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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

インドネシア2018アジアパラ競技大会レポート

課題多くも成功に導いた"観客"と"ボランティア"

2018年10月6~13日、8日間にわたってインドネシアの首都ジャカルタでは「アジアパラ競技大会」が行われた。国際大会を開催するうえでの準備不足が目立ち、課題は多々あったものの、大きなトラブルもなく閉幕した今大会。当初は大会運営や衛生上の問題など、不安をあおるような話ばかりが取り沙汰されていたが、全日程を無事に終えて帰国した今、痛切に感じているのは「人の温かさにあふれていた大会だった」ということだ。

写真・文/斎藤寿子(フリーランス ライター)

ボランティア

ホスピタリティにあふれたアジアパラ競技大会ボランティア

「振興」から「競技」へ

「アジアパラ競技大会」とは、アジアの国・地域における障がい者スポーツの振興・発展・強化を目的とし、パラリンピックと同様に4年に一度、国際パラリンピック委員会(IPC)の地域委員会であるアジアパラリンピック委員会(APC)が主催する国際総合スポーツ大会。

前身は、極東・南太平洋地域における障がい者スポーツの振興とスポーツを通じた障がい者の社会参加を目的として1975年から開催された「フェスピック競技大会」(旧極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会)。第1回大会は大分で行われ、2006年にマレーシア・クアラルンプールで行われた第9回大会まで続いた。第7回(タイ・バンコク)、第8回(韓国・釜山)はIPCの公認大会として開催され、柔道、シッティングバレーボールでは優勝者に2年後のパラリンピックの出場権が与えられるなど徐々にエリート化していく。

そんな中、2006年11月にはアジアパラリンピック評議会とフェスピック連盟が合併し、APCとなることが合意されたことに伴って、「フェスピック競技大会」は「アジアパラ競技大会」として継承することが決定。「アジアパラ競技大会」としては、2010年に中国・広州で初めて開催され、今大会は3度目となった。

「アジアパラ競技大会」の規模は拡大の一途を辿っている。2010年は41カ国・地域から2512人の選手が参加し、19競技が行われた。日本からは223人の選手が全19競技に参加した。2014年に韓国・仁川での同大会には、41カ国・地域から約2500人の選手が参加し、23競技が行われた。日本からは285人の選手が22競技に参加した。

そして、今大会には史上最多の43カ国・地域から約2800人の選手が参加し、18競技558種目が行われた。競技数こそ減少したものの、参加国・選手は史上最多の規模となった。日本からはチェスを除いた17競技に過去最多の304人の選手が参加した。

スポーツとして楽しむ観客の姿

空港内

首都ジャカルタの郊外のスカルノ・ハッタ国際空港にある装飾

日本とインドネシアとの時差は、2時間。日本からは飛行機で約7時間ほどで、首都ジャカルタの郊外にあるスカルノ・ハッタ国際空港に到着する。新設された第3ターミナルには、ところどころにアジアパラのボードなどが飾られており、歓迎ムードが醸し出されていた。また、メインスタジアム「ゲロラ・ブン・カルノ・スタジアム」周辺には各競技のアスリートののぼりが並び、大会を盛り上げようとする装飾が目立った。

地元の人の話によれば、開幕前には今大会の宣伝活動が積極的に行われており、テレビCMなどの効果で大会開催の認知度は高かったという。そのため、陸上競技が行われたメインスタジアムをはじめとする8つの競技会場が集約された公園には平日にも多くの人たちが訪れていた。公園内には露店のほかに、さまざまな体験コーナーや記念撮影ボードなどが用意され、"スポーツの祭典"としての雰囲気を十分に楽しむことができた。

観客動員は各競技によって異なるものの、ある程度の集客があったのではないかと思われる。意外にも人気が高かったのが競泳で、午前中の予選から多くの観客が詰めかけ、盛り上がっていた。

また、車いすバスケットボールでは、インドネシア代表は男子は予選落ち、女子においては出場していない。おそらくパラ競技の中でも、バドミントンなどとは異なり車いすバスケは国内では認知度や人気は決して高くないことは容易に想像することができる。にもかかわらず、男女ともに決勝は超満員となり、まさに"アジア王座決定戦"にふさわしいほどに盛況だった。自国にはまったく関係のない試合に入場料を払ってまで観戦に行きたいと思うほど、スポーツの一つとして純粋に楽しんでいたように思う。

車いすテニスの国枝・上地が2020の切符獲得

競泳会場には、午前中の予選から多くの観客が詰めかけた

競泳会場には、午前中の予選から多くの観客が詰めかけた

想像をはるかにこえてスポーツ大会としての盛り上がりを見せた今大会、日本人選手の活躍もインドネシアの人々を魅了した。

前回大会では143個のメダルを獲得し、金メダル数では中国、韓国に次いで3位だった日本。今大会は中国の319個に次いで2番目に多い、史上最多となる198個のメダル(金45、銀70、銅83)を獲得し、金メダル数では中国(172)、韓国(53)、イラン(51)に次いで4位となった。

2020年東京パラリンピック前の最後の総合スポーツ大会となった今大会、最大の注目は唯一、東京パラリンピックの出場権が与えられた車いすテニス(男女シングルス)。男子は前回大会と同じ決勝カードとなり、リベンジを狙った眞田卓(凸版印刷)をストレートで破った国枝慎吾(ユニクロ)が大会3連覇を達成。女子は他を寄せ付けない圧倒的な力を見せた上地結衣(エイベックス)が初優勝。国枝、上地はそろって東京パラリンピック出場へ一番乗りを果たした。

2012年ロンドンパラリンピックで、団体競技としては日本のパラリンピック史上初めて金メダルに輝いたゴールボール女子が、アジア最大のライバルである中国(北京、ロンドン、リオと3大会連続で銀メダル)を予選、決勝ともに破って優勝。競泳では、今大会の日本選手団主将を務めた鈴木孝幸(GOLDWIN)が5冠(運動機能障害S4)の快挙を達成。視覚障がいクラス(S11)では木村敬一(東京ガス)が4個の金メダルを獲得した。

陸上競技では、車いすクラスの400m、1500m(T52)で世界記録保持者の佐藤友祈(WORLD-AC)が、400mと800mで2冠を達成。また、義足クラスでは初出場の井谷俊介(ネッツトヨタ東京)が100m(T64)で金メダル。予選ではライバルの佐藤圭太(トヨタ自動車)が持つアジア記録11秒77を上回る11秒70のアジア新を樹立。今年デビューしたばかりの新星スプリンターがアジアの新王者に名乗り出た。

厳しい環境下に置かれたアスリート

メインスタジアム(陸上)

メインスタジアム(陸上)

一方、今大会で選手たちに用意された環境は、決して"快適"と言えるものではなく、コンディショニングは難しかった。高温・多湿である気候と食事面で体調を崩す選手も少なくなかったようだ。

今大会は、2カ月前に行われたアジア競技大会と同じ開催地で行われ、開会式・閉会式が行われたメインスタジアムをはじめ、一部を除く競技会場はアジア大会と同じ施設が使用された。選手たちが宿泊した選手村もアジア大会と同じだった。

しかし、選手たちの話によれば、部屋の衛生、食事、競技会場までの輸送については予想以上の苦労を強いられたという。水回りだけでなく、ベッドやタオルも不衛生で、日本人選手にとってはまさに"東南アジアの洗礼"。なかでも特に問題とされたのは、食事面だったようだ。

選手村の食堂には「東アジア」「西アジア」「インターナショナル」など、数種類のコーナーがあったが、どれも似たような味付けでたいした違いはなかったという。料理そのものに関しては「決して美味しくはなかったけれど、慣れれば大丈夫だった」と語る選手がほとんどだったが、最も問題だったのは準備のスピードが追いつかなかったのか、提供される食事が必要とされる量を下回ったことだ。そのために順番を待つ選手たちで長蛇の列ができていたという。

また、選手村と会場までの輸送においても、スムーズにはいかず、大会後半になると、循環用のバスが十分に手配されず、大幅に遅れたり、あるいは用意した選手用のバスに全員が乗り切ることができなかったこともあったと聞く。

食事面においては、日を追うごとに改善され、長蛇の列ができるようなことはなくなったようだが、実はこうした準備の遅れは、選手村に限ったことではなく、競技会場においても多々見受けられた。

例えば、入場する際には観客もメディアも同じゲートをくぐるようになっており、持ち物のセキュリティチェックが行われた。しかし、会場によっては大会初日にはセキュリティチェックが行われなかった。車いすバスケットボール会場においては、ゲートにはスタッフもまばらで、X線荷物検査装置はカバーがかけられたままだった。

大会2日目以降はその装置のカバーは外され、必ず荷物検査が行われていたものの、その検査自体も非常に怪しかった。大会期間中、セキュリティチェックに引っかかった人をついに一人も見ることがなかったのだ。

二極化したアクセシビリティ

ゴルフカートを利用する車いすユーザー

ゴルフカートを利用する車いすユーザー

競技会場へのアクセシビリティは良くも悪くもあった。まず、8競技の会場がコンパクトに集約された公園内は、バスやゴルフカートが周回していたため、移動にはほぼ問題はなかった。ただしバスにタイムスケジュールはなく、各競技場付近に設置された停留所で待ち、来たバスに乗り込むという方式だった。一方、ゴルフカートは道端で呼び止めて自由に乗ることができた。

混雑する時間帯にはバスが満員で乗ることができないことも多々あったが、最も離れていた車いすバスケットボールとバドミントンの会場さえ歩いて約20分と徒歩圏内にあり、移動には困らなかった。

しかし、公園外に会場が設置された競技においては、移動手段はタクシーのみで苦労はたえなかった。ほとんどのタクシードライバーが英語がまったく通じないため、料金や行き先などの条件はすべて乗車する前に、ボランティアスタッフやホテルスタッフからドライバーに伝えてもらわなければならなかったからだ。

加えてジャカルタ市内の道路の交通渋滞は「世界最悪」と言われている。高速道路に乗ってしまえば、車が止まるほどの渋滞に巻き込まれることはまずない。しかし、一般道は時間帯によってまさに「世界最悪の交通渋滞」と化す。大会期間中、一度だけそれを経験した。乗車する前にボランティアスタッフからドライバーに高速道路を利用してほしいことを伝えてもらうのを失念したため、ドライバーは当然、一般道路を走り始めた。すると、金曜日の夕方という時間帯も関係していたのか、幹線道路に入ったとたんに車が停車し、そのまま動かなくなった。本来なら40分ほどで到着するはずが、2時間近くかかった。

利用不可能なスロープ

車いすユーザーのための、ゴルフカート呼び寄せが可能なテント

車いすユーザーのための、ゴルフカート呼び寄せが可能なテント

障がい者への配慮という点においてはどうだったかというと、まったくなかったわけではない。例えば、ゲートには「FREE SHUTTLE」の文字と車いすのマークが描かれたテントがあり、そこで車いすユーザーが待っていると、ゴルフカートを呼び寄せて乗せてくれるというサービスも行われていた。

しかし、ハード面においては配慮に欠けている部分が多く見受けられた。例えば、設置されたスロープは傾斜が厳しく、車いすユーザーが自力で上ることができないものだった。

実際、メディアが利用するメインプレスセンター内のスロープについて、電動車いすユーザーの日本人メディアに聞いてみたところ、「自分のように電動なら上ることができるが、通常の車いすでは到底無理な傾斜の角度です。」という返答だった。

メインスタジアム周辺の公園内は車いすで移動することができるように、歩道には段差をなくす工夫が施されていた。しかし、そもそも道自体に凹凸が多く、車いすでスムーズに移動するには難しいように見受けられた。

一方、今大会で質の高さを感じたのは、ボランティアスタッフの英語力だ。大学生が中心となっていたこともあり、ほとんどのボランティアスタッフは英語が堪能で、言葉で困るということはなかった。また、どのボランティアスタッフの対応もホスピタリティにあふれ、笑顔で真摯に対応してくれたため、不便さこそ感じても、ストレスを感じることは皆無に等しかった。

リオが思い出された居心地の良さ

8競技の会場がコンパクトに集約された公園内には、露店のほかに、さまざまな体験コーナーや記念撮影ボードなどが用意された

8競技の会場がコンパクトに集約された公園内には、露店のほかに、さまざまな体験コーナーや記念撮影ボードなどが用意された

今大会は、運営面においては全体的に"準備不足"が目立った。選手村を筆頭に競技会場やメインプレスセンターなどの施設の環境も、これまで取材した国際大会の中で"最低ランク"と言っても過言ではなかった。

また、連日頭を悩ましたのが競技のタイムスケジュール管理だった。大会の公式サイトには開幕が目前となっても、競技日程や細かいタイムスケジュールが掲載されず、大会期間中にも突然、大幅に競技時間が変更されることがあった。頼みの綱であるはずの専用アプリの信頼度も低く、正確な情報をスムーズに入手することができなかった。

こうした課題や問題点は多々あったことは確かだが、ほぼストレスを感じることなく過ごすことができたのは、ひとえに"人の温かさ"に触れることが多かったからにほかならない。前述したようにボランティアスタッフの応対の良さもさることながら、インドネシアが「世界有数の親日国」だったということも居心地の良さを感じさせた要因となったのだろう。

ボランティアの中には、予想以上に日本語を話すことができるスタッフが多く、好きな日本のアニメやドラマ、俳優などの話で盛り上がることがよくあった。また、ボランティアと日本語で話をしていると、通りすがりの小学生や中学生が知っている日本語で話しかけてくることもあるなど、日本や日本語に親しみを持っている人が非常に多かった。

不便さのストレスよりも、人の温かさによる居心地の良さを感じながら、思い出されたのは2016年リオデジャネイロパラリンピック。やはりさまざまな面で不便が生じたものの、ラテン系特有の明るい笑顔にあふれていた大会だった。どんな環境下でも、やはり最も大切なのは"人"ということなのだろう。今大会はそのことを改めて痛感した大会となった。

斎藤寿子

新潟県生まれ。大学卒業後、業界紙、編集プロダクションを経て、2006年からスポーツ専門Webサイトで記事を執筆。主に野球、バレーボール、テニスを担当。障がい者スポーツは2011年よりパラ競技を中心に国内外の大会を取材。パラリンピックは2012年ロンドン大会、2016年リオデジャネイロ大会、2018年平昌大会を取材。そのほか世界選手権やアジアパラ競技大会、車いすバスケットボールのドイツ・ブンデスリーガなど現地を訪れ、取材・執筆活動を行っている。2015年よりフリーランスのライターとして活動している。

大会概要

■大会名称:アジアパラ競技大会

■開催時期:2010年から4年ごとに開催

■オフィシャルサイト:https://asianparagames2018.id/en/

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