化共生のためのスポーツの役割までも明快に論じているのである。まさしく
先駆者せんくしゃならではの見識。のちの隆盛にふさわしい、よき先達だったと言っておきたい。

こうして滑り出した日本のレスリング。1932年のロサンゼルス大会から多くの選手が出場するようになり、1952年のヘルシンキ大会で石井庄八がバンタム級の金メダルに輝いたのを皮切りに、オリンピックのメダルを次々と獲得する栄光を築いていく。その中で特筆すべき名前はもちろんこれだ。八田一朗はったいちろうである。

レスリングを日本に導入した際の中心人物の一人で、1932年のロス大会には自ら出場した八田。その偉大さは、1950年代から80年代までのオリンピックで、金メダルだけでも20個を獲得した抜群の実績が雄弁に語っている。戦後間もなく日本レスリング協会の会長となった八田は、文字通り先頭に立って世界を驚かせた躍進の原動力となったのだ。

メキシコ大会に向けて高地対策トレーニングを指導する八田一朗

メキシコ大会に向けて高地対策トレーニングを指導する八田一朗

動物園に選手を連れていってライオンとにらめっこをさせたという逸話いつわがよく知られているように、八田といえばスパルタ訓練やとっぴな強化策ばかりが語られる。が、それはレスリングに目を向けてもらうための話題づくりのひとつで、指導の本質は常に合理的、科学的だった。「負けた理由を探すな」の言葉があるように、あらゆる方策を使って、どんな状況でも力を出し切れるような心技体をつくり上げるための練習を推し進めたのである。

合宿では暑苦しい道場で選手を寝かせ、真夜中にたたき起こした。利き手と反対の手を使って生活しろと申し渡した。審判のせいで負けたとは絶対の禁句だった。どれも、体調や環境のいかんにかかわらず、力を発揮できるようにするための訓練だ。だらしない戦いぶりを見せると下の毛をらせた、あの「剃るぞ!」にも合理的な理由があった。再び毛が生えそろうまでの3週間、毎日風呂に入るたびに、なんで剃らされたのかを否応いやおうなく思い出して反省させるのが目的だったのである。

これによって選手たちは何があっても動じない強靭きょうじんさを身につけていった。そういう選手でなければ生き残れなかった。
こうして日本のレスラーは大舞台になればなるほど強さを発揮し、長い黄金時代を築いたというわけだ。

2020年オリンピック・パラリンピック招致にも尽力した 福田富昭

2020年オリンピック・パラリンピック招致にも尽力した 福田富昭

もうひとつ、日本のレスリング発展の歴史を語るうえで欠かせない名前がある。日本レスリング協会の現会長、福田富昭ふくだとみあき。かつてのフリー・バンタム級世界チャンピオンは、現役引退後、指導者として、また協会役員としていち早く女子レスリングの可能性に着目した。そこで日本の女子を一から育て、一方では女子種目のオリンピック種目採用を強力に働きかけた。
その結果が、2004年アテネ大会からの女子採用、そしてリオデジャネイロ大会までの4大会で金メダル11個獲得という驚異的な成績である。福田の存在なくして日本女子レスリングの栄光はない。その偉業は、レスリングのみならず日本のスポーツ史全体でも特筆されるべきものだ。

すべてがゼロの中で最初のメダルを獲得し、将来を幅広い視野で見通していた先達。後継者たちは、固定観念にとらわれない自由な発想と、そこから生まれる独自の工夫や方向性で輝かしい実績を生み出してきた。近年、苦しい戦いが続いている男子が、ヘルシンキ以来、リオに至るまでオリンピックのメダルを途切れずに獲得してきているのも伝統の底力ゆえのことだろう。

一世紀近く前、内藤克俊が見通していたように日本のレスリングは進化し続けてきた。そこには日本ならではの「何か」が常にあったように思う。
その「何か」、すなわち新たな発想と独自の方向性を模索し続けることこそが、これからの発展のカギとなる。

(参考文献)

  • 大日本體育協會 「第八回巴里 國際オリムピツク競技大會 報告書」 大正十四年
  • 大阪毎日新聞社 「オリムピツクみやげ」 大正十三年

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スポーツ歴史の検証
  • 佐藤 次郎 スポーツジャーナリスト

    1950年横浜生まれ。中日新聞社に入社し、同東京本社(東京新聞)の社会部、特別報道部をへて運動部勤務。夏冬6 回のオリンピック、5 回の世界陸上選手権大会を現地取材。運動部長、編集委員兼論説委員を歴任。退社後はスポーツライター、ジャーナリストとして活動。日本オリンピック・アカデミー(JOA)正会員。ミズノ・スポーツライター賞、JRA馬事文化賞を受賞。著書に「東京五輪1964」(文春新書)「砂の王 メイセイオペラ」(新潮社)「義足ランナー 義肢装具士の奇跡の挑戦」(東京書籍)「オリンピックの輝き ここにしかない物語」(東京書籍)「1964年の東京パラリンピック」(紀伊国屋書店出版部)など。