2012年夏、第30回オリンピック競技大会(2012/ロンドン)の体操男子個人総合で、内村航平選手が金メダルを獲得した。内村選手は美しい体操で世界を魅了し、あらためて「体操ニッポン」の実力を世界に見せつけた。
オリンピックで日本体操界が初の金メダルを獲得したのは、1956年メルボルン大会での小野喬さんだ。種目は鉄棒だった。1952年のヘルシンキ大会から4大会に連続出場し、獲得したメダル数は実に金5、銀4、銅4の計13個。「体操ニッポン」の礎を築いた小野さんに、黎明期のご苦労などを伺った。
聞き手/西田善夫 文/山本尚子 構成・写真/フォート・キシモト
体操の模範演技に魅せられて
能代中学時代あん馬の練習を行う小野(写真提供:小野喬)
——幼少時、小野さんはどういう少年でしたか。
きかん坊でした。体を動かすのが大好きで、町中を走り回って鬼ごっこをしたり、そういう遊びに夢中でした。
——足も速かったのですね。
すばしっこかったのですが、短距離はそれほどでもありませんでした。1,000mや2,000mといった中・長距離が速かったですね。
——ご出身は、秋田県能代市ですね。
はい。当時はとても体操が盛んで、明治神宮競技大会(現在の国民体育大会)では、能代出身者がよく上位を占めていたものでした。私が旧制小学校4年生のとき、市民運動会で、全国優勝した能代中学体操部員が模範演技を見せてくれたのです。軽々と宙返りをし、「危ない」と思った瞬間にクルッと回転してきれいに着地を決める。興奮しましたねえ。
——それが体操を始めたきっかけですか。
ええ、すぐに見よう見まねで、小学校の体育館で練習を始めました。同級生の間でも体操が流行り、じゃあ「体操部をつくろう」という話になりました。そこで、担任の小林養助先生に相談に行ったら、「本当にやる気があるなら教えよう」という答えでした。
能代中学時代(ピラミッドの一番上が小野(写真提供:小野喬)
——小林先生は、体操の選手だったのですか。
いいえ、バスケットボールの選手だったそうです。
——ああ、能代市はバスケの町でもありますね。
師範学校を出た先生は、体操、跳び箱、鉄棒、全部教えてくれました。6年生のころには、私は鉄棒の大車輪ができるようになっていました。そして1944年に、能代中学(現・能代高校)に入学しました。
——小野さんは文武両道だったのですね。
どうでしょうか。次第に戦争が激しくなってきて、毎日、飛行場の草むしりや塹壕掘り、油がなくなってきたので松根油を取るために松の根を掘ったりという毎日でした。
東京教育大学へ進学
——終戦を迎えたときはおいくつでしたか。
中学2年です。私は早速、体操部に入部しました。最上級生には、後に一緒にヘルシンキオリンピックに出場することになる鍋谷鉄巳さんがいました。体操というのは、模範演技を見るのが一番なのです。いい演技を見て、まねようという姿勢でひたすら反復練習をする。能代の冬は寒さが厳しいのですが、来る日も来る日も猛練習を積みましたね。
——小野さんは、インターハイで優勝されていますね。東京教育大学(現・筑波大学)への進学は、自然な流れだったのですか。
先輩の後を追うかたちで進学しました。高校時代、父はよく私にヘルシンキ大会の代表には、「体操よりも勉強しろ」と言っていました。でも高校生活最後の国民体育大会で、私が個人総合優勝と団体総合優勝をしたのを会場で見て、私の背中を押してくれるようになりました。
——1952年、大学3年生のときにヘルシンキオリンピックに出場されました。オリンピックへの関心は、大学入学当時から強く持っていらっしゃったのですか。
いいえ。大学1年のときに父が亡くなり、私は大学を辞めることも考えました。でも母が「私が働くから」と支えてくれて、私はアルバイトをしながら練習を続けました。どちらかというと、インターカレッジ(インカレ)を中心に考えていましたね。
——大学の伝統を守ることも大切ですからね。
日米交歓体操大会で気づいたこと
そのころ、進駐軍にいた日系のフランク遠藤さんという方の計らいで、アメリカの体操チームが来日し、日米交歓体操大会が開かれたのです。それを見て、いろいろ参考になることがありました。
——例えばどのようなことでしょうか。
日本選手の演技は、ゆっくりであまり変化がないのです。一方、アメリカ選手の演技は、大柄で雄大なのに、スピードとキレがあり、見たこともない技をたくさん取り入れていた。それを見て、われわれ日本人は、小柄ならではの機敏さをもっと活かした技を開発し、スピーディな演技をすべきだと気づきました。その方向性で練習に取り組むうちに、大学2年から3年にかけて急激に伸びていったのです。
——当時は、見て学ぶということが中心だったのですか。
ほとんどそうですね。コーチなどいませんでしたから。上級生と一緒に練習をして、「ここはこうじゃないか」とアドバイスし合う。自分で考えて技を開発し、試合では自分で技の構成をする、そんな時代でしたね。
ヘルシンキオリンピックは鼻に綿を詰めて出場
——ヘルシンキ大会の代表には、早い時期から決まっていたのですか。
いえいえ。オリンピックへの意識もありませんでしたし、1年生のころは予選会にも出られませんでした。2年から3年にかけ好成績が出るようになり、最終予選は3年のときに2回ありました。
4月の予選会で上位10人以内に入り、5月の最終選考会で3位に入り選ばれたのです。日本にとって戦後初参加となる大会ですが、当時は「外貨がない」ということで、8人エントリーできるところを補欠なしの5人しか派遣されませんでした。そこで私は、皆さんに大変ご迷惑をおかけすることになりました。
——何があったのですか。
当時は、ヘルシンキへ渡航するのにプロペラ機で2日ほどかかりました。私は初めての飛行機で途中からめまいがひどくなり、途中、ストックホルムで救急車を呼んでもらい、病院に担ぎ込まれたのです。
——大変でしたね。
風邪をひいていて急性蓄膿症になったんですね。私が出ないと団体総合が成り立ちません。応急処置で蓄膿を取り、鼻に綿を詰めてなんとか出場することができました。
跳馬で銅メダルを獲得したのに表彰台に乗らず
——開会式には出られましたか。
開会式の前に予選会があって間に合わないのはわかっていたので、終了後すぐ会場にかけつけてスタンドから見ていました。
——あのときの選手宣誓は、フィンランドの体操の名手、サヴォライネンでしたね。私は高校生でしたが、ヨーロッパの体操競技への関心の高さをよく覚えています。ヘルシンキでは、小野さんは初出場ながら、跳馬で銅メダルを獲得されたんですよね。
でも、表彰台には上がれませんでした。私は徒手(徒手体操=床運動)で銀メダルも獲得している上迫忠夫さんと同点でした。
同点の場合、日本の競技規則では、規定演技と自由演技のうち規定演技の得点のいいほうが上位なのです。ですから上迫さんが3位で、私は4位だと思い込んでいました。
——なるほど。
私は表彰式のとき、体調もよくなかったので2階席で撮影しながら見ていました。すると日の丸が二つ用意され、式典が止まっているのです。「タカシ・オノ」というアナウンスが繰り返し聞こえました。当時は表彰式の後、模範演技をすることになっていました。私が返事をすることもできずにいたら、上迫さんが「小野は病気だ」というようにジェスチャーをして、ようやく表彰式が始まりました。
——正しいルールが日本に伝わっていなかったと。
そうです。体操はドイツ語とフランス語の用語が多いのです。ドイツ語の先生に訳してもらっていましたが、例えばドイツ語で「櫛」のことを「カム」と言います。「グリフ」は「握る」です。「カム・グリフ」といえば「逆手握り」の意味なのですが、それが「櫛を握る」と訳されたりするんですよね。
——ああ、そういう時代ですか。
そうなのです。われわれ選手5人は、ヨーロッパの体操を吸収するという目的も持っていたので、8ミリを持参していろいろ撮影しました。
この大会は「勉強の場という意味合いが強かったのですが、跳馬と徒手でメダルを取ることができ、「日本人はバネがあって体操向きだ」という国際的評価を受けました。
新技「ひねり飛び越し」で日本体操界初の金メダル
鉄棒の表彰式(1956 メルボルン)
—– 2度目のオリンピックは25歳のとき。1956年、オーストラリアのメルボルン大会です。当時は、ソ連が圧倒的に強かった時代ですね。
そうですね。ヘルシンキ大会のときよりは近づいていたと思いますが、われわれの目標は団体の銀メダルでした。私はヘルシンキが終わったあと、新しい技の必要性を痛感していました。そこであれこれ考え続け、日本選手とヨーロッパの選手がやっている技をコンビネーションにして構成したのが、鉄棒の「ひねり飛び越し」でした。
—– 国内の予選では使っていたのですか。
まだ失敗もあったのでやっていませんでした。メルボルンでは、ソ連にストロボフという鉄棒の神様のような選手がいました。だから、とても優勝できるとは思っていなかったのですが、規定演技が終わったあと、あまり点差がなかった。そこで迷っていたところ、チームリーダーの近藤天さんに「小野くん、思い切ってやりなさい」と言われて決断しました。
—– 近藤さんらしいですね。
ええ。演技終盤、逆車輪から片大逆手に持ち替えて、体をぐっとひねって鉄棒の上を飛び越し、再び鉄棒をつかむ。見ている方には、パパパッと電光石火の演技のように映ったと思います。審判も見たことのない技に驚いていたようで、9.85という高得点が出て、日本体操界初の金メダルとなりました。
—– 世界でたった一人だけの技、そのときの思いはどうでしたか。
まさか金を取れるとは思わなかったので、それはもう感無量でしたね。
鈴木文弥アナが示した新しい実況のかたち
—– メルボルンのときは、まだラジオ放送で、鈴木文弥アナウンサーが実況をしていました。面白いと思ったのは跳馬でしたね。「スタート」と言ったあと、何もしゃべらず、パンパンパンパーンと走って跳ぶ音だけがする。アナウンスがないと、みんな「なんだろう」と耳を傾けるじゃないですか。少し間を置いてから、「良かった、良かった、本当に良かった!」という実況で、何をやったかはわからないけれどもいい着地だったということはわかるわけです。
ふだんはあふれ出すほどに表現豊かにしゃべる方が、言葉に頼らずに伝えるという手法をとった。このあとに続くテレビ映像の時代を予見させる実況で、僕は体操の実況ほど難しいものはないと思いましたね。
そうですか。
ローマオリンピックで悲願の団体総合金メダル
鉄棒2連覇を果たす(1960 ローマ)
—– メルボルンの団体総合では、日本は目標通りに銀メダルを獲得しました。ソ連との点差はわずか1.85点ということで、その距離は確実に縮まりつつありましたね。
はい。4年後のローマ大会(1960年)では、「打倒ソ連」が目標となりました。
—– ローマからテレビ中継が始まりました。でもビデオテープが送られてくるのは4日後ぐらい。結果を知っているので、余裕を持って見ることができました。対ソ連ということで、どういう作戦でいったのでしょうか。
ソ連に勝つにはまず規定演技でリードしようと規定に力を入れていました。
日本の演技には独創性があったので、自由演技には割と自信があったのです。
目論見どおり、規定で1.02点リードしたところ、ソ連の自由演技はやや不安定になりました。それと私たちは、選手村には入りませんでした。ローマの消防学校を借りて、そこの施設で合宿練習をしていました。イタリアの選手とも一緒に練習をしたりして、試合会場ではホームのような応援をしてもらいました。
—– そこで初めて、団体総合優勝を果たしたわけですね。ここが、オリンピック、世界選手権での栄光の団体総合10連勝のスタートとなりました。イタリアも3位に食い込む活躍でしたから、よかったですね。
はい。
「鬼に金棒、小野に鉄棒」
—– 小野さんというと、「鬼に金棒、小野に鉄棒」というフレーズが思い浮かびます。あれはいつごろから言われ出したのでしょう。
ローマ大会のときに、ジャーナリストの方が言い始めたようですよ。
—– メルボルン大会までは、種目別のメダルは規定・自由演技での点数で決まっていたものが、ローマ大会から、あらためて種目別の試合が行われるようになったのですね。
そうです。私は個人総合では0.05点差で優勝を逃しましたが、鉄棒では新しい技を組み入れて2連覇を果たしました。
—– 「小野に鉄棒」なんてうまい言葉だとお思いになりませんでしたか。
はい、そういう言われ方をしていると知ったとき、うまいこと考えたもんだなと感心しました。
ローマ大会の後、辞めるつもりだった
—– ローマでは小野さんは29歳。次はいよいよ東京でのオリンピックだ、という思いはありましたか。
いえ、私は仕事の関係もあり、ローマで辞めようと思っていたのです。
—– 小野さんは東京教育大学を卒業された後、慶應義塾大学の2年に編入し、それから東洋レーヨンに入社されたのでしたね。
はい、メルボルン大会のすぐあと、1957年のことです。人事課長が厳しい方で、「五輪の選手でも仕事中心」ということで、ローマのあとは仕事に専念すべき、とよく言われていました。
そこで近藤天さんや日本体操協会の方が、「例え選ばれなくても、キャリアのある小野が合宿や試合に出ることは若い選手に刺激になるから」と会社にかけ合ってくださって、「それじゃ、やるだけやってみろ」となりました。
選手団主将として選手宣誓で大緊張
団体総合金メダルの表彰式(1964 東京)
—– 小野さんは、ローマ大会のときは日本代表選手団の旗手をされました。東京オリンピックでは、選手団の主将として選手宣誓をなさいましたね。どんな気分でしたか。
もう責任重大ですからね。入場行進のときから、宣誓のことしか頭にありませんでした。ワーッという大声援は聞こえていましたが、皆さんの顔がスイカやカボチャにしか見えなくて。畑の中を歩いていると思えば少しは落ち着きましたが、試合のときとは全く違う緊張感でした。
—–
インタビューで聞く小野さんの声より一段と高く、ピーンと響くいい宣誓でしたよ。
そうですか。途中でつかえると困るので、文章を書いたメモを置いてもらえないかと組織委員会の方に頼んだら、「できない」と断られたのです。でも当日、テーブルにメモが置いてありましたね。見ることはありませんでしたが、少し安心しました。それと、名前を言うところで「小野」と「喬」の間を少し空けてくれと言われました。理由を聞くと、「小野」で箱の蓋に手を置き、「喬」で蓋を開けてハトを飛ばすからと。
肩の痛みを押して団体金メダルに貢献
—– 式典は秒刻みですからね。
さて競技のほうですが、肩を傷めていらしたのですよね。表情にあまり出さない小野さんだけに、見ているほうには余計痛々しく映りました。
練習をしすぎて傷めてしまったのです。でも団体金メダルが懸かっていましたからね。負担が少ないよう試技順を一番最後にしてもらっていたのですが、前の選手に少しずつミスが出て。。
—–
総合力のある鶴見選手が鉄棒で失敗したり、あん馬では個人総合を制した遠藤選手が尻餅をついたり、普通なら考えられないですよね。
はい、そのあと、私が出ていってカバーしていくかたちになりました。
—–
その活躍があって、団体の金メダルにつながったわけですね。
キャプテンでもあったし、個人の成績よりも団体での連覇が何よりうれしかった。最後までやれてよかったという満足感がありました。
オリンピックは「青春」
—– こう振り返っていくと、ヘルシンキ、メルボルン、ローマ、東京と小野さんは4大会に連続出場。メダルを13個も獲得し、最後の大会は地元で迎え、主将として選手宣誓をし団体優勝を飾る。非常に豊かなオリンピック人生じゃないですか。
本当に充実していましたね。
選手村での小野夫妻(1964 東京)
—– もう一つ、お聞きしなくてはならないのは奥様(小野清子さん)との出会いです。同じ秋田県出身で、能代高校の後輩ですか。
いえ、秋田北高校です。ヘルシンキ大会のあと、山形国体に秋田県チームを応援しに行ったときに、いい選手だなと思ってアドバイスをしたのがきっかけでした。
—– この選手は伸びる、伸びないというのはどこでわかるのですか。
動きを見ていればわかります。演技の中に性格が出るのです。のんびり屋なのですが、体操のセンスはいいものを持っていました。
—– お二人は1958年に結婚し、ローマ五輪、東京五輪と夫婦そろって出場されました。東京五輪では奥様は団体総合銅メダルで、ご夫婦でメダリストとなられたのですね。
はい。オリンピックはまさに、私の人生の青春時代でした。
地域スポーツクラブの充実を
名誉都民顕彰を受け、小野夫妻と石原都知事(2011)
—– 東京はいま、2020年の夏季オリンピック競技大会の招致活動に取り組んでいます。準備状況では高い評価を受けながら、支持率が47%という低い数字にとどまっています。実感としてはもっと支持されている印象があるのですが。
日本人はお祭り好きなので、決まればわっといくんですけどね。日本のスポーツと欧米のスポーツでは、土壌が違うということが挙げられると思います。欧米の場合は、地域の中に自主的にスポーツする環境があって、そこで選手が育ち、みんなで応援して盛り上がる。自分のコミュニティーのスポーツクラブ生活が日常で、青少年からお年寄りまでスポーツを楽しむことができるのです。その点、日本は学校スポーツありきで来ましたから、運動部を辞めたり卒業すると、スポーツから縁遠くなってしまう。自ずとムードが違うわけですよ。
—–
見るスポーツはたくさんあるのですがね。
それは一番といっていいと思います。ただ自分で体を動かして楽しむ場はまだ足りませんね。地域スポーツクラブというのは非常に大事です。それほど大規模でなくてもかまいません。スポーツクラブでいろいろなスポーツ活動ができる場を位置づけることが、今後の大きな課題だと思いますね。
—– 小野さんは、清子夫人とともに「スポーツクラブ」を立ち上げ、長い間、自ら社会体育を実践されてこられたのでしたね。
はい。日本は欧米と異なり、公的な予算でスポーツをマネジメントしているケースがまだ多いのです。それはつまり、財政が厳しくなると予算を削られ運営できなくなってしまうというリスクをはらんでいます。まずは、スポーツクラブをマネジメントできる人材を育成していくことが重要です。
—–
そうすると、私的と言いますか民間の力をもっと活用するということになりますか。
そうですね。行政サイドからつくられた一流のアスリートは少ないでしょう。大学スポーツからは多くのオリンピック選手が生まれている。企業スポーツもそうですが、しかし景気に左右されやすい。だからこそ、地域に根付いたスポーツクラブの存在がクローズアップされてくるわけですね。
—–
2011年6月、スポーツ基本法が制定されました。
はい、スポーツ基本法でうたわれているとおり、健康・体力づくりのためのスポーツと、優秀なアスリートの育成は車の両輪なのです。地域スポーツクラブでは、その両方が可能です。地域スポーツクラブを充実させてスポーツの関心度を高めていくことが、2020年のオリンピック招致にもつながります。またオリンピック招致の成功は、地域スポーツの振興につながるはずです。
—–
わかりました。きょうは体操の事始めから今後の展望まで、どうもありがとうございました。
聞き手/西田善夫 文/山本尚子 構成・写真/フォート・キシモト
1930
昭和5 |
日本体操連盟の名称で創立
第1回全日本器械体操選手権大会を開催
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1931
昭和6
|
FIG国際体操連盟に加盟
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1932
昭和7
|
ロサンゼルス五輪に初参加、男子団体5位 |
1936
昭和11
|
ベルリン五輪参加、男子団体9位 |
1939
昭和14
|
日本体操競技連盟設立 |
1942
昭和17 |
全日本体操連盟と日本体操競技連盟を統合、(財)大日本体育会体操部設立
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1943
昭和18 |
大東亜戦争開戦、体操競技は体操戦技となり、学徒動員や役員の出征で体操競技界は自然消滅
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1946
昭和21 |
第1回近畿国体兼第1回全日本個人選手権大会を開催
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1950
昭和25
|
FIG29回総会(バーゼル)で日本体操協会仮加盟が承認される
- 1950朝鮮戦争が勃発
- 1951安全保障条約を締結
- 1952小野喬氏、ヘルシンキ五輪(フィンランド)で跳馬銅メダル獲得
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1954
昭和29 |
第13回世界体操競技選手権ローマ大会に初参加、竹本正男が徒手、田中敬子が平均台で金メダル獲得
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1956
昭和31 |
- 1956ルボルン五輪で小野喬が初めてのオリンピック金メダルを鉄棒で獲得。その他団体総合、個人総合、あん馬で銀メダル、平行棒銅でメダル獲得
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1960
昭和35 |
ローマ五輪で男子団体悲願の初優勝
- 1960小野喬氏、ローマ五輪(イタリア)で団体総合、鉄棒、跳馬金メダル、個人総合銀メダル、平行棒、つり輪銅メダル獲得
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1962
昭和37 |
第15回世界体操競技選手権大会(プラハ)で男子団体初優勝。女子団体で銅メダル獲得
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1964
昭和39 |
東京五輪で男子団体連覇達成。男子個人で遠藤幸雄が日本人として初優勝。女子団体で銅メダル獲得
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1966
昭和41
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アジア体操連盟会長に栗本義彦が就任
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1968
昭和43 |
メキシコ五輪で男子団体優勝、個人で加藤澤男が優勝
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1969
昭和44 |
第1回NHK杯を開催。第4回世界新体操選手権大会(バルナ)に初参加
|
1970
昭和45 |
日本体操協会、財団法人に認可
|
1972
昭和47
|
ミュンヘン五輪で、日本がメダルを量産。加藤澤男が個人総合連覇、塚原光男が月面宙返りを発表
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1974
昭和49 |
第7回アジア競技大会(テヘラン)で体操競技が正式種目として採用され、男子個人で堀井一夫が優勝
- 第18回世界体操競技選手権大会(バルナ)で男子団体優勝、男子個人で笠松茂が優勝
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1976
昭和51 |
モントリオール五輪で男子五輪5連勝達成
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1978
昭和53 |
第19回世界体操競技選手権大会(ストラスブール)で男子団体が優勝し、世界選手権5連勝達成
- 1978日中平和友好条約を調印
- 1982東北、上越新幹線が開業
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1984
昭和59 |
ロサンゼルス五輪、男子個人で具志堅幸司が、鉄棒で森末慎二が金メダル獲得
|
1988
昭和63 |
ソウル五輪で男子団体が銅メダル獲得。池谷幸雄、西川大輔が高校生として初めて日本代表に選ばれる |
1990
平成2
|
創立60周年。世界スポーツアクロ体操選手権大会(アウグスブルグ)に参加 |
1992
平成4
|
バルセロナ五輪で男子団体銅メダル獲得 |
1995
平成7 |
アジアで初となる世界体操競技選手権大会を鯖江で開催。男子団体は銀メダル獲得
|
1999
平成11
|
世界新体操選手権大会を日本(大阪)で初めて開催
|
2003
平成15 |
第37回世界体操競技選手権大会(アナハイム)で鹿島丈博が日本人として初めてあん馬で優勝 |
2004
平成16
|
アテネ五輪で、男子団体28年ぶりに金メダル獲得 |
2005
平成17 |
第38回世界体操競技選手権大会(メルボルン)男子個人総合で冨田洋之が優勝
|
2007
平成19 |
第25回世界トランポリン選手権大会(ケベック)男子シンクロで上山容弘・外村哲也組が金メダル獲得 |
2008
平成20 |
北京五輪で男子団体が銀メダル、内村航平が男子個人総合で銀メダル。女子団体は5位入賞
|
2010
平成22 |
内村航平が日本史上初めて世界体操競技選手権大会個人総合連覇を達成。女子として初めて田中理恵がロンジンエレガンス賞を受賞
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2011
平成23 |
日本国内では2度目となる世界体操選手権大会(東京体育館)を開催。内村航平が史上初の世界選手権個人総合3連覇を達成 |
2012
平成24 |
ロンドン五輪、男子個人総合で内村航平が金メダル、男子団体、男子種目別床で銀メダル獲得 |
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鉄棒の表彰式(1956 メルボルン)
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鉄棒2連覇を果たす(1960 ローマ)
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選手村で選手宣誓の練習(1964 東京)
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団体総合金メダルの表彰式
(1964 東京)
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ゆかの演技
(1964 東京)
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あん馬の演技
(1964 東京)
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鉄棒の演技(1964 東京)
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鉄棒の演技(1964 東京)
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選手村にて(1964 東京)
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選手村にて
(1964 東京、左はフォトグラファーの岸本健)
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記者会見に臨む
(1964 東京、左は松田治廣/旧姓山下)
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東京オリンピック40周年記念イベント
(左は遠藤幸雄)