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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

1964年東京大会が日本のスポーツに残したもの

【オリンピック・パラリンピックのレガシー】

2016.08.31

愚直に世界と向き合った

晴れ上がった東京の空に飛行機による五輪が描かれた(1964年)

晴れ上がった東京の空に飛行機による五輪が描かれた(1964年)

およそ半世紀ほど前まで、日本のスポーツ界にとって、「世界」というものは長らく曖昧なままだったのではないかと思う。世界の強豪とはどれほどのものなのか。世界ではどんな練習をしているのか。世界の中で日本の力はどこに位置するのか。極東の島国としては、わかっているつもりでいながらも、実のところはその「世界」なるものをはっきりとつかんではいなかったのではないだろうか。

もちろん戦前から日本は国際舞台で活躍していた。オリンピックでも競泳などで好成績を挙げてきている。とはいえ、当時はまだどの分野でも真の国際化は見られない。さらに戦火と敗戦が長い空白をもたらした。やっとオリンピックに復帰を許された1952年のヘルシンキ大会。当時の体操代表選手の「何もわからず、五里霧中」の言葉がすべてを語っている。いったん近づいたように見えた「世界」は、またしても遠い存在になっていたのだ。

が、その空白を一気に埋める、またとない機会がやって来た。東京オリンピックである。

東京オリンピックの開会式で入場する日本選手団(1964年)

東京オリンピックの開会式で入場する日本選手団(1964年)

日本の国にとっても、またスポーツ界にとっても、それは絶妙のタイミングだったといえる。高度成長期の入り口で経済は上向きとなっており、とはいえ戦争が終わってまだ間がなく、人々は何より復興を願っていた。敗戦が、世界に追いつきたいという思いをより強めていた。そこにやって来たオリンピックである。復興のためにも、国際社会で認めてもらうためにも、スポーツ界は否応なく世界と戦う準備をしなければならなかった。そこで、何より価値あるレガシーが残ることとなったのだ。

いくつかのチーム競技の例を見てみよう。たとえばホッケー。戦後、初めてオリンピックに出た60年のローマでは予選で負け続け、強豪パキスタンとの試合はなんと0-10だった。この屈辱は手ひどくホッケー界を打ちのめした。

だが、しょげてばかりはいられなかった。自国開催の五輪が迫っている。彼らは打てる限りの手を打った。まず選手を思い切って若手に切り替え、頻繁に合宿を行って代表を絞り込んだ。当時は珍しかった海外遠征を何度も繰り返し、強行日程で貪欲に試合を重ねた。それはまさしく武者修行の旅だった。

協会は必死に資金を集め、可能な限りの強化策を模索した。大学生がほとんどの若い選手もそれにこたえ、留年もいとわずに練習に没頭した。皆が「東京オリンピックでなんとしても好成績を」の一念のみで、言い換えれば素朴な自負と責任感と情熱だけで、世界の壁に立ち向かったのである。

東京大会では予選で3勝3敗。順位決定戦で敗退はしたが、パキスタンとは0-1と対等に戦った。屈辱は拭い去られた。実質3年あまりの短い期間で、素朴な情熱が確かな成果を生んだのだった。

バスケットボールもローマでは予選全敗、最下位という結果に終わった。絶対的な身長差と技術の落差を思い知った日本のバスケットは、「できることをやり尽くすしかない」と決意する。ナショナルチームを常設し、アメリカのコーチを招き、海外遠征で経験を積んだ。個の力ではなく、連携で相手を崩していく独自のスタイルもつくった。10位ではあったが、全9戦で4勝を挙げ、強豪・イタリアを破りもした東京大会。絶望的とも思える体格差を4年間で埋めてみせたといえるだろう。

よく知られた例としてはサッカーがある。ローマの時はアジア予選突破もできなかったのを、ドイツのコーチ、デットマール・クラマー招聘からの抜本的な改革で劇的に変え、東京ではアルゼンチンを破るという殊勲を生んだ。それが次の五輪で奇跡の銅メダル獲得につながるのは、あらためて語るまでもない。

日本が2連覇を果たした体操男子団体総合の表彰式(1964年)

日本が2連覇を果たした体操男子団体総合の表彰式
(1964年)

こうして振り返ってみると、東京大会がいかに日本のスポーツを大きく前に進めたかがよくわかる。

自国開催は、目を見開いて世界の厳しさと向き合うしかない状況をつくった。その差を埋めるための近道はなく、一からやり直していくほかはない。世の中がまだ単純素朴な色合いを残していた時代。どの競技でも関係者は一丸となって愚直に努力を重ねた。こうして日本のスポーツ界は確かな土台を築いたのである。

長く曖昧なままだった「世界」に初めて真っ正面から向き合った日本のスポーツ。ここで初めて、名実ともに世界の仲間入りをしたと言ってもいい。スポーツの発展に欠かせない「国際化」が遅れれば、スポーツ界全体の発展も遅れることになる。東京オリンピックが残したのは16個の金メダルや、感激と興奮の思い出だけではない。それは日本のスポーツに真の夜明けをもたらしたのだと言っていい。オリンピックの自国開催とは、ほかでは絶対あり得ない成果、すなわち最高最大のレガシーを残してくれるというわけだ。

ただ、ひとつ言っておかねばならない。東京大会がはかりしれないレガシーをもたらしたのは、時代や世相がぴたりと合っていたからだ。世の中が求めるものは移り変わっていく。2020年TOKYOが、1964年TOKYOとはまったく違う時代にある以上、オリンピックを通して何を実現すべきかを、我々はあらためて一から考えねばならない。

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スポーツ歴史の検証
  • 佐藤 次郎 スポーツジャーナリスト

    1950年横浜生まれ。中日新聞社に入社し、同東京本社(東京新聞)の社会部、特別報道部をへて運動部勤務。夏冬6 回のオリンピック、5 回の世界陸上選手権大会を現地取材。運動部長、編集委員兼論説委員を歴任。退社後はスポーツライター、ジャーナリストとして活動。日本オリンピック・アカデミー(JOA)正会員。ミズノ・スポーツライター賞、JRA馬事文化賞を受賞。著書に「東京五輪1964」(文春新書)「砂の王 メイセイオペラ」(新潮社)「義足ランナー 義肢装具士の奇跡の挑戦」(東京書籍)「オリンピックの輝き ここにしかない物語」(東京書籍)「1964年の東京パラリンピック」(紀伊国屋書店出版部)など。