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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

セミナー「子供のスポーツ」
次世代の架け橋となる人びと
第52回
日本女子サッカー界の歩みと共に

高倉 麻子

日本の女子サッカー界の歴史を作り上げてきた先駆者の一人、高倉麻子氏。

サッカーとの出合いは小学4年生の時でした。それ以降、36歳までサッカー一筋の人生を歩み、第1回アジア選手権、第1回W杯、初採用のオリンピックと、世界の女子サッカー界の歴史の幕開けに立ち会いました。現役引退後は、アンダー世代の指揮官として経験を積まれ、2014年にはU-17女子ワールドカップで初優勝に導きました。
そして今年、「なでしこジャパン」の愛称で親しまれているサッカー日本女子代表の監督に就任。これは日本のサッカー界では初めてとなるトップカテゴリー代表チームの女性監督です。

そんな常に歴史の一歩目を進んできた高倉氏に、日本の女子サッカー界における過去、現在、そして未来についてお話を伺いました。

聞き手/山本浩氏  文/斉藤寿子  構成・写真/フォート・キシモト

現在はフラットに見る助走期間

AFC女子U-16選手権で指揮をとる(2013年)

AFC女子U-16選手権で指揮をとる(2013年)

―― 今年4月に「なでしこジャパン」の監督に就任しましたが、それだけでなくさまざまな年代のカテゴリーに関わっていますから、さらに忙しい日々を過ごされているのでは?

これまでずっと、12、13、14、15、16、17、18とアンダー世代の子たちを見てきましたので、自分としてはそれに「なでしこ」が加わったという感じでいますね。自分自身が選手育成に関心が高いので、なでしこの監督になっても、できるだけ幅広く選手を見るようにしています。

―― 9月には、千葉県でなでしこジャパン候補選手の合宿が行われました。2019年フランスW杯、あるいは2020年東京オリンピックに向けて、なでしこジャパンが助走に入ったという感じでしょうか。

そうですね。まずは、できるだけ早く私自身が現状を把握するということが大事だなと思っています。初めて女子の日本代表チームが結成された自分たちの時代から、後輩たちがなでしことして世界一になって、日本女子サッカー界は、とてもいい流れで、ここまで来たと思います。その間、ずっと試合を見てきましたし、選手たちもよく知っていますが、やはり外から見ていたなでしこと、実際に中に入って見るなでしことでは、違うだろうと。なので、まずは先入観を持たずに、フラットに選手たちを見るようにしています。その中で、なるべく早く、不要なことは取り除いて、必要なことは取り入れていくという作業をどんどんやっていきたいと思っています。

―― 実際に内側からなでしこジャパンを見てみて、何か感じられるものはありましたか?

日本のサッカー自体が、この20年間で、状況も環境も大きく変化しましたよね。若い選手たちにしてみれば、サッカーを始めた当初からJリーグがあって、サッカーというスポーツが盛んな国に生まれ育ったわけです。一方で、これまでなでしことして活躍してきた選手というのは、厳しい環境の中で、自分自身で技術を身につけ、環境を得てきたという気持ちがあると思います。そういう感覚の違いが、世代によってあるなというのは感じています。

なでしこジャパン監督就任

なでしこジャパン監督就任
(中央、右は田嶋JFA会長)(2016年)

―― これからはそういう異なる感覚の選手たちが入り交じって、一つのチームを作らなければいけないわけですね。その中で、世界に対して日本はどういうふうに対抗していくべきだと思われますか?

私たちの世代が特にそうだったと思いますが、日本人には外国人に対してのコンプレックスが何かしらあると思うんです。欧米人の方が何かと優れていると思ってしまう傾向があって、だから欧米人に何か強く意見されると「あぁ、そう ですね」と言ってしまうようなところがある。でも、私自身はコンプレックスは感じない方なんです。日本には日本の良さが、とても沢山あると思っているので、そこをうまく引き出していきたいなと思っています。


野球から一転、サッカーへ

―― 高倉さんはサッカー一筋かと思っていたら、実は子どもの頃最初に始めたスポーツは野球だったそうですね。

私が子どもの頃に流行っていたスポーツと言えば、やっぱり野球だったんですよね。両親もプロ野球が好きで、いつもテレビではプロ野球中継を観ていましたし、私自身も大の巨人ファンでした。

―― 幼少時代から、スポーツは得意だったんですか?

得意でしたね。走ればいつも一番でしたし、とにかく体を動かすことが大好きで、遊びと言えば野山を駆け回ったり、川にジャブジャブ入ってザリガニを取ったり……。だから友達は男の子ばかりでした(笑)。小学校2年生か3年生の時に、クラスで野球チームを作ったのを覚えていますね。その頃の将来の夢はプロ野球選手で、漫画の『野球狂の詩』に出てくる水原勇気(女性プロ野球選手)になると、勝手に思っていました。

―― そんな高倉さんが、サッカーを始めたきっかけは何だったのでしょうか?

通っていた小学校には、4年生から入れるスポーツ少年団がありました。それで4年生になった時に、野球をやっていた友達が、物珍しさもあって、ほとんどみんなその少年団のサッカーチームに入ったんですね。そしたら、放課後に遊ぶ人がいなくなってしまって、「じゃあ、私も入る」と。そしたらサッカーチームの先生に「本当にやるの?」って聞かれたんです。特に男の子限定となっていたわけではありませんでしたが、当然、男の子を対象としてサッカーチームを作ったでしょうから、先生もビックリしたと思います。でも、私が「入ります」って言ったら、「よし、じゃあいいよ」と言ってくれました。もし、その先生に「女の子はダメ」と言われていたら、その後の私のサッカー人生はありませんでした。だから、先生にはとても感謝しています。

小学生時代、仲間と

小学生時代、仲間と

―― 実際にやってみて、楽しかったですか?

ボールを足で扱う感覚が初めてだったのもありましたし、とにかく野球以上に動き回るというのが楽しかったですね。それと、だんだんとボールがうまく扱えるようになって、ドリブルで人を抜いたりするのも楽しくて、すぐにのめりこみました。

―― 試合にも出ていたんですか?

5年生から試合にも出ていました。小学生の時は、男の子よりも女の子の方が体の発育が早いというのもあったかもしれませんが、男の子の中にあっても、チームでは結構巧い方だったんです。


中学時代から週末は東京へ

―― 中学時代には、福島から東京のチームに練習に通っていたということですが、もっとうまくなりたいという思いからですか?

小学校時代は、ずっと男の子と一緒にやっていたのですが、やっぱり中には「女のくせに生意気だ」と言って意地悪するような男の子もいたんですよね。スポーツ少年団は最後まで続けましたが、さすがに中学校では男の子ばかりのサッカー部に入るのは難しいなと。当時は女子サッカーなんてものはなかったので、そうすると続ける術がなくなってしまって、中学では最初、ソフトボール部に入りました。でも、サッカーに比べるとつまらなかったんです。先輩、後輩の訳の分からない上下関係が全く理解できなかったですし、サッカーと違って「待つ」ということが多いのがダメで、1学期で辞めてしまいました。それから何もすることがなくて、家で「つまらない!サッカーがやりたい!」と言っていたら、母がサッカーの雑誌で「女子選手募集」というのを見つけてきてくれました。当時、東京では少しずつ女子チームができていて、その一つ「FCジンナン」というチームが選手を募集していたんです。そこで週末、月に1回でも2 回でもボールを蹴れれば、という感じで入りました。

小学生時代、サッカーを始めたころ

小学生時代、サッカーを始めたころ

―― 当時にしてみれば、福島の中学生が東京に通うというのは大変珍しかったのでは?

そうかもしれませんね。ただ、母の実家が東京だったので、夏休みとかにはよく行っていたんです。それもあって、私の家族には、「東京が遠い場所」という感覚は特になかったのだと思います。でも、今考えると、よくうちの両親も出してくれましたよね。本当にありがたいなと思います。

―― あの頃は、特急で3時間以上かかったのでは?

上野まで3時間15分だったと思います。始めの2、3回は母親も一緒に来てくれましたけど、そのうちに一人で行くようになって、よく上野駅で「家出少年」と間違われました(笑)。駅員さんや婦人警官に、「何やっているの?」ってよく止められましたね。「サッカーです」って答えながらカバンの中からスパイクやボールを出すと、怪訝そうにしながらも「そうか。気を付けて帰りなさい」って(笑)。大きなカバンを背負って、野球帽をかぶっているもんだから、男の子か女の子かわからなかったと思いますね。

―― FCジンナンでは、すぐにレギュラーになれたんですか?

大学生や社会人ばかりでしたが、私は足も速かったですし、女の子で小学生からサッカーをやっていた人は少なかったので、入ってすぐに試合にも出させてもらえるようになりました。「女子がサッカーなんて」という時代に、わざわざサッカーをやるくらいですから、面白い人が多かったですよ。東大生もいましたし、婦人警官もいましたね。変な人たちの集まりでした(笑)。

インタビュー風景

インタビュー風景(2016年)

―― その頃、将来はサッカーでという思いはありましたか?

全くなかったです。当時は、とにかくボールを蹴っていることが楽しくてやっていただけで、将来のためにとかっていう考えは全くありませんでした。もちろん、両親も「将来のために投資している」ということで東京に出させてくれていたわけではなく、「好きなことをやらせてあげたい」という、ただそれだけだったと思います。

―― 高校時代には、男子校のサッカー部で練習をしたそうですね。

はい。サッカーは続けたいとは思っても、当時はとにかく女子がサッカーをする環境を見つけることが大変でした。それで、色々と探していたら、小学校の時にスポーツ少年団でお世話になった先生が、福島工業高校のサッカー部の顧問と知り合いで、私のことをお願いしてくれたんです。それで、平日は学校の授業が終わると、毎日自転車で30分くらいかけて工業高校に行って、一緒にボールを蹴らせてもらっていました。ただ、自分のところにボールが回ってくることはほとんどなかったですし、やはり男子と比べると当たりが弱かったですから、正直そこではただ走っていることの方が多くて、技術のレベルアップのための練習というのはなかなか難しかったですね。

サッカーをやめて就職の道を考えたことも

第1回日本女子サッカーリーグで初得点をあげる

第1回日本女子サッカーリーグで
初得点をあげる(1990年)

―― 世界に影響を受けたのはいつ頃ですか?

中学3年で初めて日本代表に選ばれて行った中国遠征が、私にとって初めて経験した「世界」でした。イタリアやアメリカのチームと試合をしたのですが、出場の機会を与えられても、激しい当たりに簡単に飛ばされてしまって、「こんな世界があるんだ」と思いました。と同時に「早く巧くなって、こういう世界のレベルで自分が活躍して勝ちたい」という強い思いを抱いて帰国したのを覚えています。ただ、日本に戻ると、なかなか自分の思い通りの練習ができなくて、高校時代は悶々とした日々を送っていました。かといって、当時の日本に女子がサッカーを思い切りできる環境があったかと言うと、ありませんでした。東京などにはチームはあっても、細々とやっていただけでしたので。ですから、未来に向かってとか、目標があってというわけではなく、とにかく「今、巧くなりたい」という気持ちしかなかったですね。

―― その後、日本の女子サッカーの先駆け的存在でもある読売日本サッカークラブ・ベレーザ(現日テレ・ベレーザ)に入団されました。

高校に入っても、週末は中学の時から入っていたFCジンナンで活動していたのですが、決まった練習場所もなかったですし、指導者も大学生や社会人のお姉さんたちがやってくれていて、専任ではいませんでした。その点、ベレーザは専用グラウンドがあって、専任の監督もいましたし、同じ読売クラブの男子のトップチームは「プロとしてサッカーで飯を食うんだ」という意識があって、やっぱりそういうところで自分もやりたいなと。そしたら声をかけてもらったので、高校2年の時に移籍しました。

―― ジンナンの時との違いはありましたか?

ジンナンもすごく一生懸命に練習するチームだったのですが、やっぱりベレーザの選手たちのサッカーに対する意識は高かったですね。男子並みに、「相手の足を削ってでもボールを取りに行く」というような執着心とか、「自分たちのスタイルで世の中に出て行くんだ」という熱い思いをみんなが持っていました。とは言っても、当時はまだ女子のリーグはなかったですし、W杯やオリンピックはもちろん、アジア大会もなかったですから、「将来に向けて」という気持ちはありませんでした。

第1回日本女子サッカーリーグで初得点をあげる(1990年)

第1回日本女子サッカーリーグで初得点をあげる
(1990年)

―― 将来が考えられないサッカーに熱中していることについて、ご両親は心配されなかったですか?

両親は「自分の好きなことをやりなさい」という感じで、特にうるさく言うこともなかったのですが、大学生くらいになると、周囲からは「いつまでサッカーやっているの?」と言われることが多くなってきて、その時は「わからない」と答えるしかありませんでした。

大学3年頃になると、自分でも「さすがに考えないといけないよなぁ。やっぱりサッカーをやめて、就職しないといけないかなぁ」と真剣に考えるようになりましたね。でも、「じゃあ何をするか」って考えると、何もありませんでした。そしたら、ちょうどその年に日本女子サッカーリーグが設立されたんです。

その2年後の1991年には、まず5月に初めて公式の国際大会としてアジア選手権が行われ、同年11月にはW杯の前身となる世界選手権が行われました。そうした動きもあって、卒業後も自然とサッカーを続ける道を歩んだ感じでした。

広島アジア大会、日本代表として活躍(1994年)

広島アジア大会、日本代表として活躍
(1994年)

ベテラン時に訪れたピーク

―― 1990年代に入って、世界における女子サッカー界の状況が大きく変わったわけですね。
その頃の日本のレベルはいかがでしたか?

正直言って、世界のトップと日本とではレベルの差が結構ありました。だからトップに挑んで勝つというよりかは、なんとか世界大会のステージに食い込んでいきさえすれば、日本でも女子サッカーを認めてもらえるのではないかという気もちでやっていたと思います。

その頃は、世間や日本サッカー協会からは全く注目されていませんでしたから、世界に行くことで、日本女子サッカーをアピールして歴史を作りたいという思いが強くありました。ですから、まさか自分が生きている間に、日本が世界一を取るだなんて、夢にも思っていませんでした。

ただ、自分の中では世界と戦う中で「日本人にも世界に通用するものがあるはずだ」という思いは、当時から持っていました。フィジカル的な部分ではどうしても叶いませんから、同じことをしていては勝つことはできません。でも、テクニックの部分では日本はいいものを持っていましたし、連携とか組織的な部分を上げていけば勝てるのではと。
ただ、そう思いながらも、現実は全く勝てなくて、壁にぶち当たっては倒れてばかりいましたね。それもそのはずで、今、当時の映像を見るとわかるのですが、単に個人で動いているだけで、チームとしての戦略がなかったんですよね。指導者がどうのとかではなく、その頃の日本のサッカー界には戦略・戦術がきちんと整備されていなかったのだと思います。だから海外にフィジカル的なサッカーをされると、もう太刀打ちできない。代表としては、そのまま終わってしまって、今でも悔しい気持ちがあります。

アトランタオリンピックに日本代表として出場(1996年)

アトランタオリンピックに日本代表として出場 (1996年)

―― 代表としては、消化不良のまま終わってしまったと?

そうですね。1996年アトランタオリンピックを最後に、代表からは遠ざかってしまいました。でも、サッカー選手として脂がのり始めたのは、それ以降でした。代表に選出されなくなった28歳から、ケガをするまでの32歳までの間ですね。ようやくサッカーというものがわかるようになってきた時期で、頭と心と体がピッタリとフィットしていました。だから次に何が起こるのかが手に取るようにわかりましたし、その通りにプレーすることができていたんです。そういう自分が一番充実していた時期に、代表として世界で戦うことができなかったのは残念でしたね。

―― 36歳まで現役を続けたというのは、女子としては稀なケースだったのでは?

はい。同世代はアトランタが終わって、代表チームが若返りを図った時に、ほとんど全員が現役をやめてしまいました。サッカー以外でも、当時の女子選手はみんな25歳になると「やめて当然」みたいな空気がありましたから、私自身も周囲から「いつまでやっているの?」という目で見られていたのはすごく感じていました。

アトランタオリンピック(後列右端)(1996年)

アトランタオリンピック(後列右端)(1996年)

―― そんな中、31歳でアメリカに渡りました。

アトランタオリンピックが終わって、90年代後半になると、景気の悪化に伴い、企業が女子サッカーから撤退するようになって、リーグ自体もガタガタになってしまいました。専属契約でプレーできる選手はほとんどいなくなってしまって、みんな夕方まで普通に勤務しながら週末にサッカーをやるという状態でした。その頃、私は30歳になっていたのですが、すごく充実していて、モチベーションがとても高かったんです。
「まだうまくなれる」とも思っていましたしね。ちょうどその頃にアメリカでプロリーグができるという話を聞いて、チャレンジしようと。それで31歳の時にアメリカに渡りました。でも、不運なことに練習中に前十字靭帯を切ってしまいました。それまでケガとは縁がなかっただけに、すごくショックでしたね。結局、半年くらいで帰国せざるを得ませんでした。

―― そんな大きなケガをしながらも、引退せずに、現役復帰を果たしたところが、さすがです。

ケガをしたことは仕方ないと思ったのですが、そのままで終わりたくはありませんでした。もう一度ピッチに立とうという思いでリハビリをして、33歳の時に復帰をしました。でも、ピッチに立つだけでは満足できなくて、今度は「ベストパフォーマンスができるところまで戻したい」という思いが出てきて、結局、36歳まで続けました。自分自身、やり切ったという思いがあったので、納得の引退でした。


今も忘れられないボランティアの姿

国際試合でU-17ワールドカップ優勝報告(2014年)

国際試合でU-17ワールドカップ優勝報告
(2014年)

―― 現役引退後は、指導者としての道を考えられていたんですか?

いえいえ、全く考えていませんでした。自分は指導者には全く向いていないと思っていましたので。それに、小学生の頃からずっとサッカーばかりでしたから、何か違うことをやりたいなという思いもありました。実はデザイナーの勉強をしようかなと考えたこともありました。昔から図工とか美術とかが得意で、高校時代には美大を志望していたんです 。そしたら担任の先生に「美大に行ったら、課題が多くて、サッカーをする時間なんてないぞ」って言われて、「それは嫌だな」と。それで文系の大学に入ったのですが、現役引退後は、せっかくだからデザイン関係をやってみたいなと漠然と思っていました。ただ、やっぱり実際にやるのは難しくて、引退後は結婚もしていましたし、仕事という仕事はしていませんでした。ただ週に2回くらいは、少年サッカー教室のお手伝いをしたりしていましたし、リーグ戦の解説 なんかをやったりして、サッカーとの縁はつながっていました。

―― 指導者になるきっかけは何だったんですか?

引退して2年程経った時に、日本サッカー協会の女子サッカーの委員長だった上田栄治さんに「女子の15歳以下のトレセン(トレーニングセンター)を手伝ってくれないか」と言われたのが最初でした。時間を持て余していましたし、恩返しの意味でも何かお手伝いできることがあればと思って引き受けました。1泊2日くらいで各地区の合宿に行くのですが、そこで衝撃を受けたのがボランティアの方々の姿でした。各地域の人たちが雨の中でも一生懸命にお手伝いをしてくださっていて、「あぁ、こうやって、女子サッカーを支えてくださる方達がいらっしゃるんだな」ということに、初めて気づかされたんです。それまで自分はトップでしかやっていませんでしたから、アンダー世代の選手たちにも興味はなかったですし、「トップだけが日本代表だ」みたいな、ちょっと傲慢というか、要はそれ以外の世界を知らなかったんですよね。でも、地方に行ってみると、結構年配の方が土砂降りの中、ボランティアでラインズマンをやってくれたりしていて……。その姿は今でも忘れることができません。それで「自分も何かできることをやらなければ」という気持ちになりました。その時は特に指導者でとは思っていませんでしたが、上田さんからU-14の選抜チームの監督への依頼があって、「私でよければ、やってみます」ということでお引き受けしたのが指導者としての始まりでした。

広島アジア大会、日本代表として活躍(1994年)

なでしこジャパン監督就任会見(中央、右は田嶋JFA会長)
(2016年)

―― 今ではすっかり指導者としての道を確立されましたね。

うーん、正直今でもよくわからないんですよ。それこそU-17のW杯で初優勝して帰国した時も「未だに自分が指導者として向いているかどうかわかりません」と言っているんです。矛盾していますが、現場では、きちんと理念があって、揺るぎない思いを持って指揮をとっているんです。

ただ、いつも思うのは「本当に選手にとっては良かったのかな」ということ。自分が思う理念を、選手にどう伝えるか、それについてはまだ確立されていない気がしています。自分の中では一番いいものを選択してはいますが、時代の変化もあれば、選手によっても全く違うわけで、そこは難しいなと思いながらやっています。

指導者に向いていないとは言いませんが、本当に向いている人間かと問われると、まだ自信を持って「はい」とは言えないところがあります。

木村和司/1986ワールドカップアジア予選(1985年)

木村和司/1986ワールドカップアジア予選
(1985年)

―― 昔、木村和司さん(元プロサッカー選手)も同じようなことを言っていたのを思い出しました。
現役を引退された時に「指導者になるんですか?」と聞いたら、「そんなもん、ならへんよ」って言っていたんです。でも、結局は熱血指導者になりましたからね。

木村さんとは以前、一度だけジュニア世代のミニキャンプでご一緒したことがあって、初めてお話をさせてもらったのですが、木村さんは「自分の考えや技術を選手に押し付けるのは嫌だ」とおっしゃっていました。

私も全く同じで、単に選手に「ああしろ、こうしろ」と言うのは嫌ですね。その方が早く済むし、楽ではありますが、それでは選手がそれ以上に育っていけない。
と言って、何も言わない指導者もいますが、それでは選手は変わらないんですよね。だから指導者は、何をどう言うかが大事だと思っています。


氷河期に積み重ねた努力が世界一への素地 に

澤穂稀/FIFA女子ワールドカップ優勝(2011年)

澤穂稀/FIFA女子ワールドカップ優勝
(2011年)

―― 高倉さんがアンダーカテゴリーの監督をされている中で、女子は2011年にW杯で優勝し、2012年ロンドンオリンピックでも準優勝と、世界に対抗するどころか頂点に立ちました。その素地は、どのようにして出来上がったものだったのでしょうか?

私が思うのは、不景気で日本の女子サッカー界がガタガタになった90年代後半の時期に、澤穂希世代の荒川恵理子や加藤興恵ら、若くて能力のある選手たちたちが「自分たちが頑張って何とかしなければ、女子サッカーは終わってしまう」という危機感を持って、一生懸命に努力して積み上げていたものが大きかったのかなと。2011年のW杯優勝メンバーの選手たちは、そんな彼女らの姿を見て育っています。だから、氷河期の時代に踏ん張った選手たちの努力の積み重ねが、その後の日本女子サッカー界にプラスに働いたのではないかなと思います。

―― そのなでしこが一転、今年のリオデジャネイロオリンピックには、出場することさえもできなかった。

同じメンバーで勝てるほど、世界は甘くはないということだったと思います。そこは難しさがあったと思うんです。
世界一になったメンバーをかえるというのは、とても勇気が要ることですし、彼女らを超えるだけの選手がどれだけいたかという事情もあったと思います。
これからは、未来に向かって思い切ってメンバーをかえていかないと、やはりチームは強くなっていかないということですよね。それがサッカーの厳しさなんだな、ということを改めて教えてもらった気がします。
ですから、変化を怖れてはいけないなと。かえながらも育てていく。とても難しいことですが、私はそこにチャレンジしていきたいと思っています。

―― これから日本代表に必要な選手というのは、何が求められますか?

ひと言で言うと、「強さ」ですね。フィジカル的にもメンタル的にも強い選手。もちろん前提にあるのは「巧さ」です。
でも、国内でいくら巧くても、世界の舞台でそれを出せなければ、全く意味がないわけです。だからあえて求めるのは「強さ」。特に気持ちの強さが必要ではないかと考えています。世界に向かっていく「強さ」とか、どんな状態でも最高のパフォーマンスを出し続けられる「強さ」とか、そういう「巧さ」を超える「強さ」が欲しいなと思っています。

なでしこジャパン監督就任会見(2016年)

なでしこジャパン監督就任会見(2016年)

―― 一方で、女性の指導者の育成というのは、どう考えられていますか ?

そこはとても重要だと思っています。選手が強くなるには、やはりいい指導者が必要です。
全員が全員、日本代表経験者でなくてもいいと思うのですが、特に2011年、2012年に代表だったメンバーは、他の世代とは違う世界を見てきたわけですから、彼女らが指導者として後輩たちに伝授していくということは、とても大切な役目ではないかなと思います。ですので、現役を引退した中で、少しでも指導者の素質があるなと思う人には声をかけて、色々とお手伝いをしてもらうようにしています。そうする中で指導者としての自分独自のスタイルを見つけていってもらえたらと。

実は今、女性の指導者を求める声がとても多くなってきていて、私のところにも高校や大学から「女性で誰かいい指導者はいませんか?」という問い合わせが、結構来るんですよ。ですので、これから女性の指導者が活躍する場は、どんどん増えていくと思います。

―― 女性指導者の第一人者である高倉さんの姿を見て、後輩たちが続くというわけですね。

責任重大ですね。でも、あまり気負わずに、これまで通り、厳しさと愛情を持って指導していきたいと思っています。

サッカー・高倉麻子氏の歴史

  • 高倉麻子氏略歴
  • 世相

1904
明治37
国際サッカー連盟(FIFA)設立
1908
明治41
ロンドンオリンピックでサッカーが正式種目となる
1921
大正10
大日本蹴球協会創立
今村次吉氏、初代会長に就任
1925
大正14
大日本蹴球協会、大日本体育協会に加盟
1929
昭和4
大日本蹴球協会、国際サッカー連盟(FIFA)に加盟
1931
昭和6
大日本蹴球協会、旗章に「3本足の鳥」を制定

  • 1945第二次世界大戦が終戦
  • 1947日本国憲法が施行
1950
昭和25
日本蹴球協会、国際サッカー連盟(FIFA)に再加盟

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951安全保障条約を締結
1954
昭和29
アジアサッカー連盟(AFC)創設
日本蹴球協会、アジアサッカー連盟(AFC)に加盟
ヨーロッパサッカー連盟(UEFA)設立
1955
昭和30
欧州チャンピオンズカップ(現・欧州チャンピオンズリーグ)がスタート

  • 1955日本の高度経済成長の開始
1958
昭和33
市田左右一常務理事(当時)、日本人初のFIFA理事に就任
1964
昭和39
日本代表、東京オリンピック出場。アルゼンチンに勝利し、ベスト8進出

  • 1964東海道新幹線が開業
1965
昭和40
実業団8チームが参加し、日本サッカーリーグ(JSL)が開幕
1968
昭和43
日本代表、メキシコ五輪に出場。3位決定戦で地元メキシコに勝利し銅メダル獲得、
同年FIFAが新設した「FIFAフェアプレー賞」を受賞

  • 1968高倉麻子氏、福島県に生まれる
1969
昭和44
メキシコオリンピック日本代表、ユネスコの「1968年度 フェアプレー賞」を受賞

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
  • 1973オイルショックが始まる
1974
昭和49
日本蹴球協会、財団法人化し、(財)日本サッカー協会(JFA)に改称
          
  • 1976ロッキード事件が表面化
  • 1978日中平和友好条約を調印
1979
昭和54
FIFAワールドユース・トーナメント(現・FIFA U-20 ワールドカップ)、日本にて開催
アルゼンチンが優勝し、ディエゴ・マラドーナがMVPに輝く

1980
昭和55
全日本女子サッカー選手権大会がスタート
1981
昭和56
第1回トヨタ ヨーロッパ/サウスアメリカカップ(通称・トヨタカップ)開催
日本女子代表チームを初めて編成し、第4回アジア女子選手権(現・AFC女子アジアカップ)(香港)に出場

  • 1982東北、上越新幹線が開業
1983
昭和58
  • 1983高倉麻子氏、サッカー日本女子代表に初選出
1985
昭和60
  • 1985高倉麻子氏、読売サッカークラブ女子・ベレーザ(現・日テレ・ベレーザ)に入団
1987
昭和62
高円宮憲仁親王殿下がJFA名誉総裁に就任される           
1989
平成1
日本女子サッカーリーグ(現・なでしこリーグ)が開幕
日本オリンピック委員会(JOC)に加盟

  • 1990高倉麻子氏、サッカー日本女子代表としてアジア競技大会(北京)に出場し、銀メダル獲得
1991
平成3
日本女子代表、第1回FIFA女子ワールドカップ(中国)出場
社団法人日本プロサッカーリーグ設立
川淵三郎氏、初代チェアマンに就任
プロサッカーリーグ正式リーグ名称「Jリーグ」を発表
1992
平成4
第10回AFCアジアカップ、広島にて開催
日本代表、決勝でサウジアラビアに勝利し、アジア初制覇
1993
平成5
日本初のプロサッカーリーグ「Jリーグ」スタート

  • 1994高倉麻子氏、サッカー日本女子代表としてアジア競技大会(広島)に出場し、銀メダル獲得
1995
平成7
日本女子代表、第2回FIFA女子ワールドカップ(スウェーデン)に出場し、ベスト8進出

  • 1995阪神・淡路大震災が発生
1996
平成8
女子サッカー、アトランタオリンピックから正式種目となる
日本、アトランタオリンピックに男女共に出場
日本男子代表がブラジルを下し、「マイアミの奇跡」として歴史に刻まれる

  • 1994高倉麻子氏、アトランタオリンピック出場
1997
平成9
日本代表、イランとのアジア地区第3代表決定戦(プレーオフ)を制して、初のFIFAワールドカップ出場を決定

  • 1997香港が中国に返還される
1998
平成10
日本代表、第16回FIFAワールドカップ(フランス)に出場
1999
平成11
U-20日本代表、FIFAワールドユース選手権(ナイジェリア)に出場し、準優勝を果たす
日本女子代表、第3回FIFA女子ワールドカップ(アメリカ)出場

  • 1999高倉麻子氏、松下電器パナソニック バンビーナ(現・コノミヤ・スペランツァ大阪高槻)に移籍
2000
平成12
日本代表、第12回AFCアジアカップ(レバノン)に出場し、2度目の優勝を果たす

  • 2000高倉麻子氏、シリコンバレー・レッドデビルズ(アメリカ)に移籍
2001
平成13
日本代表、FIFAコンフェデレーションズカップ(日韓共同開催)準優勝

  • 2001高倉麻子氏、スペランツァF.C.高槻(現・コノミヤ・スペランツァ大阪高槻)に移籍
2002
平成14
第17回FIFAワールドカップ、日韓共同開催となり、日本はベスト16進出
世界が“笑顔のワールドカップ”と賞賛
第17回FIFAワールドカップを成功させたとして、日本と韓国に「FIFAフェアプレー賞」が授与される            
2003
平成15
日本女子代表、第4回FIFAワールドカップ(アメリカ)出場
2004
平成16
日本代表、第13回AFCアジアカップ(中国)に出場し、2大会連続、3度目の優勝を果たす

  • 2004高倉麻子氏、引退
2006
平成18
日本代表、第18回FIFAワールドカップ(ドイツ)出場            
2007
平成19
日本女子代表、第5回FIFA女子ワールドカップ(中国)出場

2008
平成20
U-23日本代表、なでしこジャパン(日本女子代表)ともに北京オリンピックに出場し、なでしこジャパンが4位となる

  • 2008リーマンショックが起こる
2010
平成22
U-17日本女子代表、FIFA U-17女子ワールドカップ(トリニダード・トバコ)に出場し、準優勝を果たす
U-21日本代表、なでしこジャパン(日本女子代表)ともに、第16回アジア競技大会(中国・広州)にて、初優勝を飾る
日本代表、第19回FIFAワールドカップ(南アフリカ共和国)に出場
2011
平成23
日本代表、第15回AFCアジアカップ(カタール)に出場し、大会最多の4度目の優勝を果たす
なでしこジャパン(日本女子代表)、第6回FIFA女子ワールドカップ(ドイツ)にて、初優勝を飾り、「FIFAフェアプレー賞」受賞
なでしこジャパン(日本女子代表)が団体として初めて国民栄誉賞を受賞

  • 2011東日本大震災が発生
2012
平成24
なでしこジャパン(日本女子代表)、ロンドンオリンピックにて銀メダル獲得

  • 2013高倉麻子氏、U-16サッカー日本女子代表監督に就任
2014
平成26
なでしこジャパン(日本女子代表)、第18回AFC女子アジアカップ(ベトナム)に出場し、初優勝を飾る
日本代表、第20回FIFAワールドカップ(ブラジル)に出場

  • 2014高倉麻子氏、U-17、U-18サッカー日本女子代表監督に就任
  • 2015高倉麻子氏、U-19サッカー日本女子代表監督に就任
2016
平成28
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催

  • 2016高倉麻子氏、サッカー日本女子代表(なでしこジャパン)監督に就任。史上初の女性指揮官となる
    U-20、U-23の代表監督と兼任となる