
アテネオリンピックの競泳女子自由形800m金メダリスト 柴田亜衣さんは、3歳で水泳を始めてから大学に入学するまで、全国的には無名の選手だった。また、柴田さん自身も本格的にトップスイマーを目指したのは鹿屋体育大学に入学してからで、他の選手と比べると遅いスタートだ。大学に入学してから田中孝夫先生の指導を受け、タイムの伸びを実感するようになった。
田中先生との出会いは2000年、高校3年の春だった。
「進路を考えていたとき、高校まで指導してくれていたコーチが鹿屋体育大学で水泳部の監督をしている田中先生に紹介してくれました。田中先生が出した入部の条件は『インターハイで8位入賞』。それを目指して必死で頑張って、目標を達成しました。それが私にとって、初めての入賞でした」
見事目標をクリアして、田中先生のもとで過ごすことになった柴田さんは、「1年目からベストタイムを出すことができました。この先生の指導を受けたら強くなるのだろうなって、全面的に信頼しました」
何人ものオリンピック選手や日本記録保持者を育てた田中先生。その指導方針は、柴田さんにとって意外なものだったという。
「高校までは、コーチに細かく言われて練習をしていましたが、田中先生は普段は何も言わず、自分で考えさせるのです。自分で考えて頑張ることの大切さを学びました」
頑張った分だけ記録は伸び、大学2年のときには、初めて日本代表に選ばれるまでになった。
鹿屋体育大学水泳部では、その年のシーズンが始まる前に、1年間の目標タイムと前年の反省、そしてこれからどのように頑張っていくのかを記入した紙を提出することになっている。それをもとに、1年で1回だけ、田中先生と面談する。
アテネオリンピックが開催される2004年のシーズンに入るとき、柴田さんはその紙に「オリンピックに行きたいです」と書いた。しかし、オリンピック種目に得意の1500mはなく、種目にある400m、800mでは選考基準を満たすタイムを出したことがなかった。
「田中先生には、『厳しい練習をして先に体がつぶれてしまうか、うまくいけばタイムが出るか、どちらかだぞ』と言われました。『それでもやっていく覚悟はあるか』と。『はい』と答えました」
それ以降、毎朝2時間の練習が終わり、ほかの部員が引き上げた後も、30分間田中先生との特訓を続けた。一日に泳ぐ距離は20,000mにも及んだという。その努力が実り、日本選手権で400m、800mの選考基準を満たし、オリンピックの出場権を獲得した。
そして、迎えたオリンピック本番。日本選手権の好成績によって、パーソナルコーチとして現地まで田中先生の帯同が認められた。
「先生からは『オリンピックだからって特別な試合じゃないんだぞ』と言われました。『オリンピック用のアップの仕方があるわけではないし、オリンピック用の泳ぎ方があるわけじゃないんだ』という言葉で、リラックスして大会に臨めました」
金メダルを取った800m決勝レースの前には、忘れられない言葉をかけられた。
「『あわてず、あせらず、あきらめず』。入学以来、いつも大きな大会の前に、チームのミーティングで言ってくれていた言葉です。その言葉を800mの決勝の前に久しぶりに聞いたことで、いつもと同じように泳げました」
平常心で戦った決勝のレースで、見事優勝。選手とコーチ、2人でつかんだ金メダルだった。
柴田さんはアテネオリンピック後も選手活動を続け、自由形の1500mと400mでは日本記録も出した。昨年の北京オリンピック出場を最後に現役を引退。今年3月に鹿屋体育大学大学院を修了後、会社員となった。
「引退については、私の判断に任せてもらいました。それよりも、会社に入った後のことについて親身に相談に乗っていただきました」
現在は「普通のOL」として会社の広報部に勤めながら、金メダリストとして水泳関連のイベントへの参加要請があれば、可能な範囲で積極的に参加している。田中先生とは違う道を選んだが、水泳界に貢献したいという気持ちは強い。
「私は指導者というよりも、イベントなどを通じて水泳を広げたいのです。特定のチームの選手だけではなく、いろいろなところで、いろいろな人に水泳の魅力を伝えたい」
柴田さんが伝えたい、水泳の魅力とは。
「“努力した分、すべて自分に返ってくる”ということです。水泳は1コース全部が自分のもので、他のコースを邪魔することもなく同じ条件で競います。順位で負けても、タイムがベストタイムなら自分のやってきたことは間違いじゃないとわかります。すごくシンプルで目標を持ちやすいスポーツですね」
まさに「あわてず、あせらず、あきらめず」。田中先生の教えが、そのまま柴田さんの生き方に重なって見えた。
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