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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

パラリンピアンかく語りき
第44回
我が道ゆく“練習の虫”がもたらした財産

星 義輝

2歳で小児麻痺(ポリオ)を患い下半身の自由を奪われたにもかかわらず、少年時代は山野を遊びつくし、障害者スポーツの世界に飛び込めば“練習の虫”となって2つの分野で日本の頂点に登りつめる。競技者としての結果のみならず、用具の進歩にも貢献している。日本障害者テニス界のエース・国枝慎吾選手を育てた恩人でもある。

驚くべきエネルギーとバイタリティを兼ね備えた人物、星義輝さんが今回のゲストだ。

その道程から、慣習やしがらみにとらわれず我が道を突き進むのみの人生かと思えばにあらず。12年間にわたりナショナルチームを牽引したバスケットボールでも、40代で足を踏み入れたテニスの世界でも、常に目指すは日本における競技の発展だ。

ひょうひょうとしたキャラクターの陰に見え隠れする鋭い知性、そして長い年月を経て今も燃えつづける信念を、とくと感じていただこう。

聞き手/山本浩氏  文/髙橋玲美  構成・写真/星義輝、フォート・キシモト

“手だけ”で山野を駆け回った少年時代

1956年 小学2年生(前列左端)

1956年 小学2年生(前列左端)

―― 今でも毎日筋トレを欠かさないとか?

最近は腹筋を1日3000回やってます。朝6時に起きて、45分で1500回ですね。そして夜にまた1500回。それがもう1年以上続いてますね。おかげで腹回りは10cm減りましたし、体重も7~8kg減りました。

―― 肌ツヤも現役ばりばりな感じですねえ。さて、福島県の柳津でお生まれになった。会津若松から少し入った、風光明媚ふうこうめいびなところですね。どんな子どもでしたか?

2歳で小児麻痺(ポリオ)になりまして。そのころは小児麻痺が流行している時代でした。当時は車いすも杖もろくになかったので、小学4年生くらいまでは手に下駄を履いて歩いていましたね。座ることもできたんですけど、腹筋が弱かったので上半身ふらふらで。

―― ご兄弟は何人だったのですか?

7人兄弟の下から2番目でした。ただ、遊んだ記憶は友達のほうが多いです。友達と川をせきとめて泳いだり、山登りをしたり、いろんなところに行って遊んでいました。

  1966年 家族等と(後列右から父、妹、姉)

1966年 家族等と(後列右から父、妹、姉)

―― 当時、将来の夢を持っていた記憶はありますか?

何も考えてなかったですね。ただ漫然と、テレビをつくる技術師になりたいな、と思ってました。中学生の最初までは頭が良かったんです(笑)。でも中学でいわきの養護学校に入ってから、まったく勉強しなくなっちゃって。今思うと、それまで普通の人と競りあって負けるもんかって生活していたものが、周りも障害者という環境に入って気がゆるんだんでしょうね。少しでも歩けるようになれればなと思って、自分から希望して入った学校だったのですが。

―― いわきの養護学校に入ったときには松葉杖でしたか。

家の裏から木を切ってきて、自分でつくった杖でしたね。

―― いわきの養護学校時代は、体を動かすようなことはやっていたんですか?

中学1年生のときに初めて車いすに乗りました。養護学校ではそれに乗って走り回ってましたね。キャスター上げ(車いすの前輪を浮かせる)の技術も中学2年生のときに自分で発見して覚えました。キャスターを上げて走るとすごく速いんです。

東京進出。 パラリンピックとの出会いがスポーツとの出会い

―― 東京に出てこられたのはいつですか?

養護学校を卒業して、1年間の職業訓練を受けに16歳で出てきました。当時新宿の戸山町にあった国立リハビリテーションセンター(現:国立障害者リハビリテーションセンター)に通ったのですが、そこにパラリンピックに出場する選手も来ていたんです。それで東京パラリンピックを観に行って、自分も障害者スポーツをやってみようと思ったのがスポーツとの出会いでした。

―― パラリンピックではどんな競技を観ましたか?

車いすバスケや陸上競技のスラロームなどを観ましたね。スラロームでは10cmの段を越えないといけないんですけど、日本人選手はキャスター上げができないので越えられなくて、観ながら「何やってんだ」と思っていました。バスケも、対戦相手のアメリカの選手は日本選手がゴールしようとするとわざわざ道を空けてくれるんですよ。「どうぞ」って(笑) それでも全然だめでした(笑)

  1975年 激しいぶつかりあいでの転倒シーン

1975年 激しいぶつかりあいでの転倒シーン

―― それを観て、ゆくゆくは自分もパラリンピックの世界に入っていこうといった気にはなりましたか?

はい。で、リハビリテーションセンターで陸上競技のスラロームの練習をしました。もともと手だけで生活をしていて、手の力は同級生などと比べても強かったので、始めたら上達は早かったです。そして、翌年の全国身体障害者スポーツ大会岐阜大会に東京代表で選ばれて、スラロームと水泳、卓球に出場しました。

―― パラリンピックを観てから始めて、翌年の全国大会に。すごいですね。

いやあ、層も薄かったですしね。まあやった者勝ちって感じかな。東京都の予選は、駒沢で卓球をしたこと、スラロームのタイムを計ったことを覚えています。

―― 当時の車いすはどのようなものだったのですか?

すぐひっくり返りますし、キャスターも大きく、操作性はあまりよくなかったですが、当時はそれが普通でした。バスケットも陸上競技のスラロームも同じものでやっていました。

  1975年 ストーク・マンデビル大会。飛行機から降りる

1975年 ストーク・マンデビル大会。飛行機から降りる

―― 全国大会で卓球とスラロームと水泳に出られて、結果は?

みんな金メダルでした。スラロームではキャスター上げ下げのたびに観客から「おおーっ」と声が上がるのが爽快だったと、ついてきた東京都の職員が言ってました。当時はそんなことする人がいなかったので。ただ、ソウル大会を最後にスラロームがなくなって、キャスターの上げ下げが鍛えられるような競技がなくなっちゃったんですよね。今は車いすも安全になってきているし、東京都内はバリアフリー化が進んでいますから、キャスター上げ下げの必要もそんなにない。でも、電車の乗り降りのときなど役立つ場面もあるので、この技術がすたれるのはもったいないなと思うんですけどね。

―― そのころのスケジュールはどんな感じで刻まれていましたか?

電気関係のハンダ付けの仕事で、平日は朝8時から夕方5時すぎまで働いていました。練習場所が近くになかったので、練習は仕事が休みの土日だけでしたね。

―― 食事や身の回りの世話はすべて会社の施設でしてもらえたのですか?

食事も洗濯もしてもらえました。また、18歳になるまでは、世田谷の寮から品川の会社まで車で送迎してもらっていました。

  皇太子殿下と東宮御所にて

皇太子殿下(当時)と東宮御所にて

―― 指導者や練習仲間はいましたか?

コーチが月に何回か見てくれるという感じでしたね。それ以外はダッシュの練習とか、坂道とか。まずはとにかく直線のスピードを速くしないとテクニックが活きないので、それを主眼に一人で練習していました。

―― では結構単調な練習で、精神的にきつかったのでは?

今もそうなんだけど、練習は好きなんです。単調でも苦にならない。神様は俺に才能は与えてくれなかったけれど、練習する時間だけはたくさんくれたと思っています。仕事をしていて思うようにバスケットボールの練習ができない人も多いのに、自分がさぼってたらあかんよねって言い聞かせながら練習をしていました。

  1983年 第3回大分国際車いすマラソンで10位(中央)

1983年 第3回大分国際車いすマラソンで10位(中央)

―― それだけ練習すると車いすの傷みも速いでしょう。

そうなんです。路面も悪いもんですから、もう1週間に1回くらいはタイヤがやられちゃうんですよ。逆に体は丈夫で、傷めたりといったことはありませんでした。栄養管理に特に気をつけてもいなかったのに。

―― 16歳~17歳のころというと、食べたい盛りですよね。

実は、自分らにはそういう食欲がほとんどないんですよね。下半身を使わないっていうのはそういうことなのかなとも思いました。私の周りの、小さなころから障害があったような方々も同じでした。

―― 逆に言うと、健全な生活ですね。

年をとってからも「肌がいいね」なんて言われますけど、ずっと粗食そしょくですね(笑)

車いすバスケットボールの世界で頭角をあらわす

  1980年 キャンパー付き(日本で初めて星義輝が使用)

1980年 キャンパー付き(日本で初めて星義輝が使用)

―― まずは、自分の重心は陸上競技においておられた?

いや、最初からバスケットをやりたくて、そのためのトレーニングのようなものでした。

―― なぜバスケットだったのですか?

東京パラリンピックのときに、アメリカのタッパーウェアという会社の社長の息子が、車いすバスケットボールの選手として日本に来てたんです。その縁でタッパーウェアが日本にも会社をつくって、日本の車いすの選手を十数人就職させて、バスケットボールのチームを作って全国を回ってたんですよ。 健常者のバスケットのチームに車いすを送って1週間くらい練習させてから、車いす同士で試合をするんですが、すごく迫力があり100対0とかで障害者チームが勝つんです。

―― それはいつごろのことですか?

昭和41年ごろだったと思います。かっこよかったなあ。それでやりたくなって。そのあと、東京にクラブチームができたので、待ってましたと参加しました。月に1回か2回しか練習できないような状態で、コーチもいないなか、みんなで考えながらやってました。だからなかなか伸びなかったですね。

  1980年 このころは全員が  キャンパー付きリアキャスターなし

1980年 このころは全員がキャンパー付きリアキャスターなし

―― ルールは健常者とそんなに変わらないですか?

ルールはほとんど同じです。でもやり方とか練習の方法とか、全然わからなくて。見よう見まねでもなかったですね。見るものもなかったですから。バスケットとはほとんど関係のない、理学療法士の先生がコーチみたいな感じでやってくれましたけど、タッパーウェアの選手から見たら全然話にならないようなレベルでした。

―― で、だんだんと自分がそのレベルに達していく?

そのあと、テレビのチューナーやつまみで全国トップのシェアをもつ民間会社が障害者を40人くらい雇ったんです。当時は画期的ですよね。静岡県の富士山の裾野にその会社がバスケットコートをつくってくれて、そこに選手が集まって来て。自分が18歳のときでした。それで地方にも少しずつチームができはじめ、その年に全国から数チームが集まって試合をしました。自分は一番強いチームに入っていましたが、レギュラーではなかったです。そこのキャプテンがゴムのボールをくれて、「これをすり減らしてみろ」と。 それからは毎日朝6時からコートに出て練習していましたね。昼休みも仕事後も、とにかく練習をしました。2年後に東京に転職をして、10年くらいは、ナショナルチームの連中のつながりを頼って、 練習場所があれば敵チームにでも行って練習していました。

1985年 バスケット大会

1985年 バスケット大会

―― ポジションは?

ガードでした。ポイントゲッターでもありました。

―― それでは選手5人のなかでは頭抜けた能力だったわけですね。

今でも古い知り合いに会うと、「神様」と言われます(笑)

―― 当時はどういう大会がありましたか?

大きなものは、5月に行われるクラブチームの全国大会と、あとは全国身体障害者スポーツ大会。自分は当時、このふたつで優勝するためにがんばっていました。

―― ナショナルチームにはどのように選ばれたのですか?

全国大会できらっと光った選手を協会の人が連れてくるといった感じでした。自分は職場の理解があってバスケットに打ち込めましたが、さまざまな事情でプレーのチャンスに恵まれない選手が多く、合宿も年に1回とか、そのくらいしかできなかったですね。

1996年 悔し泣き

1996年 悔し泣き

―― 当時のナショナルチームの年齢構成はどんな感じでしたか?

自分は若いほうでした。あとは結構ベテランで、10歳以上年上だったりもしました。自分は足が速かったので、走らされましたね。

―― 1976年のトロントパラリンピックのころ、ナショナルチームの指導者・スタッフを含めた構成はどんなものでしたか?

日本一のクラブチームの監督が来て、選手をまとめてくれていました。トレーナーはいなかったですけど、医者と看護婦はいましたね。

―― 遠征費の自己負担といったようなことは?

パラリンピックと海外でのゴールドカップ(世界選手権)では、自己負担はなかったです。お金をもらうこともなかったですけど。

パラリンピックで外国人選手との差を痛感

―― トロントパラリンピックのときは28歳。体力もピークではなかったですか?

このときはスラロームの100mと1500mにも出場しました。練習時は99%はバスケットだったんですが、本番ではスラロームのあとに出場したバスケットの試合ではもうバテバテで(笑) スラロームにはほとんど練習しないで出場したのですが、このときは全体で最高の記録を出して金メダルでした。

―― 最強のアスリートですね。トロントでは、初めて外国人とのバスケットの試合を経験されました。

自分たちのころは、99.9%国内でやってますから、日本人の感覚でやってたら横からすーっと手が伸びて(笑)リーチの違いに慣れず、すぐにパスカットされてしまい、感覚が慣れたころには試合が終わっている、みたいな感じでした。激しくぶつかり合う現在の車いすバスケットと違い、当時は基本的に接触をなるべく避けていたのに、相手に付かれたらもう動けませんでしたね。

  1999年 リアキャスター付き

1999年 リアキャスター付き

―― 大会はどんな雰囲気でしたか?

結構観客が集まって応援してくれたりもしたんですけど、まず力の差がありすぎて。アメリカのチームと練習試合をしたときに、黒人の片足切断の選手がおもむろに立ってポンポンポーンとダンクするんですよ。こんなのとやるのかと思って(笑) あとは背の高さですね。ジャンプができないのでこの差はもうどうしようもないと。それで、自分たちはスピードやテクニックで勝負するしかないと帰ってから練習を積みました。

―― トロントから帰って、どんなことをされましたか?

自分たちは普通にランニングシュートを打っても後ろから取られちゃうので、レイアップを必死に練習しました。国内の試合でも、下手なレイアップで失敗しながら(笑) 周りからは「なんだよ普通に打てばいいのに」ってよく言われましたけど。自分は右利きですけど、左も同じようにできなきゃいけないから無理して左でもやって。

―― レイアップシュートとは、ゴール下に走り込んで片手で行うシュートですね。では試合に勝つことよりも、自分の力を上げることを優先したのですね。

やっぱりこれをやらないと日本選手はだめだなと、自分でも感じたんで。

―― 当時の日本は世界での実力はどのくらいだったのでしょうか?

12チームのなかで5~8位に入るのを目標に、なんとか入って8位……という厳しいものでした。今でも、6位まで行けばすごいなと思いますよ。メダルなんて簡単に言う風潮もあるようですけど、それは今の日本の環境では絶対にないなと。強いチームとやるためには外国に出なければ。たとえば、パラリンピック3ヵ月前に集合して海外でいくつも試合をして回ることができればと思いますけど、現状の日本ではみんな仕事もばらばらで、土日に集まってやる草野球のようなものだから。

―― ナショナルチームが招集されるのは数年に1回、といったところでしたか?

パラリンピックのほかに、ゴールドカップがありまして、そこにも選ばれれば4年に1回。たまたま代表に選んでもらったら海外で戦って、その経験を持ち帰って、それを皆が真似してくれて、全体のレベルアップができればいいなという望みをもってやっていました。

―― そしてそのころも、仕事はずっと続けておられた。

社長と自分2人の印刷会社にいました。それなのに、自分は合宿や世界大会があるたびに1週間とか10日間とか休むんですね(笑)。 これが10年間続いたんですけど、送り出してくれていた社長には本当に頭が上がりません。

日本の車いすバスケットのレベルを上げたい

  星義輝氏 インタビュー風景

星義輝氏 インタビュー風景

―― トロント以降、自分自身にはどんな変化がありましたか?

自分はとにかく上手くなりたい、世界で通用するようになりたいというそれだけでしたね。練習場所もあったしライバルも増えたし、そんな面でも少しずつ環境は良くなっていくなか、自分もうかうかしてられないなと。

―― 車いすバスケットをやる人が増えたってことですか?

増えていきましたね。スポーツをやるっていったらバスケットくらいしかない感じだったので、みんなバスケットをやろうってことになったんだと思います。

―― 一方で車いすは変わってきましたか?

海外で八の字の車いすを見て、当時自分は車いすの会社に勤めていたものですから、技術者に相談してつくってもらったところ、えらいよく動いて。84年ごろの全国身体障害者スポーツ大会にそれに乗って出場したら、みんなびっくりしていました。そのあと、八の字車いすの注文がいっぱいきましたね(笑) 全国のいろんなチームに呼ばれて指導をしたのですが、同時に八の字車いすも売り歩いていました。

―― 会社としてはすごいコマーシャルになったでしょうねえ。どんなことを指導されたのですか?

技術はもちろんですけどフォーメーションとか。全国数十チームあっても、指導者のいないところのほうが多かったので、シュートの打ち方とか、そういった基本的なところも教えました。

―― それは協会からの派遣という形ですか?

協会では指導者制度や派遣制度といったものはなく、直接とか、友達づてに自分に依頼が来て。

―― では星さんは車いすの性能においても、日本の選手のレベルを上げることにも随分貢献されたのですね。

自分のチームが強くなることはもちろんですけど、もうひとつ重い荷物を背負うとしたら、日本の車いすバスケットのレベルを上げることだと自分に言い聞かせてやっていました。

バスケットからテニスへ、新たな挑戦

  2005年 テニス大会

2005年 テニス大会

―― バスケットに選手としての見切りをつけたのはどのような経緯でしたか?

88年のソウルパラリンピックのあと、もう一度パラリンピックに出るためには3ポイントを打てるようにならなければと感じて、1年間スポーツセンターに通って1日何百本とがんばったのですが、あとひとつ届かなくて。代表には選ばれても、年齢もきていたしレギュラーは望めない。若い選手を育てるためには身を引いて支えることが必要なのもわかっていたんですが、ベンチに座ることが好きじゃなかったんですね。それで体力があるうちに何かもうちょっとやりたいなと、テニスに転向したんです。だからもう、おいしいところをいっぱい食べて「ごちそうさま」って逃げてきたような感じでしたね(笑)

―― 指導者になるという選択肢はなかったのですか?コーチと選手を兼任するような人もいますが。

個々の選手を育てるというのはできるでしょうけど、チームの監督として試合を動かすというのは向いてないなと思いましてね。兼任というのも、全然。自分は不器用なんですよ。ひとつのことに深く入り込む性質なので。

―― ターニングポイントで誰かに相談するといったことは?

全然ないですね。よくしてくれた当時のバスケットの会長にも、手紙一本で「志半ばですいません」みたいな(笑)

―― すごい決断でしたね。ということは、バスケットをやりながらもテニスの練習はしていた?

だいたい全国身体障害者スポーツ大会が10月でクラブチームの全国大会が5月、その間2ヵ月くらいシーズンオフなんで、その時間を使って。バスケットの先輩たちの多くがテニスをやっていて、楽しそうだったので、自分もバスケットのオフに始めたんですね。完全にテニスに切り替えたのは、それから4,5年経った42歳ごろでした。

―― そしてまた練習の虫ですか?

友達に球出しをしてもらったり打ち合ったり。数年間は仲間と練習していたのですが、これじゃだめだと思って、柏にある吉田記念テニス研修センター(TTC)に行きました。今も国枝慎吾選手をはじめ日本のトップ選手のほとんどが在籍しているところです。当時の理事長は沢松和子さんのご主人でしたが、そこに週に4回くらい通いました。TTCのあとは北区にある東京都障害者総合スポーツセンターでウェイトトレーニングをして家に帰るという生活でした。

―― ほとんどプロの生活ですね。

まあ、食っていけないプロですね。勝てば賞金は出ましたが、優勝して4万円とか。それでなんとか遠征費がまかなえるかどうかってところでした。

「仕事」と「テニス」、究極の選択の結果は

  2005年 テニス大会

2005年 テニス大会

―― お仕事は?

車いす関係で。安くてもいいから週に数日のみの勤務で、という融通のきく感じでやらせてもらっていました。「稼げなくてもテニスができればいいや、老後は老人ホームにでも入ればいいや」と。 今でもそのくらいの感覚ですね。

―― テニスで初めて外国へ遠征に出たとき、バスケットボールでの初遠征時に感じたような戸惑いはなかったですか?

46歳くらいからでしたが、特に戸惑いはなかったですね。海外の選手はサーブの打点が高くてすごいな、とか思ったりもしましたけど。逆に外国の選手たちにとって自分の動きはスピーディで目立ったみたいです。「お前ほんとに50歳か」とか世界のトップ選手たちが聞きにくるわけですよ。年齢で有名になりましたね。

―― ランキングの最高位は?

12位くらいですね。でもこれは単に数字の目安で、実際はもっと下です。

―― チーム競技であるバスケットボールと個人でやるテニス、どんな違いがありましたか?

やっぱりチーム競技だったバスケットの連中とのほうが今も付き合いが続いてますね。バスケ時代は、練習が終わったらみんなでファミレスで話し込んだりすることも多かったですが、テニスは終わったら「またね」という感じ。逆に、バスケットはチーム単位で動くため、よそのチームの選手と交流しづらいのに対し、テニスは基本単独行動なので、海外遠征時に外国選手と関わるチャンスにも恵まれています。自分は英語はほとんどしゃべれませんが、しゃべれなくても片言でやりとりしたり。そういう面で、テニスでは外との交流がありました。

  星義輝氏 インタビュー風景

星義輝氏 インタビュー風景

―― そのあと、星さんのテニス生活はどうなっていきましたか?

テニスを本格的に始めてから十数年経って、「仕事をとるかテニスをとるか」を迫られてテニスをとりました。そうなると遠征もままならなくなって、順番的にもそろそろ自分が子どもたちを教える時期だなと思って、それから1、2年ほどで現役から指導者へと切り替えました。

―― 切り替えが常に早いですね。

うーん、ボロボロになるまでやるか……。まだ迷いはありますが、環境的にも無理だと思ってるから。その分、子どもたちが上手くなってくれればいいです。

「現役を退き、子どもたちの先生に

―― 40代半ばで車いすテニス教室のコーチになりました。

柏のTTCで、自分が貧乏なのを知っていたコーチが「星に仕事を」ってことでテニス教室をつくってくれたんですね。

―― 技術的にはどんなことを重視して教えますか?

動きに関しては厳しかったですね。とにかく諦めないこと、動いてボールを追うことを徹底して教えました。だから、全国大会でも選手の動きを見て「この子は星さんに教わったの?」と言われます。

―― その門を、国枝慎吾少年がたたきました。

小学4年生から高校2年生くらいまでかな。教室以外でも週に2回マンツーマンで指導をしました。彼は本当に諦めない選手で、しかもクレバーだったので、「これはすごいな」と。それで、もしかしたら北京パラリンピックに間に合うかも……と思いましたが、彼の成長ぶりは想像をはるかに超えていましたね。

―― 技術以外のところでは、子どもたちには何を大事にさせますか?

子どもたちにはまず、テニスをする前に、返事をすることや挨拶を教えたり……。親が教えなければならないことをなんで我々が、と思うことはあります。ただ、技術面も含め子どもたちが始めて半年くらいでフッと成長することも多く、それは「おおっ」と思う瞬間です。

―― 今車いすに乗っている子、体がうまく動かない子というのはやはり心に溜まっているものもあると思いますが。

そういう意味では、東京パラリンピックというのは今の子どもたちに夢を与えていますね。今の子どもは「20年のパラに出る」と当然のように言います。もともと自分は、「何も日本でやんなくたっていいんじゃないの、震災もあったし、そこで人材や金を使わなくても……」と2020年東京開催に賛成ではなかったのですが、東京に決まって子どもに夢を与えてるならいいかなと(笑)

―― 一方で、2012年に、全国身体障害者スポーツ大会に47年ぶりに出場されました。

1965年(昭和40年)に岐阜で開催された第1回全国身体障害者スポーツ大会に出場したんですが、47年間で全国を一周してまた岐阜でやるっていうので出てみたいなと思った。でも自分が普段やっている競技はないので走るしかない。テニスのかたわら、なかなか走りのほうには時間を割けなかったんですが、2月から練習を始めて6月になんとか選ばれて。まあ数ヵ月練習しただけで出るなんて自分としてはほんとは許せないんですけど。でもね、47年ぶりに出る人なんてなかなかないだろうなと(笑)

―― それで、結果はいかがでした?

成績は3位とかでした。自分のなかでは練習したなりに全力でがんばったかなと思いましたけど……。まあ、記念だと勘弁してください(笑)

車いす、協会、行政…… それぞれについての展望

2012年 ぎふ清流大会2012年 ぎふ清流大会

2012年 ぎふ清流大会

―― 障害者スポーツの道具の発展についてはどう感じますか?

キャスターを車いすの後ろにつけたのは自分です。自分で考えて、その年に外国の車いすテニス大会で使ったら、次の年の大会ではもうみんな後ろにキャスターがついてるんですよ(笑)このような進歩は、すごく障害状態の悪い人も車いす競技ができるようになったという点では喜ばしいことなんですが、車いすの可動性が広がることで、障害の軽い人のほうがより使いこなしやすくなっているんですね。障害の状態による差を広げてしまうのはどうしようもないのかなぁと思っています。

―― これからの車いすテニスに望むことは?

今はラリー2、3回でほぼ60%決まっちゃうので、試合も面白くないなと。今の1.2〜1.3倍でも車いすが速く動けるようになって、ラリーが続くようになるといいですね。何かないかなあといつも考えてるんですけどね。

―― 協会組織についてはどう感じておられますか?

バスケットのほうは歴史も長いのできちんとしてますけど、テニスはまだ新しいですし、常勤の職員がいないんですよね。お金もないですし、みな手弁当でという感じ。もっと組織としてしっかりしてくれば選手ももっとがんばれると思います。

―― 平成23年の8月にスポーツ基本法が施行され、障害者スポーツについても明示されました。

パラリンピックなどでは関係あるんでしょうけど、まだ自分たちのところまでは浸透していないように感じますね。まずは、自分たちは自分たちの考えをもって、後輩を育成しようとやっていきます。行政に関しては、パラリンピックが終わってまたしょぼんとなるのかなという点が心配になりますね。

―― 今年の10月からはスポーツ庁が始動し、厚生労働省からも役員が来ましたが、将来の展望としては?

まあ、そういうのができたんだから続けてくれるんだろうと思うんですけど、今までが今までだったから。期待はしますけど、ちょっと自分にはわからないですね。

―― 星さんらがうるさく言っていかなきゃいけませんね。

なかなかね、言うチャンスも少ないですしね。まあそういう場所に行きゃいいんだろうけど、現場の俺はテニスコートにいたほうがいいかな、とか(笑)

「残されたものを活かす」ために

  2012年 国枝選手

2012年 国枝選手

―― ドアの内側にまだこもっている子どもたちにも、星さんの輝く目の力を移してあげたいなと思いますけどね。

子どもたちも今は、国枝慎吾選手がいることでよし自分たちもやろうっていう気になってますね。ただ親が甘いんですよね。車いすを押したり、ボールを拾ったりね。自分でさせなさいと、それをまず親に言わなきゃいけないんです。

―― 年齢からするとおじいちゃんの立場ですもんね。息子娘と孫をまとめて教育するという。

自分のなかには、グッドマンの「失ったものを数えるな、残されたものを最大限に活かせ」っていう言葉がすごく残ってるんですね。その言葉と巡り会ったことが、今でも自分のひとつの生きる源なんです。ところがそれがなかなか、今の学校教育ではできないようです。先生方が車いすを押している。その場の効率より、その子が4mでも5mでも自分の力で進むことのほうが大事だと思うんですけど、今の環境では残ったものを活かせないんですね。先生が一生面倒見るならよいだろうけど。まあでも、そこまで言うと先生にはかわいそうですからね。今の学校は責任問題とか、いろいろと大変ですから。

―― 腹筋3000回じゃないですけど、言い続けることも3000回で。

言わなくちゃだめですね、大事なことは(笑)

―― 今、ご自分の夢というとどんなことを考えておられますか?

自分もスポーツが好きですから、スポーツをこれからもずっと続けたいです。あとは、子どもたちに夢を託すこと。これが夢ですね。

―― ありがとうございました。

  • 星義輝氏の略歴
  • 世相
1948
昭和23
  • 1948星義輝氏、福島県に生まれる
  • 1945第二次世界大戦が終戦
  • 1947日本国憲法が施行
1949
昭和24
全米車椅子バスケットボール協会設立

  • 1950星義輝氏、2歳でポリオ(小児麻痺・急性灰白髄炎)にかかる
  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951安全保障条約を締結
  • 1955日本の高度経済成長の開始
1960
昭和35
ローマパラリンピック開催
車いすバスケットボールが夏季パラリンピックの正式種目となる

1961
昭和36
第1回大分県身体障害者体育大会にて車いすバスケットボールのデモンストレーションが行われる

  • 1964東海道新幹線が開業
1965
昭和40
第1回全国身体障害者スポーツ大会、岐阜県にて開催される

  • 1965星義輝氏、第1回全国身体障害者スポーツ大会に出場し、車いす陸上、水泳、卓球で金メダルを獲得
1967
昭和42
日本初の車いすバスケットボールクラブチーム「東京スポーツ愛好クラブ」が誕生

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1970
昭和45
第1回車椅子バスケットボール競技大会、 駒沢オリンピック公園体育館にて開催
1972
昭和47
第8回全国身体障害者スポーツ大会にて、車いすバスケットボールが公式種目となる

  • 1973オイルショックが始まる
1975
昭和50
日本車椅子バスケットボール連盟結成
1976
昭和51
第トロントパラリンピック開催
ブラッド・パークス(米)が、リハビリを目的に車いすテニスを始める

  • 1976星義輝氏、トロントパラリンピックに陸上競技と車いすバスケットボールで出場し、車いすスラロームで金メダルを獲得
  • 1976ロッキード事件が表面化
  • 1978日中平和友好条約を調印
1980
昭和55
アーネムパラリンピック開催

  • 1980星義輝氏、アーネムパラリンピックに車いすバスケットボールで出場
  • 1982東北、上越新幹線が開業
1983
昭和58
日本でも車いすテニスが行われるようになる

1984
昭和59
ニューヨーク・アイレスベリーパラリンピック開催

  • 1984星義輝氏、アイレスベリーパラリンピック(ストーク・マンデビル競技大会)に車いすバスケットボールで出場
1986
昭和61
日本車いすテニス連絡協議会発足

1987
昭和62
日本車いすテニス連絡協議会、日本身体障害者スポーツ協会種目別団体に加盟
1988
昭和63
ソウルパラリンピック開催
国際車いすテニス連盟(IWTF)設立
日本車いすテニス連絡協議会、ランキング方式導入のために日本テニスプレーヤーズ協会に改組
日本車いすテニス連絡協議会、国際車いすテニス連盟に加盟

  • 1988星義輝氏、ソウルパラリンピックに車いすバスケットボールで出場
1989
昭和64
日本車いすテニス協会(JWTA)設立

  • 1990星義輝氏、車いすテニスに転向(世界ランキング最高12位)
  • 1995阪神・淡路大震災が発生
  • 1997香港が中国に返還される
1998
平成10
国際車いすテニス連盟(IWTF)、国際テニス連盟(ITF)に統合される
2004
平成16
国枝慎吾氏、アテネパラリンピックにてダブルスで金メダルを獲得
2008
平成20
国枝慎吾氏、北京パラリンピックにてシングルスで金メダルを獲得

  • 2008リーマンショックが起こる
  • 2011東日本大震災が発生
2012
平成24
国枝慎吾氏、ロンドンパラリンピックにてシングルスで金メダルを獲得

  • 2012星義輝氏、全国障害者スポーツ大会、47年ぶりの岐阜県大会に出場
2014
平成26
日本車いすテニス協会、一般社団法人として法人格を取得

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オリンピック・パラリンピック年表