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箱根駅伝とは「なにもの」か
佐野 慎輔

大手町読売新聞社前を一斉スタート

大手町読売新聞社前を一斉スタート(2017年1月2日)

  秋から冬にかけて駅伝のシーズンである。高校、大学、社会人、都道府県対抗――さまざまなジャンルの全国大会が、それも男女それぞれ開かれている。小さな町村の対抗駅伝まで加えれば、ほとんど毎週のように駅伝大会が続く。

  ひとり一人の走者が担当区間をチームの勝利のために走る。それを一本の(たすき)がつなぐ。ひとりのミスがチームの成績に影響する。一方で、誰かの失敗をみんなで補い合う。そうした要素が日本人の琴線に触れるのだろう。駅伝人気の最大の要因といっていい。

 
3連覇を達成した青山学院大の安藤のゴールシーン(2017年1月3日) 3連覇を達成した青山学院大の安藤のゴールシーン
(2017年1月3日)

  数ある駅伝の中で、歴史の長さ、人気の高さで群を抜き、頂点に立つのが箱根駅伝、正式には『東京箱根間大学駅伝競走』である。

  ここ何年か、沿道はのべ100万人もの見物客で埋まる。中継する日本テレビの平均視聴率は20%後半を堅持して久しい。ビデオリサーチの調べによると、2017年1月2日の往路は27.2%、3日の復路は28.4%を記録した。いや、さる10月14日に行われた2018年大会出場校を決める予選会でさえ、10.8%(関東地区)という高い数値をたたき出している。

  なぜ、人々はそれほど箱根駅伝に関心を示すのだろうか。早稲田大学スポーツ科学学術院の松岡宏高教授は、こう指摘した。

  「どのスポーツ観戦にも共通する『結果がわからないものを見る楽しみ』。襷をつないで走り、ときに何が起こるかわからない『ドラマ性』。今年はどこが強い、どの選手が楽しみかと頭をひねる『予想、予測性』、そして、自分自身や家族の出身校など特定の大学を応援する『カレッジ・アイデンティティ』がより顕著に現われている」

  指摘の通りである。とりわけ母校の優勝、上位入賞、シード権獲得などを自己の成功のように感じる気持ちはよくわかる。ただ、それだけで沿道に100万人もの観衆が集まるだろうか。

 
往路5区で伴走車からの監督の激励を受け山登りに挑む選手(1968年1月) 往路5区で伴走車からの監督の激励を受け山登りに挑む選手(1968年1月)

  一体感を思う。箱根の想像を絶する急勾配の山登りや、ゴールとなる大手町の興奮はその場にいたものでなければわからない。箱根や大手町に、固定のリピーターが多い理由にほかならない。そこに母校愛が加われば、この駅伝の魅力がわかってくる。

  しかし、よく考えてみれば、箱根駅伝を主催するのは関東学生陸上競技連盟であり、有名大学は確かに多いが、いってしまえば〝関東ローカル〟に過ぎない。

  全国大会としては、全日本学生大学駅伝対抗選手権大会がある。こちらは日本学生陸上競技連合が主催。その名の通り、全国8地区の学連の連合体であり、むろん関東学連も一翼を担う。

  そうであるならば、「箱根」よりも「全日本」の方がより盛り上がってしかるべきではないのか。支援するメディアも、箱根が「読売新聞・日本テレビ」に対し、全日本は「朝日新聞・テレビ朝日」となんら遜色はない。

  出場校も関東の大学が中心ではあるが、全地区から代表校が集う。それにもかかわらず、全日本は箱根への通過点のように見られがちだ。

  理由のひとつは、日程である。箱根が1月2、3両日にわたって開催されるのに対し、全日本は11月の第1日曜日。その年で日にちが動くのは致し方ないが、どうしても箱根への調整途中というイメージがわく。

  また、2日間開催と1日だけという違いも大きい。距離は箱根の10区間217.1km(往路107.5km、復路109.6km)と比べて、全日本は8区間106.8kmと半分である。

  コースも箱根が東京・大手町から横浜、湘南、小田原と都会から海岸沿いを掛け抜け、箱根山中の山登りというクライマックスを持つのに比べ、全日本は熱田神宮から伊勢神宮までという由緒をもつものの、コースは起伏に富まない。つまり、『ドラマ性』に大きな違いが生まれるといってもいい。

  全日本は今年11月、第49回大会を神奈川大学の優勝で幕を閉じた。箱根は来年1月早々、V4をかける青山学院大学を中心に、第94回大会を開く。回数でわかるとおり、箱根駅伝の歴史は長く、重い。

 
第44回大会のスタート風景(1968年1月) 第44回大会のスタート風景(1968年1月)

  箱根駅伝が初めて開催されたのは1920年、大正9年までさかのぼる。

  この年、世界では前年のベルサイユ条約締結によって第一次世界大戦の処理を完了、国際連盟が創設された。日本は創設メンバーとして加盟している。また、ベルギーのアントワープで第7回オリンピック競技大会が開催され、テニスの熊谷一弥と柏尾誠一郎によってシングルス、ダブルスで2個の銀メダル、日本最初のオリンピック・メダルを獲得している。

  箱根駅伝の創設は、そのオリンピックと深く関わっていた。
  日本が初めてオリンピックに参加した1912年ストックホルム大会で、マラソンに出場した金栗 四三(かなぐり しぞう)は熱中症のため27km手前で意識を失った。予選会で世界記録を出し、意気揚々と臨んだ大会だったが、世界との差を痛感させられた。

マラソンの父と言われ箱根駅伝の創設にも尽力した金栗四三 マラソンの父と言われ、箱根駅伝の創設にも尽力した
金栗四三

  帰国した金栗は「世界で通用する長距離走者を育成したい」と考え、駅伝大会開催に思いをめぐらせていく。啓示を与えたのが、1917年に読売新聞社が主催した東京奠都(てんと)50周年を記念する『東京奠都五十年奉祝・東海道駅伝徒歩競走』。東軍、西軍2チームが京都・三条大橋から東京・上野不忍池まで、約516kmを23区間に分け、3日間かけて走り継いだ。このとき、勝利した東軍のアンカーが東京高等師範学校(東京高師、後に東京教育大学、現筑波大学)生の金栗だった。

  ちなみに駅伝とは、言葉としては645年の大化改新にまでさかのぼる。「駅馬・伝馬の制度」が設けられ、中央と地方とを結ぶ主要道路に30里(約16km)ごと駅(宿駅)を起き、宿泊施設、人や馬を配置。ここを中継所として役人が動いた。その故事から、17年大会で神宮皇學館館長の武田千代三郎が「駅伝」と命名した。

  1919年、金栗は東京高師教員の野口源三郎、明治大生・沢田英一と語らい、箱根駅伝構想をまとめていく。当初は、夢を大きく「アメリカ大陸横断駅伝」を考えたが、さすがに後援するところはなく、予選会にと考案した東京と箱根間を結ぶ駅伝競走を報知新聞社が後援することになった。それが箱根の始まりである。

  第1回大会は1920年2月14、15の両日、早稲田、慶応義塾、明治、東京高師の「四大学対抗駅伝」として実施された。

  授業があるため、2月14日午後1時に東京・有楽町の報知新聞社前をスタート、箱根到着は午後8時半をまわり、地元の人たちはかがり火を焚いて選手を誘導した。往路のゴールに最初に飛び込んできたのは明大、しかし、翌日の復路を東京高師が制し、記念すべき最初の優勝校となった。

  主催は1919年、金栗、岡田らが創設した全国学生陸上競技連合。21年に関西学生陸上競技連盟が創設されたため、関東学連となり、主催は変更され、今日に至る。

  ここから参加校も増えて、規模も大きくなっていく。戦時中の1941、42、44、45年、戦後すぐの46年は開催されなかったが、47年以降、読売新聞社主催として毎年実施されている。43年は「靖国神社-箱根神社間往復関東学生鍛練継走大会」として開催、これを第22回として数える。

  箱根を変えたのは、メディアだった。1953年、NHKラジオが中継を開始。ラジオ局からの要請もあり、大会日程は1月2、3日に固定された。これが、飛躍のきっかけでもある。

駅伝ならではの“タスキ”の受け渡し風景(2017年1月) 駅伝ならではの“タスキ”の受け渡し風景(2017年1月)

  テレビは遅れること30年、1983年から始まった。ただし、日本テレビではなく東京12チャンネル(現・テレビ東京)、それも現在のような完全生中継ではなく、ダイジェスト形式で、ゴールだけを生中継した。

  それが大きく変化したのは1987年である。日本テレビが放送権を獲得し、時間枠を拡大、多くの区間を生中継した。といっても往路は7時55分-10時25分、12時-13時55分。復路は7時55分-9時25分、12時-13時55分で、いってしまえば「不完全中継」である。ただ、みる要素が増えたことで、既存の正月〝おせち番組〟に飽きた層を取り込んでいった。

  そして、1989年を迎える。当時の坂田信久チーフディレクター(元川崎ヴェルディ社長、元国士舘大学教授)を中心としたスタッフは、箱根山中の電波障害を克服するために双子山などに無線基地を設け、電波を飛ばすことに成功。困難を乗り越えて、完全生中継を実現した。
  これ以後、視聴率20%を超える人気番組に育っていく。平均視聴率の過去最高は2003年第79回大会復路の31.5%。この大会から出場は20チームとなった。

  人気イベントとなった箱根駅伝は、大きな波及効果を生んだ。メインスポンサーのサッポロビールをはじめ、自動車メーカー、スポーツメーカー、さらには箱根観光にも大きな宣伝効果をもたらした。

  出場校のPR効果も大きく、中堅、新進校は受験志願者を増やした。例えば、山の神・柏原竜二選手の活躍などで箱根を連覇した当時の東洋大学は1万人志願者を増やしたといわれている。ただ、出場校の人気も定着し、少子化となった現在は、志願者への影響は少ないとされる。

 
早稲田大で4年間2区を走り、3、4年時には区間賞を獲得した瀬古利彦(1980年1月) 早稲田大で4年間2区を走り、3、4年時には区間賞を獲得した瀬古利彦(1980年1月)

  一方、弊害も指摘されて久しい。  「ドラマ性」の追求はウエットな視点を生む。過剰な演出は競技の純粋性を誤らせ、選手を〝目立ちたい〟症候群に陥らせてはいないか。メディアやファンの過度な注目は、選手に奇妙なスター意識を植え付けかねない。そして、「箱根出場」だけをめざし、終わったあとに生じる「燃え尽き症候群」は、世界に通用する選手への道を阻む。

  徹底した選手教育、意識改革で克服は可能ではある。一方でスポーツは楽しいものである。あくまでも大学生による大学生のための大会、それが根底になければならない。

  箱根を目指し、関東、東北は当然、関西や中部、九州からも関東の大学へ進学する傾向が強い。地元の空洞化を訴える声に耳を傾ける必要はないのか。有望な高校生を求めたスカウト合戦は大学の財政力に比例する。それでいいのだろうか。

  地域間格差、大学間格差、持てる大学とそうではない大学。それが箱根の成績を左右するとしたらさみしい。  伝統校の退潮は何を意味するのか。入試の難しさ、財政面での優劣…。これもまた、別の側面でのさみしさとなる。

  エントリーは2人、出場は1人。留学生の問題はスカウトも含め、このままでいいはずはない。いかに線引きするのか、いや線引きはすべてなくすのか。勝つためだけの留学生は必要なのか、大学の姿勢が問われる。教育問題だけに根は深い。

  選手強化で、「箱根から世界へ」になっていないといわれてきた。トラック練習軽視で高速化対応ができていない。駅伝重視で個人の能力を伸ばせない…。

  箱根からオリンピックに巣立った選手は76人。多いのか、少ないのか。世界に通用する長距離選手育成には、企業との連動が重要だ。それは、ひとえに箱根だけが負うべき責任なのか。

  問題はさまざまに横たわる。箱根を変えた男、坂田信久さんは後輩たちにこう話したことがあった。
  「駅伝の精神を変えてはならない」

  金栗の後輩、東京教育大出身の人らしいスポーツを大事にする思いである。箱根駅伝はこれからも日本人が好むスポーツイベントと長く続く。坂田さんの言葉は重い。

   (写真提供:フォート・キシモト)

 

佐野 慎輔

産業経済新聞社 特別記者兼論説委員
笹川スポーツ財団 理事/上席特別研究員

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