本文へスキップします。

スポーツの歴史 第2章 オリンピックとは

2-15 時代を映す鏡 『難問にどう向き合うか』

   オリンピックにはその時々の世相が色濃く反映される。時代を映し出す鏡と言ってもいいだろう。となれば、当然ながら社会のゆがみや未解決の重い課題なども否応いやおうなく目の前に突きつけることになる。戦争、動乱、差別、人権問題、テロ、政治的動きの数々――オリンピックには常にそうした暗い影、苦い味が顔をのぞかせている。
   第二次大戦後からしばらくのオリンピックには、いつも戦争、紛争の影がつきまとってきた。1956年のメルボルン大会ではスエズ動乱とハンガリー動乱のために6カ国が出場を取りやめている。1968年のメキシコシティー大会の年には、チェコスロバキアにソ連を中心とするワルシャワ条約機構軍が侵入して「プラハの春」を押しつぶし、大会に暗い影を投げかけた。
   国際政治のせめぎ合いの中で参加ボイコットも頻繁(ひんぱん)に行われてきた。1964年の東京大会では新興国競技大会参加をめぐってインドネシアと北朝鮮が選手団を引き揚げている。メキシコシティー大会では人種差別政策を続けていた南アフリカの参加をめぐってアフリカ各国がボイコットの動きを見せ、1972年のミュンヘン大会の前にはローデシア参加に対して同様の動きがあった。これらは、最終的に南アやローデシアの参加を認めなかったことによって回避されたが、1976年のモントリオール大会では、南アをめぐる問題で実際にアフリカの多くの国が出場を取りやめている。結果的に南アやローデシアを締め出したことに対しては、IOCの側にも政治に押し切られたという憤懣(ふんまん)があったようだ。

1980年モスクワ大会の閉会式で涙を流すマスコットのミーシャ 1980年モスクワ大会の閉会式で涙を流すマスコットのミーシャ

   その果てに、ソ連のアフガニスタン侵攻に(たん)を発した1980年モスクワ大会の西側諸国ボイコット、1984年ロサンゼルス大会のソ連(現在のロシア)・東欧圏ボイコットという、オリンピックの存立そのものを危うくする事態が起きてしまう。これはオリンピック運動そのものに深い傷跡を残した。1988年ソウル大会からは世界各国がそろう大会に戻り、なんとか危機は回避されたものの、国際社会の緊張がオリンピックを根底から揺るがす恐れは消えていない。
   そしてミュンヘンではアラブゲリラによる悲惨なテロ事件が起こった。輝かしいものであるはずのオリンピックの思い出が、そこでは永久に()えることのない悲しみの記憶に変わっている。オリンピックといえども、複雑にからみ合う世界情勢と無縁の楽園ではいられないということを、あの時我々はいやというほど思い知らされたのである。

 
1968年のメキシコシティー大会、陸上男子・200mの表彰式 1968年のメキシコシティー大会
陸上男子・200mの表彰式

   オリンピックが社会のゆがみを否応なく映し出す鏡だということを痛烈に印象づけた出来事といえば、1968年のメキシコシティー大会のあのシーンを忘れるわけにはいかない。
   10月16日、陸上競技男子・200mの表彰式でそれは起きた。世界新で優勝したトミー・スミス。3位に入ったジョン・カルロス。米国代表の2人の黒人選手が表彰台の上で(こぶし)を高く突き上げたのだ。
   スミスは右腕。カルロスは左腕。それぞれの拳には黒い手袋がはめられていた。ともに黒い靴下。スミスの首には黒いスカーフ。アーチのように掲げられた2本の腕は、それぞれ黒人のパワーと連帯を表していたという。黒人差別への抗議のパフォーマンス「ブラックパワー・サリュート」である。
   長く続いてきたアメリカの黒人差別。それに対する強い抗議と、地位向上を求める運動が燃え盛りつつあった時代だ。それらの運動に積極的にかかわった黒人アスリートの間では、大会前から前述の南ア参加問題をめぐってオリンピックをボイコットしようとする動きが盛んに出ていた。南ア排除でボイコットには至らなかったものの、オリンピックの場で世界にアピールを行うべきだとする決意は強まる一方だったようだ。それがついに世界が注目する表彰式で実行に移されたのだった。
   「世界中の黒人は団結している。それを示すためにブラックパワー・サリュートを送ったのだ」
   「私たちは、立ち上がる黒人の姿を全世界に示したいと思った」
   「我々は黒人であることを誇りに思っている。アメリカの黒人たちはこれを理解してくれるだろう」

   大騒ぎになったスタジアム。記者会見での言葉が当時の新聞に残っている。2人はこもごも、強い口調でこの行動に至った思いを語った。大会で勝てば称賛されても、一歩競技場を出れば相変わらずの差別が待っている現実に2人は怒りをぶつけた。たとえ批判があってもやらずにはいられないという、やむにやまれぬ思いが彼らにはあったのだろう。
   アメリカの黒人アスリートといえば、1936年のベルリン大会で金メダル4個を獲得しながら、それにふさわしい扱いを受けられなかったというジェシー・オーエンスの例、また1960年ローマ大会のボクシングで金メダルを獲得したのに郷里のレストランで入店を拒否されたというモハメド・アリの有名なエピソードなどがすぐに浮かぶ。そんな状況が積もり積もった末に、表彰台での衝撃的なブラックパワー・サリュートがあったということだ。
   ただ、スミスとカルロスに対する風当たりはきわめて強かった。表彰台で拳を突き上げた時には場内から大ブーイングが起きた。IOCは「オリンピックを政治的見解の宣伝に利用した」と激しく非難し、米オリンピック委員会はすぐさま2人に対して代表資格停止処分を科した。大会に参加していた他国の関係者の間でも「オリンピックに政治を持ち込むのは許せない」という批判の声が目立っていたようだ。そればかりでなく、帰国後の米国内でも猛烈な批判にさらされ、脅迫状まで舞い込んだ。このため、彼らは長く不遇の時を過ごさねばならなかったという。
   確かにオリンピックを政治的なアピールの場とするのはオリンピック憲章の根本原則に反しており、批判もやむを得ないだろう。とはいえ、いまの感覚からすれば、そこまで激しく非難されるべきものだったのかという疑問もある。アメリカにおける当時の差別の状況、その中で競技を続けていた選手の怒りや苦悩を考えれば、あの時の非難はいささか一方的に過ぎたのではないか。黒人運動に強硬な動きが目立っていた時期だけに、2人の行動も、一般社会を揺さぶる「過激」のイメージで受け止められたのかもしれない。
   いずれにしろ、社会に顕著(けんちょ)なゆがみ、ひずみがあり、それが増幅されていけば、どこかで一気に噴出することになる。時代を映す鏡として、オリンピックも例外ではいられない。オリンピックという、すべてを超越しているように見える場にさえ、それらは必ず押し寄せてくる。やり方やタイミングはともかく、あの黒い拳の衝撃は、ある意味で必然だったと言えるかもしれない。
   当時の強い非難や反発は、オリンピックは神聖なものだとする、いささか古めかしくて単純な思い込みを、まだ多くの関係者たちが抱いていたからのようにも思える。もちろん、オリンピックがひとり孤高の存在でいられる時代など、とうに過ぎ去っている。オリンピックは、自らに映し出された世相や社会の変化をしっかりと受け止めねばならない。紛争にしろテロにしろ差別にしろ、投げかけられた難問と真っ向から向き合い、それらを少しでも正す努力を積み重ねていかねばならない。それは現代のオリンピックに課せられた義務である。

   スミスとカルロスの行動については、1980年代あたりから見直しが行われ、いまはあの抗議も正当な人権運動のひとつとして評価されるようになっているという。出身校のサンノゼ州立大には、拳を高く突き上げた2人の銅像が建っている。再評価にはいまもさまざまな見方や意見があるだろう。ただ、オリンピックの関係者がそこから()み取るべきことは、けっして少なくないように思われる。

 

佐藤 次郎
スポーツジャーナリスト
笹川スポーツ財団 評議員

スポーツの証言 オリンピック&パラリンピックのレガシー スポーツ史をひもとく
Story60:三屋 裕子 Story59:吉田沙保里 Story58:宮﨑 義仁

ページの先頭に戻る