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スポーツの歴史 第2章 オリンピックとは

2-12 日本のスポーツの国際化 『意識の変化 どこまで進む?』

   日本のスポーツ史は、そのまま、世界の背中を追う足どりであったように思う。スポーツの先進地域である欧米からは遠く離れた小さな島国。文化も違うし、言葉もまったく異なる。早く国際化をはかりたい。“世界”と対等に戦ってみたい。その願いをかなえようと力を尽くしてきたのが、すなわち日本のスポーツ界が歩んできた歴史であった。いや、スポーツに限らず、それは日本の国そのものが常に抱いてきた大目標であったかもしれない。
   さまざまな競技が入ってきた明治期から大正初期あたり、スポーツはまだ一般大衆の誰もが親しむものではなかった。ごく限られたプレーヤーでさえ、海外の大会に行けば知らないことばかりだったのは、オリンピックに参加し始めたころ、選手たちが未知の舞台に戸惑ったのを示す数々の逸話でも明らかだ。1928年のアムステルダム大会で織田幹雄(おだみきお)が初めての金メダルを取って以来、1932年のロサンゼルス大会、1936年のベルリン大会と水泳を中心に大活躍を見せたとはいえ、そのころはまだ国際化が現実に進んでいたとはいえないように思う。織田や、ベルリンの馬術で金メダルに輝いた西竹一のような、真の国際人といえる存在もあったが、大半のスポーツ人、また一般人の多くが国際的視野を持っていたとは言いがたい。欧米からすればはるか“極東”にある、小さな島国の宿命である。
   戦争が相次いだ不幸な時代をはさんで、日本のスポーツはまたしても世界の潮流から取り残された。戦後しばらくたっても、国際化は相変わらず日本スポーツ界の最大の願いであり、また、なかなか実現には至らない、遠い目標でもあった。が、そこに大きなチャンスが訪れる。1964年の東京オリンピックだ。
   復興を世界にアピールするための大舞台となった、初の自国開催のオリンピック。成功のためには日本選手の活躍が欠かせない。世界のトップレベルとはまだまだ差がある競技であっても、それをそのまま放っておくわけにはいかなかった。どの競技団体も世界に学ぼうと必死に努力した。情報を集め、欧米から指導者を招き、ほとんど経験のなかった海外遠征も繰り返して、なんとか追いつこうとした。それまでは見果てぬ夢でしかなかった国際化の道のりを、わずか数年で突っ走ったのである。
   こうして、日本は初めて世界のスポーツと真正面から向き合った。その結果、もちろん不十分ながらも、世界標準に触れ、競技レベルをじわじわと、また場合によっては飛躍的に引き上げた。自国開催のオリンピックとは、それだけのパワーを秘めているというわけだ。

1964年東京大会、デットマール・クラマーと日本サッカーチーム 1964年東京大会、デットマール・クラマーと日本サッカーチーム

   オリンピックを好機として、世界と否応(いやおう)なく向き合い、その背中をしゃにむに追った時期を振り返ると、まずはこの名前を思い出す。デットマール・クラマー。西ドイツの若きコーチがサッカー界にもたらした改革は、まさしくあの時代の象徴のひとつだった。
   日本協会の野津謙(のづゆずる)会長から依頼を受けて、クラマーが初めて日本にやって来たのは1960年。当時のサッカー界からすれば、外国の指導者招聘(しょうへい)はまさに革命のようなものだったろうが、その結果はといえば、日本のスポーツ史に大書すべき成功となった。
   彼は日本に“本物の”サッカーを持ち込み、それを根づかせる大役を果たしたのである。
「教えられることのすべてが新鮮だった」
「クラマーさんの言う通りにやれば、必ず強くなれると思った」
「クラマーさんはトータルとしてのサッカーを、かみくだいて教えてくれた」
「原点はクラマーさん。クラさんがいなかったらその後はなかった」
   1968年のメキシコシティーオリンピックで、歴史に残る銅メダルを獲得したメンバーが、かつて口々に語っていた言葉だ。実のところ、クラマーは基本中の基本から教えた。ボールを止める、蹴るというところから、つまりは文字通りの一から日本代表を(きた)え直したのである。「一人一人がどう動くべきか」「なぜ、そうしなければいけないのか」を厳しく、かつ懇切丁寧に教えたのがクラマーの指導だった。キャリアもプライドもある代表選手たちが、初心者のような教えを受けながらも「クラさんの言うことに間違いはない」と心服したのは、まさしくそれが“世界”に向かうための唯一の道だと直感したからだろう。
   極端にいえば、それまでの日本のプレーは我流のようなものだったのかもしれない。クラマーはそこに世界標準を持ち込んだ。世界トップクラスのチームとも戦える真のサッカーをもたらした。プレーだけでなく、欧州に長く根づいてきたスポーツマンのスピリットをあわせて浸透させたのも、選手の視野を大きく広げたようだ。

 
1968年メキシコシティー大会のサッカーで日本は銅メダルを獲得した 1968年メキシコシティー大会のサッカーで日本は銅メダルを獲得した釜本邦茂

   こうして日本のサッカーは、初めて国際的な流れへと歩を踏み出した。それが東京オリンピックではアルゼンチンを倒す大金星となり、メキシコの快挙へとつながったのである。もちろんサッカーだけではない。東京オリンピックを契機として、どの競技もが世界と向き合い、世界の風を肌で感じた。東京オリンピックは、日本のスポーツにとっての「国際化元年」だった。日本固有の競技である柔道がそこからオリンピック競技となり、急速にグローバルスポーツとなっていったのも、その記念すべき転機を象徴しているように思われる。東京の無差別級でアントン・ヘーシンクに屈し、悔し涙を流した日本柔道だが、それもまた、のちの国際的隆盛(りゅうせい)へ向かうための関門のひとつだったのではないか。

   が、極東の島国であるハンディは、そう簡単には解消しなかった。年を追うごとに、どの競技でも海外で活躍する選手が出てくるようになり、交流も盛んになってはいったが、「未だ国際化に至らず」の意識は、日本スポーツ界全体にずっと残ってきている。国際競技連盟(IF)の役員に日本人が少ないことなどから、国際スポーツの世界で日本の存在感が希薄だったことも、その思いを強めていた。ただ、ここ何年かの間に、そうした意識は急速に払拭(ふっしょく)されつつあるようにも感じる。それは主としてプロスポーツの若い選手たちがもたらしたものではなかろうか。
   プロ野球の選手が米メジャーリーグに行くようになって久しい。最初はスタープレーヤーが最高峰に挑むという意識だったと思う。が、しだいに飛び抜けた実績を持たない選手も含めて、多くのプレーヤーが海を渡るようになると、その意識は大きく変わっていった。「挑戦などという気持ちではない」という言葉もよく聞かれるようになった。つまり、まなじりを決して別世界に挑むのではなく、日米合わせた中でのひとつの選択肢として、ごく自然にアメリカ行きを選ぶようになってきたのだ。
   海外に広く活躍の場を求める動きはサッカーでも目立っている。こちらの場合は、強豪国のチームだけではなく、さまざまな地域の規模の小さいリーグを選ぶ選手も多い。実力に合ったところということもあるが、ひと言で言えば、世界中のサッカーをひとつの舞台として視野におさめているというわけだ。これはまさに意識の国際化にほかならない。日本のスポーツ史の中でも、このことは画期的な変化と言えるのではないか。注目の集まるプロ競技でのこうした流れは、当然のことながら他のスポーツにもどんどん波及している。

国際体操連盟の会長に就任した渡辺守成氏 国際体操連盟の会長に就任した渡辺守成氏

   先だっては国際体操連盟の会長に渡辺守成(もりなり)・日本体操協会専務理事が就任した。欧州出身者以外では初となる会長就任。オリンピック競技のIFトップに日本人がついたのは卓球の荻村伊知郎(おぎむらいちろう)氏以来のことだ。これもまた、世界のスポーツ界での日本の存在感を増し、国内スポーツ界の国際化を進める追い風となるだろう。
   そして3年後には自国開催の夏季オリンピックが再びめぐってくる。スポーツ界が長年目指してきた真の国際化へと進んでいくための、新たな「元年」としたいものだ。

佐藤 次郎
スポーツジャーナリスト
笹川スポーツ財団 評議員

スポーツの証言 オリンピック&パラリンピックのレガシー スポーツ史をひもとく
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