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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

セミナー「子供のスポーツ」
日本のラクビーを支える人びと
第83回
ラグビーこそ青春がつまった「最高のスポーツ」

清宮 克幸

選手として、指導者として、日本ラグビー界をけん引し続けている清宮 克幸さん。高校、大学、社会人では、キャプテンを務め、改革を図るなど、強いリーダーシップでチームをまとめました。

現役引退後は、指揮官として手腕を発揮し、早稲田大学、サントリー、ヤマハ発動機といずれも日本一へと導きました。また、子どもや女性を対象とした地域クラブを創設するなど、ラグビーをはじめスポーツの普及・発展に貢献する活動も積極的に行っています。常に新しい取り組みを提案し、実行に移す「改革者」という印象が強い清宮さん。ラグビー人生の歩みとともに、日本ラグビー界の現況と今後について伺いました。

インタビュー/2019年3月4日  聞き手/佐野 慎輔  文/斉藤 寿子  写真/清宮 克幸・フォート・キシモト

ロールモデルとして期待される地域クラブ

ヤマハ発動機ジュビロの監督として日本選手権優勝に導く(2015年2月)

ヤマハ発動機ジュビロの監督として日本選手権優勝に導く(2015年2月)

―― 2011年からヤマハ発動機ジュビロの監督を務められてきましたが、2018-19年シーズン限りで退任されました。8年間、お疲れさまでした。

ありがとうございます。本当にあっという間でしたね。

―― しかし、ヤマハは、昨シーズンも優勝争いをするほどの強さを誇っていただけに、続投されるのかなと思っていましたが、なぜ、退任しようと思われたんですか?

私の後を託したいと思える人間が出てきたということです。彼の年齢や周囲の状況を考えた時に「ここで監督の座を譲り渡さないと、うまくまわっていかないな」と思いました。まぁ、8年やらせてもらって、「8」という数字で終わるのも縁起が良くて、自分にとってもいいタイミングかなと。

アザレア・スポーツクラブを立ち上げる(2019年)

アザレア・スポーツクラブを立ち上げる(2019年)

―― 退任後すぐ、今年の年明けにはエコパスタジアム(静岡県小笠山総合運動公園)を拠点とした総合型スポーツクラブ「アザレア・スポーツクラブ」の設立を発表されました。清宮さんが代表理事として運営に携わっていくということですが、これはどのような経緯からのものだったのでしょうか。

私は2016年からラグビーワールドカップの静岡県開催推進委員会特別アドバイザーを務めています。今年のラグビーワールドカップでは、エコパスタジアムで予選リーグ4試合が行われますが、せっかく世界トップの試合が行われるというのに、その後に何も残らないというのはあまりにももったいないですよね。そこで静岡県から何かないだろうかと案を求められて提案したのが、子どもたちと女性が活躍できるオープン型総合スポーツクラブの設立でした。エコパスタジアムを中心としたスポーツ施設で、さまざまなスポーツができる環境を作ることができれば、ワールドカップ開催のレガシーの一つになるのではないかと考えたんです。私の提案に、静岡県や、ヤマハを始めとした静岡県内の地元企業が理解を示してくれて「アザレア・スポーツクラブ」を設立することになりました。一番大きかったのは、静岡銀行や静岡新聞、総合物流企業の鈴与など、静岡県内の有数の企業が賛同してくれたことによって、エコパスタジアムがある袋井市やヤマハの本拠地である磐田市周辺だけにとどまることなく、静岡県が一体となって取り組む形となったことです。静岡県全体のスポーツ環境が良くなっていくと期待しています。

※「アザレア・スポーツクラブ」とは、地域共生できるスポーツ文化を根付かせたいという思いのもと、ラグビーワールドカップが開催されるエコパスタジアムを拠点とした、女性と子どもに特化した総合型スポーツクラブ。第一弾として静岡県内初のラグビー女子7人制チームが結成される予定で、今年3月3日にはトライアウトが行われた。

ワセダクラブのラグビースクール。左はウィルキンソン氏。中央は長男の幸太郎君。

ワセダクラブのラグビースクール。左はウィルキンソン氏。中央は長男の幸太郎君。

―― 振り返れば、清宮さんは早稲田大学ラグビー部の監督時代には、地域へのスポーツの普及・振興とともに青少年の健全育成や、地域住民の健康増進など、スポーツを通じた地域貢献の場として、「ワセダクラブ」を開校されました。現在では、ラグビーをはじめ、サッカーやテニス、レスリング、バスケットボール、柔道など、さまざまなスポーツの活動が行われています。今回の「アザレア・スポーツクラブ」は、その「ワセダクラブ」に通ずるものがあるのではないでしょうか。

おっしゃる通りです。クラブ活動で技術を磨いていく中で、トップ選手となって羽ばたく子どももいますが、それだけでなく人生の糧となる経験をしたり、さまざまな人と出会うことで人生が豊かになり、将来大人になった時には「あのクラブがあったからこそ、スポーツを楽しむことができ、幸せな時間を過ごすことができた」と思えるだけで、十分にスポーツの意義があると思うんですね。実際にワセダクラブのOBからはそういう声がたくさんあがっています。そうした場を提供することが、「ワセダクラブ」も「アザレア・スポーツクラブ」も最大の目的です。

※「ワセダクラブ」とは、早稲田大学が保有する設備・ノウハウ等をすべての市民に開放し、スポーツの普及・振興や青少年の健全育成を目的としたオープン型スポーツクラブ。現在は16競技のスクールが行われている。

アザレア・スポーツクラブの拠点となるエコパスタジアム

アザレア・スポーツクラブの拠点となるエコパスタジアム

―― 「ワセダクラブ」や「アザレア・スポーツクラブ」は、清宮さんのどのような経験が元になった発想なのでしょうか。

「これだけの状況、環境が用意されているのだから、こういうことはすぐにでもできるのに、なぜやらないのだろうか」と疑問に思うことがよくあります。例えば、早大監督時代には「大学には、これだけの素晴らしい人材と施設があるのだから、ちょっとした仕組みを考えれば、地域の人たちを巻き込んだスポーツの普及活動がすぐにでもできるのに、なぜ誰も何もやらないんだろう」という思いから創ったのが、「ワセダクラブ」でした。「アザレア・スポーツクラブ」も同じです。ヤマハの監督を務めている時に、いつも「磐田市はサッカー、ラグビーのトップチームがあって、スポーツで地域を動かすことができる環境があるのにもったいないなぁ」と思っていました。また、磐田市だけでなく静岡県全体でスポーツがもっと盛んになればと思っていたので、静岡県にクラブ設立を提案したんです。そういうふうに疑問に思ったことを具現化させたのが「ワセダクラブ」であり「アザレア・スポーツクラブ」。それだけのことなんです。今回設立した「アザレア・スポーツクラブ」が静岡県で成功すれば、おそらく同じようなことを試みる自治体はどんどん出てくるのではないかなと思います。既存の施設を活用し、地域の人材や企業に協力を呼び掛けていけばいいわけで、特別に難しいことをしているわけではないですからね。「アザレア・スポーツクラブ」がロールモデルとなって、日本全体に広がっていくことを期待しています。

磐田スポーツ部活 (右端)

磐田スポーツ部活 (右端)

―― 清宮さんがされていることが、未来の日本スポーツのあり方において、一つの形となっていけばいいなと思います。

実は3年前には磐田市に「磐田スポーツ部活」というものを提案しまして、現在ラグビー部と陸上競技部が活動しています。将来の日本を考えると、人口減少が止まらない中、これまで中学生や高校生のスポーツ活動の中心となっていた学校の部活動は、成り立たなくなっていくでしょう。そこで、部活動を学校単位でやるのではなく、地域単位でやるべきではないかと考えたんです。それを静岡県の教育委員会に提案をしたんです。特にチームスポーツは、これまでのように学校単位であれば、その地域に10校の学校があれば、10人の指導者が必要だったのが、一つの地域で一つの部を持つとなれば、指導者は1人で済むわけです。というようなことをお話ししたところ、静岡県教育委員会から「じゃあ、清宮くん、ちょっと3年間、やってみてくれないか」となり、磐田市に中学生を対象とした「磐田スポーツ部活」が設立されることになりました。ラグビー部にはヤマハ発動機ラグビースクールコーチから、陸上競技部には磐田市陸上競技会協会などからコーチを招聘して指導を行っています。2016年に始動しましたので、ちょうど3年が経ちますが、実際にやってみて、これは日本の現在のニーズに合っているなと感じています。ぜひ、全国に広がっていってほしいですね。

※「磐田スポーツ部活」とは、地元の学校に希望する部活がない中学生に、スポーツの機会を提供することを目的として2016年に始動した静岡県のモデル事業。

授業でラグビー座学の後にはワールドカップ生観戦

ヤマハ発動機ジュビロ

ヤマハ発動機ジュビロ

―― 今秋にはアジアで初となるラグビーワールドカップが開催されます。この大会をきっかけに、日本スポーツ界が良い方向へと進んでいってほしいと思いますが、清宮さんはワールドカップ開催をどのように活用していこうと考えられているのでしょうか。

ラグビーワールドカップのレガシーの一つとして、前述した「アザレア・スポーツクラブ」を設立することになったわけですが、実はもう一つ、ワールドカップ開催に際して静岡県で企画していることがあるんです。座学で子どもたちにラグビーの魅力を伝えようと。これも私が静岡県教育委員会に提案をしたのですが、教本とビデオを使って、4~7月に月に一度、授業を行います。さまざまなラグビーの知識を得て、ラグビーの魅力を知ったうえで、9月にラグビーワールドカップ開幕を迎えるというわけです。

―― それは素晴らしいアイディアですね。これまであるようでなかった画期的な企画です。

教材はラグビー仲間たちが協力して作成することになりました。一方、ビデオ制作では予想外のこともありました。「ワールドカップ」という文字やロゴが使用できなかったんです。私たちは営利目的ではなく、子どもたちが授業で使うビデオを作るだけなのに、さまざまな制限がかかっていたのです。ラグビーを知らない子ども向けに作られた、非常にわかりやすい映像があって、それを使用したかったのですが、そこにはラグビーワールドカップのロゴが映ってしまっていたために使用許可が下りませんでした。まぁ、ルールは守らなければならないので、代わりにヤマハの映像を使ってビデオを制作しました。教本もすでに出来上がっているので、準備は万端。今年4月から静岡県内の小学5、6年生と中学2年生の授業でラグビー座学が行われます。延べ2、3万人の子どもたちが授業を受ける予定です。

磐田スポーツ部活 を提案、採用される

磐田スポーツ部活 を提案、採用される

―― その授業には、清宮さんなどラグビー関係者が派遣されるのでしょうか。

学校の授業の一環として行われますので、通常通り学校の先生が授業をします。ラグビーの知識がない先生でも、教本を読んで、ビデオを見てもらえば、ちゃんと子どもたちに伝わるようになっているんです。それこそ、ラグビーを知らない先生が、教本を読んで「あ、そうだったのか」と思うことがたくさん出てくると思うんですね。それをそのまま子どもたちに語っていただいて、みんなで一緒にラグビーを学んでもらえたらなと。ラグビーに詳しい人間が教えるよりも、その方が新鮮で面白くなると思うんです。そのうえで、ラグビーワールドカップを見てもらえれば、クラス全体で盛り上がるはずです。また、授業の後半にはヤマハのラグビー選手たちも各学校を回り、子どもたちと交流する計画です。 さらに今、進めようとしているのが、子どもたちのラグビーワールドカップ生観戦です。せっかく授業でラグビーの歴史や魅力を知り、しかもすぐ近くでそのラグビーの世界最高峰の大会が開催されているというのに、テレビで観て終わりではつまらないですよね。どうせなら、みんなでエコパスタジアムに試合を観に行って、直にラグビーの魅力を感じてもらおうじゃないかということで、静岡県と一緒に知恵を絞っています。

ラガーマンとしての人生を築いてくれた恩師

茨田高校時代(前列右から3人目)

茨田高校時代(前列右から3人目)

―― そもそも清宮さんご自身が、ラグビーを始めようと思ったきっかけは何だったのでしょうか。

きっかけは、中学3年の時に見た「われら青春!」というテレビドラマです。高校のラグビー部を舞台とした青春学園ドラマで、それを見て「青春ってなんて美しいのだろう。自分も高校ではラグビーをやりたい!」と強く思ったんです。それまでは小学校の時は野球、中学校の時はサッカーをやっていました。でも、どちらのスポーツも、自分の強みが発揮できないなという気持ちがありました。

―― ご自身で感じていた強みとは、どういうところだったのでしょうか。

体が大きくて、手先が器用で、気持ちが強くて、頭がいいと(笑)。野球やサッカーでは、そのすべてが満たされなかったんです。野球では基本的に監督のサイン通りにしなければいけなかったですし、サッカーではちょっとでも相手を押したりすると反則を取られてしまうわけです。それが、ラグビーでは試合には監督はいませんから、自分で判断をしてプレーすることができますし、接触プレーが許されているので自由に思い切り動けると。私にとって、最高のスポーツだなと思いました。

茨田高校時代ラグビー部の仲間と(左)

茨田高校時代ラグビー部の仲間と(左)

―― 清宮さんのご出身地の大阪府内にはラグビーの強豪校がたくさんあります。その中で公立校である茨田高校を選んだのは、どのような理由からだったのでしょうか。

当時、茨田高校は大阪府の公立校では天王寺高校や北野高校と並んで、ラグビーの強豪校として有名だったんです。1975年創立の新設校だったのですが、2期生が3年生の時(1978年)にはラグビー部は創部4年目にして早くも全国大会の出場権を勝ち取って、高校ラグビーの聖地「花園ラグビー場」(2015年4月より東大阪市花園ラグビー場に名称変更)に行っているんです。「新設校が旋風を巻き起こした」と大きな話題となっていました。その4年後(1982年)には2度目の「花園出場」を果たした時が、ちょうど私がテレビドラマ「われら青春!」を夢中で見ていた中学3年の時でした。それで花園に出ている茨田高ラグビー部を見て「よし、来年はここに行こう」と思うわけですが、私と同じようにして茨田高に憧れた中学生が大阪府内にたくさんいたんです。 「私立ばかりが花園に行って面白くない」という考えの選手たちの目の前に突如現れたのが、公立校だった茨田高でした。男女共学でしたし、学区内の公立校の中では4番目に偏差値が高い進学校でもあったので、目指す場所としては最高の条件がそろっていました。それで中学時代にラグビーで活躍をしていた学区内のラグビー経験者がこぞって茨田高に入ったので、私の学年はエリート集団でした。30人ほどが入部しましたが、私のようにラグビー初心者は、わずかでした。

茨田高校時代、高校日本代表の海外遠征にて(中央)

茨田高校時代、高校日本代表の海外遠征にて(中央)

―― 茨田高では創部2年目の時に監督に就任し、その年にラグビー部を花園へと導いた名将・吉岡隆先生から指導を受けられました。吉岡先生は、どのような指導者だったのでしょうか。

とても変わった監督でした(笑)。初めてお会いした時のことは未だに忘れられません。

入学したばかりの頃、体育の授業で準備運動をしている私の所に吉岡先生が近寄ってきたんです。そして、頭からつま先までなめ回すようにして見ながら、私の周りを歩き始めたわけです。そうして、あごに手をあてながら「ほぅ~」とうなづいて、こう言いました。「惚れ惚れするなぁ。準備体操だけで、こんなに惚れ惚れする男は初めてだ。お前、すごいNo.8(スクラムをまとめ、攻守にわたって常にボールに絡むポジション)になるぞ」と。

茨田高校時代、高校日本代表に選出され主将を務める(前列中央)

茨田高校時代、高校日本代表に選出され主将を務める(前列中央)

―― 名将はやはり先見の明があるんですね。

でも、そう言っておきながら、「よし、明日からお前は3番だ」と、最初にプロップ(スクラムの第1列の両端でスクラムを押すポジション)をやらされたんです。1カ月半ほどプロップの練習をしたのですが、やっぱり合わなくて、結局ものになりませんでした。そしたら今度は「よし、明日からはウイング(バックスの両翼に位置し、快足を飛ばしてトライを狙うポジション)だ」と。それでウイングをやり始めたのですが、足が速いくらいで、何もわかってはいないわけですよ。練習でも先輩についていくのに必死でした。それでも吉岡先生は、そんな私を1年からレギュラーとして試合に出してくれたんです。確かに私は体は大きくて、1年の時にすでに身長180cm、体重77kgありました。走れば100m11秒61、走高跳では190cmほど跳んでいたんです。ですからウイングとして結構目立ってはいたのですが、やっぱりラグビーは素人でしたから、下手なんですよね。それでも吉岡先生は私を使い続けてくれました。そのおかげで、翌年、2年の時にオール大阪の代表に選出されて国体(奈良県で開催された第39回国民体育大会)のメンバーに選んでもらえましたし、国体メンバーだったからこそ、3年の時には高校日本代表に入ることができました。そして、代表だったからこそ、早大のスポーツ推薦を受けることができたんです。そう考えると、吉岡先生が私を1年の時から使ってくださっていなかったら、私の人生は全く違うものになっていたはずです。実力以上のところに、吉岡先生が置いてくださったからこそ、その後の道が開けたのだと思います。

清宮克幸氏(インタビュー風景)

清宮克幸氏(インタビュー風景)

―― 実際、吉岡先生はどんな指導だったのでしょうか。

自主性を重んじる方で、選手たちが練習を計画し実行していました。じゃあ練習中、吉岡先生は何をしているかと言うと、私たちラグビー部が練習しているグラウンドを背にして、向こうの女子テニス部の方をずっと見ているんですよ(笑)。でも、そうやってすべて自分たちでやるような環境を与えられていたからこそ、選手たちが自立し強さが持続できたのだと思います。

―― 清宮さんは3年生の時にはキャプテンを務められました。チームをまとめるのは大変だったのではないでしょうか。

それこそキャプテンに全責任を課されました。キャプテンが練習メニューを決め、選手たちを動かさなければいけなかったんです。監督が口を出すのは「ちょっと違うんじゃないの」という時だけでした。でも、そういう選手たちに任せて指導する監督だったから、私は選手として伸びたんじゃないかなと思うんです。もし、いろいろとうるさく口を出してくる監督に、何か自分と意見が違うことを言われたら、高校時代の私はきっと抵抗したでしょうから(笑)。

4年時の優勝をもたらした敗戦と外国人コーチの招聘

早稲田大学時代(後列左端)

早稲田大学時代(後列左端)

―― 早大に進学したのも、吉岡監督の影響だったのでしょうか。

1年の頃に、すでに吉岡先生からは「お前は早大に行け」と言われていました。吉岡先生自身は、金沢大学ラグビー部出身で、結構優秀なプレーヤーだったと聞いています。でも、本当は早大に行きたかったんだそうです。家庭の経済的事情で希望が叶わなかったと。それで自分の教え子を一人、早大に入れたいと強く思っていたみたいなんです。ちょうど私が高校に入学する1年前に、早大ではスポーツ推薦制度が始まっていたので、「各科目で評定平均を取って、高校日本代表に入っていれば、早大ラグビー部のスポーツ推薦を受けることができるから、お前はそれを目指せ」と言われていました。

―― 実際、早大ラグビー部に入るわけですが、ある意味自由だった高校時代とのギャップはありましたか?

事前に「大学ではこれまでのように自由にはできないぞ。特に早大は練習が過酷で、上下関係も厳しい」というようなことは聞いていましたので、それなりに覚悟していました。実際に入ってみると、約160人の選手たちが、まるで軍隊のように泥まみれになって練習している光景は圧巻でした。早大では1軍から4軍、5軍から7軍、8軍以下、というふうに3つのグループに分かれていました。一番上の1軍の選手たちは、2時間ほどの全体練習が終わると帰ってしまうのですが、逆に試合には出られない選手たちは、夜遅くまでずっと練習し続けているんです。1年の時にその様を見て、なぜ早大が強いのかがはっきりとわかりました。

早明戦

早明戦

「あぁ、なるほど。これが伝統校の強さなんだな」と。試合に出られる選手たちが頑張るのはわかりますが、その選手たちよりも試合に出られない選手たちのほうが熱心に練習するなんてことは、それまでの私の常識にはなかったことでした。「これでは、関西の大学が早大には勝てないのも無理はない」と思いました。

―― そうした中で、清宮さんは1年の時からレギュラー入りされました。

ただ、すぐに膝の靭帯を切って手術をしたので、1年の時はスタンドで応援していました。翌年の3月に練習に復帰したのですが、リハビリが十分ではなかったのか、足が全く思うように動きませんでした。当然スピードも落ちていましたし、体重も増えていて、前年にレギュラーになった時の自分とはあまりにもかけ離れていました。そしたら5月にポジションをNo.8から1番(プロップ)に移されたんです。「お前、もうスピードもないし、1番やれ」と。そう言われた時に、全てが崩れ落ちた感じでした。ショックで、何もかもやる気を失ってしまって、ふてくされていましたね。ただ言われたことをやるだけという状況のまま、夏になって試験休みで大阪の実家に1週間ほど帰省したんです。地元では高校時代のラグビー仲間に会うこともあるわけですよね。それでみんなに「オレ、1番になったわ。足も遅くなったし、もうプロップとして生きていくしかないんや」と言って、ひどく落胆していました。試験休みが終わると、菅平高原(長野県)での夏合宿がすぐに始まったのですが、まず最初に部員全員の名前が貼りだされた表を見て、自分が何軍のどのポジションの練習に入るのかを確認するんです。そしたら、試験休み前にいつも入っていた4軍、5軍に自分の名前がなかったんです。「あれ?」と思って、3軍、2軍と見ていったら、1軍の、しかもNo.8のところに「清宮克幸」の文字がありました。

早慶戦

早慶戦

―― 予想外の展開で、嬉しかったのでは?

「あぁ、そう。オレ、1軍のNo.8なのね」と(笑)。当時の監督は木本建治さんだったのですが、「木本さん、それならそうと早く言ってよ。オレ、地元のみんなに『プロップで生きていくしかない』なんて言いふらしてしまったやん」と思いました(笑)。でも、不思議なことに、その時には足の動きもスピードも元に戻っていたんです。それで2年の時は、出た試合で大活躍をして、日本選手権では東芝に勝って日本一になりました。

―― 4年生の時はキャプテンを務めて、全国大学選手権で優勝と有終の美を飾りました。

そのエネルギーを作りだしたのは、前年の3年の時の敗戦にありました。2年の時に日本一となって、その時のメンバーがたくさん残った状態でしたから、3年の時は圧倒的な強さで勝てると思っていたのですが、クリスマス・イヴの日に負けたんです。お正月は実家で過ごしたのですが、その時に「自分たちが4年となる次のシーズンは、絶対に負けたくない。こんな思いをするのは嫌だ」と強く思いました。しかも3年の時は、自分たちの強さを出せないまま負けてシーズンが終わってしまったんです。「オレたちはもっと強いはずだ」と何度も思いました。それで決めたんです。「オレがキャプテンになって、大改革をするぞ」と。

早稲田大学ラグビー部が大学選手権優勝時のみ歌う“荒らぶる”

早稲田大学ラグビー部が大学選手権優勝時のみ歌う“荒らぶる”

実際、キャプテンに就任をして「今のままでは、自分たちの強みが生かされない。だからラグビーのスタイルを変えるために、新しい取り組みをしたい」ということを提案して、150坪ほどの広さにプレハブを建て、そこにカーペットを敷いてウエイトトレーニングの施設を造ってもらいました。おそらく当時の大学スポーツ界では、一番充実した施設だったと思います。それだけの広さのトレーニング施設を一つの部が持っているところはなかったはずです。それだけではなく、グラウンド脇にはスピードトレーニング用にと坂路も造りました。競馬好きが高じて、栗東トレーニング・センター(滋賀県にある中央競馬の西日本地区における調教拠点)にある坂路コースを見て「これだ!」とひらめいたんです。ラグビーのグラウンド脇にウッドチップの坂路があるなんて、おそらく世界にもなかったんじゃないかなと思いますね。

そんな大改革とともに、大きかったのは外国人コーチの招聘でした。早大OB会の伝手で紹介されたジョン・グレアムさんとグラハム・ヘンリーさんという2人がニュージーランドから期間コーチとして来日しました。グレアムさんは「ニュージーランドラグビーの父」と呼ばれた元オールブラックス(ニュージーランド代表)のレジェンドでした。ヘンリーさんは学校の先生でグレアムさんの弟子のような人という説明を受けていましたが、正直どんな人物かはわかりませんでした。でも、2人とお互いにやりたいラグビーを話し合ったところ、考えがほぼ一致していたんです。「ショートライン戦法」(バックスの選手たちが非常に狭い間隔で並んで攻撃する)というのものでした。私たちのチームはバックロー(No.8と、フランカー:攻守にわたって常にボールに絡むポジション)が強かったんです。だから私は、その強いバックローの選手が走るラグビーをしたいと思っていました。バックスの選手たちがグラウンドの内側でプレーをし、空いた外側のスペースをバックローが走るというものです。ヘンリーさんの提案はまさにそのラグビーだったのです。「うわぁ、考えが一緒だ!」と思って嬉しかったですね。実際の指導は、ヘンリーさんが行ってくれたのですが、さすが教師だけあって、指導が上手でした。2人は5月から7月までいて、一度ニュージーランドに戻ったのですが、11月には再来日をして12月まで指導をしてくれました。ヘンリーさんは、後にウェールズ代表やオールブラックスの監督に就任。地元開催だった2011年のラグビーワールドカップではニュージーランドが優勝し、世界一の指導者になりました。私がキャプテンになって大改革をするときに、それだけの手腕の持ち主から指導を受けることができたのは、本当に幸運でした。

ファンを魅了した熱さ全開の青春ラグビー

サントリー現役時代のプレー(右)

サントリー現役時代のプレー(右)

―― 大学卒業後は、サントリーに入社し、3年目には志願をしてキャプテンに就任されました。まだまだ年輩の選手も多くいる中、20代半ばでチームをまとめるのはご苦労もあったのではないでしょうか。

当時の選手たちは、ラグビーに本気ではありませんでした。つまり、ラグビーに100%の力をかけているわけではなく、仕事や家族が優先で、ラグビーは二の次、三の次でした。そういうチームで2年間過ごして、もう我慢ならなくなって「そろそろ真面目に日本一になりませんか」と言って、自分でキャプテンに立候補したんです。

―― チームメイトから賛同を得ることはできたのでしょうか?

私の意見に賛同をして「よし、やろう」とついてきてくれたのは、約40人いた中で、10人ほどでした。それ以外の選手たちは「いいんんじゃないの」とか「やってるよ」とか口では言いながらも実際は何も変わることはありませんでした。私自身も結局、自分についてきてくれる10人にアプローチして安心していたんです。でも、占める割合が小さいわけですから、チームとして成り立つわけがないんですよね。キャプテン1年目は2部リーグとの入れ替え戦を戦う羽目になってしまいました。その1年目の反省を生かして、2年目からは「いいんじゃないの」と口では言う選手たちをどうすれば、こちら側に振り向かせることができるかに着手しました。

早稲田大学ラグビーの監督としてスタンドから戦況を見守る

早稲田大学ラグビーの監督としてスタンドから戦況を見守る

―― その苦労が実ったのが、入れ替え戦から3年目の1995年。このシーズンは全国社会人大会で優勝し、さらに日本選手権も制して日本一の座につきました。

1年目の反省として、やはり一人で頑張ってもダメだなと思ったので、2年目からはほかの選手にも役職を与えて、さらに外部からコーチやトレーナーを招聘するなどして、チームが強くなるための組織化を図りました。それが実ったのが、3年目だったと思います。

―― 2001年に現役を引退し、すぐに母校の早大の監督に就任されました。どんな思いで引き受けられたのでしょうか。

人の子の青春を預かるという責任の重さを感じていました。というのも、当時すでに私には息子がいましたので、自分の息子の最も輝かしい大学4年間をどういう人に預けるのかということを考えたら、やっぱりちゃんとした人に預けたいなと思うわけです。その預かる立場になるのだから、自分の人生に影響を与えてくれた恩師たちのように、私も学生が輝かしい人生を送れるような指導をしたいと考えていました。ですから、監督1年目の時には「お前たちの青春を預かった」ということを選手たちにはよく言っていました。

早稲田大学ラグビー部監督として大学日本一に導く(2006年1月)

早稲田大学ラグビー部監督として大学日本一に導く(2006年1月)

―― 当時、早大は10年以上も大学選手権で優勝から遠のいていた低迷時期でしたので、周囲からはチーム再建への期待が寄せられていたと思いますが、清宮さんはどのようにチームを作っていこうと考えていたのでしょうか。

実は、監督就任の打診がある前に、選手たちに呼び出されたんです。まるで面接のように、キャプテンをはじめとする幹部5、6人の前に座らされて「清宮さんなら、どうやってチームを強くしてくれますか?」というような質問をされました。その時、私は監督なんてやるつもりは微塵もありませんでしたから、「こんなふうに先輩を呼び出すなんて失礼だろう」という気持ちもあって、「え?そんなの知らないよ。オレがわかるわけないじゃん」とぶっきらぼうに答えました。そうしたら、その後で監督就任の打診があったんです。おそらく当時の早大には劇薬が必要だと思ったんでしょうね。それでOB会の強化担当メンバーが「清宮しかいない」と強く推してくれたようなんです。でも、選手にしてみたら、あんなに冷たくあしらわれた人に監督なんてやってもらいたくない、と当然思いますよね。そこをOB会が選手たちを説得して、私が監督に就任することに決まったわけですが、最初は選手からの反発もありました。

サントリー監督としてマイクロソフトカップに優勝し胴上げされる(2008年2月)前列左から2人目

サントリー監督としてマイクロソフトカップに優勝し胴上げされる(2008年2月)前列左から2人目

―― 選手たちと気持ちが通じ合うようになったのは、いつ頃だったんですか。

秋になって、シーズンが始まってから、ようやく選手たちの信頼を得ることができたかなと感じることができました。もちろん、公式戦で結果が出たことも大きかったと思いますが、単にそれだけではなかったと思います。やはり学生ですので、さまざまな "事件"が起きるのですが、そうした時に一つ一つ誠実に対応して、選手とも正面からぶつかっていくことで、少しずつ溝が埋まっていったのだと思います。

―― 2006年からはサントリーサンゴリアスの監督に就任し、2年目にはプレーオフを制してトップリーグでの優勝を果たされました。

あの時、私は社会人チームのサントリーに学生ラグビーの熱を持ち込んだんです。そうしたところ、学生ラグビーファンがこぞってサントリーの応援に来てくれるようになりました。おそらくファンはサントリーの選手たちのプレーや姿に、学生ラグビーを見たのだと思います。1年目は準優勝に終わりましたが、サントリーの試合を観に来たファンで秩父宮ラグビー場が溢れかえり、3000人もの観客が入場できなかったんです。これはおそらく未だに破られていない日本ラグビー史上最多記録だと思います。

※「トップリーグ」とは、日本最高峰のリーグとして2003年に発足した社会人ラグビーの全国リーグ。

監督としてサントリーをマイクロソフトカップ優勝に導く(2008年2月)

監督としてサントリーをマイクロソフトカップ優勝に導く(2008年2月)

―― サントリーに持ち込み、ファンを魅了してやまなかった「学生ラグビー」とはどんなものだったのでしょうか。

つまり「青春」です。選手たちにいつも言っていたのは「どこよりもラグビーを楽しんで、思い切り盛り上がろうぜ!そして、みんなで熱い涙を流そうじゃないか!」ということでした。それこそ学生の時みたいに、決勝戦の前日、メンバーに入らなかった選手たちから、試合に出る選手たちに手紙を送ったんです。熱いメッセージを受け取った選手たちはみんな「もうやめてよ。こんなの送られたらたまらないじゃん」なんて言って、感動の涙を流していました。まさに最高の青春ですよね。そういう学生のような熱さが試合にも出て、それがファンにとっては魅力だったのだと思います。

大切にしたいカテゴリーごとに異なる魅力

故奥克彦氏の追悼試合

故奥克彦氏の追悼試合

―― 今年はラグビーワールドカップが開催されるわけですが、このワールドカップ日本開催に尽力したのが、奥克彦さん(故人、早大出身、外交官)でした。清宮さんは、奥さんとご関係が深かったと聞いています。

学生時代、海外遠征に行くと、試合後のアフターマッチファンクション(試合後、両チームが交流を深めるレセプション)で司会進行役をしていたのが奥さんでした。聞けば、早大のOBで、しかも同じ関西出身ということで、少しずつ話す機会が増えていった感じでしたね。奥さんは、私が兄貴として慕っている益子俊志さん(元早大ラグビー部監督、現日本大学教授)と、とても仲が良かったんです。ですから、「兄貴の親友」という感じで親しくなり、私のブレーンのような存在の方でした。

当時から奥さんが熱望していたのが、ラグビーワールドカップの日本開催でした。「日本でラグビーのワールドカップが行われるなんて、夢みたいなことだけど絶対できるよ!」と。つまり、ワールドカップ日本開催の言い出しっぺは奥さんなんですよね。

ワールドカップ2015イングランド大会の日本のサポーター

ワールドカップ2015イングランド大会の日本のサポーター

―― そのラグビーワールドカップが、いよいよ今秋、全国12会場で行われます。清宮さんはこのワールドカップをきっかけに、今後、日本のラグビー界はどのような道を歩んでいくべきだとお考えでしょうか。

まず、ラグビーワールドカップは何のために日本で行われるかという視点です。これは、ラグビーという競技の魅力を多くの日本人に知ってもらうことですね。より多くの人々に伝えるために代表チームは勝たなければならないし、熱い試合をしなければなりません。多くの感動を共有できれば、多くの人たちがラグビーを観戦しプレーヤーの数も増えると考えます。プレーヤーの数が増えると世界で戦えるトップアスリートが輩出される確率が高くなり、日本代表が強くなる。という構図が理想なのかもしれませんが、その理想は現実的ではありません。現実をみると、日本人が世界の舞台で戦うのはかなり難しいという事実です。でも、それによりラグビー競技の魅力が半減するかというとそうではないですよね。ラグビーを愛する人たちは、それぞれのカテゴリーでこのスポーツに魅了され胸を張って「ラグビーは素晴らしいスポーツなんだ」と言いますよね。

これからの日本ラグビーは世界で一番になることを本気で考え、世界で戦う日本人を輩出する事を諦めず、でも、それが全てではなく、それぞれのカテゴリーで行われる本気の勝負の本質が損なわれることなく、ラグビーの素晴らしさを後世の人々に伝えられることが必要になるでしょう。まずは、ワールドカップにより注目が増す今年、来年に向けて今ある資源を最大限に活かす努力。高校ラグビー、大学ラグビー、トップリーグの観客席を満員にすることをあらゆる方策でチャレンジすることでしょうか。

ヤマハ発動機ジュビロの日本選手権優勝祝賀会にて(2015年2月)(前列左、右は森喜朗氏)

ヤマハ発動機ジュビロの日本選手権優勝祝賀会にて(2015年2月)
(前列左、右は森喜朗氏)

―― ラグビーワールドカップの後、来年には東京オリンピック・パラリンピック、翌2021年にはワールドマスターズゲームズ2021と国際スポーツイベントが続きます。そうした中で、今後日本スポーツ界が発展していくためには、どのようなことが必要でしょうか。

磐田市の取り組みを例に挙げますと、今や世界トップアスリートとして活躍している卓球の水谷隼選手と伊藤美誠選手はともに磐田市の出身。幼少の頃には同じ磐田市の卓球教室で練習をして、そこから世界に羽ばたいていきました。今では2人とも磐田市の「おらが町のスター」ですし、地元の子どもたちにとっては大きな刺激となっています。「あんなすごい選手が、この地元で育ったんだ」となれば、「よし、自分も頑張ってみよう」と意欲がわいてきますよね。こうした成功事例を踏まえると、今後はあえてトップアスリートの出身地を強くアピールして「地元のスター選手」にしていくことも必要だと思います。

―― 中学校時代にほれ込んで、ずっと関わり続けてきたラグビーとは、清宮さんにとってどのようなものでしょうか。

人生そのものです。ラグビーがあったから、たくさんの人とも出会えましたし、全てのエネルギーの源になっています。まさに、ラグビーは私の「青春」です。

ラグビー・清宮 克幸氏の歴史

  • 清宮 克幸氏略歴
  • 世相

1871
明治4
イングランドでラグビーフットボール協会(ラグビー・フットボール・ユニオン)が創設
初の国際試合がイングランドとスコットランドの間で行われる
1883
明治16
初の国際大会であるホーム・ネイションズ・チャンピオンシップ(現・シックス・ネイションズ)が開催
1886
明治19
国際統括団体である国際ラグビーフットボール評議会(現・ワールドラグビー)創設
1899
明治32
慶應義塾大学の教授でケンブリッジ大学のラグビー選手でもあったクラーク氏と、
同大学の選手でもあった田中銀之助が日本で初めてラグビーの指導を開始
1900
明治33
ラグビーが夏季オリンピックに採用される (1924年のオリンピックで終了)
1911
明治44
同志社大学でラグビー部が創部される
1918
大正7
早稲田大学でラグビー部が創部される
1919
大正8
第1回日本フットボール大会(現・全国高等学校大会)開催
1921
大正10
京都帝国大学、東京帝国大学(現・京都大学、東京大学)でラグビー部が創部される
1924
大正13
関東ラグビー蹴球協会(現・関東ラグビーフットボール協会)創設
1926
昭和元
西部ラグビー蹴球協会(現・関西ラグビーフットボール協会)創設
日本ラグビーフットボール協会が、関東ラグビーフットボール協会と、関西ラグビーフットボール協会の統一機関として創設
1928
昭和3
高木喜寛氏、日本ラグビーフットボール協会の初代会長に就任
第1回東西対抗ラグビー、甲子園球場にて開催
1929
昭和4
近鉄花園ラグビー場が完成
全日本学生対全日本OBの試合を、秩父宮両殿下が台覧
1930
昭和5
日本代表、カナダで初の海外遠征を行う(6勝1分)

1942
昭和17
日本ラグビーフットボール協会、大日本体育大会蹴球部会に位置づけられる

  • 1945第二次世界大戦が終戦
1947
昭和22
秩父宮殿下、日本ラグビーフットボール協会総裁に就任
九州ラグビー協会(現・九州ラグビーフットボール協会)創設
東京ラグビー場(現・秩父宮ラグビー場)が竣成

  • 1947日本国憲法が施行
1949
昭和24
第1回全国実業団ラグビー大会開催
1950
昭和25
第1回新生大学大会開催
「全国大学大会」の名称となる

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951安全保障条約を締結
1952
昭和27
全国実業団ラグビー大会、第5回から全国社会人ラグビー大会に改称
1953
昭和28
田辺九萬三氏、日本ラグビーフットボール協会の2代目会長に就任
東京ラグビー場を秩父宮ラグビー場に改称

  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
香山蕃氏、日本ラグビーフットボール協会の3代目会長に就任

1961
昭和36
第1回NHK杯ラグビー試合(現・日本選手権)開始

1962
昭和37
秩父宮ラグビー場、国立競技場に移譲

1963
昭和38
日本代表、戦後初の海外遠征(カナダ)

1964
昭和39
第1回日本選手権試合開催

  • 1964東海道新幹線が開業
1965
昭和40
第1回全国大学選手権大会開催

  • 1967清宮 克幸氏、大阪府に生まれる
1968
昭和43
湯川正夫氏、日本ラグビーフットボール協会の4代目会長に就任

1969
昭和44
第1回アジアラグビー大会開催され、日本は全勝で優勝

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1970
昭和45
横山通夫氏、日本ラグビーフットボール協会の5代目会長に就任
1971
昭和46
第1次・高校日本代表のカナダ遠征

1972
昭和47
椎名時四郎氏、日本ラグビーフットボール協会の6代目会長に就任

1973
昭和48
全国高校選抜東西対抗試合開始

  • 1973オイルショックが始まる
  • 1976ロッキード事件が表面化
  • 1978日中平和友好条約を調印
1979
昭和54
阿部譲氏、日本ラグビーフットボール協会の7代目会長に就任

1982
昭和57
代表キャップ制度を発足

  • 1982東北、上越新幹線が開業
  • 1983清宮 克幸正氏、大阪府立茨田高校に入学。ラグビー部に所属し、1年生時からレギュラーを務める。
      3年生時には主将として全国大会出場に貢献、全国日本代表主将も務める
  • 1986清宮 克幸正氏、早稲田大学に入学。ラグビー部に所属し、2年生時には日本選手権優勝。
      4年生時には主将として全国大学選手権で優勝
1987
昭和63
第1回ワールドカップが開催(オーストラリア・ニュージーランドの共同開催) 以後、第7回大会まで日本代表チームは連続出場を果たす

1990
平成2
磯田一郎氏、日本ラグビーフットボール協会の8代目会長に就任

  • 1990清宮 克幸正氏、サントリーに入社。
      同社ラグビー部の主将を務め、1995年の全国社会人大会優勝、日本選手権優勝に貢献
1992
平成4
川越藤一郎氏、日本ラグビーフットボール協会の9代目会長に就任


1993
平成5
第1回ジャパンセブンズ開催

1995
平成7
金野滋氏、日本ラグビーフットボール協会の10代目会長に就任

  • 1995阪神・淡路大震災が発生
  • 1997香港が中国に返還される
2000
平成12
IRBワールドセブンズシリーズ日本大会開催
2001
平成13
町井徹郎氏、日本ラグビーフットボール協会の11代目会長に就任

  • 2001清宮 克幸正氏、現役を引退し、早稲田大学ラグビー部監督に就任。
2002
平成14
女子ラグビーが日本ラグビーフットボール協会に加入
女子ラグビーは、第4回女子ワールドカップに初参加

2003
平成15
ジャパンラグビー トップリーグが社会人12チームで開幕

  • 2003清宮 克幸正氏、監督を務める早稲田大学ラグビー部が全国大学選手権優勝を果たす。
2005
平成17
森喜朗氏、日本ラグビーフットボール協会の12代目会長に就任

  • 2005清宮 克幸正氏、監督を務める早稲田大学ラグビー部が再度全国大学選手権優勝を果たす。
2006
平成18
ジャパンラグビートップリーグチーム数は12チームから14チームへ増加

  • 2006清宮 克幸正氏、サントリーラグビー部監督に就任。
      マイクロソフトカップ準優勝、トップリーグ2位。
  • 2007 サントリーラグビー部 マイクロソフトカップ優勝を果たす
  • 2008リーマンショックが起こる
2009
平成21
U20世界ラグビー選手権(IRBジュニアワールドチャンピオンシップ2009)開催
2019年ラグビーワールドカップが日本で開催決定

2010
平成22
2019年ラグビーワールドカップ日本開催組織委員会の設立準備を開始

  • 2011東日本大震災が発生
  • 2011清宮 克幸氏、ヤマハ発動機ジュビロラグビー部監督に就任。
2013
平成25
日本ラグビーフットボール協会が公益財団法人へ移行

2015
平成27
岡村正氏、日本ラグビーフットボール協会の13代目会長に就任

  • 2015清宮 克幸正氏、監督を務めるヤマハ発動機ジュビロラグビー部が日本選手権で優勝
2016
平成28
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催
7人制ラグビーが正式種目として実施

  • 2019清宮 克幸正氏、一般社団法人アザレア・スポーツクラブを設立し、代表理事に就任