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スポーツの歴史 第2章 オリンピックとは

2-16 継承していく力『親子で受け継ぐ情熱と技』

   オリンピックの長い歴史には一本の真っすぐな芯が通っている。この至上の舞台にすべてをそそごうとする競技者たちの情熱の連鎖である。それはオリンピアンからオリンピアンへと時代を超えて受け継がれていく。師から弟子へ、先輩から後輩へ、そして時には親から子へとつながっていく。しばしば登場する親子オリンピアンの姿は、オリンピックならではの(たましい)の伝承を雄弁に語っている。

2004年アテネ大会に陸上競技コーチとして参加した室伏重信氏 2004年アテネ大会に陸上競技コーチとして参加した室伏重信氏

   親子オリンピアンを語るのには、まずこの2人から始めたい。室伏重信(むろふししげのぶ)室伏広治(むろふしこうじ)。父と子が日本のスポーツとオリンピック運動にもたらしたものは、長い歴史の中でもひときわ輝いている。
   父・重信は26歳で迎えた1972年のミュンヘン以来、1976年のモントリオール、1984年のロサンゼルスと3大会に出場している。幻となった1980年のモスクワを含め、4大会連続で日本代表となり、40歳でアジア大会5連覇を達成した息の長さはそれだけで素晴らしいが、その競技人生をさらに価値あるものとしたのは、自らの技をひたすら磨き抜いた努力だ。
   ソ連・東欧圏の巨漢たちがパワーで世界を圧倒してきたハンマー投げ。ただ、その真髄は力だけでなく、7.26kgの鉄球をワイヤーでつないだハンマーをいかに操るかという繊細な技術にもある。178 cmの体は国際舞台では最も小柄な部類でしかない。そこで技を徹底的に追求した。いかに無駄なくハンマーに力を伝えるか。限られた力でいかに遠くへ飛ばすには、どのような動きが必要なのか。こうして考え抜くうち、しだいにフォームが理想へと近づいていったのである。
   競技にそそぐ情熱は熱さを増す一方で、アジアで初めて70mを超えると、幅広く技術の向上を追い求める思いはさらに加速していく。4回転投法を始めたのは30歳になってから。これでまた記録が伸びていき、ついには30代後半で75 mに達した。ベスト記録の75 m 96をマークしたのは38歳である。これは当時、アジアの選手が到達し得る限界の大記録といわれたものだ。大ベテランといわれる年齢になっても、頑健(がんけん)な体を維持しつつ、よりよい技を求め続けた努力がいかに並外れていたかを物語る足跡といえる。

 
2004年アテネ大会の室伏広治。隣のアヌシュ(ハンガリー)の金メダルがドーピングにより剥奪され、室伏に与えられる
2004年アテネ大会の室伏広治。隣のアヌシュ(ハンガリー)の金メダルがドーピングにより剥奪され、室伏に与えられる

   そんな姿を間近に見てきた広治が、父の背中を追ったのはごく自然なことだったに違いない。10歳で初めてハンマーの手ほどきを受け、中学の終わりに自分から父に指導を願い出たという。高校ですぐ頭角を現し、インターハイに優勝。中京大学に進学すると、20歳で日本人3人目となる70m超えを達成し、早くも日本選手権優勝を果たした。これは父が積み重ねてきた経験、ノウハウあってのことだろう。空ターン、すなわちハンマーを持たずに動きをつくっていく一番の基本から始まった練習。そこには、進んでいくべき道がはっきりと示されていたのである。
   父の記録を超えたのは23歳の時。アジアでは限界ともいわれた記録を上回ったということは、日本選手として未知の領域に踏み込んでいくのにほかならない。そこからは、父のノウハウを基礎として、自ら新たなステップを次々と上っていくことになった。
   187 cmと身長には恵まれたが、若いころは欧米の選手と比べるといかにも細く見えた。その中で互角の戦いを挑むにはどうしたらいいのか。広治はやはり父と同じく、体の使い方を徹底的に追求していった。もちろん体づくりにも力を入れたが、その体をいかに動かしてよりよい投げにつなげていくかを、あらゆる角度から研究し、工夫したのだ。けっして近道ではないが、長い目で見れば確実に頂点へと近づいていける道である。
   じっくり時間をかけて動きづくりをしていった成果は目覚ましいものだった。25歳で80mを超え、トップ選手の仲間入りをすると、その後は主要大会で必ず優勝争いに加わる存在となった。初めてのオリンピックとなった2000年のシドニーは9位だったものの、2001年の世界陸上では銀メダルを獲得し、2003年には28歳で84 m 86という快記録をマークした。これは世界歴代4位であり、ここ10年の記録としては世界2位となる。そして2004年のアテネ大会ではついに金メダルに輝いた。こうして、体の使い方をきわめるという方向性が正しかったのが、至高の舞台でみごとに証明されたのだった。

   父子が残した功績の大きさははかりしれない。陸上の投てき競技で、体格のハンディを負う日本選手が頂点に立つというのは、文字通り夢のような出来事なのである。2人は、パワーだけに頼るのではなく、技と動きを突き詰め、磨き上げることでそれを可能にした。陸上のみならず、日本のスポーツ界、また体格に恵まれない世界の国々にとって、これほど貴重な実例はない。競技の世界におけるひとつの革命だと評しても、けっして言い過ぎではないだろう。
   もうひとつ大事なことがある。これらが薬物から完全にクリーンな中でなし()げられたということだ。パワーが必要な投てき競技には常に薬物の影がつきまとってきており、ドーピング検査が厳しくなってからも状況があまり変わらないのは、アテネで1位となった選手が検査ですぐ失格になった出来事からもわかる。だが、広治はクリーンな体で世界の頂点に立ってみせた。薬物使用撲滅に向けて、これにまさる教えはあるまい。

   父が切り開いて耕した未踏の地。それを土台として息子が大きく羽ばたき、さらに大きな成果をもたらした。父は3回出場。息子は4回出場。オリンピックという大目標があったからこそ、それだけのエネルギーをそそぎ続けることができたのだろう。たとえ1人では道半ばでも、オリンピックへの情熱を継承し、技を受け継いでいけば、二代にわたってこれほどのことをなし遂げられるのである。父子の姿を見ていると、オリンピックというものの「受け継いでいく力」を強く感じないではいられない。

 
2016年リオ大会の三宅宏実と父・義行氏 2016年リオ大会の三宅宏実と父・義行氏

   親と子のオリンピックとなると、この例もぜひ挙げておきたいところだ。三宅義行(みやけよしゆき)三宅宏実(みやけひろみ)も父娘二代でみごとな実績を築き上げている。
   1968年メキシコシティー大会のウエイトリフティングで銅メダルを獲得している義行。伯父の義信は1964年の東京と次のメキシコシティーで2つの金を獲得している名選手。女子の歴史はまだ比較的浅いが、トップリフターの姿を間近に見ていた宏実が中学からバーベルを握ったのは、やはり自然な流れだったのだろう。

   オリンピック初出場は18歳で臨んだ2004年アテネ。以来、2016年リオまで4度の出場を果たした。最初の2回は9位と6位だったが、2012年ロンドンで日本初となる銀メダルを獲得し、リオでは銅メダルを獲得した。日本で3組目となる親子メダリストの誕生である。
   彼女のキャリアを振り返ってみると、若くして日本のトップに立っただけでなく、息長く、徐々に力をつけていってメダル獲得に至ったのが印象的だ。それはまさしく、世界の頂点を争った父の経験あってこそだったのではないか。また、腰痛に悩まされたリオで見せた、ここ一番での勝負強さは、伯父の義信を彷彿(ほうふつ)とさせたが、その義信にもオリンピック4大会出場という息の長さがあった。父と伯父の背中を見ているだけでも、いくらも伝わってくるものがあったに違いない。
   どちらかといえば地味なイメージで、目立つことの少ないウエイトリフティング女子。だが、宏実の活躍は多くの後継者を引きつけるはずだ。その点でも父娘の貢献は大きいといえる。

   このほか、体操では塚原光男(つかはらみつお)(1972ミュンヘン、1976モントリオール)、塚原直也(つかはらなおや)(2004アテネ)が父子ともに金メダルを獲得するという快挙をなし遂げている。相原信行(あいはらのぶゆき)(1960ローマ)、相原豊(あいはらゆたか)(1992バルセロナ)も父子メダリストだ。 そしてもう一例。2002年ソルトレークシティ冬季オリンピックのスケルトンで金メダリストになったアメリカのジム・シェイの場合は、祖父も父も冬季大会に出場したオリンピアンだった。雪と氷に燃やす情熱が三代にわたって継承されたのである。 思いも、伝統も、技も、精神も。さまざまな形、さまざまな姿で脈々と受け継がれていくことこそが、オリンピックをオリンピックたらしめている。

 

佐藤 次郎
スポーツジャーナリスト
笹川スポーツ財団 評議員

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