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スポーツの歴史 第2章 オリンピックとは

2-14 負の歴史を乗り越え、アジェンダ2020に托す未来

   国際オリンピック委員会(IOC)は2014年12月、モナコ臨時総会で中長期活動指針「アジェンダ2020」を決議した。
   IOC委員の間では「負の遺産」を解消しなければならないという意識が共有されている。「今が変化の時だ」。トーマス・バッハIOC会長はオリンピックのもつ理想と現実との融合を訴えた。
   オリンピックは本来、ひとつの都市で開催し、ひとつのオリンピック村(選手村)で参加全選手が宿泊、交流し、互いの宗教や思想、文化を超えて理解し合うことを理想とする。しかし、「アジェンダ」では開催都市への負担軽減を考慮し、複数都市、いや複数国・地域での開催さえ可能にできるように定めた。
   背景には、増え続ける負担と反比例するように薄らぐ開催への熱意がある。2022年冬季大会招致からオスロなど有力都市が次々辞退した現実が改革を強く意識させた。
   2008年北京は8兆円、2014年ソチ冬季は5兆円。高騰する開催経費が招致を考える都市をおびえさせた。いや、為政者(いせいしゃ)の力の強い両大会は別としても、2012年ロンドンは2兆1000億円ともいわれ、2020年大会開催準備を進める東京も、当初7340億円といわれた開催費用が2兆円とも試算されるほど高騰する現実に苦しんでいる。
   「アジェンダ」採択後、東京の次の2024年大会招致からボストンやローマが財政難を理由に立候補を取りやめた。歯止めがかからなければ開催都市が消えてなくなるかもしれない。既存施設の活用、コンパクト化のかけ声と裏腹の複数都市開催はそこに起因していた。
   IOCにはトラウマがある。1984年夏季大会にはロサンゼルス1都市しか立候補する都市がなく、そのロスも公的資金の投入を禁じられていた。オリンピックの存亡を意識せざるを得ない現実であった。

   1964年東京大会が成功裏に終わったあと、オリンピックは激しい嵐に見舞われた。
   メキシコシティー大会が行われた1968年の年4月、公民権運動の指導者キング牧師が暗殺され、6月には理解者であったロバート・ケネディ司法長官も銃弾に倒れた。黒人の怒りはオリンピックの場にも波及、陸上競技男子200mで1位と3位に入った米国のスミス、カルロス両選手が表彰台で黒い手袋をつけた右手を突き上げ、米国旗から目をそらして黒人差別を抗議した。IOCは直ちに両選手を追放したが、動揺は広がった(詳細は次項)。
   差別問題ではアパルトヘイト(人種差別)政策をとっていた南アフリカが、アフリカ諸国の抗議で、1968年大会参加を取り消された。1976年モントリオール大会でも同様の事態となり、IOCの鈍い動きに抗議したアフリカ諸国がボイコットした。
   人種差別を含む、性別や性志向などあらゆる差別の撤廃は「アジェンダ」にも唱われ、依然、負の遺産となっている証しだ。
   1972年ミュンヘン大会ではオリンピック史上最悪の事件が起きた。大会11日目の9月5日早朝、「ブラック・セプテンバー(黒い九月)」と名乗る武装集団が選手村のイスラエル選手団を襲撃。2人を射殺、選手・コーチ9人を人質に立てこもり、場所を郊外の飛行場に移した果ての西ドイツ警察特別部隊との銃撃戦の結果、17人が死亡する惨事となった。

選手村イスラエル選手団本部前 ミュンヘン大会選手村 イスラエル選手団本部前

   集団はパレスチナ・ゲリラで、イスラエルに捕らえられている仲間256人の解放を要求してのテロ行為だった。IOCは半旗を掲げて大会を続行、テロに屈しない意志を世界に発信した。この後、地上最大のイベントとなったオリンピックは常にテロリストの標的とされ、選手村や競技会場など厳戒態勢がとられるなかでの開催となっている。地対空ミサイルまで配備される昨今、警備費は高騰し大会運営費を大きく圧迫している。

 

   続く1976年モントリオール大会はオイルショックによる諸物価高騰で10億ドルもの赤字を計上、モントリオール市民は21世紀初頭まで負債処理に悩まされた。
   1980年モスクワ大会は前年の暮に起きたソ連によるアフガニスタン侵攻に米国が抗議し、カーター大統領の呼びかけに応じた日本や西ドイツなど西側諸国がボイコットした。そして1984年ロサンゼルス大会はソ連、東ドイツなど東側諸国が報復ボイコット。東西冷戦はオリンピックを分断しかねなかった。
   この後、IOCは国連と同一歩調をとり、2009年以降は国連のオブザーバーとなった。オリンピック開催前年の「国連休戦決議」は定例化、2016年リオデジャネイロ大会でも国連方針に合わせ、難民選手団を結成した。オリンピックが政治の舞台になることは少なくない。かつて分裂していた東西ドイツが合同選手団で参加、後の東西統一に結びついた事実はある。2000年シドニー大会でも韓国と北朝鮮が統一旗のもと合同行進したが、こちらは南北統一の気配はない。オリンピックと政治との関係は複雑だといえようか。

   話を戻す。1都市しか立候補しなかった1984年ロス大会が失敗していれば、オリンピックは地上から消えていたかもしれなかった。このとき、ピーター・ユベロス会長(ひき)いる組織委員会は(きゅう)()の一策としてテレビの独占放送権付与、1業種1社に限ったスポンサー契約など独自の財源を確保。約2億ドルの黒字を生んで大会を成功させ、各国・地域のオリンピック離れを食い止めた。
   IOCは翌年、このロス方式を導入。ファン・アントニオ・サマランチ会長は瀕死(ひんし)の状態にあった財源を(よみがえ)らせ、現在のIOC主導体制を確立した。そこには1974年、マイケル・キラニン会長のもと参加資格を改訂、「アマチュア」に限定されていた文言を削除し、プロ選手の参加に道を開いていたことは見逃せない。プロの高度な技が、最高の競技大会としてオリンピックの価値を高め、高額な契約料に結びついたからである。
   ただ、スポンサーを重視し、放送権をもつテレビ局を優先する姿勢は「商業主義」として批判も受けた。いきすぎた商業主義はIOC委員の意識をも変え、1998年の暮に発覚したソルトレークシティの招致スキャンダルを生んだ。金品等の授受による投票依頼はIOCの屋台骨を揺るがせた。改革はサマランチ会長の後のジャック・ロゲ会長体制下でも大きな課題であり続けた。
   IOC加盟国・地域は広がったが、他方、巨大化する大会は施設建設、警備費などに加え、運営費で大きな開催都市負担をもたらした。ちなみにロサンゼルスは商業主義の元凶のように語られることが多いが、実は既存施設、大学等公共施設の活用をはじめ、数々の無駄を排除したことが成功に繋がった。歴史に学ぶべきことは必ずあるといってもいい。

1984年ロス大会では1932年大会の競技場を改修して使用

1984年ロス大会では1932年大会の競技場を改修して使用

   オリンピックとIOCは120年に及ぶ歴史を変化しながら生き抜いてきた。「アジェンダ」もまた、その変化のひとつである。オリンピックの改革とともに、スポーツが文化であり、教育や健康・医療、国際平和など社会をよりよくする力を持つべきだと唱う。そして、スポーツの信頼を担保し価値を高めるためにも選手を不正から守り、ガバナンスを高めなければならないとしている。
   バッハ会長は「アジェンダ」についてこう話した。「これはジグソーパズルであり、20+20の40項目ひとつ一つのピースが重要だ」。ピースひとつ欠けると成り立たなくなる(もろ)いパズルに、オリンピックの未来がかかっている。

 

佐野 慎輔
産業経済新聞社 特別記者兼論説委員
笹川スポーツ財団 理事/上席特別研究員

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