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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

セミナー「子供のスポーツ」
スポーツの変革に挑戦してきた人びと
第89回
グローバル社会におけるスポーツ界が進むべき道

松浪 健四郎

幼少時代から武道に触れ、大学進学以降はレスリングのオリンピック代表候補として活躍した松浪健四郎氏。日本体育大学(以降日体大)在学中にはアメリカに留学し、卒業後はアフガニスタンの大学で講師を務めるなど、国際的視野も磨かれ、政治家としても手腕を発揮されました。

2011年からは母校である日体大の理事長を務め、大学スポーツの普及・発展に尽力されています。その松浪氏に、大学スポーツ界、日本スポーツ界が抱える課題、今後のあり方などについてうかがいました。

インタビュー/2019年11月5日  聞き手/佐野 慎輔  文/斉藤 寿子  写真/フォート・キシモト

金メダリストのもとで多くを学んだ大学時代

初の海外遠征でソ連(当時)へ出発時に横浜港にて両親から見送りを受ける(1967年)

初の海外遠征でソ連(当時)へ出発時に横浜港にて
両親から見送りを受ける(1967年)

―― もともとオリンピックを目指すほどのアスリートだった松浪さんですが、その生き方はお父さまの影響が大きかったそうですね。どんな父上でしたか?

私は男ばかりの四人兄弟でして、幼少時代の兄弟の遊びといえば、広い座敷で相撲をとることでした。ですから座敷は擦れるし穴は開くしで、家に来たお客さんはその様子に驚いていましたね。なにせ我が家で一番荒れた部屋が、お客さんを通す座敷でしたから(笑)。ただ、それを父親は叱るでもなく、楽しそうに眺めているわけです。我が家では「座敷は客間だからきれいにしておかなければいけない」という発想はなく、父親は「一番広い部屋である座敷は、子どもの道場だ」と言っていたくらいでした。

ただ、教育を考えた時に、父親は武道が一番だと考えたようですね。それで長兄と次兄は柔道、三番目の兄は剣道、そして末っ子の私にも柔道を習わせました。父親は勉強することよりも、まずは稽古に毎日きちんと通っているかどうかの方が厳しい人でした。

高校3年の時、大阪・浜寺公園にて(1964年)

高校3年の時、大阪・浜寺公園にて
(1964年)

―― レスリングの選手としてオリンピック代表候補にも挙がったほどの方ですが、始まりは柔道だったんですね。何が転向のきっかけだったのでしょう。

柔道をやっていた長兄が関西大学に進学後、レスリングに転向したんです。兄の大学の同級生には、1964年東京オリンピックでレスリング・グレコローマンスタイルのバンタム級(57kg)で金メダルを獲得した市口政光選手(1960年ローマ、1964年東京と2大会連続でオリンピックに出場)がいまして、兄貴はその一つ上のフェザー級(63kg)でした。その兄が自分と同じように体がそれほど大きくない私にレスリングを薦めてくれたんです。

ちょうど私が高校3年生の時に1964年東京オリンピックが開催されました。市口さんをはじめレスリングで日本人選手が活躍する姿を見て、私も「よし、じゃあ、レスリングで頑張ってオリンピックに出よう!」とその気になりまして、大学進学後にレスリングに転向しました。特に投げ技中心のグレコローマンスタイルは、柔道をやっていた私にとっては合っていましたね。

全身を使った攻防戦の「フリースタイル」とは異なり、上半身に限られ、腰から下を攻防に用いることは禁止されている。そのため上半身で組み合ってからのダイナミックな投げ技が醍醐味

―― 日本体育大学を選んだ理由は何だったのでしょうか。

市口さんが日体大を薦めてくださったんです。というのも、東京オリンピックには、グレコローマンスタイル・フライ級(52kg)で金メダルを獲得した花原勉先生をはじめ5人の選手を輩出していたんです。日体大では、その花原先生の付き人を務めまして、四六時中、行動を共にしました。先生のデートにまでついていきましたからね(笑)。

東京オリンピックレスリングで共に金メダルに輝いた花原勉(左)と市口政光(1964年)

東京オリンピックレスリングで共に金メダルに輝いた
花原勉(左)と市口政光(1964年)

―― 金メダリストでもある花原さんからは、どのようなことを学ばれたのでしょうか?

世に名が出るということは、どういう責任が生じることなのか。そのためにはどういう努力をして、どんなマナーを身につけ、どんな人間でなければならないか、ということを教えていただきました。私の人生において非常に学ぶことが多くありました。

また、花原先生の元には世界中からレスリングの選手たちが先生の教えを請うために練習に来ていて、私たち学生と一緒に寝泊まりしていました。ですから、英語が話せなければどうにもならなかったんです。先生ご自身も英語で日常会話ができましたから、「国際的な知識や感覚を身につけなければ、この先やっていけないぞ」と思えたのは、先生の付き人をやっていたからこそだったと思います。

花原勉氏(中央)と。左は先輩の勝村靖夫氏

花原勉氏(中央)と。左は先輩の勝村靖夫氏

―― 素晴らしい先生のもと、恵まれた環境で、しかも国際的な刺激も受けながら、1968年のメキシコオリンピックを目指していたんですね。

本当に充実した日々を送っていました。今振り返っても、大学での日々、経験というのは、その後の人生を左右した、とても大事なものだったと思います。ですので、大学時代が一番思い入れがあります。

ただ、小学生の時の先生方からも影響を受けました。小学校1、2年生の時の担任の先生には毎日作文を書かせられたのですが、褒めるのが本当に上手な先生でした。そのおかげで、私は文章を書くことが好きになりました。小学校3、4年生の時の担任の先生は、私の運動神経の良さを見抜いてくれまして、「松浪くんは、スポーツ選手になるといいかもしれないよ」と薦めてくださったんです。その後の人生における最初の方向付けとなったのがその先生からの言葉でした。

人生の糧となった海外での刺激的な経験

メキシコオリンピックレスリングで金メダルを獲得した宗村宗二(1968年)

メキシコオリンピックレスリングで金メダルを獲得した宗村宗二(1968年)

―― 1968年メキシコオリンピック出場を目指すにあたっては、同じグレコローマンスタイル・ライト級(70kg)に、宗村宗二さん(1968年メキシコオリンピック、グレコローマンスタイル・ライト級で金メダルを獲得)という松浪さんにとって強力なライバルがいらっしゃいました。

「ライバル」というよりも、当時の宗村選手はもう強すぎましたね。宗村選手と初めて対戦したのは、私が大学2年生の時、メキシコオリンピックの前年の1967年の全日本選手権、決勝トーナメントでした。当時、私は彼に勝つ自信がありました。ところが、タックルに入った時に、私の頭が彼の骨盤に当たったんです。それでドクターストップがかかってしまい、すぐに救急車で病院に運ばれて7針縫う手術をしました。あの時、私は勝つ自信がありましたから、ケガをおしてでも試合を続けたいと思っていました。しかもNHKが中継をしていましたからね(笑)。とにかく棄権したことが、ひどくショックでした。

ただ、その大会の結果を高く評価していただいて、私はその年に初めて日本代表候補となり、6月のソ連遠征のメンバーに選ばれました。そして、翌1968年3月、メキシコオリンピックの代表選考を兼ねて行われた日本選手権で再び宗村選手と対戦したのですが、その時はまったく歯が立ちませんでした。「彼が現役の間は、自分がオリンピックに行くことは無理だな」と思ったほどでした。実は宗村選手は、本来は1964年の東京オリンピックに出場するはずだったんです。ところが、選考会で優勝したにもかかわらず、国際大会の実績不足や技術的な甘さなどを指摘され、東京オリンピック代表には選出されなかったという屈辱を味わっておられたんです。ですので、メキシコオリンピックへの思いは並々ならぬものがあったと思います。年齢的にも彼は25歳でしたから、背水の陣での挑戦だったと思います。

アメリカへ出発時、勝村靖夫先輩の見送りを受ける(1968年)

アメリカへ出発時、勝村靖夫先輩の見送りを受ける(1968年)

その反面、私はまだ学生でしたので、また次もチャンスがあると思っていました。ただ、宗村選手に一度も勝つことができず、「自分の力はここまでなのかもしれない」という思いもありました。レスリングを続けたいと思いながらも、自分の力に可能性を見出せなくなっていたんです。日本国内でトップになることはできても、世界となると、己の才能では無理かもしれないなと……。

―― その影響かもしれませんが、翌1969年、全米レスリング選手権大会に出場されます。アメリカに渡ったいきさつはどういうものだったのでしょうか?

日本レスリング協会から「全米選手権に出てみないか?」と言われたのがきっかけだったのですが、私はもうそのままアメリカの大学に留学しようと考えていました。ですから日体大に休学届を出して全米選手権に出場したんです。全米選手権では、当然優勝できるだろうと思っていたのですが、途中までは優勢だったにもかかわらず、最後に時間を稼ごうと思ってわざと倒れたら、それがホールドを取られて負けてしまいました。結局4位という結果に終わりました。当時、日本はまだ四角いマットでしたが、アメリカではすでに現在と同じ丸いマットを使用していて、それに慣れていなかったこともありましたが、とにかく当然優勝すると思っていましたので、ショックは大きかったですね。もし、優勝していたら、アメリカの有名な大学に声をかけてもらえたと思うのですが、4位でしたから、それが叶いませんでした。

それでガクッと肩を落としているところに、東ミシガン大学に声をかけていただいたんです。同大学は旧師範学校としては名門のところでしたから、非常にありがたかったです。ただ、実家からは一切の仕送りがありませんでしたので、生活費を稼ぐために、とにかくさまざまなアルバイトをしながらの生活でした。芝刈り、ガソリンスタンド、さくらんぼ採り、アスパラガス採り、トマトの獲付け……涙が出るほど辛いこともありましたが、今振り返れば、すべて私自身の人生の糧になったと思います。

日本体育大学レスリング部での練習風景

日本体育大学レスリング部での練習風景

―― 留学を終えた後はどうされたんですか?

アメリカから戻って、日体大に復学をしまして、単位を取って卒業しました。しかし、アメリカではすでに小学校や中学校の教員になるにも修士課程を出るのは常識とされていましたので、日本もすぐにそういう時代が来るだろうと思っていました。ですので、私も日大大学院に進学をしました。大学院はレスリングの練習場に近かったこともあって、レスリングの練習を続けていました。ところが、体重制度が変わって、それまで私の階級だったライト級は70kgだったのが、68kgに変更になりました。68kgまで落とすのはとても無理でしたので、74kgに増やして、一つ上のウエルター級で日本選手権に出たんです。そしたらやはり4kgの差というのは大きいんですね。ウエルター級ともなると体つきがやはり違って、大会で初めてホール負けを決勝戦で喫しました。もう大変なショックを受けました。私はその時、「あぁ、これで選手としては終わったな」と悟りました。それ以降は、学問の道に突き進み始めました。

左:八田一朗氏(右)と笹原正三氏(1964年)右:アフガニスタンのカブール大学の教え子たちと

左:八田一朗氏(右)と笹原正三氏(1964年)
右:アフガニスタンのカブール大学の教え子たちと

―― 1975年にはアフガニスタン国立プール大学で初の日本人講師としてレスリングの指導を始めました。

日大大学院を卒業するという時に、日本レスリング協会の笹原正三さん※1 から「アフガンに行ってくれないか」と言われたんです。当時、八田一朗会長※2 が親しくされていたアフガニスタンの殿下がいて、しばしば来日もされていたのですが、その殿下とのつながりでスポーツ交流の一環として私が講師に招かれた形でした。実際、その殿下に親書を持って会いに行ったところ、アフガ二スタンは1973年に起きたクーデターによって王政が廃止となっていて、当時は殿下が自宅に拘束されている状態でした。その後、拘束が解かれた時に一度お会いしましたけれども、こんな高貴な方と親しくされているなんて、八田会長のスポーツを通じての国際交流というのはすごいなと思いました。

松浪 健四郎氏(当日のインタビュー風景)

松浪 健四郎氏(当日のインタビュー風景)

アフガニスタンの大学では3年間、体育の授業や放課後にはレスリング、柔道の指導を行いましたが、日本との違いをいろいろと学びました。まず、彼らは整列するという概念がありませんでした。それは、小学校、中学校、高校で体育という授業がないので、整列するということを学んでいないからなんです。一方、日本では幼稚園でもやりますが、小学校に入ってまず体育の授業でやるのが「前へならえ」で整列することですよね。こういうことをやっているからこそ、日本人は大人になって、自然と整列乗車するという秩序ある行動がとれるわけです。ところが、体育のない国では、整列を学ぶ機会がありません。いかに体育の授業が人間教育において重要かを痛感しましたね。

その一方で、私が学ぶことも多くありました。アフガニスタンの学生は私がやることすべてが初めて見ることばかりなので、目を輝かせて見てくれました。そうして、楽しそうにやるわけです。まぁ、時々、ふざけすぎる学生もいるので、そういう時は厳しく注意をしたりしたこともありましたけどね。3年間、体育の授業をして、放課後にはレスリングや柔道を教えました。とはいっても、柔道を教えようにも柔道着なんてものはありませんから、市場に行って紐を買ってきまして、それを襷がけにし、その紐を柔道着の襟代わりにしてやるなど工夫するしかありませんでした。マットも畳もありませんでしたから、綿を買ってきて糸で縫い合わせたものを下に敷き詰めて、その上から大きな布を縫い付けて、それをマット代わりにしてやりました。物がない所で教えることはどういうことかを学んだりもして、私にとっても良い経験になりました。

※1  1956年メルボルンオリンピックにレスリング日本代表として出場。1964年東京オリンピックではフリースタイルのコーチとして帯同。1989年~2003年には日本レスリング協会会長を務めた
※2  現役時代は1932年ロサンゼルスオリンピックに出場。1964年東京オリンピックで指導者として金メダル5個獲得に貢献するなど、レスリングを日本のお家芸にした「日本レスリングの父」

政治家としての天王山は武道の必修化

衆議院議員選挙に初立候補した時の街頭演説(1996年)

衆議院議員選挙に初立候補した時の街頭演説(1996年)

―― そうしたさまざまなご経験が、その後、政治家になられてからのテーマにもなったのではないでしょうか。

それは確かにありました。それと、もう一つは、子どもの頃から新聞を読む習慣があったことも大きかったですね。私は勉強は得意というわけではなかったけれども、とにかくスポーツは見るのもするのも大好きでしたから、毎日のように新聞でスポーツ欄を読んではたくさんの情報を得ていました。だからプロ野球選手や力士に関して、名前や背番号、出身地など、あらゆる知識がありました。また、父親が自宅で会計事務所をやっていましたから、たいていのものはそろっていたんです。それで小学生の時から自分で新聞を作って刷っては、小学校の校門で配るような変わり者でした。その時から政治家のようなことをしていたんです(笑)。

―― アフガニスタンから帰国されて、政治家としての道を歩み始めるわけですが、実はオリンピック出場よりも前から政治家になりたいと思われていたそうですね。

物心ついた時から、ずっと政治家になろうと思っていました。というのも、父親の屈辱を晴らしたいと思っていたんです。父親が泉佐野市(大阪府)の市会議員だった時代、京都大学の研究用原子炉に対して父親が賛成したことによって住民にいろいろと疑われたりしたことがあったんです。三期目の選挙で落選した父親の姿を目にした時、私自身が屈辱を味わった思いがしました。その時の悔しさをずっと持ち続けていたんです。私は元来、悩んだり迷ったりしない人間で、何に対してもすぐに次の道に進むことができる性格なんです。ですから、オリンピックに出られないとなった時も、悔しさをずっと引きずることはありませんでした。でも、その父親の件だけは絶対に忘れることはありませんでしたね。

国会での代表質問(1998年)

国会での代表質問(1998年)

―― 1996年に衆議院議員に初当選されました。政治家の松浪さんにとってスポーツはどういう位置づけだったのでしょうか?

やはり体育大学の出身ですから、スポーツの普及というものを一番に考えていました。私が政治家になる前の文部科学省の体育局長が高校の先輩で、その方の依頼で当選する前から全国のスポーツ指導者を集めてよく講演をしていました。当時、文科省で「スポーツ振興くじ」の勉強会をやっていまして、その委員にもなっていたのですが、私が議員1年目の1997年にスポーツ振興くじの法案が提出されました。法案を提出する際には推薦人が5人以上必要でして、私も議員1年生ながらその中の一人に加わっていました。国会答弁の前には、想定された質問への回答は用意していたのですが、もちろん、想定外の質問もありました。それらはすべて私が回答したのですが、どうやって対処したかというと、やたら横文字を引用したわけです。例えば「今の議員の質問に対しましては、ジョン・デューイの教育学、モラル・プリンシパル・エデュケーションという観点から考えますと……」なんて言うと、みんな黙らざるを得ないですからね(笑)。そういうことで急な質問には私がすべて受けてうまく乗り切り、1998年にスポーツ振興くじ法案が可決成立しました。その助成金が今日の競技技団体の強化費等になっているというわけです。議員になって、まず最初に日本スポーツ界に貢献ができたというのは良かったと思います。

「スポーツ振興くじ」(toto・BIG)とは、収益金を財源に誰もが身近にスポーツに親しめる、あるいはアスリートの国際競技力向上のための環境整備など、新たなスポーツ振興政策を実施するために導入されたもの。

―― 当時、すでに超党派のスポーツ議員連盟はありましたが、ご自身がオリンピック代表の候補になるくらいまでの競技者だったという政治家はほとんどいなかったのではないでしょうか。

麻生太郎先生(1976年モントリオールオリンピックにクレー射撃の日本代表として出場)くらいで、本格的に国際的なアスリートというのはほとんどいなかったですね。特に衆議院議員では珍しかったと思います。そういう意味では、私は先駆者的存在だったかもしれません。

武道必修化に尽力

武道必修化に尽力

―― 政治家時代、一番思い入れの強かった法案というのは何だったのでしょうか?

やはり中学校の保健体育において武道とダンスを必修化させたことですね。言ってみれば、国会議員としての天王山だったと思っています。私もメンバーだった武道議員連盟が法案を出したのですが、日本国民が武道を学ぶということは、礼儀作法、年長者を敬う心など、日本人の魂を持たせることになると考えていましたので、必ず成し遂げなければならないと思っていました。ただ武道を必修にするというのは至難の業でした。なぜかというと、そもそも武道場を持っていない中学校がたくさんあったからです。新しく造るとなると費用がかかりますから、それを解決する方法が必要でした。それでどうしたかと言いますと、今まで公立の学校が施設を建てるとなると、国、都道府県、自治体がそれぞれ3割ずつ負担していました。しかし、新たに武道場を建てるとなった時に、都道府県も自治体も3割を負担するのは厳しいと。そこで国が9割を負担するので、残り1割を都道府県と自治体がそれぞれ半分ずつ負担するということにしたんです。加えて、武道場は地元の方々にも開放できるようにしました。そうしたところ、誰も文句を言う人はいませんでした。それで武道を必修にすることができたんです。ただ、そのためには国会議員に武道の意義を理解してもらい、国が9割負担してでも必要だという考えになってもらわないといけなかったので、あらゆるところに行って、説明に奔走しましたよ。ただ、意外にも野党からもそれほど反対の声は挙がりませんでした。やはり、日本人に武道の教えは必要だということを誰もが理解しているんだろうなと感じましたね。

政治から教育の現場へ―― 奔走する大学スポーツの改革

学校法人日本体育会(現学校法人日本体育大学)理事長就任披露祝賀会で挨拶する二階俊博氏(2011年)

学校法人日本体育会(現学校法人日本体育大学)理事長就任披露祝賀会で挨拶する二階俊博氏(2011年)

―― 外務大臣政務官や文部科学副大臣などを歴任し、政治家として順風満帆だったと思いますが、2012年には母校の日体大の理事長に就任されました。政治から教育の現場に戻ってこられた理由は何だったのでしょうか?

私も、まさか母校に戻ることになるとは微塵にも思っていませんでした。ただ、日体大で紛争が起こり、教授会と理事会の両方から私の名前が挙がったようで、恩師の方々が次から次へと私の元を訪れてきて「頼むから、大学に戻ってくれないか」と言うわけです。仲のいい代議士たちは「松浪は政治家を続けるべきだ」と言ってくれていたのですが、恩師である二階俊博先生(衆議院議員、現自民党幹事長)に相談したところ、「日体大の理事長が務まるのは君くらいだから、戻ってあげなさい」と言われました。ちょうど落選した直後で、解散がないとなると選挙は4年も待たなければならず、当時65歳でしたからそれはあまりにも厳しいなと。それで政治家の道を捨てて、母校のために働くのも一つかなと思いました。今思えば、その選択は正しかったと思っています。

日本体育大学からIOCバッハ会長(右から二人目)に名誉博士号を贈った際の記念植樹。右が松浪理事長(2016年)

日本体育大学からIOCバッハ会長(右から二人目)に名誉博士号を贈った際の記念植樹。
右が松浪理事長(2016年)

―― 理事長に就任してからは、大学スポーツ界の変革を進められてきました。

戦後すぐの教育改革の下、文部省(現文部科学省)が保健体育教諭の免許を認定したのは、国立では筑波大学、私立では日体大とそれぞれ一校ずつしかありませんでした。それが今ではどこの大学でも保健体育教諭の免許が取得できるようになったわけですが、そのなかで生き残っていくためにはどうすべきかを考えなければなりません。一番の問題は、日体大の関係者が伝統と誇りを忘れてしまっているということ。それを指摘する人もいませんでした。ですから、まずは誇りと伝統を思い出してもらい、私たちが新しく挑戦しようとしていることに理解を示してもらえるように説明しなければなりませんでした。就任してすぐに教授会にこれからのビジョンを説明したのですが、なかには「失敗したらどうするんだ?」という教授もいました。しかし、「私が全責任を取ります」と言ったら、みんな納得してくれました。

それまで政治家でしたから、社会の動きということには常に敏感でした。それでこの国が将来どういう方向に進むのか、そうするとどういう人材が必要になってくるのか、アスリートはどうしていかなければいけないのかということがすでに見えていました。そこで、今後人材が必要になるであろう分野の新設にすぐに動きました。大学には「児童スポーツ教育学部」「スポーツ文化学部」「保健医療学部」「スポーツマネジメント学部」を、大学院には「教育学研究科」「体育科学研究科」「保健医療学研究科」を新たに設けました。

バルセロナパラリンピック開会式で入場する日本選手団(1992年)

バルセロナパラリンピック開会式で入場する日本選手団(1992年)

―― こうした改革の中身というのは、海外からの影響も受けている部分もあるのでしょうか?

ありますね。たとえば、障がい者スポーツに関してですが、私は1992年バルセロナオリンピックに解説者として現地に行っており、閉幕して帰国しようとした時に、町中が車いすの人たちでいっぱいになっている場面に遭遇したんです。「これは何があったんだ?」と現地の人に聞くと「これからパラリンピックが開幕するんだ。その選手たちだよ」と言うわけです。それで「せっかくだから、パラリンピックとはどういうものなのか見ていこう」と思いまして、急遽、滞在期間を延ばしてパラリンピックを見に行きました。そしたら「あれ?まるでオリンピックじゃないか!」と思うほど、まったく同じ競技スポーツの世界だったわけです。

ところが帰国をして新聞を見てみると、どの新聞もパラリンピックについて10行ほどの短い記事しか掲載されていませんでした。当時、私は月に一度、朝日新聞に寄稿していたものですから、「オリンピックには朝日新聞から大勢の社員を派遣しておきながら、パラリンピックについては共同通信の記者が書いた短い記事しか載せていない」と痛烈な批判の記事を書きました。そうしたところ、朝日新聞では障がい者スポーツについて大々的に取り上げるようになったんです。それにNHKをはじめ、ほかのメディアも続いていきました。そういう部分では、少し役割を果たせたかなと思っています。

日本体育大学附属高等支援学校の生徒たち

日本体育大学附属高等支援学校の生徒たち

そういう経験もあって、今回、網走市(北海道)に統廃合のために廃校となった学校を買い上げて、日体大の附属の支援学校を作ることにしたのですが、理事会からは反対の声があがるだろうなと思っていました。しかし、当時はスペシャルオリンピックスの日本名誉会長でもある細川佳代子さん(細川元首相夫人)が日体大の理事を務めていらして、細川さんが涙を流しながら「大変すばらしい。非常に意義あることですから、ぜひやるべきです」と言ってくださいました。そうしたところ、誰からも反対の声はあがりませんでした。ですから細川さんの功績でもあると思うのですが、すんなりと理事会の承認がおりました。そしたら北海道庁や網走市、日本財団が協力、応援してくれまして、2017年4月に知的障がいのある男子生徒を対象とした「日本体育大学附属高等支援学校」が開校しました。

また、今年から日体大では特別支援学校の教員免許を取得できるカリキュラムを作りまして、実際に網走市の附属高等支援学校に学生が行って実習できるようにしたんです。
実際に学生が障がいのある生徒たちと触れ合いながら、さまざまなことを吸収してくれるといいなと思っています。

知的発達障がいのある人の自立や社会参加を目的とし、日常的なスポーツプログラムや成果の発表の場としての競技会を提供する国際的なスポーツ組織

進むべきはグローバル社会におけるスポーツ発展の道

日本で開催されたラグビーワールドカップで史上初のベスト8に進出した日本代表チーム(2019年)

日本で開催されたラグビーワールドカップで史上初のベスト8に進出した日本代表チーム(2019年)

―― 今年アジア初のラグビーワールドカップ(2019年9月20日~11月2日)が大盛況のうちに幕を閉じました。そして来年は2020年東京オリンピック・パラリンピック、2021年にはワールドマスターズゲームズ2021関西を迎えます。こうした国際的なスポーツイベントが続く中で、日本スポーツ界にどのようなことがもたらされることが期待されるでしょうか。

少子化が進む中で、スポーツ以外にエンターテインメントが増えていて、今ではスポーツもよっぽどの面白みを持たせないと関心を抱いてもらえなくなってきていますよね。さらにテレビ中継が格段に減少傾向にあります。例えばボクシングは一昔前だったら東洋タイトルマッチでさえも中継をしていたのに、ここ最近では世界タイトルマッチでさえも中継をしないということもあります。

そういう中で、今後はインターネットでの配信がどのようにスポーツの「見る」部分を支えていくかというところに期待したいと思っていますが、いずれにしても今後進んでいくであろうテレビという媒体の衰退化がスポーツに与える影響というのは小さくないということを念頭に入れて、スポーツのイベントをしていかなければいけないと思います。

―― もう一つは、放送権料の高騰化の問題があると思います。例えば来年の東京オリンピックのマラソンと競歩が東京から札幌へと移転することになりましたが、これも強いて言えば、莫大な放送権料を国際オリンピック委員会(IOC)に支払っているアメリカのテレビ局の都合にあわせて、7、8月という酷暑にスポーツイベントを開催するというところに問題の火種があると思われます。となると、そろそろ、4年に一度の世界最高峰のスポーツイベントとして行われてきたオリンピック・パラリンピックの開催については、開催時期を含めて一度立ち止まって再考すべき時期に来ているのではないでしょうか。

そういう意見も一つあると思いますが、私自身は実はそうは思っていないんです。そもそもアスリートの敵というのは対戦相手だけではなく環境も含まれています。1973年にイランのテヘランでレスリングの世界選手権が開催された際、試合会場が屋外にあって大変な思いをしたことがあります。高温で乾燥している中、汗をかいてもすぐに引いてしまうんです。そうすると体温を奪われてしまって、体を動かして汗をかいているはずなのに、体温がどんどん下がっていくわけです。それで日本人は体調がおかしくなって、みんな早くに敗退してしまいました。さらに衛生面も非常に悪く、水は日本のように軟水ではなく硬水でしたから、日本人選手のほとんどが下痢を起こしました。その時に私が思ったのは、環境に順応することがいかに大切かということです。1968年メキシコオリンピックも2000m級の高地で行われましたが、それは事前にわかっていましたから、高地合宿をして日本人選手も乗り切りましたよね。つまり、どんな環境のもとでも勝てるように研究をして、順応させること。これが今後、国際的なスポーツイベントを開催する際には最も重要なことではないかと思います。

左:サニブラウン・ハキーム選手(2019年)右:大坂なおみ選手(2019年)

左:サニブラウン・ハキーム選手(2019年)
右:大坂なおみ選手(2019年)

―― 今後の日本スポーツ界については、どのようなお考えをお持ちでしょうか。

今後は、どのスポーツも海外から外国人選手を招聘して彼ら彼女らの力を借りて強化していくということがますます増え、それが一般化していくと思います。その良さというのは、今回のラグビーワールドカップが教えてくれた部分もあったと思いますが、ガーナ人の父を持つ陸上のサニブラウン・アブデル・ハキーム選手(現在9秒97の100m日本記録保持者)しかり、父親がハイチ系アメリカ人のテニスの大阪なおみ選手(2018年全米オープンで初優勝し、2019年全豪オープンで優勝。男女あわせてアジア人初の世界ランキング1位にもなる)しかり、もう生粋の日本人どうのという時代ではなくなってきているわけで、「日本人」という定義にこだわってはいけない。

これだけグローバル化した社会の中で私たち日本人も生きていて、スポーツもその一つだということをしっかりと認識することがまずは必要になってくると思います。その中でどのようにして発展させていくか、ということを考えていかなければなりません。

レスリングで東京、メキシコオリンピック連覇を果たした上武洋次郎(左)(写真は1964年)

レスリングで東京、メキシコオリンピック連覇を果たした上武洋次郎(左)(写真は1964年)

―― 2020年東京オリンピック・パラリンピックでは、「共生社会の実現」ということも言われています。

これはもはや常識の範疇にあると言えると思います。思い出されるのは、1964年東京オリンピック、レスリング・フリースタイルのバンタム級(57kg)の決勝戦です。金メダルを獲得した当時早稲田大学の学生だった上武洋次郎の相手はトルコのフセイン・アクバシュでした。実はアクバシュは小児麻痺を患っていて左足が極度に細く、真っすぐ歩くことができなかったんです。それでも前年の1963年の世界選手権では優勝するんです。その時に決勝で敗れたのが日本人の金子正明(1968年メキシコオリンピック、レスリング・フリースタイルフェザー級<63kg>で金メダル獲得)。彼はタックルを得意としていたのですが、そのスタイルではアクバシュには勝てないということで、東京オリンピックの予選会で優勝したにもかかわらず、代表に選ばれませんでした。代わりに選ばれたのは、投げ技が得意だった上武でした。

いずれにしても、障がいのある選手がオリンピックの決勝戦に進出してきたことは驚きの事実だったわけですが、数年後に私はアクバシュにインタビューをしたことがあるんです。その時に彼はこう言いました。「どんな人間も心の中に障がいがあるものです。それは外からは見えない。しかし、私の障がいは外から見えるものだから、みんなが気を使ってくれる。そういう意味では外から見える障がいで良かったと思っています」。その言葉に感動とショックとが入り混じった感情が湧き出てきました。そして、健常に見えるどんな人間にも心の中に障がいがあるということを忘れてはいけない、ということを彼から教えてもらいました。

ピョンヤンを訪問し北朝鮮の金日国体育大臣と面談

ピョンヤンを訪問し北朝鮮の金日国体育大臣と面談

―― 今後、後世に伝えていきたいこととは何でしょうか?

スポーツは世界平和のために活用されるべきものです。ですから、スポーツを通じた国際交流の輪を広げていきたいですね。そのためにも国・地域同士がもっと密着に交流できるようにしていかなければいけない。重要なことは「この国はダメだ」という偏見を持ってはいけないということ。スポーツの世界に偏見を持ち込んではいけないんです。それは政府も同じ。どの国・地域の政府もスポーツ交流を認めなければいけません。本学では日本政府の反対を押し切って、過去4回、スポーツ交流を目的に北朝鮮を訪れていますが、これからも続けていきたいと思っています。

また、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会からは、ホストタウンとして受け入れ先が見つからない難民地域や北朝鮮の選手団を受けれてほしいという要請がありましたので、日体大としては喜んでお引き受けしました。本学の学生たちにとっては、非常に貴重で刺激的な経験になると思っています。今後の大学の役割というのは、単に学問や研究の場というだけでなく、これだけグローバル化した社会の中にあっては、国際人の養成が非常に重要な使命。そういう意味では、国際交流の場をさらに広げていきたいと思っています。

  • 松浪 健四郎氏 略歴
  • 世相

1912
明治45

ストックホルムオリンピック開催(夏季)
日本から金栗四三氏が男子マラソン、三島弥彦氏が男子100m、200mに初参加

1916
大正5

第一次世界大戦でオリンピック中止

1920
大正9

アントワープオリンピック開催(夏季)

1924
大正13
パリオリンピック開催(夏季)
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の入賞となる6位となる
1928
昭和3
アムステルダムオリンピック開催(夏季)
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の金メダルを獲得
人見絹枝氏、女子800mで全競技を通じて日本人女子初の銀メダルを獲得
サンモリッツオリンピック開催(冬季)
1932
昭和7
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
南部忠平氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)

1936
昭和11
ベルリンオリンピック開催(夏季)
田島直人氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
織田幹雄氏、南部忠平氏に続く日本人選手の同種目3連覇となる
ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック開催(冬季)

1940
昭和15
第二次世界大戦でオリンピック中止

1944
昭和19
第二次世界大戦でオリンピック中止

  • 1945第二次世界大戦が終戦
  • 1946 松浪健四郎氏、大阪に生まれる
  • 1947日本国憲法が施行
1948
昭和23
ロンドンオリンピック開催(夏季)
サンモリッツオリンピック開催(冬季)

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951日米安全保障条約を締結
1952
昭和27
ヘルシンキオリンピック開催(夏季)
オスロオリンピック開催(冬季)

  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
メルボルンオリンピック開催(夏季)
コルチナ・ダンペッツォオリンピック開催(冬季)
猪谷千春氏、スキー回転で銀メダル獲得(冬季大会で日本人初のメダリストとなる)

1959
昭和34
1964年東京オリンピック開催決定

1960
昭和35
ローマオリンピック開催(夏季)
スコーバレーオリンピック開催(冬季)

ローマで第9回国際ストーク・マンデビル競技大会が開催
(のちに、第1回パラリンピックとして位置づけられる)

1964
昭和39
東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
円谷幸吉氏、男子マラソンで銅メダル獲得
インスブルックオリンピック開催(冬季)

  • 1964東海道新幹線が開業
1968
昭和43
メキシコオリンピック開催(夏季)
テルアビブパラリンピック開催(夏季)
グルノーブルオリンピック開催(冬季)

1969
昭和44
日本陸上競技連盟の青木半治理事長が、日本体育協会の専務理事、日本オリンピック委員会(JOC)の委員長 に就任

  • 1969 松浪健四郎氏、全米レスリング選手権大会優勝
  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
  • 1970 松浪健四郎氏、日本体育大学を卒業
1972
昭和47
ミュンヘンオリンピック開催(夏季)
ハイデルベルクパラリンピック開催(夏季)
札幌オリンピック開催(冬季)

  • 1973 松浪健四郎氏、世界レスリング選手権日本大会で代表選手兼コーチを務める
  • 1973オイルショックが始まる
  • 1975 松浪健四郎氏、アフガニスタン国立カブール大学で日本人初の講師に就任
1976
昭和51
モントリオールオリンピック開催(夏季)
トロントパラリンピック開催(夏季)
インスブルックオリンピック開催(冬季)
 
  • 1976ロッキード事件が表面化
1978
昭和53
8カ国陸上(アメリカ・ソ連・西ドイツ・イギリス・フランス・イタリア・ポーランド・日本)開催  

  • 1978日中平和友好条約を調印
1980
昭和55
モスクワオリンピック開催(夏季)、日本はボイコット
アーネムパラリンピック開催(夏季)
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
ヤイロパラリンピック開催(冬季) 冬季大会への日本人初参加

  • 1982東北、上越新幹線が開業
1984
昭和59
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
ニューヨーク/ストーク・マンデビルパラリンピック開催(夏季)
サラエボオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

1988
昭和63
ソウルオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
鈴木大地 競泳金メダル獲得
カルガリーオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

  • 1988 松浪健四郎氏、専修大学教授に就任
1992
平成4
バルセロナオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて日本女子陸上選手64年ぶりの銀メダル獲得
アルベールビルオリンピック開催(冬季)
ティーユ/アルベールビルパラリンピック開催(冬季)

1994
平成6
リレハンメルオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 1995阪神・淡路大震災が発生
1996
平成8
アトランタオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて銅メダル獲得

  • 1996 松浪健四郎氏、衆議院に当選
  • 1997香港が中国に返還される
1998
平成10
長野オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 1998 松浪健四郎氏、自由党文部科学部会長、衆議院文教委員会理事に就任
2000
平成12
シドニーオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
高橋尚子氏、女子マラソンにて金メダル獲得

2002
平成14
ソルトレークシティオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2002 松浪健四郎氏、外務大臣政務官に就任
2004
平成16
アテネオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
野口みずき氏、女子マラソンにて金メダル獲得
2006
平成18
トリノオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2006 松浪健四郎氏、衆議院教育基本法特別員会委員に就任
2007
平成19
第1回東京マラソン開催

2008
平成20
北京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
男子4×100mリレーで日本(塚原直貴氏、末續慎吾氏、高平慎士氏、朝原宣治氏)が3位となり、男子トラック種目初のオリンピック銅メダル獲得

  • 2008 松浪健四郎氏、文部科学副大臣に就任
  • 2008リーマンショックが起こる
2010
平成22
バンクーバーオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2011 松浪健四郎氏、日本体育大学理事長に就任
  • 2011 松浪健四郎氏、日本体育会理事長に就任
  • 2011東日本大震災が発生
2012
平成24
ロンドンオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催決定

2014
平成26
ソチオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2016
平成28
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催(夏季)

2018
平成30
平昌オリンピック・パラリンピック開催(冬季)