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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

セミナー「子供のスポーツ」
オリンピアンかく語りき
第19回
パラリンピック水泳に咲く大輪 

成田 真由美

1964年に開催された第18回東京オリンピックを記憶している人でも、その直後に開催された第2回東京パラリンピックを覚えている人は少ないかもしれない。それもそのはず、当時はまだ「パラリンピック」という言葉は単なる愛称に過ぎなかった。これは、下半身麻痺を意味する「パラプレジア(paraplegia)」の“パラ”と“オリンピック”をつなぎ合わせた日本人の発案による造語である。しかし身体の障害は下半身麻痺だけではない。手、足、耳、目などに障害を持つ人々もいるため、東京パラリンピックは、「第13回国際ストーク・マンデビル車いす競技大会」と、全身体障害者を対象にした日本人選手だけの国内大会の二部構成で開催された。

この形式はその後、継承されず、車いす以外の障害者が再び競技に参加できるようになったのは1976年のトロント大会から。「パラリンピック」が大会の正式名称として使用されたのは1988年のソウル大会からで、「パラ」の意味するところは「Parallel(類似した、同様の)+オリンピック」に変わった。ソウル大会を含めて、92年はバルセロナが、96年はアトランタが、オリンピック終了後、引き続きパラリンピックを開催したが、正式に同一都市で開催することを決定したのは意外と新しく2000年のシドニー大会期間中のことである。

今回のゲストはパラリンピアンとして4大会に出場し、金メダル15個、銀3個、銅2個を獲得した競泳の成田真由美さんだ。パラリンピックの思い出、バリアフリーについて、障害者スポーツの在り方、2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会に懸ける思い等について伺った。

聞き手/西田善夫 文/山本尚子 構成・写真/フォート・キシモト

中学生のときにせき髄炎を発症し車いす生活に

―― 成田さんは「明るいね」とよく言われるでしょう。部屋に入ってきただけで、パーッと空気が変わりましたよ。イベントなどでもよくお会いしていましたが、いつもニコニコしていますし、昔からの持ち味でしょうか。

よく言われます。子どものころから両親が共働きで私はカギっ子でした。小学校1年からガールスカウトに入って、募金活動や老人ホームに慰問に行ったりという活動や、学校ではクラス委員をやり、他に習いごともして、夜ご飯をつくって両親の帰りを待つというように、活発で積極的なほうでした。

地区運動会で準優勝。前列中央(小2)

地区運動会で準優勝。前列中央(小2)

―― スポーツは得意だったのですか。

はい。私、あまり気づかれていませんが、174センチと長身なのです。子どものころから大柄で、おてんばで、小学生のときに100メートルを13秒ちょっとで走るくらい足が速かったんです。先生には、中学に入学したらすぐに全国大会に行けるぞと太鼓判を押されていたほどです。でも走れなくなってしまって……。

―― どんなことがあったのでしょう。

中学生になって陸上部に入部しました。そのすぐあとで、長身を買われてバスケットボール部の顧問の先生にスカウトされました。バスケ部は強く、陸上の大会にも出場していいということだったので、すぐバスケ部に移りました。
でも5月ごろから左足の膝が痛み始めたのです。なかなか病名がわからず、病院を転々としました。痛みは酷くなるばかりで、学校へはほとんど行けず、「横断性せき髄炎」という病名が判明したのは16歳目前のころでした。足はなんとか切断は免れましたが、車いすの生活になりました。

24歳で水泳を始めるも事故で頸椎を損傷

家族旅行で姉(小6)と。左本人(小2)

家族旅行で姉(小6)と。左本人(小2)

―― 病気が原因だったのですね。水泳との出合いはどのようなかたちでしたか。

入退院を繰り返す毎日でしたが、それでも高校へ入学し、18歳で車の免許を取りました。活動範囲が広がり、車いすのバスケットボールや陸上にもチャレンジするようになりました。スポーツの楽しさを思い出したころ、障害者スポーツ文化センター(横浜ラポール)の仲間に「リレーのメンバーが足りないの」と水泳の大会に誘われたのです。1カ月間猛特訓をして、25メートルと50メートルの自由形で金メダルが取れました。

―― いきなり優勝ですか。やはり強かったのですね。

いえ、私、歩けるころは泳げなかったんですよ。

―― えっ?

だから誘われたときに一度はお断りしたんですが、大会が仙台で行われると聞いて、美味しいものがたくさんあるな、と心が動きました。

―― 笹かまぼこ、萩の月……。

そうです。帰りには福島の喜多方でラーメンも食べたいなあと。それでOKしてしまいました。

―― はあ。

水がこわいと思う気持ちと闘いながら、おそるおそるプールに入ってみると、足が軽くなって、ふわあっと体が浮いて、自由に動ける喜びを手に入れたと思いました。でもその大会からの帰り道、高速道路で追突事故に遭い、頸椎を損傷して5カ月の入院です。体温調節ができなくなり、左手に障害が残りました。それが24歳のときです。

7カ所目のスイミングクラブで やっと……

アトランタ大会水泳で5個のメダルを獲得

アトランタ大会水泳で5個のメダルを獲得

―― 過酷ですね……。そこから、すぐアトランタのパラリンピックを目指すようになったのですか。

水泳仲間がずーっと励まし続けてくれましたから。水に戻って4カ月後、1995年、アトランタでのプレパラリンピック大会に出場してみたら、思わぬ好成績をおさめました。
そこで「1年後、絶対にこの場所に戻ってくる!」とパラリンピック出場を心に誓いました。

―― いよいよ本格的にトレーニングを始めたのですね。

そうです。そこからは自己流ではなく、本格的にコーチにつこうと考え、スイミングクラブを探しました。でも「車いすです」と言った途端に断られました。6件断られてあきらめかけたとき、知人が横浜サクラスイミングスクールを紹介してくれて、そこで出会ったのが、1984年ロサンゼルスオリンピックの水球日本代表だった福元寿夫コーチです。日本の水球がオリンピックに出場したのは、ロス大会が最後じゃなかったかな。

―― ああ、そうだそうだ。

あまりの私の勢いと熱意に、コーチはロスでの開会式での感激が蘇り、それを私にも経験させたいと思ってくれたようです。その日から二人三脚の練習が始まりました。

心のバリアフリー

アトランタ大会水泳で5個のメダルを獲得

アトランタ大会水泳で5個のメダルを獲得

―― 成田さんの横浜サクラスイミングスクールは、バリアフリーになっているのですか。

いえいえ、個人経営のスイミングスクールで、入口に段があって、更衣室へ行くのも段があって、プールに入るのにも段があります。私、10センチほどの段であれば一人で上り下りできますから。かれこれ17年通っていますが、未だにバリアフリーになっていない。私はそこが気に入っています。

―― え、気に入ってるの?

ええ。私が入ったことによって段をなくすのではなく、段があっても自力でできるならそのままでいいじゃないかと。そういうスタンスが私には心地よくて。どこもかしこも便利で使いやすいのが一番いいことなのかもしれませんが、「誰かの力を借りればできる」という部分も大切だと思うんです。
例えば2階のトレーニングルームに行くにはエレベーターがないので、コーチたちが私をおぶってくれます。「こいつ、重たいな」「腰折れちゃうよ」なんて言いながら。トレーニングが終わるとまた下ろしてくれます。私にとってはそれもバリアフリーで……。

―― ああ、“心のバリアフリー”。

そうです、そうです。

私が今あるのは福元寿夫コーチのお陰

シドニー大会後、福元コーチと

シドニー大会後、福元コーチと

福元コーチにとっては障害者の指導は初めて。お互いにコミュニケーションを重視して、とにかくたくさんいろいろな話をしました。メールのない時代ですから、毎日、交換ノートです。口に出して言いづらいことを包み隠さず綴っていきました。

―― コーチからはどんな言葉が戻ってきましたか。

コーチはあまり反応してくれなくて、平仮名で「ふくもと。」って書いて終わりなんですけどね。それでも信頼関係を築くことができたと思っています。今でもときどき、あらためてコーチに感謝の気持ちを示したくなると、「コーチ、ありがとう」とメールで送ります。コーチは「照れるよ」なんて言っていますが。

―― いい話ですね。

私がこうして今いられるのは本当に福元コーチのお陰です。そのことは決して忘れてはいけないことですから。

“パラリンピック”という活字を1回でも多く

―― パラリンピック初出場のアトランタ大会(1996年)で、成田さんは金メダル2個、銀2個、銅1個の成績でしたね。

あのころはまだ「パラリンピック」という言葉が日本の中で浸透していなかったので、1回でも多く「パラリンピック」という言葉を活字にしてもらいたいという思いを持って頑張りました。

―― ああ、まだそんな時代でしたか。

金メダルを取った後、取材が増えたので、ここがチャンスだと思い、たくさんの取材を引き受けました。

アスリートとして水泳に全てを注ぐ

アトランタ大会。日本選手団入場行進

アトランタ大会。日本選手団入場行進

―― あなたはいろいろ大変な経験をなさっているのに、それをポジティブに、いい方向へ変えていく力を持っているのですね。

そういう面はありますね。私はパラリンピックとパラリンピックの間の4年は、必ずといっていいほど入院をして、満足に臨めた大会というのは一度もないんです。でもパラリンピックという大きな目標があったから頑張ることができて、何とか次の大会に間に合って、アトランタ、シドニー、アテネ、北京に出場してこれだけの結果を出すことができました。

―― なるほど。

ご飯を食べることも水泳のためだし、寝ることも水泳のため。競技者としてそういう意識を持って努力を続けてきました。コーチの命じるまま無我夢中で、それは本当に苦しいトレーニングをしたからこそで、楽な練習をしていてはこういう結果は出なかったと思います。
私は手足のほかに心臓も悪いので、練習は1日1時間と決められていました。そんな条件の中で両足にバケツをつけて泳いだり、猛特訓をしました。1時間で2000から3500メートルくらい泳ぎます。ウエートトレーニングは1回3時間で週3回。そのうえで仕事も講演活動もしていました。

シドニー大会。  金メダル6個を含む7個のメダルを獲得

シドニー大会。
金メダル6個を含む
7個のメダルを獲得

―― 数えてみると、シドニーパラリンピック(2000年)では金メダル6個、銀が1個。
アテネ大会(2004年)では金7個、銅1個。北京ではクラス分けの問題もあってメダルなしでしたか。

その前の3大会よりも、一つ障害の軽いクラスになってしまったので、北京では3種目とも5位に終わりました。その理由がわからず、日本代表選手団はすぐ抗議をしてくれたのですが、抗議そのものを受け付けてもらえませんでした。

―― そうでしたか。しかしこうやってみると、「ああ、これは僕は見ていたなあ」とか「そういう背景があったのだなあ」と思い浮かびます。あなたの勝利というものは、人の思い出の中にずっと残っていますね。

ありがとうございます。

永遠のライバル・カイ選手のために 5日間で千羽鶴を折り上げた

―― 成田さんには、永遠のライバルがいるとか。そのお話をしてもらえますか。

ドイツのカイ・エスペンハイン選手です。アトランタ大会の前半で、経験も実力も私より上のカイ選手が金メダルを4つ取っていました。残る種目は、自由形の100メートルと50メートル。「カイに勝ちたい!」 ただその思いだけで泳いだら、なんと両種目とも世界新記録で優勝できたのです。「それでも金メダルの数は2対4で私の負け。4年後は絶対カイ選手より多くのメダルを取ってみせる」という目標ができました。カイとは閉会式で「4年後、シドニーで必ず会いましょう」と誓い合いました。

―― そうしてシドニーでまた対決したわけですね。

私にとっても肩を痛めたり浮き沈みのある4年間ではあったのですが、再会したカイ選手は体調に問題を抱えているようでした。レース結果は私が金6個と銀1個。カイ選手は銀メダル5個に終わりました。「カイ選手に勝つ」という目標は達成されましたが、最後のレースが終わって、どちらからともなく2人で抱き合い、声を上げて泣きました……。

―― お互いに2人が対決する最後のレースということを予感したのでしょうか。カイ選手が亡くなったのは?

それから2年後のことです。34歳の若さでした。カイ選手のお母さんから「命が危ない」という連絡をもらったとき、私も体調が悪く、入院していて面会謝絶の状態でした。そんな私に何ができるのかと考え、千羽鶴を折りました。5日間で全部折っておくりましたが、私の千羽鶴が届く1日前にカイは亡くなったそうです。
たった1日……。私は後悔しました。なぜもう1日早く鶴を折ろうと思わなかったのだろうと。

カイ選手の墓前に金メダルを捧げる

アテネ大会。金メダル7 個を含む8 個のメダルを獲得

アテネ大会。金メダル7 個を含む8 個のメダルを獲得

―― あなたの気持ちはきっとカイ選手に届きましたよ。

私もそう信じて、2年後、アテネ大会に臨みました。そこでは私、金メダルを7つ取りました。そのうち世界新記録は6種目。唯一、記録をつくれなかったのはカイが記録を持つ50メートル背泳ぎでした。
翌2005年1月、私はカイの故郷、ドイツのライプチヒに飛び、カイの墓前に50メートル背泳ぎの金メダルを手向けてきました。

―― わざわざ行ったのですか。

はい、そうです。カイのお母さんは涙を流しながら私に尋ねました。「ねえ、マユミ、このメダル、本当に置いてゆくの?」と。

―― あなたは何と……?

「カイが生きていたら、このメダルは絶対にカイが取っていたはずだから」と答えました。カイ選手は素晴らしい仲間であり、ライバルです。カイ選手が亡くなった後の北京大会の前でも、私はライバルはだれと問われたら、「カイ選手です」と答えていました。私は今でも泳いでいます。いつも、カイが一緒に泳いでくれていると感じています。“カイの金メダル”は今もドイツで光り輝いているはずです。

ロンドン大会で初めて解説に挑戦

スカパー集合写真。ロンドン大会スタッフと(前列中央)

スカパー集合写真。ロンドン大会スタッフと(前列中央)

―― 昨年のロンドンパラリンピックでは、初めて解説に挑戦されたそうですね。難しかったでしょう。

難しかったですね。時間も決められていましたし、私、「さしすせそ」の発音が上手にできないので、もうどうしようかと思いました。 でも選手のみんなが水泳仲間で、けがを乗り越えてパラリンピックの舞台をつかんだ経緯なども知っているので、私はつい”お母さん目線”になって、最後はもう涙目でした。

―― そうでしたか。解説者が一緒に泣いてくれる放送なんて、泳ぐ人にとってはうれしいでしょうね。

いけないかなと思いつつ、どうしてもそういう感情が入ってしまいます。

―― いや、いけないことはないですよ。そこはアナウンサーがきちんと「成田さんが泣いています」とフォローするでしょうし。

そうですか、いいでしょうか。

―― そういうあなたの心境を聞くのも、放送にとって意義あることですからね。

とてもいい経験をさせてもらったと思っています。

“言葉の力”を大事にしたい

―― あなたの話を聞いていても、最近のスポーツ選手はしっかりと物事を考えて、表現できるようになった。説得力があるというか、発信する言葉が非常に心を打ちます。

私が水泳チームの女子キャプテンをしたパラリンピック大会の時、みんな緊張しているのがわかりました。会場は開催国の選手への声援がすごくて、ある全盲の女子選手は見えない分、より一層緊張感が高まっている様子が見てとれました。そこで、「あなたが泳ぎ始めた途端に、この声はみんなあなたの応援になるよ」と背中を押して送り出したら、銀メダルを取りました。

―― へえ!

ある両腕がない選手には、決勝の前に「予選であなたの泳ぎが一番よかったから、自信を持って行ってらっしゃい」とお尻をバーンとたたいて送り出したら、その選手もメダルを獲得しました。実は私、予選は見てはいませんでしたが……。それらの経験から、言葉には力があるということを実感するようになりました。

―― あなたは明るさはもちろん、スポーツウーマンとして非常に大事なものを持っていますよね。

講演会に行くと、私の言葉をメモしてくださる方がいて、「成田さんのこの言葉を僕は忘れないよ」って。そう言っていただいたりすると、ああ、よかったなと感じます。

―― それはあなたの言葉だからこそ、人の心を打ち、心の中に残るのでしょう。

そう言えば、私の講演を中学生のときに聞いて理学療法士の資格を取った方がいたり、やはり小学生のときに聞いた私の講演会がきっかけで医学部に入ったという人は今5年生だそうです。

―― それはすごいや。

少し面映ゆい(おもはゆい)ところもありますけれども、うれしいです。

―― あなたの言葉を聞いて進路を決めた人がいる。あなたがその道をつくっている。影響は大きいですね。

ええ、ですから本当に言葉一つひとつを選び抜いて使わないと、ということを肝に銘じています。

―― 2020年東京オリンピック・パラリンピック招致の最終プレゼンテーションをした走り幅跳びの佐藤真海さんもそうですが、自分の体験に基づいた話というのは訴えかける強い力を持ちますね。

初めて講演会をしたときは、自分の体験を人に話すことに抵抗感がありました。こんな私の話でいいのかなと。でもそのとき、学校のPTAの方たちだったのですが、「すごく共感しました」と言ってくださって。それからは、「今日はどんな出会いが待っているかな」とワクワクするようになりました。

―― そう感じられるようになったらしめたものですよ。

マスターズ水泳に挑戦中

―― 成田さんがヒロインとして新聞などで大きく報道されるのにつれて、障害者スポーツへの注目も、十分ではないにしても高まっていきました。声を掛けてくれる人がいたりといった変化はありましたか。

すごくあります。私、今は障害者の水泳大会ではなく、18歳以上から高齢者まで、年齢ごとに区分けされた健常者のマスターズ水泳大会に出場しています。最初、申し込んだときには「前例がないから」と断られましたが、じゃあないなら、私が前例になればいいと思って出させてもらいました。
私は、飛び込みができない、キックができない、クイックターンができないの3拍子で、レースではものすごく遅れを取ったんですね。ようやくプールから上がったとき、それはもうたくさんの人が拍手をしてくださって。それは同情の拍手ではなく、スイマーとして認めてもらえたように私には聞こえました。

―― うれしいことですね。

はい。でも大差をつけられてビリになったことが悔しくて泣きました。コーチには「おまえは歩ける人に勝てると思っていたのか」と呆れられましたが、負けることの悔しさをあらためて実感しました。
今、私は年間5〜6試合はマスターズ大会に出ています。プールサイドまで車いすで行けば、あとは手だけでこうやって泳げるんだということを見知っていただくいいチャンスですし、「成田さん、今年も会えたね」と声を掛けてくださる方がたくさんいて、それはとても喜ばしいことだなと思います。

―― そうしますと、成田さんの今後の目標の一つに、マスターズ水泳で泳ぎ続けるということもあるのですね。

はい、マスターズに出場しながら伝えていけることはたくさんあると思いますし、発言していくことも必要になっていくと思っています。パラリンピックの出場というかたちでなくても、私はこれからも泳ぎ続けていくので、引退ということはありません。アスリートとしては、60歳ぐらいになったときに、マスターズの大会で8位以内に入ることを目標に定めています。

障害者スポーツをもっと身近に

ロンドン大会。陸上競技・佐藤真海選手

ロンドン大会
陸上競技・佐藤真海選手

―― 海外でのパラリンピアンに対するアクションというのは、日本のそれと何か違いはありますか。

ありますね。シドニー大会の時、メダルセレモニーのあと、プールサイドで応援してくれていた子どもたちがやってきて、「サインをくれ」と言われたときには、「えっ? 私のサインでいいの」と驚きました。当時は書き方もわからないし、日本だとサインと言えば色紙ですが、海外だと子どもたちが自分の着ているTシャツを手で引っ張って「ここに書いてくれ」とか、かぶっている帽子をパッと取って「帽子にサインをくれ」とか。

―― すごい反応ですね。

海外ではパラリンピックもオリンピックと同じ価値を持つ大会だとわかってくれていることが多いです。それは日本でもそうあってほしいと思いますね。

―― またそれだけファミリー化しているというか、障害者スポーツが身近なのでしょうね。

2020年東京パラリンピックを ライブ中継でともかく見てほしい

ブエノスアイレスにて。「アスリート宣言」(前列左)

ブエノスアイレスにて。「アスリート宣言」(前列左)

―― さあ、2020年、決まりましたね。

はい、決まりました。

―― IOC(国際オリンピック委員会)総会が行われたブエノスアイレスに行っていらしたのですよね。

はい、ジャック・ロゲIOC会長の「TOKYO!」という声が耳にこびりついて離れません。あの瞬間、「ぎゃーっ!」っと叫びました。

―― この7年間というのは、障害者スポーツも含めて、スポーツ界全体に大きな影響を与えますね。

2020年は、パラリンピックという大会をできるだけ多くの人たちに、とくに子どもたちにライブで見てもらえるチャンスです。子どもたちがテレビをつけたら、「ああ、きょうは水泳だ」「陸上をやっている」というように、リアルタイムで見てほしいのです。 そうすれば単純に「何か」を感じてもらえるはずです。それが「スポーツの力」です。
ルールの説明をする前に、とにかくまず見て、感じ取ってもらいたい。見ることによって、理解され、伝わることって多いですよね。「障害者=可哀想な人」ではなく、障害があってもカッコいいアスリートであることを知ってほしいのです。

―― 2020年の東京大会は生中継されるでしょう。

そうですよね。オリンピックが開幕してパラリンピックが閉幕するまでちょうど60日間ですから、丸2カ月間はずっと盛り上がっていただかないと。いえ、盛り上げていかないと。
昨年、ロンドンで流されていたロンドンパラリンピックのCMフィルムはとても素敵でした。片足のない選手が泳ぐ姿、義足の選手が走る姿など、本当にカッコいい映像でした。日本でもああいうCMをどんどん流してほしいと思いますね。

―― アスリートのほうも見られることによって、士気が高まりますしね。

2020年に向けてのバリアフリー対策は 「まだまだ」を変えていく7年間に

ブエノスアイレスにて。小谷実可子さんと

ブエノスアイレスにて。
小谷実可子さんと

またスポーツの素晴らしさもそうですが、東京、日本が真の意味でバリアフリーになってくれることを期待しています。私が車いす生活になったころと比べれば、今はとても生活しやすくはなっています。それでも「まだまだ」と感じる部分が多いので、その「まだまだ」を変えていく7年間にしたいと思っています。

―― 「まだまだ」と感じるところを具体的に教えてください。

今は駅にエレベーターが設置され、駅の構造をネットで事前に調べられるようになりました。でもほとんどの場合、エレベーターは1基しかなく、私が行きたい出口に出られることはまずありません。それでもエレベーターがあるだけありがたいのですが、目的地に最短距離で行けないもどかしさはあります。そのうえ雨の日だったら濡れるので最悪です、傘がさせませんから。それとこのごろ、車いす用のトイレが喫煙所に使われてしまうなんてことも。

―― そうなの、酷いな。

せっかく使える設備があっても、モラルの問題で使用できない。こういう部分の意識も7年後までに変えていく必要があります。

ブエノスアイレスにて。田中理恵さんと

ブエノスアイレスにて。田中理恵さんと

―― 今から始めていかないとね。

そうですよね。2020年東京パラリンピックでは、試合の終わった選手たちは都内観光を楽しむでしょうから、少なくとも東京23区内の全駅にエレベーターが欲しい。そうなると大がかりな工事になるはずです。点字ブロックももっと欲しいですね。

―― そのような視点で、アドバイザーの依頼が来るかもしれませんね。

来年2月に東京オリンピック・パラリンピックの組織委員会が立ち上がりますが、機会があれば大会成功のために声を大にして発言していきたいと思います。

パラリンピアン専用の ナショナルトレーニングセンターを

パラリンピック東京大会。バスケットボール競技

パラリンピック東京大会。バスケットボール競技

―― 近い将来、スポーツ庁の設置が期待されるところですが、それより一足早くパラリンピックの所管が厚生労働省から文部科学省に移りますね。

待ってましたというかそれは望んでいたことでした。私たちがアスリートとしてどれだけ頑張っても、厚生労働省の管轄である以上、どうしてもリハビリテーションの延長という見方をされてしまうので、所管変更は大歓迎です。

―― オリンピアンとパラリンピアンで、かつてはユニホームも違っていましたよね。

そうなんです。同じになったのは、1998年の長野冬季大会からでした。それからもっと必要なのは練習環境です。パラリンピックを目指す選手が、きちんと自分の力を高め、発揮できる環境がもっと必要です。

―― 今、ナショナルトレーニングセンター(NTC)は使用できるのですか。

以前は駄目でしたが、2008年北京大会の少し前ぐらいから使わせてもらえるようになりました。

―― 2020年に向けて、NTCは当然、拡張されるでしょう。 僕はNTCのある東京都北区在住なのでときどき足を運びます。教育委員をしているので、地元の小学生のために陸上のトラックを使わせてくれないかと頼んだら、予定が入っているからダメだと断られました。1カ月に8~9回もトラックを見に行っているのに、ナショナルチームの選手が練習しているところを見たことがないのですがね。

運用のしかたもまだ課題はありますね。オリンピック選手、パラリンピック選手のほかに一般市民・子どもへの開放という……。 柔道ではオリンピアンとパラリンピアンが一緒に練習をする機会を設けています。今後、各競技でもっと交流を深めていくと、お互いにいい刺激になるでしょうね。ただオリンピックの選手もパラリンピックの選手もとなると、人数的に問題が出てきて、おそらくNTCだけでは足りなくなるでしょう。やはりパラリンピアン専用のNTCができるのが一番いいと思いますね。

コーチの環境整備も必要

ブエノスアイレス。祝勝会にて佐藤真海さんと(右)

ブエノスアイレス。祝勝会にて佐藤真海さんと(右)

―― 成田さんは2005年にパラリンピックスポーツ大賞を受賞されていますね。

はい、表彰式には福元コーチと一緒に出席しました。パラリンピックの大会に一緒に行けたことはないので、表彰式はせっかくのチャンスだからと。

―― え、そうなのですか。コーチが日本代表選手団に入れないということですよね。

私個人の専属コーチを帯同することはできません。また日本チームに入るにはいろいろと手続きが必要ですし、水泳に限らず指導者はまだまだボランティア的な部分が多いので、コーチに専念できる環境が整っていません。だからいつも直前まで福元コーチのもとで練習をして、「じゃ、明日から行ってきます」とお別れするのです。本当は大会期間中、コーチに隣にいてもらえたらどれだけ心強いかと思いますけどね。

―― そのあたりも、文科省に管轄が変わる、あるいはスポーツ庁ができることで変わってほしいものですね。

チームとしてはトレーナーさんや栄養士さんも帯同させたいでしょうし。日本障がい者水泳連盟も2020年に向けていろいろな面で変わるべき部分はあると思います。

―― パラリンピック大会でのコーチングスタッフをしっかり編成してほしいという請願や主張はしていっていいのではないですか。もう成田さんが発言をしていい時代ですよ。

そうでしょうか。

―― そうですよ。

選手村に折り鶴コーナー

ブエノスアイレス。祝勝会にてオリンピアンと(前列)

ブエノスアイレス。祝勝会にてオリンピアンと(前列)

―― 2020年に向かって、あなたはどのように歩んでいかれるのでしょうね。

もちろん自分ができる範囲で協力していきたいです。海外からやってきた障害を持つ人たちが本番でベストパフォーマンスを出せるような環境づくりが、私たちのやるべきことなのだと考えています。それこそ最高の”おもてなし”で迎えてあげたいですから。パラリンピックへの理解を深めてもらえるよう、どんどん積極的に発言していかなくてはいけませんね。

―― そのとおりです。

それから選手村で海外の人たちに、例えば「折り紙を折るコーナー」や「羽根つきをするコーナー」や習字とか、日本独特の文化を体験してもらいたいなと思います。今回、IOC総会でブエノスアイレスへ行くとき、飛行時間が長時間だったので、その間、私はずっと折り紙で鶴を折っていました。

―― ほう。

現地に着いて、ホテルの方、タクシーの運転手さん、さらにIOC委員の方などにプレゼントしました。鶴の羽根を開いてそっと置くと、「よくこんなに細かく折れるね」と、外国の人はとてもびっくりして喜んでくれるのです。

―― なるほど。

バリアフリーという言葉さえも 不要になる社会に

―― それでは最後に、2020年のその先の今後に向けての抱負を聞かせてください。

まずは2020年東京パラリンピックの成功を祈って、そこまでのプロセスの中でお手伝いをしていきたいというのが希望です。
そして2020年に大会が終わっても、“バリアフリー”の追求は続けていかなければなりません。
一番良いのは、バリアフリーという言葉を使わなくても障害者が快適に暮らせる社会になることですね。

―― うん、そうですよね。これからも成田さんの活動に期待しています。きょうはどうもありがとうございました。

  • 水泳・成田真由美氏の歴史
  • 世相
1924
大正13
大日本水上競技連盟創設
1927
昭和2
競技規定、クイックスタートに改正
1928
昭和3
アムステルダム五輪開催
日本水連FINAに加盟
1930
昭和5
神宮外苑プール施工
1931
昭和6
第1回日米対抗開催
1932
昭和7
ロサンゼルス五輪開催
1935
昭和10
第2回日米対抗開催
1936
昭和11
ベルリン五輪開催
1937
昭和12
FINA規則改正でデッドスタートに
1938
昭和13
東京オリンピック返上、団体長距離競泳、 女子水上体育大会開催
1944
昭和19
全国皆泳ラジオ水泳開催
1945
昭和20
日本水泳連盟として再発足

  • 1945第二次世界大戦が終戦
1946
昭和21
早慶戦、戦後初競技会、第1回国民体育大会開催
1947
昭和22
古橋廣之進氏、日本選手権大会に出場し、400m自由形で世界新記録を樹立

  • 1947日本国憲法が施行
1948
昭和23
ロンドン五輪開催
1949
昭和24
日本水泳連盟、国際水泳連盟に復帰
1950
昭和25
第3回日米対抗開催、全国勤労者水上開始

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951安全保障条約を締結
1952
昭和27
ヘルシンキ五輪開催
1953
昭和28
国民皆泳行事開始

1955
昭和30
第4回日米対抗開催、中学生通信競技開始

  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
メルボルンオリンピックで潜水泳法が禁止となる。バタフライが新種目となる
1957
昭和32
シンクロ選手権大会が始まる。日本水泳指導者協会再発足
1959
昭和34
第1回末弘室内選手権、第5回日米対抗開催
1960
昭和35
ローマ五輪開催
国際ストーク・マンデビル大会委員会(ISMGC)設立
ローマで国際ストーク・マンデビル大会開催
1961
昭和36
第1回全国中学選抜大会開催
1962
昭和37
第4回アジア大会開催
1963
昭和38
ユニバーシアード開催、日豪対抗開催、
第6回日米対抗開催、東京国際水上
1964
昭和39
東京オリンピック・パラリンピック開催
代々木オリンピックプール完成
日本水泳連盟40周年記念会開催

  • 1964東海道新幹線が開業
1966
昭和41
学童泳力テストを開始
1967
昭和42
東京ユニバーシアード開催
1968
昭和43
メキシコ五輪開催
  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1970
昭和45
選手登録制度実施。コンピューターにより記録整理実施

  • 1970成田真由美氏、神奈川県に生まれる
1972
昭和47
ミュンヘン五輪、日本室内選手権、日本年令別大会開催
1973
昭和48
競泳記録が100分の1秒となる
女子が日本学生選手権大会に正式競技、第1回世界選手権開催

  • 1973オイルショックが始まる
1974
昭和49
財団法人認可。シンクロ第1回パンパシフィック大会開催
水連50周年記念式典(岸記念体育会館)
1975
昭和50
第2回世界選手権開催、短水路日本記録を公認、
第1回全国測量者会議
1976
昭和51
モントリオール五輪、シンクロ第2回パンパシフィック大会開催、第1回全国遠泳大会開催

  • 1976ロッキード事件が表面化
1977
昭和52
ユニバーシアード、第1回FINA
第1回水泳科学研究会開催
教士、範士制度制定、有功章発足、共済会発足

  • 1978日中平和友好条約を調印
1979
昭和54
第4回パンパシフィック大会
第1回ジュニアオリンピック春季大会開催
1980
昭和55
モスクワ五輪開催(日本不参加)
1982
昭和57
第1回日中対抗、第4回世界選手権
日本高校50周年記念大会開催

  • 1982東北、上越新幹線が開業
1984
昭和59
ロサンゼルス五輪開催、五輪にシンクロ(ソロ・デュエット)種目決定
第1回全国女子水球大会開催
「第1回日本身体障害者水泳選手権大会」開催

  • 1984香港が中国に返還される
1985
昭和60
古橋廣之進氏、7代目会長に就任
1986
昭和61
第5回世界選手権(マドリード)開催
FINA GWL世界マスターズ大会(東京)開催
開かれた水連を目指して地域会議開催
1987
昭和62
記録集計コンピューター化
1988
昭和63
ソウル五輪開催
鈴木大地が100m背泳ぎで金メダル
ICC主催により、ソウルパラリンピック開催
1989
平成1
国際パラリンピック委員会創設
1991
平成3
FINA競技規則改正(スタートは3回から2回へ)
1992
平成4
バルセロナ五輪開催
バルセロナパラリンピック開催、水泳に日本人初参加(選手10名)

1993
平成5
東京辰巳国際水泳場会場完成
第1回世界ショートコース大会(パルマ)開催

1994
平成6
アトランタプレパラリンピック開催

  • 1995 成田真由美氏、アトランタプレパラリンピック出場
  • 1995阪神・淡路大震災が発生
1996
平成8
千葉県国際総合水泳場が完成
アトランタ五輪でシンクロが銅メダル獲得
アトランタパラリンピック開催

  • 1996 成田真由美氏、アトランタパラリンピック出場。
      6種目に出場し、金メダル2個・銀メダル2個・銅メダル1個獲得。
1997
平成9
日本短水路選手権から「スタート1回制」導入

1998
平成10
泳力検定がスタート、横浜国際プールが完成
1999
平成11
日本パラリンピック委員会創設
2000
平成12
シドニー五輪で中村・田島が銀メダル。中尾、女子メドレーリレーが銅メダル、シンクロは銀2個獲得

  • 2000 成田真由美氏、シドニーパラリンピック出場。
      7種目に出場し、金メダル6個(世界新5)・銀メダル1個獲得。
2002
平成14
第14回アジア大会(釜山)北島が200m平泳ぎで世界新、アジア大会MVP
2003
平成15
第10回世界水泳選手権(バルセロナ)北島が世界新記録でダブル金
シンクロは金1、銀2個獲得
2004
平成16
サイクルスポーツセンタープールが24年の歴史に幕
アテネ五輪で北島選手が2種目で金、柴田選手は女子自由形で初の金、戦後最多の金3、銀3、銅4の10個獲得
アテネパラリンピック開催

  • 2004 成田真由美氏、アテネパラリンピック出場。
      8種目に出場し、金メダル7個(世界新6)・銅メダル1個獲得。
2006
平成18
FINAシンクロワールドカップ横浜で開催
2008
平成20
北京五輪で北島選手が2種目連覇、金2、銀3個獲得
北京パラリンピック開催
古橋名誉会長が文化勲章を受賞(スポーツ選手では初)

  • 2008 成田真由美氏、北京パラリンピック出場
  • 2008リーマンショックが起こる
2009
平成21
古橋廣之進記念浜松市総合水泳場(ToBiO)が完成
競泳日本代表チームの愛称を「TOBIUO JAPAN(トビウオジャパン)」に決定
古橋名誉会長が世界選手権(ローマ)の大会会期中に急逝
2011
平成23
主要大会を東日本大震災復興支援チャリティー大会として実施

  • 2011東日本大震災が発生
2012
平成24
ロンドン五輪、男子200m平泳ぎ入江陵介、女子200m平泳ぎ鈴木聡美、男子4×100mメドレーリレーで銀メダル。
銅メダルは8個獲得
ロンドンパラリンピック開催