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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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カヌー騒動からフェアプレーを考えた

【オリンピック・パラリンピックのレガシー】

2018.03.02

1988年ソウルオリンピック陸上男子100mではベン・ジョンソンがドーピングで失格になった

1988年ソウルオリンピック陸上男子100mではベン・ジョンソンがドーピングで失格になった

ふつう、ドーピングといえば、選手自らがおのれの身体を強くしたり、瞬発力や持久力を高めたりするために手を染めるものと思いがちである。しかし、2018年初頭に発覚したカヌー競技の選手によるライバル選手の飲料に禁止薬物を混入させた〝事件〟は、改めて〝常識〟を覆してくれた。

事件を引き起こした選手は日本のトップクラスの選手ではあっても、トップ選手ではない。念願の2020年東京オリンピック出場には、それほど近い位置にいなかった。上位選手にドーピングのぬれぎぬを着せれば、一歩階段をあがることができる。浅はかとしか言いようのない考えが、重大な違反を引き起こしたわけである。

しかも、ターゲットとした選手は自分を慕っている後輩。その心の隙につけ込んだ行為は卑劣としか言いようはない。  彼の妻は同じ競技のオリンピアンであり、妻の父もまたカヌーのオリンピック選手であった。義父が経営するスポーツクラブに勤務し、恵まれた環境で練習に励む。一見、理想的なようだが、その実、強いプレッシャーを感じていたことは否定できまい。一度は現役を退きながら、再び競技の場に戻ってきた背景であり、しかも舞台は東京である。

東京という場で、日本中の声援を一身に浴びて試合に臨む。日本人アスリートならば最高の夢の実現となる。事件の原因を「東京大会」に求める声があがった。

かりに、そうだからといっても許される行為ではない。まして、実際に事を起こしたのは彼ひとりだ。彼の心の弱さこそが要因であり、決して東京大会の責任ではない。

ドーピング検査に使用される検体

ドーピング検査に使用される検体

こうしたドーピングや体罰、暴力行為、セクシャルハラスメントやパワーハラスメント、あるいは違法賭博や反社会的勢力との接触など、アスリートの周囲には不祥事の種がばらまかれている。そして、事が起こるたびに組織の指導がやり玉にあがり、コンプライアンスやガバナンスが問題視される。

しかし、組織はただ手をこまねいてきたわけではない。選手を集めては講習会や研修会を開き、その都度、意識を喚起している。それが十分ではないといえばそれまでだが、四六時中、選手1人ひとりの行動を監視するわけにもいかない。ようは選手個々人の「心構え」に頼らざるを得ない。

話をカヌーの騒動に戻せば、禁止薬物を自らの飲料容器に注入された選手は被害者である。発覚後、記録と成績は取り消され、何よりも資格停止処分をうけた。当然、彼を支援する企業や応援する人たちにも迷惑をかけただろう。身に覚えのない違反に動揺し、うけた心労はいかばかりだったか。それがトラウマにならなければよいが…と心底思う。

そんな彼には酷な話になるが、いってしまえば、自らの行動にもっと注意深くあるべきではなかったか。日本ではこの種の問題への意識、関心は高くはなく、今回も驚きをもってみられた。だが、国際舞台では選手個々が自ら口にするものを自身で管理することは当然であり、義務とみなされる。だからトップ選手であるほど、厳格に対処している。

世界反ドーピング機関(WADA)のドーピング防止規定では、以下の行為をアスリートの厳格な責任として定められている。

  1. 自ら摂取するものについて責任を負う
  2. 医師の選定および医師に禁止物質を投与しないよう伝達すべき責任を負う
  3. 自己の飲食物へ接触を許している人の行為について責任を負う

おのれの責任ばかりか、身を委ねる医師に対してまで伝達責任を問う。そこまで厳しくしなければならないのかと思うのは、性善説に裏打ちされた日本人だからかもしれない。国際社会は、コンプライアンスやガバナンスに関わる問題には性悪説で対処している。注意に注意を重ねるべしと教える。

いまや、選手が企業と契約を結び、そのスポンサードによって活動することは〝常識〟である。商品を守るためにも、自己と自己の周辺を厳格に管理することは当然だとの考えは、むしろ当然なのかもしれない。

日本では企業所属の選手はおろか、プロ契約を結ぶ選手であっても、監督やコーチに言われるがまま動くことが「ふつう」である。だが、考えてみれば、そうした行動が極端に働けばロシアの国ぐるみ、組織ぐるみドーピングの二の舞になりかねない。もっともロシアが性善説の国であるはずもないが…。

国際オリンピック委員会(IOC)は2014年末に採択した「アジェンダ2020」で、ことさら「クリーンな選手を魔の手から守る」と強調した。現在、それだけ問題が多い証しであり寂しい限りだ。しかしそれが、スポーツ界が置かれている状況でもある。

スポーツの語源をたどれば「気晴らし」であり、「気分転換」にいきつく。本来は「面白さ、楽しさ」を基本とし、そこに体と心を「鍛える」要素が加わる。さらに「競う」ことを含めた技量の向上と、競技を通して相互に「わかりあう」、あるいはチームで「協力しあう」といった要素が盛り込まれる。

そこから「スポーツの価値」が生まれ、価値を守るための「高潔」が求められる。ひところ話題になった「スポーツ・インテグリティー」である。

その根本にあるのが、ルールやマナーを守り、卑怯な振る舞いや反則をしないというフェアプレーの精神であり、スポーツマンシップなのである。

戦いが終わった後、健闘を讃えあう“スポーツマンシップの精神”

戦いが終わった後、健闘を讃えあう“スポーツマンシップの精神”

では、フェアプレーの神髄とは何なのか?

最近、多発するスポーツ界の不祥事にそれを思うことが多い。

オリンピックによく知られた格言がある。「重要なことは勝つことではなく、参加することである」。これは1908年ロンドン大会で勝敗をめぐって対立が激化したイギリスとアメリカ、両国の選手に向かってペンシルベニア司教タルボットが諭した言葉だった。当時、IOC会長のピエール・ド・クーベルタンが引用して広まっていった。

1964年東京オリンピックの開会式で電光掲示板に写しだされたクーベルタン男爵の引用文

1964年東京オリンピックの開会式で電光掲示板に写しだされたクーベルタン男爵の引用文

クーベルタンの引用には続きがある。

「人生において重要なことは成功することではなく、努力することである。本質的なことは勝ったかどうかにではなく、よく戦ったかにある」

ただ参加すればいい、というのではない。「全力で戦う」ことが重要だと説いている。

全力とはドーピングや八百長などの不正を行わない、ルール違反や卑怯な振る舞いなどをしないことが前提となる。正々堂々戦うために、それらは守られなければならない。

こんなあたりまえの話を、いま一度、かみしめてみる必要があるように思う。

スポーツに勝敗はつきものである。勝ち負けのないスポーツなどありえない。だから米・英両国選手の対立も際だったわけだが、しかし「競う」という要素を抜きに、スポーツは語れない。

一時、小学生の短距離走で「手をつないでゴール」することを奨励する向きがあった。スポーツが何たるかを理解できない者の〝戯言〟である。「機会の平等」と「結果の平等」とを一緒くたにしてはならない。

スポーツには勝つ喜びがあり、勝ってさらに上手になりたいと思う。負けると悔しい。悔しいから、次は勝ちたいと努力する。それが自然な姿であり、そこにスポーツをする価値が生まれる。そのためにも、スタートは平等でなくてはならない。ドーピングやルール違反は厳しく取り締まらなければならない。

一方、勝った者の傲った振る舞いは戒められなければならない。逆に、負けた者が勝者に敬意を表さず、ぶぜんとした態度でい続けることも慎むべきである。

スポーツ界にはこんな言葉もある。

「Be a hard fighter and a good loser」

「果敢なる闘士であればあるほど、その潔き敗者であれ」と訳せばよい。潔い敗者であることは難しいが、しかし潔い敗者をたたえることはすぐにもできる。それは、勝利至上の風潮への歯止めともなろう。

全力で戦い、潔い敗者たれ。先人の言葉にフェアプレーの神髄がある。

1984年ロサンゼルスオリンピック柔道無差別級決勝・山下泰裕対ラシュワン戦

1984年ロサンゼルスオリンピック柔道無差別級決勝・山下泰裕対ラシュワン戦

フェアプレーというと、1984年ロサンゼルス・オリンピック柔道無差別級決勝の山下泰裕選手とエジプトのモハメド・ラシュワン選手の戦いがしばしば例にあがる。右足を痛めた山下選手に対し、ラシュワン選手がその右足を攻めることなく戦った。それがフェアプレーだと称賛された逸話である。

じつは、それは都市伝説に過ぎない。ラシュワン選手は開始早々、右足を攻め、空振りして左足を攻めたところを、山下選手に返されて横四方に固められた。それが真実である映像が残り、山下選手も証言している。

ラシュワン選手を称賛するべきところは、そこではない。彼は試合を長引かせ、右足が痛い山下選手を疲れさせてから攻めてもよかったにもかかわらず、真っ向から勝負をかけた。そして、敗れた後には歩くことも難しい山下選手に肩を貸し、表彰台で大きな体を支えた。それが素晴らしく、潔い敗者を体現してみせたのである。

われわれは、きちんと史実を後世に語り伝えていく責務がある。同時に、同時代の人たち、未来を担う子どもたちに「スポーツの価値」とその根本であるフェアプレーの精神、スポーツマンシップを理解してもらう努力を続けなければならない。それがまた、不正や違反をなくす「第一歩」のように思う。

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スポーツ歴史の検証
  • 佐野 慎輔 尚美学園大学 教授/産経新聞 客員論説委員
    笹川スポーツ財団 理事/上席特別研究員

    1954年生まれ。報知新聞社を経て産経新聞社入社。産経新聞シドニー支局長、外信部次長、編集局次長兼運動部長、サンケイスポーツ代表、産経新聞社取締役などを歴任。スポーツ記者を30年間以上経験し、野球とオリンピックを各15年間担当。5回のオリンピック取材の経験を持つ。日本スポーツフェアネス推進機構体制審議委員、B&G財団理事、日本モーターボート競走会評議員等も務める。近著に『嘉納治五郎』『中村裕』(以上、小峰書店)など。共著に『スポーツレガシーの探求』(ベ―スボールマガジン社)『これからのスポーツガバナンス』(創文企画)など。