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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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14. 負の遺産・ドーピングの誘惑

【オリンピックの歴史を知る】

2017.01.06

2016年はスポーツ史、オリンピック史において「負のイメージ」で語られる年となるだろう。大国・ロシアによる国家ぐるみのドーピング隠し騒動である。
問題の調査にあたった世界反ドーピング機関(WADA)調査チームは、ロシアに国家ぐるみの隠蔽いんぺい工作があったとしてリオデジャネイロ大会からの除外を勧告、スポーツ仲裁裁判所(CAS)も支持した。これにより夏のオリンピック・パラリンピックからロシア選手が排除される可能性もあった。

結局、国際オリンピック委員会(IOC)は国際競技団体(IF)に最終判断を委ね、陸上競技とウエイトリフティングの全選手、その他競技の一部選手の参加は許されなかったが、ロシア選手がリオ・オリンピックの舞台から姿を消すことはなかった。しかし、国際パラリンピック委員会(IPC)は敢然かんぜんとロシアをパラリンピックから排除したのだった。

IOCとIPCの決定にはドーピングへの決定的な意識の違いがあったといっていい。

IOCはドーピングに関与していなかった選手の人権を考慮した決断だったとする。だが、大国ロシアへの配慮、ロシアの反発を恐れた弱腰と指摘されても仕方あるまい。

一方、IPCは障害者が治療等のため薬物により近い距離にいることを重要視、だからこそ決然と判断した結果であった。

両者の違いを実は見過ごしにできない。IOCの判断は誤ったシグナルを発し、今後、世界のアンチ・ドーピング活動に影を落としかねない。ドーピングは、もはや各国政府、関係諸機関が一致協力して対策を講じなければ解決できない「負の遺産」となっている。

では、ロシアはどのような不祥事を起こしていたのか。WADA調査チームの調査報告「マクラーレン報告書」に沿って述べよう。

報告書は、モスクワにある検査機関が2011年から2015年にかけて577件の陽性結果を把握していながら、上層部の指示で312件を陰性と認定したという。この間、2013年世界陸上競技選手権がモスクワで、2014年冬季オリンピック・パラリンピックがソチで開催されたが、いずれも違反がもみ消されていた。スポーツ省の関与は明白だった。

とりわけソチでは、実に巧妙な手口で検査所において尿検体がすり替えられていた。

2014年ソチ冬季オリンピックの開会式。中央にロシアのプーチン大統領、隣はIOCバッハ会長

2014年ソチ冬季オリンピックの開会式。中央にロシアのプーチン大統領、隣はIOCバッハ会長

まず、メダル獲得が期待される有力選手は事前に尿を採取し、ソチの検査所近くにあるロシア連邦保安庁(FSB)の建物内に保管しておく。しばらく薬物を使わず、きれいになった尿であることはいうまでもない。検査所には保安対策のためと称し、FSBの担当者の待機部屋を用意する。この部屋は尿検体の保管場所に隣接。担当者は壁にあけられた穴を通して尿検体のすり替えを行っていた。

通常、検体をいれるボトルはふたを割らないと開封できない仕組みだが、FSBは蓋を割らずに開封する方法を生みだし、大会に備えていたとされる。指示していたのはスポーツ省で、政府機関であるFSBをも巻き込んだ国家ぐるみの“犯罪”だったわけである。

ロシアは依然、国家ぐるみを否定しているものの、政府が関与しなければ“成功”しない仕掛けであった。問題は2014年12月にドイツの放送局のドキュメント番組に出演した元ロシアの反ドーピング機関職員と元陸上競技選手夫妻の証言によるものだった。彼らの内部告発がなければ、まだ“国家犯罪”は闇に隠されていた可能性も高い。

では、なぜ、ロシアはこうしたドーピング隠しに手を染めたのか。

ロシアは1991年のソ連崩壊ほうかい、東西冷戦構造の終結後、政治体制の混乱、経済状態の悪化などもあって米国と対峙たいじしてきた国際地位が低下。スポーツ界も例外ではなく、資金不足による選手養成制度の崩壊や人材流出などによって、その存在感を落としていた。

2000年、プーチン大統領が「強いロシアの復活」を掲げて登場。国家のプレゼンス誇示、国内の連帯を強めるにはスポーツが重要な役割を果たすとして強化に乗り出した。大統領の直接関与は不明だが、側近が意図を忖度し、禁じ手を解いたと考えていい。ロシアはソ連時代、東ドイツと並ぶドーピング先進国だった。過去の“得意技”の復活である。

オリンピックでは1960年ローマ大会で初めて、興奮剤を使用した自転車選手の死亡事故が起きた。IOCは1963年に医事委員会を設置、1964年東京大会時に開催されたオリンピック科学会議において1968年グルノーブル冬季、メキシコシティー両大会からドーピング検査を実施することを決めた。

いま、オリンピック史を紐解ひもとくと必ず、1988年ソウル大会陸上競技男子100mのベン・ジョンソン(カナダ)がドーピングの事例として登場する。ソウル大会の最大の関心は100m決勝。連覇をねらったカール・ルイス(米国)を抑えて、ジョンソンが勝った。9秒79は世界新記録。文句なしの勝者かと思われたが、レース後のドーピング検査が事態を大きく変えた。

検出が困難といわれてきた蛋白たんぱく同化ステロイドのスタノゾロールに陽性反応。金メダル剥奪はくだつ、世界新記録取り消しという事態を引き起こし、一般大衆にスポーツ界におけるドーピングの蔓延まんえんを知らしめる事件となった。

表彰台中央のベン・ジョンソンがカール・ルイスと握手。この金メダルはまもなく剥奪される

表彰台中央のベン・ジョンソンがカール・ルイスと握手。この金メダルはまもなく剥奪される

この後、IOCは検査方法や罰則規定を強化、ドーピング排除に努める。しかし、それをあざ笑うかのように手口は巧妙化、薬物の存在を消す方法も開発され深く進行した。東西冷戦構造崩壊で拡散した東ドイツやロシアなど東側の“ドーピング頭脳”がその推進役を果たしたことはいうまでもない。

1998年、ツール・ド・フランスで大量のドーピングが発覚、世界に衝撃を与えた。その際、IOCのファン・アントニオ・サマランチ会長の反応は鈍く、各国政府から批判が殺到。窮地きゅうちおちいったIOCが各国政府と議論を重ね、翌年、WADAが誕生した。

WADAは独立機関としてIOCやIF、各国政府、国際刑事機構など国際諸機関と連携。検査の実施、禁止薬物やドーピング方法のリスト作成、フェアプレー精神に基づく反ドーピング活動などを行っている。スポーツの価値を高める運動は高く評価される一方、財政面での脆弱ぜいじゃくさが懸念される。ロシアの国家ぐるみドーピングが表面化した今、WADAの強化は必須だといっていい。

かつて、ドーピングはオリンピックの商業主義とともに語られてきた。メダルの獲得、記録の更新は選手に巨額の報酬をもたらすとともに、周囲の指導者や関係者にも多大な利益をもたらす。そのため、選手が知らないところでコーチなどがドーピングを行うことも少なくなかった。健全な選手を守ることはスポーツの価値を高めることといっていい。

2016年夏のロシアのドーピング問題は単に選手やコーチなどの利己的な欲望の表れに留まらず、国家によるスポーツ利用、為政者いせいしゃによる政治的な利用といってもいい。しかも、ロシアだけではなく、ケニアやブルガリア、カザフスタン、ベラルーシなどでも組織的なドーピングが発覚した。

ドーピングは禁止薬物や禁止された手法によって競技力を高め、優位に勝利を得ようとする行為である。公正さは失われ、選手の健康を害し、スポーツの価値を犯す。オリンピック、いやスポーツを持続可能にするためにも、WADAを中心とした連携を強化、負の遺産の撲滅ぼくめつを図らなければならない。

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スポーツ歴史の検証
  • 佐野 慎輔 尚美学園大学 教授/産経新聞 客員論説委員
    笹川スポーツ財団 理事/上席特別研究員

    1954年生まれ。報知新聞社を経て産経新聞社入社。産経新聞シドニー支局長、外信部次長、編集局次長兼運動部長、サンケイスポーツ代表、産経新聞社取締役などを歴任。スポーツ記者を30年間以上経験し、野球とオリンピックを各15年間担当。5回のオリンピック取材の経験を持つ。日本スポーツフェアネス推進機構体制審議委員、B&G財団理事、日本モーターボート競走会評議員等も務める。近著に『嘉納治五郎』『中村裕』(以上、小峰書店)など。共著に『スポーツレガシーの探求』(ベ―スボールマガジン社)『これからのスポーツガバナンス』(創文企画)など。