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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

プロスポーツのカリスマたち
第34回
土俵を疾駆した“ウルフ” (第58代横綱千代の富士)

九重 貢

小柄ながら“ウルフ”の愛称で角界を背負った千代の富士。
幕の内優勝は、歴代3位の31回。
連勝記録は、双葉山の69連勝に迫る歴代3位の53。
幕の内通算総勝利数は、807の歴代2位。
何度も負傷で休場を余儀なくされたが、都度克服して復活。
「北海道松前郡福島町出身九重部屋」というアナウンスは今でも耳に残る。
一代年寄の襲名を断り、名門部屋の後継者となり、現在は後進の指導に心血を注ぐ。
名横綱が幼きころのエピソードから現在の大相撲までを緻密に語った。

聞き手/山本浩 文/白髭隆幸  構成・写真/フォート・キシモト 「負けてたまるか」(東京新聞出版局)「私はかく闘った」 (日本放送協会)より

海の町・福島町出身。カレーライスの具は高級食材のアワビ。

interview34-01.jpg

―― 親方の釣り好きは有名ですが、最近は釣りに行かれていますか?

そうですね。昔はゴルフが好きだったのですが、最近はゴルフに行く回数が減って釣りに行くことが多くなりましたね。

―― いつだったか九州場所の折、大物を釣ったとニュースになったことがありましたね。

そうでしたか。釣りは結構好きだったので、よく行きますね。

―― 故郷の北海道福島町でも、釣りはよくされたのですか?

いや、福島町では釣りはやったことがないですね。

―― 子どものころは運動神経の発達したお子さんだったのでしょうね。

いや、普通じゃないですか。ただ同じ年齢の子どもに比べれば身体が大きかったので、その分だけ運動もできたのかな。

―― でも陸上競技で記録を作られたそうですね。どんな種目が得意だったのですか?

まあ、走ったり跳んだりだね。でも田舎の話ですよ。

―― 足は速かったわけですね?

はい、逃げ足がね(笑)

―― 足の速いお子さんは、何をやっても上手いといいますからね。遊びはどんなことをやっていましたか?

今の子どもたちと違い、屋外に出て走り回っていましたよ。夏休みでも海に入れるのは1週間くらいかな。 でも夏休みは夜が明けたら出かけて暗くなるまで外で遊んでいましたね。

―― ということは、知らないうちに足腰が鍛えられていますね。

そういうことですね。船に乗ったりもしたしね。

―― わたしは昭和28年生まれで、親方は昭和 30年生まれだと思うのですが、子どものころの食糧事情は、それほどよくなかったですね。ご飯に味噌汁、大根の煮つけといった食事でしたが、親方はどうでしたか?

海が近いですからね、海の幸ばかりですよ。肉なんて食ったことがなかった。カレーライスの具は、 アワビですから。

―― それまた贅沢ですね。アワビなんか子どものころは食べたことがなかったですよ。

東京に出てきて寿司屋に連れて行かれたことがあったけど、その鮮度の悪さに驚きました。福島町では海で獲ってすぐ食べるでしょ。それが一番、最高に美味しいですよ。

相撲には、まったく興味なし。 二つの理由で角界入りを決意

横綱・北の富士の化粧まわしを借りて
「一番出世披露」の晴れ姿(東京・蔵前国技館)

―― われわれの子どものころのスポーツというとプロ野球に大相撲。あとはプロレスにボクシングでしたよね。

あまり興味がなかったね。その辺の記憶がない。大相撲はラジオで聞いていたけど。

―― そのころは、どんな力士が好きでしたか?

大鵬、柏戸でしょ。とくに北海道出身の大鵬ですよね。

―― 柏戸は東北の出身ですからね。若乃花とか栃錦といった力士は記憶にないですか?

全然記憶にないですね。わたしは昭和45(1970)年に大相撲の世界に入ったのですが、わたしの先代九重の北の富士も知らなかった。

―― ということは、大相撲にあまり関心がなかったということですね。

まったく関心がなかった。自分が相撲をやるなんて思ってもいませんでした。

―― 学校では相撲を取られませんでしたか?

そりゃあ取りましたよ。やれば多少身体が大きかったから勝ちましたけど、それで飯を食おうとは一度 も思わなかったですね。

―― しかし、福島町というと親方が入門したときの九重部屋の親方・元横綱千代の山の出身地ですよね。

千代の山もそうですし、弓取りで有名だった千代の海もそうです。

―― それだったら、当然相撲熱も高かったわけですね。

人気は高かったですよ。神社とかに土俵があって、祭りなんかあれば相撲大会がありました。それと学校にも千代の山の優勝額なんかも飾ってありましたね。

―― それでも親方は相撲の世界に入ろうとは思わなかったのですか?まわりの大人から「相撲やらないのか?」とか薦められませんでしたか?

思わなかったですね。中学校の3年の夏に地元で大相撲の巡業があって、スカウトの免許を持っ た人から声をかけられたのがきっかけです。その巡業のとき、千代の山さんが先発で来ていて「身体の大きい子がいる」ということで家まで勧誘にきたのです。でも、最初は「相撲は嫌だ」って言って断ったのです。

―― ということは、他に何かをやりたいとか、目標があったのですか?

いや、特にないです。まだ自分の将来をどうのこうのということはなかったですね。それから部屋の方が何回か来られて、2つの理由で「はい」と言ってしまったのですよ。

―― 家族の反対とか、賛成とかあったのですか?

1つは「東京に連れて行ってやる」ということ。もう1つは「飛行機に乗せてやる」ということでした。

―― ああ、そういう時代ですか。

まず話があって、東京行きが決まってから家族会議ですよ。親父は「もう中学校3年の男だから自分 で決めろ」と言ってくれました。お袋と姉は「そんな厳しくてきついところはやめて」と反対だったんですね。でも、東京に行ける、飛行機に乗れるのだから、と説得しました。なにしろ北海道に住んでいて札幌にも行ったことがない。せいぜい函館ですよ。

―― それだと、東京には行くけども、すぐに帰ってくるという感覚ですか?

決断してから東京に行ったのが1週間くらいです。ともかく東京にいって相撲をして、とりあえず中学校を卒業して、その後のことは、それから考えるくらいの気持ちでしたね。

―― 飛行機は千歳から乗ったのですか?

いえ、函館です。当時はプロペラの飛行機でした。福島町から函館空港まで車に乗せてもらったのですが、同乗した力士から「俺のことを知っているか」と聞かれ、知らないと答えると、ムッとした顔をしていました。それが横綱の北の富士でした。

―― 本当に知らなかったのですか?

本当に知らなかった。それくらい大相撲のことを知らなかった。大鵬は知っていたけど。そのとき北の富士は丁度横綱になったばかりでした。田舎の中学生は新聞なんか読まないし、初めて会った人だったからね。

東京の暮らしで親のありがたみを知る

―― 東京について生活が一変したわけですね。

東京に出てきた日が雨降りで、飛行機からは何も見えませんでした。東京の最初の印象は、空気がまずい所だな、という感じでした。まず相撲部屋に連れていかれて「俺は何をしに来たのかな」と思いました。いろいろ考えているうちに、少ししっかりしないと、ついていけないなとも思いました。それで浅草橋の中学校に新学期から転校して、相撲の稽古をはじめました。

―― 新しい生活に飛び込んで違和感はありませんでしたか。

それは自分で「やる」と決めて東京に来たわけですから、しっかりやろうと思いました。朝早く起きて稽古をして、それから学校に行く。今ほど厳しくはな かったですが、義務教育で学業優先ですからね。 勉強もしなきゃいけないから、それは大変でした。

―― 友だちとかできましたか?

相撲をやっている子なのだと、周りが知っていたから応援してくれましたね。一生懸命に標準語をしゃべってね(笑)言葉使いなどにも注意して授業を受けていました。

―― それで部屋には故郷の仲間とか先輩はい たのですか?

北海道出身の人がたくさんいて、千代桜、松前山とかいっぱいいました。だから、あまり違和感なく生活できましたね。それは感謝しています。

―― 最初は新人だから、いろいろな仕事がありますよね。親方の世話も含めて。

入門してすぐに親のありがたみを知りましたね。自分のことは、すべて自分でやる。そのうえで、先輩の洗濯をしたり食事の用意をしたり、いろいろやらなきゃいけない。福島町にいたころは、親や姉にやってもらっていたことを、すべて自分でやらなければいけない。

―― 掃除もあるし土俵回りもしなければなりませんものね。

ちゃんこ番とかね。一つひとつ覚えていくのですよ。本当に毎日が目いっぱいでしたね。

―― 戸惑いはなかったですか?稽古とかしごとに。

それは、やらないといけませんからね。ここで辞めたら、いろんな人に迷惑がかかると感じた。それはたしかですね。

―― ホームシックとかにはならなかったですか?

それは、ありましたよ。だから逆に俺が我慢してやらなければならないと思いました。

―― 電話は、月1回とか、決まりはなかったですか?

当時は、携帯もメールもなかったからね。一切連絡しなかったですね。

―― その当時の角界上位の力士は誰でしたか?

大鵬、柏戸、北の富士、琴櫻といったところですか。付き人として北の富士につけば、大鵬にも会えるわけですよ。そうすると「おお、大鵬だ」なんて 感動しましたよ。

―― 相撲教習所には行かれたのですか?

それは、中学校を卒業してからですね。入門した 翌年の4月から通いました。

高校に通うも中退。それから相撲に専念

左肩脱臼をテーピングでカバーして
出場した幕下時代の九重貢

―― 最初、中学を卒業した後、一度北海道に帰ろうとしたのですか?

そう、そういう約束事があって。それで、いろいろな方に相談したのですが、せっかくだから相撲を続けて東京の高校に進むことにしたらどうか、ということになった。

―― それで明大中野高校に進学したのですね。

大相撲に理解のある学校だったけど、昼間の時間帯の授業だったから、朝早く起きて稽古して、学生服に着替えて電車で通学して帰ってきて勉強。そしてまた相撲の稽古や弟子としての仕事もしなきゃいけないから大変でした。これは二足の草鞋は履けないな、と思い、親方に「相撲に専念したい」といったら大喜びですよ。もっと早く決断していてくれたら苦労もなかったのに、とそんな感じでした。まあ、それで相撲一本でやっていくのだと腹が決まりましたよ。

―― 話は戻りますが、当時の新弟子検査は、どんなものでしたか?

身長170cm、体重70kgが合格ラインでした。でも。今みたいに厳密じゃなくてね。身長は178cmくらいあったけど、体重は70kgなかった。それで1週間後に再検査があって、朝から目いっぱいご飯を食べていったのだけど、どうしても70kgま でいかない。体重計に乗ったら、やはり70までいかない。検査役の親方が、「1回降りて、もう一度乗れ」と言われて乗りなおすと、なんと70kgを越していた。親方の足も体重計に乗っているのですよ。それで合格でしたね。

―― わたしの記憶では、千代の山という力士は、大きいのだけど華奢な感じがしましたね。あまり器用ではなかったような印象でしたが、師匠としては、どんな感じの親方でしたか?

やさしい親方でしたね。あまり怒られた印象がないです。

―― 教えてもらって記憶に残っていることはありますか?

あまり覚えていないですね。「とにかく相撲は人に聞いてやるものじゃない。みんな同じようなことをやるのだから、同じようなことをやっていてもダメだ」とは言われましたね。それと「部屋付きの親方から受けたアドバイスは聞きなさい」とは言われましたね。

―― 新弟子のころ、股割をさせられると、痛くて泣く子がいるといいますが、本当なのですか?

そりゃね、スポーツをやっている子どもとやってない 子どもじゃ違いますね。わたしも最初は、股割は大変でした。

―― それで、いよいよ相撲に本腰を入れていくわけですが、辞めたいと思ったことはありませんか?

どんなことがあっても辞められない、と思いましたよ。ケガは再三しましたが、その都度、「もうダメかな」とも思いましたが、心が弱いから番付けが落ちるのだ、と思っていました。ケガをして番付が落ちるのは仕方がないとは思っていましたけどね。

出世はするものの ケガとの戦いだった

「やっぱり、大銀杏結って相撲を取るのは気分いいね」
十両にカムバックした九重貢

―― 初土俵のことは覚えていますか?

初日は黒星スタートでしたが、教えてもらったことを きちんとやったら5連勝。最後負けたけど5勝2敗でしたね。それが序ノ口の成績でした。

―― 5勝2敗は立派な成績ですね。たしか四股名は「大秋元」でしたね。

入門してすぐ、親方から「とうぶん本名でいこう」って言われたのですが、他の部屋に「秋元」という力士がいて、小さいより大き いほうがいいだろうと「大秋元」になりました。

―― しかし、大秋元という四股名は、そんなに長くはなかったですね。

そう、2場所かな。親方が「大秋元改め千代の富士だ」と四股名を決めてくれたのですよ。

―― それは、千代の山と北の富士を合わせてつけてくれたのですか?

後から、そう聞きました。期待されていたのだね。 親方も見る目があったね(笑)

―― その当時は、どんな取り口でしたか?

親方がつっぱり相撲だったからね。まずは、つっぱって自分の形に持ち込んで、という相撲でした。

―― 親方の得意技は投げ、という印象が強いのですが。

当然番付により、相手によりでしたね。ケガをしないということもありましたが、前ミツを取って潜りこんでいき食らいつくという型でしたね。

新横綱で故郷に錦も、左足に包帯して 土俵入りした九重貢(北海道・福島町)

―― 肩の脱臼に苦しまれたと思うのですが、それはいつごろからですか?

3段目のころからですね。そのころ、脱臼してからクセになっちゃった。最初にはずれたとき に自分で入れられたので病院に行かなかったのですよ。それがいけなかった。

―― それが生まれて初めての脱臼ですか?

そうです。

―― ショックではなかったですか?

何がなんだか分からなかったですね。左の肩なのですが。

―― ケガのあとは休んだのですか?

休んだこともありましたね。突っ張っていって、相手 に腕をたぐられると外れてしまう。その後、筋肉の 断裂とか、いろいろケガをしましたよ。一番最初は 足首の捻挫なのですが、骨折もあって3段目で脱臼ですよ。

―― そうすると若いときは、ほんとうにケガとの戦いだったのですね。

そうですね。まあ、小さな身体で大きな相撲を取っていたからね。

―― 当時も新聞で、千代の富士の名前が最初に出てくるのが、幕下優勝でしたね。7戦全勝でした。

当時、NHKの大相撲放送で「幕下のホープ」というコーナーがあって、そこで取り上げていない力士で優勝したのは、わたしが初めてだったらしいよ。まあ、それだけ期待もされていなかったのでしょうね。

―― 何か幕下優勝に結び付いたエピソードはあったのですか?

別になかったですよ。毎場所納得のいく相撲をとれて、最後は十両の力士とどう取るか、と考えていました。そうすればチャンスが出てくると思ってね。負けたら反省して。

―― 力士になった以上、関取になるというのは 大きな目標ですよね。

そりゃ、そこまでやってきて、いろいろと苦労はあったけども、関取になった瞬間に、いっぺんに気分が晴れました。もう「やった!」という感じで した。同時に「これからが本番 だ」と心をいれかえましたよ。

―― 待遇も違うし、生活も一変しますよね。

それまでやってきたことや言われていたことがすべて生きてく るのだよね。ああ、これなのだと。頑張ってやってきたことが、 すぐに報われたという感じでした。

―― どうですか。関取になる と相撲の取り口も変わるのではないですか?

それは、全く変わりませんでしたよ。それまでやってきたことを詰めなおして、磨き上げて行くのだという気持ちでした。

練習の鬼、ウルフ(狼)の愛称。 そして三賞の常連に

―― 関取になった当時の新聞を見ると、千代の 富士の稽古量は半端でないと書かれています。

まあ、身体が小さかったからね。それくらい稽古しないと。くっついたら離れないという相撲ですから ね。それでも大きな相撲をとっていたね。やっぱり投げで勝つとうれしいのですよ。それも練習量が 増えた1つの理由でしたね。

―― 関取に上がったころ、新聞に身長180cm、 体重100kgと書かれていましたが。

100kgなんて届いてないですよ。大関に上がったころでも100kgはなかったですよ。

―― ということは、常に身体を大きくすることが課題であったわけですね。

それは、当然思っていましたよ。身体が大きくなれるという稽古もしてきましたが、なかなか大きくなれなかった。やっぱり食べても太れない時期もあったし、余裕がある時期もなかったですね。

―― 幕の内に上がってからは、三賞に千代の富士の名前が度々登場してきますね。

これはね、三賞というものが相撲を取るうえで大きな目標になりました。最初に受賞した時は9番勝ってもらうのだけども、大きな自信になりましたね。それからは、相撲を丁寧に取るように心がけました。賞に恥じない相撲ということです。4場所連続で技能賞を取ったこともあります。2桁に届かな いときでも受賞したこともありましたが。

―― 親方自身では、殊勲、敢闘、技能のうちで、一番自分にふさわしいのは何賞でしたか?

やはり技能賞でしょうね。それぞれの力士に賞に値する技能というのがあると思うのです。もちろん、その他の賞にも同等の価値はあります。殊勲賞は、何人横綱を倒したか、ということもありますしね。

―― それで、いよいよ千代の富士も三役に上がっていくわけですが、そのころのライバルというと誰ですか?

それは難しいところですね。あまり上の人を思ってもいけないし、無理なく勝てる人であってもいけないし。自分がどれだけ自分の相撲を取れるかという問題でもあるし。

―― 親方が三役に上がるころは、横綱をはじめ力のある、味のある力士が多かったですね。

力のある、味のある力士が多かったですね。 北の湖、2代目若乃花、増位山、いろんな人がいましたからね。

―― 輪島もいたし、先代の貴乃花もいましたね。

誰も個性的で、よい相撲取りでしたね。そこへ割って入っていくのは大変でした。逆に、相撲を取るのも楽しみでしたね。

―― 昭和56(1981)年初場所、関脇での幕の内初優勝のお話をうかがえますか?

思うがままに取っていたね。次の日の新聞に何が書かれるか、見るのが楽しみでした。そんな毎日でしたね。

―― その関脇時代、自分のどんなところがよかったですか?

やはり相撲の内容でしょう。立ち合いで早く立って、いい形になり、前まわしを取って素早く攻め込む。もう、相手に何もやらせない。秒殺ですね。

―― 短い相撲ですね。

早い短い相撲で体力を温存。変化で逃げるのでなくて、真向に攻め込んでね。それで懸賞金を ガッポリもらって(笑)次の日のスポーツ紙をみれ ば1面でね。優勝のマジックなんて出ましたものね。場所前から、やるべきことがしっかりできていたからこそ、充実した日々も送れた。マスコミの方 もよく書いてくれたと思います。もう期待度もすごかったです。それを力にかえることもできた。

―― あのころの千代の富士のマスコミ対応をみると、実に上手かったですね。

力士は、本当はしゃべるのですよ。NHKが悪いのではないですか(笑)

―― それこそ記者が書きたくなるような、そして デスクが削りたくならないようなコメントが千代の 富士の口から出ていました。

それは、もうサービス精神ですよ(笑)

ついには横綱。 後がないと危機意識を募る。

雲竜型の土俵入り

―― 関脇から大関になっていくころ、相性が良 かったのが増位山関でしたよね。

人のことよりも、自分のやりやすい相撲というのが一番でしたね。それがたまたま増位山関に通じたようですね。

―― 自分をしっかりさせておけば、それなりのことはついてくるということですね。

自分が相撲を取るわけですから、それができなかったら相撲に勝てないですね。人の相撲を見て研究するのも大切ですが、自分がどんな相撲を取るか、ということが重要ですね。自分の身体が、どれだけしっかり覚えた相撲をやっていくしかないのですよ。

―― 当時の横綱になろうという千代の富士の前には北の湖関がいました。どんな力士でしたか?

あの人は邪魔な人でしたね(笑)とにかく、北の湖関がいなければ、どんなに楽だろうかと思っていました。でも大きな壁があったからこそ、自分の相撲も伸びたのだと思いますよ。今の稀勢の里も白鵬がいなけりゃ、もっと早く横綱になれた、と思っているか もしれないけど、やはり努力することが大切ですよ。

―― その北の湖関に、ここ一番というところで勝っていますよね。

そうですね。相性が悪くてもそれに対する対応をしっかりやってきた結果だと思います。

―― 千秋楽に本割で負けて並ばれても決定戦ではよく勝ちましたね。

まあ、本割で負けても決定戦でもう1回できるわけですからね。2回取れば1番は勝てるだろう、という思いもあった。自分の気持ちを上手くコントロー ルできていたのでしょう。

1989年春場所
生後1ヶ月の愛を抱いて

―― 親方はポジティブに考えていたわけですね。

自分のことを気持ち的に追い込むとロクなことがない。それは昔からそうでした。

―― それで、マスコミも横綱は確実と書きまくるわけですが、ご自身は、どういう気分だったのですか?

まあ3場所で2回は優勝しないといけないわけですよ。それは頑張ったからとしかいいようがないで すよね。達成感はありました。もう、大変な地位に上がれたな、でも、いつまでも浮かれてはいられないな、という気分でした。師匠からは、横綱昇進 が決まった名古屋のお寺の宿舎で「成績が悪かったら辞めるしかないぞ」と、すぐに引退のことを言われました。

―― 横綱になったときに、辞めるときのことを言われたのですか?めでたいときになんだ、とは思わなかったのですか?

それは思いましたよ。でも、時間をおいて考えると、それもそうだなと思いました。自信はあったけど、しっかりやらないといけないなと。休場なんかしたら、もう引退だなと思ったよ。

―― その横綱になられて最初の場所で大きなケガをされてしまいますよね。

もう、「引退」という文字が頭に浮かびましたよ。2 日目に足首をケガして3日目から休場です。

一代年寄辞退の発表文を読む二子山理事長(国技館大広間)

―― 真っ暗になりませんでしたか?

もう真っ暗、お先真っ暗ですよ。ケガを治して、次の九州場所に間に合うかどうか、という感じでした。 なんとか九州場所に出場できることになりました。 立ち上がりが不安でしたが、前半から中盤にか けて頑張って勝てた。それが後半になって2連敗してしまって、こりゃ優勝はダメだと思ったら、最終的に優勝決定戦まで持ち込めた。あきらめムードが一転、優勝できた。これが大きかったですね。

―― それで横綱の責任が果たせたということだったのですか?

責任がどうのこうのという前に、10番勝てたら良いな、と思っていたのが優勝できたわけですから。

―― 足首のケガで相撲の取り口は変わったのですか?

いや、ケガをしても相撲自体は変わらなかったですね。ただ精神的なものは変わりました。いい方向で考えられるようになり、何にも負けなくなりました。「なにくそ」という感じになりましたね。

―― 親方の成績をみると、九州場所は滅茶苦茶強いですよね。

横綱になって初めて優勝したのが九州で10年間に9回優勝ですよ。毎年、11月に九州に行くと「そういえば去年も九州では勝ったな」と思うと、「今年もしっかりやれば俺のものだ」と思えました。まさに勝ちにいっていたようなもの。うちのカミさんは九州出身だし、いいとこ見せないといけないしね(笑)

双葉山の69連勝に迫る

―― その後、コンスタントに勝ちだして、双葉山の連勝記録を破るのではないかという時期がありました。

ありましたね。20連勝以上が5度ほどあって、それからでした。

―― 24連勝というのもありました。

24連勝の時は2場所でした。3場所にまたがる と、ちょっと気合が入ります。優勝しても千秋楽で 負けるとパレードしていても楽しくないのですよ。そ れで全勝優勝が2場所続くと、期待もされるし、ここまで来たのに負けたら、なんにもならないぞ、という気になって。それに横綱なのだから勝って当たり前、みたいな気分もあった。

―― 大鵬さんの連勝記録45を破った日、たまたま大鵬さんにあったそうですね。

記録を破った日、気分転換に夜、中洲に出たのです。入った店に大鵬親方がいて、こりゃ挨拶に行かないといけないな、と思って挨拶に行ったら「よかったな、これからも頑張れよ」と言われました。さすがに大きな人だなと思いましたよ。子どものころから相撲界で唯一憧れていた人でしたから感動しましたね。

―― ここで親方にとっては苦い思い出だとは思うのですが、1988(昭和63)年11月場所の千秋楽、連勝が止まった大乃国戦を振り返ってほしいのですが。

連勝が54まで行ったとき、次の場所の千秋楽まで勝てば双葉山の記録に並ぶと新聞に出てね。 そうすると、記録を意識し始めるのですよ。その場所も得意の福岡の場所、もう優勝も決まって、美味しいお酒も飲んでいる。相手は大乃国。もう自信満々でしたよ。ところが、まったくいつもの大乃国ではなかった。立ち合いを、しっかり研究されて いて、ちょっと自分が焦れたときにサッと立たれた。 いつも立ち合いが遅い大乃国に先手をとられたんですよ。自分は前まわしが取れないし、半身になった。しかし、大乃国だから絶対に負けないと思った。余計な自信がどこかにあったけれど、先に攻められて上手が取れない。そこで巻き替えて2本させました。その時すぐに回り込めばよかったのだけど、振りにいってしまった。相手は200kgの巨体ですよ。それで負けてしまった。

―― 立ち合いから焦れてしまったのですね。

どっしり構えられてね。フワァっと立ってしまったのがいけなかった。それに、どんな形になっても負けるはずがない、と。負けたあとで大乃国が手を貸してくれたのだけども「自分で起きられるわ」と手を払ってしまった。腹立たしいというか、悔しくてね。苦い思い出ですよ。部屋に帰ってビデオを見たら「これは勝てる相撲じゃないな」と思いましたよ。負けた相撲はよく覚えています。「負けて覚える相撲かな」ですよ。

引退を決意。一代年寄を断り、九重の名跡を継ぐ

―― それで、連勝が止まって、またケガとの戦いが続きます。いよいよ現役に見切りをつける時がきます。

20数年間、相撲を取ってきてね、「あれ、なんで肉離れするのだろう」なんてことが増えてきた。筋肉と筋肉とのぶつかり合いですからね。そういう自覚のないケガが増えてきた。そんな時、体力が落ちてきたのかな、引退かな、という考えがフッと頭をよぎる。一方で「引退はまだ早い」という考えもおこる。しかしあるとき「もう、これは、無理だな」と思った。ボロボロになるまで相撲を取るのも美学ですが、自分の考えで踏ん切りをつけることはできました。

―― それで引退されて、一代年寄りの話もお断りになった。

これもいろいろあってね。先代の師匠と相談して、千代の山から受け継いだ部屋だから、君にやってもらうのが一番だ、ということで、今の形になりました。

―― それで千代大海を育てられ、何人も関取を育てられてきました。ご自身の相撲理論を、お弟子さんに伝えられたと思いますか?

100%教えることは難しいと感じますね。千代大海にしても自分の相撲とだぶらせるのだけれども似ていないですよね。やはり型に当てはめることではなく、個性を見出して、それを伸ばすことだと。人から「よいお弟子さんを育てられましたね」というのは嘘だと思います。それは、弟子がそう育ったのですよ。

―― 日本体育大学との連携もうまくいっていますね。

部屋の弟子たちは、途中から入ってきた力士に良い影響を受けているし、相乗効果が出ていますね。それで5人も関取が生まれた。お互い頑 張って、わたしはサポートをしっかりやっていく。それが良い形になっている。

―― 親方の定年制も伸びそうな情勢ですね。

わたしは65歳まで、しっかり親方業をまっとうします。それから、バトンタッチですね。

あと5年で大相撲の状況もガラリと変わる

―― 2020年に東京でオリンピック・パラリンピックが開催されます。大相撲の良いアピールのチャンスだと思いますが、どうお考えですか?

国技館もボクシング会場になるようですね。いまでも大相撲は十分海外に門戸を開いています。オリンピックで日本が世界から注目され、大相撲が伝統スポーツとしてより広く理解されるようになればいいですね。

―― 現在、日本人の横綱がいないわけですが……。

やはりその質問が来ましたね。これは協会の中でも待望していますよ。大関以下の日本人力士が頑張らないと。 白鵬がいるから上がれないと、努力をしていない。もう白鵬と半年くらい寝食を共にするくらいの努力をしないと。

―― 期待して大丈夫ですか?

ダメでしょう(笑)白鵬が現役でいるうちはね。

―― いまは辛抱のときですか?

このまま終わってしまうね(笑)でも白鵬も29歳でしょ。あと5年くらいで、上位が引退すれば、がらりと状況も変わりますよ。

―― 親方が引っ張ってきた大相撲ですから、親方の予言を信じましょう。今日は、どうもありがとうございました。

  • 九重貢氏 略歴
  • 世相
1909
明治42
常設相撲場、国技館が完成
相撲の大衆化が進む
1910
明治43

国技館で第1回東京学生相撲大会開催

1925
大正14
財団法人大日本相撲協会誕生
1927
昭和2
東京、大阪両相撲協会合併
1928
昭和3
仕切時間、仕切線の設定
1931
昭和6
土俵の改革
土俵の直径13尺を15尺(4.55m)に二重土俵を一重に改める
1945
昭和20
空襲で両国・国技館が被災

  • 1945第二次世界大戦が終戦
1946
昭和21
日本相撲連盟創立
  • 1947日本国憲法が施行
  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951安全保障条約を締結
1952
昭和27
四本柱の撤廃 代わりに吊屋根、四色の房を下げる
1953
昭和28
大阪を春(3月)、東京が初、夏、秋の年4場所となる
1954
昭和29
蔵前国技館開館

  • 1955九重貢氏、北海道に生まれる
  • 1955日本の高度経済成長の開始
1957
昭和32
11月に九州本場所を設け年5場所とする
正式呼称を1月、3月場所の様に月を使用する
1958
昭和33
7月に名古屋場所を設け年6場所制とする
財団法人大日本相撲協会、財団法人日本相撲協会に改称

  • 1964東海道新幹線が開業
  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
  • 1970九重貢氏、先代九重親方(元横綱千代の山)に声をかけられ、入門を決意
    九重貢氏、秋場所新弟子検査にて、身長177.5cm、体重71kgでパス
    九重貢氏、九州場所新番付にて、「大秋元」のしこ名で初めて番付に載る(東序ノ口10枚目)
    九重貢氏、「千代の富士」と改名
1971
昭和46
第1回中学生相撲選手権大会開催

  • 1971九重貢氏、稽古中に右足首を骨折し入院
  • 1972九重貢氏、横綱北の富士から「狼」とあだ名をつけられ、後に「ウルフ」となる
  • 1973オイルショックが始まる
  • 1974九重貢氏、秋場所千秋楽にて7戦全勝で 幕下優勝。入門以来初めての優勝となる
  • 1976ロッキード事件が表面化
1977
昭和52
ブラジル相撲連盟の招待により、第1回相撲親善使節団派遣

  • 1978九重貢氏、夏場所千秋楽にて東前頭5枚目で9勝6敗。初の三賞(敢闘賞)
  • 1978日中平和友好条約を調印
  • 1981九重貢氏、初場所千秋楽にて東関脇で14勝1敗。横綱北の湖と同点決勝のすえ初優勝
    九重貢氏、春場所の番付編成会議、理事会にて大関昇進が決まる
    九重貢氏、名古屋場所千秋楽にて横綱北の湖と同点決勝のすえ優勝
    九重貢氏、秋場所の番付編成会議、理事会にて第58代横綱に推挙される
  • 1982東北、上越新幹線が開業
1983
昭和58
国際相撲競技会発足
1984
昭和59
蔵前国技館閉館式が行われる

  • 1984香港が中国に返還される
1985
昭和60
両国新国技館開館

  • 1985 九重貢氏、初場所12日目で幕内400勝達成
    九重貢氏、初場所千秋楽にて15戦全勝で11回目の優勝
  • 1986 九重貢氏、名古屋場所5日目で幕内500勝を達成
    九重貢氏、都民文化栄誉賞を受賞
  • 1987 九重貢氏、九州場所8日目で幕内600勝を達成
  • 1988 九重貢氏、秋場所14日目で序ノ口以来通算900勝を達成
  • 1989 九重貢氏、春場所12日目で幕内700勝を達成
    九重貢氏、秋場所13日目で巨砲を破り大潮の通算勝星964を抜く史上1位の965勝をマーク。
    同時に29回目の優勝を果たす
    九重貢氏、秋場所千秋楽にて7回目となる全勝優勝
    九重貢氏、角界初の国民栄誉賞を受賞
1990
平成2
第1回全国都道府県中学生相撲選手権大会開催

  • 1990九重貢氏、九州場所9日目で幕内800勝を達成
    九重貢氏、九州場所千秋楽にて13勝2敗で31回目の優勝
  • 1991 九重貢氏、初場所初日に降三杉を破り 北の湖の804勝を抜く幕内勝星805勝の新記録達成
    九重貢氏、夏場所3日目、貴闘力に敗れた夜、九重部屋で引退表明
1992
平成4
国際相撲連盟創立
アジア相撲連盟創立
第1回世界相撲選手権大会、両国国技館にて開催

  • 1992九重貢氏、九重を襲名し九重部屋を継承
1993
平成5
日本相撲連盟、財務委員会を設け財務基盤の安定を図る

  • 1994九重貢氏、日本相撲協会の審判副部長に就任
1995
平成7
貴乃花光司氏、65代横綱となる

  • 1995阪神・淡路大震災が発生
1996
平成8
新相撲連盟創立
1998
平成10
選手強化本部が設けられる
世界相撲選手権大会を目指しジュニアの強化とナショナルチームの選手強化を図る
若乃花勝氏、66代横綱となる
2002
平成14
財団法人日本相撲連盟の本部会館建設
2003
平成15
朝青龍明徳氏、68代横綱となる
2006
平成18
財団法人日本相撲連盟創立60周年記念式典と祝賀会を行う
相撲振興発展功労者45名が表彰
2007
平成19
5月場所、相撲の歴史上初めて、外国出身関取が最多の18人となる
新相撲連盟、日本女子相撲連盟に改組。
女子相撲の充実を図り国技競技入りを進める

  • 2008九重貢氏、広報部長並びに指導普及部長に就任する
  • 2008リーマンショックが起こる
2010
平成22
第21回全国都道府県中学生相撲選手権大会から体重別を導入
無差別級と軽量級の選択を可能にし出場選手の幅を広げた

  • 2008九重貢氏、審判部長(ドーピング委員長)、新弟子検査担当となる
  • 2011東日本大震災が発生
2012
平成24
北の湖敏満親方、12代目理事長に再就任
2014
平成26
日本相撲協会は公益財団法人の登記を行い、新法人としてスタートする