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1964年東京パラリンピック大会     「未来」見据えた最初の一歩

佐藤 次郎           【 レガシー コラム スポーツ 】

車いすを連ねて入場行進するイギリス選手団

   1964年11月8日、終わって間もない東京オリンピックの余韻が残る代々木選手村の織田フィールドに22カ国の車いすの選手が集った。国際身体障害者スポーツ大会、すなわち東京パラリンピックの開会式である。日本からの出場は53選手。出場者を代表して宣誓の大役を務めた青野繁夫選手が大会報告書に残した文には、当時の障害者が抱いていた思いを象徴するような言葉が連なっている。

 
名誉総裁を務められた皇太子殿下・美智子妃殿下
(当時)

  「…このパラリンピックを機会に、他の多くの人々に私達の現実を本当に理解していただき、実際の政治が二歩も三歩も向上飛躍してもらわなければどうしようもないという心からの宣誓であった…」 「外国の選手のあの明るさは何処から来ているのか…日本の現状は所謂先進国との差が有りすぎるような気がしてならない」 「パラリンピックは幾多の体験を私達に与え、又心の奥まで浸み込ませてくれた…全国の障害者が幸福な明るい生活を送れる日の一日も早く訪れる事を、信じたい」

 

 53人はほとんどが国立病院・療養所の患者や訓練生で、仕事をしていたのは自営の5人だけ。スポーツの経験もなく、この大会のために短い練習期間で間に合わせていた。一人で外出もかなわず、ましてスポーツなどとはまったく縁がないというのが、当時の障害者たちが置かれた状況だったのだ。  そこに風穴を開けたのが東京パラリンピックだった。のちに国際パラリンピック委員会が誕生し、第2回パラリンピックと認定されたが、この大会では当時からパラリンピックという造語が独自に使われていたのが象徴的だ。日本の障害者スポーツとパラリンピック運動は、ここから前進を始めたのである。
 そして、最初の一歩を踏み出すのに大きな役割を果たしたのは一人の医師だった。

1964パラリンピック東京大会公式ポスター 1964パラリンピック東京大会公式ポスター

  九州大学医学部で学び、郷里である大分県別府市の国立別府病院で整形外科科長を務めていた中村裕が、日本では始まったばかりのリハビリテーション研究のために英国・ストークマンデビル病院を訪ねたのは1960年5月。第二次大戦の傷病兵のためにつくられた国立脊髄損傷センターでルードウィヒ・グットマン博士に出会ったのが、中村を日本の先駆者としての道へと導くことになる。
  ドイツ出身のグットマン博士は、脊髄損傷の治療とその後の社会復帰訓練にスポーツを取り入れるという画期的な手法で驚くほどの成果を挙げていた。1948年からは院内でストークマンデビル大会を毎年開いてもいた。48年、戦後初のオリンピックとなったロンドン大会に合わせ、アーチェリー競技を行った第1回こそがパラリンピックのルーツだ。
  そこで中村は、「重度の障害のある脊損患者の85パーセントが6カ月で社会復帰する」という、当時の日本では考えられない実績を目のあたりにした。その時の思いを中村は著書で明快に語っている。 「私は、このストークマンデビルではじめて一つの大きな目標を与えられたように思った。グットマン博士の『手術よりスポーツ』という治療方針も、リハビリテーション医学として最も正しいことが理解できた」

 
日本における“パラリンピックの父”中村裕博士 日本における“パラリンピックの父”中村裕博士

  帰国した中村は並外れた実行力を発揮した。医師としての仕事の一方で、障害者スポーツにかつてない道を次々と開いていったのだ。翌61年、大分県身体障害者体育協会を設立し、すぐさま第1回体育大会を開いた。「無茶なことを」「選手がけがをしたらどうする」と批判があっても動じなかったのは、「これは間違いなく患者のためになる」の確信があったからだろう。

 62年に2人の選手を連れてストークマンデビル大会に出場した際には、自ら金策に奔走し、自分の車も売って費用の足しにした。63年にもオーストリアで開かれた国際大会とストークマンデビル大会に選手を連れていった。こうした精力的な実践がさらに大きな波を起こすことになる。中村の活動を高く評価していたグットマン博士らの求めもあり、64年の東京オリンピックの後に同じく東京でパラリンピックを開く運びとなったのだ。

 
東京パラリンピック閉会式(1964年) 東京パラリンピック閉会式(1964年)

  大会で選手団長を務めた中村は、開会式で宣誓をする青野選手の後ろに立ち、感慨をかみしめた。ストークマンデビルの競技会が国際大会となり、このパラリンピックともなったというのが一連の流れだが、それが欧州以外で開かれたのは東京が初めてだった。日本身体障害者スポーツ協会も生まれ、多くの人々の手によってこぎつけた開催だったとはいえ、中村が推し進めた数々の具体的活動が最大の原動力だったのは間違いない。その時37歳。若き医師の情熱が日本のパラリンピック運動の扉を開いたのである。

  冒頭で触れた選手たちの思い、悩みや不安と、希望と期待とが交錯する思いは中村も同じだった。「金メダル1個だけというのは寂しい」「外人選手は筋骨たくましい。顔色も明るい。それに対して日本選手は弱々しく、顔色も暗い」と著書に書いているように、取り組まねばならない課題はいくらもあった。おそらく中村をはじめとするすべての関係者は、長い旅路を覚悟したに違いない。が、その時、彼らは進むべき未来をはっきりと見つめたのである。



佐藤 次郎

スポーツジャーナリスト
笹川スポーツ財団 評議員

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