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スポーツの歴史 第3章 パラリンピックとは

3-2 日本のパラリンピック 『一人の情熱から始まった』

   未踏の地へ最初の一歩を踏み出す。ごく小さなものだとしても、そこに秘められたパワーは大きい。何もないところに歩を印そうとする思いにははかりしれないエネルギーが込められているからだ。先駆者の第一歩にはそれだけの重みがある。
   ストークマンデビル競技大会を創設して、障害者スポーツの新たな発展をもたらしたルードウィヒ・グットマン博士。その信念と先見性がなければ、今日のパラリンピックの隆盛はなかったかもしれない。そしてグットマン博士に強い影響を受けた1人の医師がいなかったら、日本のパラリンピック運動、障害者スポーツの発展もなかなか進まなかったろう。中村裕(なかむらゆたか)は半ば独力で、日本の障害者スポーツの最初の扉をこじ開けたのである。

   1927年、大分県別府市に生まれ、九州大学医学専門部に学んで医師となった。九大医学部整形外科をへて国立別府病院整形外科科長を務めていた1960年、リハビリテーション研究のため欧米に派遣され、グットマン博士に出会ったことが、その後の目覚ましい活動への入り口となった。グットマン博士から、ストークマンデビル病院の脊髄損傷患者(せきずいそんしょうかんじゃ)の85%が6カ月で社会復帰すると聞かされた時の衝撃を、中村は著書で書いている。
   「おそらくウソだろう…あるいは、ほんとうだとすれば、よほど特殊な治療法があるのだ…秘術というものがあるなら、何としてもつかんで帰らねばならない」
   「博士の秘術は何なのか…それはたしかに、コロンブスの卵のように、明瞭で正しい治療法だった…患者はいつまでもベッドで寝ていることを許されなかった。『一日も早く、わずかでも機能を回復させる』ために、スポーツがすすめられた…日本では考えもつかない治療法と、その効果を見ることができた」
   患者が少しでも動けるようになれば、卓球のラケットを握らせ、プールで泳いでもらう。「自分の筋肉を使って自らはい上がっていく、能動的な治療」を目のあたりにした中村は、「手術よりスポーツ」の方針の正しさを確信し、帰国するとさっそく精力的に行動し始める。
   当時、日本ではまだリハビリという概念も一般的ではなかったようで、障害者の治療といえば温泉療法やマッサージにとどまっていた。患者にスポーツをやらせようという提案に対しては「無茶だ」「体調を崩したらどうするのか」と反対意見ばかりだった。が、スポーツの有効性を十分に把握していた中村は、大分県身体障害者体育協会を設立し、1961年10月に第1回大分県身体障害者体育大会を開く。障害者選手による本格的な競技会は、日本ではこれが初めてだった。

   グットマン博士を訪ねた時は33歳。若き医師はどんどん行動の範囲を広げていく。東京オリンピックの後に国際大会を開くことについても先頭に立って関係者に訴え、パラリンピック開催への気運を高めた。1962年にストークマンデビル大会に2人の車いす選手を連れて参加したのも注目を集め、これもまた東京大会への追い風となった。この時、資金が足りず、自分の車を売って旅費の足しにしたエピソードはよく知られている。
   これらの動きがひとつの流れにまとまって、1964年10月の国際身体障害者スポーツ大会(国際ストークマンデビル競技大会)、すなわち東京パラリンピック開催に至った。欧州以外で初めて行われた5日間の大会には22カ国から400人近くが参加し、日本からも53選手が出場するという盛大なものとなった。中央から遠く離れた九州の医師が、非難や反対の声ばかりの中で始めた活動が、しだいに共感を呼んで多くの人々を巻き込み、大きな流れとなって記念すべき大会に結実したのである。先駆者の思いが秘めているエネルギーの偉大さをあらためて感じないではいられない。

選手宣誓をする青野繁夫選手の後ろに立つ中村裕氏 選手宣誓をする青野繁夫選手の後ろに立つ中村裕氏

   中村はこの大会で日本選手団の団長を務めた。開会式で、宣誓をする車いす選手の後ろにすっくと立って晴れの舞台を見守る姿が写真に残っている。その時37歳。感慨深げな表情が印象的だ。そこに至るまでの努力の数々、苦労のあれこれが次々と脳裏を走り過ぎていたに違いない。
   念のために言っておけば、これはゴールではなく、スタートだった。それまで、日本の障害者を取り巻く環境は、スポーツどころか、外出もままならないものだったのだ。大会に出場した53選手の大半は国立病院・療養所の患者や訓練生で、自立して暮らしていたのは自営業の5人だけという事実が、当時の障害者が置かれていた状況を表している。社会復帰と自立、そのためにも大切な要素となるスポーツの実践。こうした課題の数々が、やっとのことで将来へ向けて動き出したのがこの時だったのである。
   「日本の現状は所謂(いわゆる)先進国との差が有りすぎる様な気がしてならない」「私達の生活はなまやさしいものではない」「より一層の理解と、温かさを、強く要求したく思う」「このパラリンピックを機会に、他の多くの人々に私達の現実を本当に理解していただき、実際の政治が二歩も三歩も向上飛躍してもらわなければどうしようもない」
   宣誓の大役を務めた青野繁夫選手が報告書に書き残している思いは、すべての選手、すべての障害者に共通するものだったろう。華やかな大会に臨んでも、まず頭をよぎるのは不安や悩みだったのだ。
   一方、報告書に載っている選手たちの感想にはこうした言葉も連なっている。
   「やれば出来るという自信」「幾多の経験を心の奥まで浸み込ませてくれた」「(大会開催は)身障者問題に対する考え方の革命といって過言でないと思う」「彼等(各国選手)と一週間生活を共にした事は非常に尊い、貴重な体験であった」――。歴史的な大会を選手として経験したことは、このうえない刺激とも、また希望の灯ともなったのである。「外国選手が明るく朗らかだった」とは多くの選手の感想だが、それは彼我の差を感じさせるだけでなく、自分もああなりたい、自立して明るく暮らしたいという決意にもつながったのではないだろうか。
   こうして日本の障害者スポーツとパラリンピック運動は前進を開始した。前途遼遠ではあったが、ともかくも第一歩が力強く印されたのである。

   IPCが設立されたのち、第2回パラリンピックとして認定された東京大会は、その「パラリンピック」という言葉が初めて幅広く使われたことでも知られている。ポスターにも「PARALYMPIC」の文字が躍り、報告書にも随所に出てくる。この名称が正式なものとなるのは1980年代に入ってからだが、1964年の東京では早々とごく当たり前に使われたのだ。さまざまな面で歴史的な起点となった大会は、その点でも画期的だったといえる。

1964年東京パラリンピックで使用されたポスター 1964年東京パラリンピックで使用されたポスター

   中村裕はその後も立ち止まらなかった。病院で治療にあたる一方、障害者の自立の場として別府に「太陽の家」を開き、パラリンピックでは東京から5大会続けて日本選手団長を務めた。スポーツの面での大きな功績といえば、これも忘れてはならない。パラリンピックにはなかなか参加できないアジア各国を対象に、極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会(フェスピック)開催を推進したのだ。第1回大会は1975年6月、大分で開かれた。中村が語った「椰子の木の下でも」という言葉が残っている。発展途上の南の小国でも障害者スポーツが盛んになっていってほしいという意味だ。のちのアジアパラ競技大会へとつながっていくフェスピックをつくったのは、東京パラリンピック開催にも匹敵する功績と言っていい。
   中村裕は1984年、57歳の若さで死去した。多くの功績を残したとはいえ、あまりにも早い旅立ちだった。だが、先駆者としての精神はずっと生き続けている。その情熱こそが、日本の障害者スポーツに命を吹き込んだのだ。

 

(参考文献)

  • 「国際身体障害者スポーツ競技会 東京パラリンピック大会 報告書」 国際身体障害者スポーツ大会運営委員会 1965年
  • 「太陽の仲間たちよ」 中村裕 講談社 1975年
  • 「パラリンピックへの招待 挑戦するアスリートたち」 中村太郎 岩波書店 2002年
  • 「身体障害者とスポーツ」 中川一彦 日本体育社 1976年
  • 「身体障害者スポーツ」 中村裕、佐々木忠重 南江堂 1964年
  • 「中村裕伝」 中村裕伝刊行委員会 1988年

佐藤 次郎
スポーツジャーナリスト
笹川スポーツ財団 評議員

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