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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

オリンピアンかく語りき
第17回
夢を実現する“キャプテン”

川淵 三郎

1993年5月15日午後7時。
前日の雨がウソのように晴れ上がった東京・国立競技場が、新しい歴史を刻み始めた。

Jリーグの開幕戦。選ばれたカードは、日本サッカーリーグ時代から覇権を競い合ってきたヴェルディ川崎(読売サッカークラブ/現・東京ヴェルディ)と横浜マリノス(日産自動車サッカー部/現・横浜F・マリノス)だった。

開幕試合に先がけて行われた開幕セレモニー。レーザー光線に彩られたスタジアムには、春畑道哉(TUBE)によるJリーグ公式テーマ曲「J’S THEME」が流れ、音楽と華麗な演出、そしてこの日を待ちに待ったサポーターたちの熱狂・歓声・興奮に包まれた。4万枚の前売りに対し、78万人の応募があったというから、いかにプラチナチケット化していたかがわかる。

スポットライトを浴びながら最後に登壇したのは、川淵三郎Jリーグチェアマン。
「開会宣言。スポーツを愛する多くのファンの皆さまに支えられまして、Jリーグは今日ここに大きな夢の実現に向かって、その第一歩を踏み出します。
1993年5月15日、Jリーグの開会を宣言します。Jリーグチェアマン 川淵三郎」

華やかで、しかし決して長すぎず、きっちり30分間に凝縮されたスマートなセレモニーは、Jリーグが新しいプロスポーツの世界を切り拓く予兆だったに違いない。

聞き手/西田善夫 文/山本尚子 構成・写真/フォート・キシモト

スポーツにおける“言葉”に一石を投じた
Jリーグ開会宣言

Jリーグ開幕セレモニー(国立競技場)

Jリーグ開幕セレモニー(国立競技場)

―― Jリーグが開幕したあの当時、僕はNHKのサンデースポーツとサタデースポーツを担当していました。当日、「サタデースポーツ」の中で、開幕セレモニーを再現したのです。川淵さんのあの開会宣言には非常に感動しました。もう震えましたよ。

それはそれは。

―― あの文章は今でも覚えていらっしゃいますか。

もちろん!

―― 素晴らしい文でした。新しい言葉を使っているわけではないのに、今聞いても意図がびしっと伝わるメッセージでした。所要時間は?

ちょうど30秒でした。最後に「Jリーグチェアマン 川淵三郎」と言う直前、スタジアムの大歓声で自分の声が聞こえなくなって、一瞬、言うか言うまいか迷ったんです。でも歴史に残ることなのだからしっかり名乗らないとまずいなと思い直しました。

―― それまでのスポーツ界にはなかったメッセージだと感じました。いわゆる“型通り”の文章ではなかった。あのスピーチをきっかけに、「スポーツを語る言葉」がずいぶん変わってきたような気がします。例えば高校野球の選手宣誓などで、形式にとらわれず、しっかり思いを込めて自分の言葉で語るというように。

西田さんにほめていただけるとうれしいですね。

Jリーグ開幕セレモニー・開幕宣言(国立競技場)

Jリーグ開幕セレモニー・開幕宣言(国立競技場)

―― 少年のような希望にあふれているなと思ったのが、「大きな夢に向かって」という部分でした。あれは具体的には何をさしていたのでしょうか。

Jリーグの理念は、日本全国の地域社会に、地域に根ざしたスポーツクラブをつくり、豊かなスポーツ文化を育んでいく中から優れた選手を送り出し、日本サッカーのレベルを上げていこうというものなのですが、日本にはまだ「スポーツ文化」と呼べるものが醸成されていない。ならば、われわれがそれを作り上げていこうと、そういう気持ちを込めた言葉です。

―― 全部、ご自身で書かれたのですか。

そうです。僕は最初、開会宣言なんかどうせだれも真剣に聞いてくれないから、やっても意味がないよと断っていたんです。でも歴史的なことだからと周囲に説得され、草案ももらいました。
それを見て、通りいっぺんの表現はしたくない。できるだけ簡潔に、そしてサッカーに限らずスポーツ界全体として大きな夢に向かって進んでいくというメッセージにしようと思ったんです。
1994年のFIFAワールドカップ大会の1次予選はダブルセントラル方式といって、1巡目は東京、2巡目はUAE開催でした。そのUAE滞在中に、ああでもないこうでもないと考えてこの文章にしました。

―― 「皆様のご支援を得て」という定型的な表現でなく、「多くのファンの皆さまに支えられまして」だったところが、さすが川淵さん、完璧だなと思いましたね。

それから、観客数を実数で、一の位まで正確に発表したでしょう。プロとして当然と言えばそうですが、でも画期的でしたね。ちなみに開幕戦は59,626人の観客数でした。

中学時代は野球少年

中学時代は野球少年。全大阪大会に出場し準優勝。(後列右から二人目)(大阪球場)

中学時代は野球少年。全大阪大会に出場し準優勝。
(後列右から二人目)(大阪球場)

―― 川淵さんというと、“チェアマン”のイメージが強くあります。Jリーグを興し運営した人であり、日本初のW杯(2002年)を招致したメンバーの一人として広く知られています。東京オリンピックを知らない世代の人は、そんな川淵さんはどんなサッカー選手だったのか、知りたい方も大勢いるでしょう。どのように説明してくださいますか。

ははは、サッカーを始めたのは高校のときで、そんなにテクニックのある選手ではなかったけれども……。

―― 大阪の名門校ですよね。

堺市にある大阪府立三国丘高校です。国民体育大会や全国大会で浦和高校と決勝を戦うようなチームでした。そんな強豪校だったのに、日頃練習に出てくるサッカー部員は10人ぐらい。ですから試合になると、辞めた部員を連れてきたり、スポーツが得意なやつを入れたり。当時、サッカーはほとんど人気がなくて……。僕も経験ありませんでしたし、やろうとも思いませんでした。

―― 高石中学時代は何を?

野球部でした。大阪で優勝したこともあります。でも野球は、グローブも用具もユニホームも自前で準備しなければいけません。うちは父が除隊後に単身赴任していてそれほど裕福な家庭ではなく、ユニホームはおふくろの手作りでした。だから僕のだけみんなのユニホームとは少し違っていた。そんなことで、高校で野球を続けるとお金が要るからおふくろに迷惑をかけてしまうなと思ったので、どの運動部にも属さずにいました。

サッカー部に入ったら四国に行ける

三国丘高サッカー部ではCFを務める(前列左から三人目)

三国丘高サッカー部ではCFを務める(前列左から三人目)

運動神経はよかったので、ハンドボール部の新人戦にかり出されて、ぼこぼこ得点した記憶があります。当時、ハンドボールは11人制で、とにかく足が速ければなんとかなったんですよ。体育の先生がハンドボールの元日本代表で、 僕も誘われましたが入りませんでした。そんなある日、友達に「四国の高松で夏にサッカーの大会がある。いまサッカー部に入ったら四国に行けるぞ」と誘われたんです。

―― 堺から見れば四国は、“海外”ですものね。

そうそう。「四国」につられてサッカー部に入ったの。だから、スパイクなんてもちろんなくて、アップシューズでやっていました。ボールの蹴り方もヘディングのしかたもまるで知らずに四国に行って、大会を終えて帰ってきました。

三国丘高3年の時。高校選手権の前

三国丘高3年の時。高校選手権の前

―― そのあとも続けたのですよね。

退部したくて、先輩に「扁桃腺が弱いのでお医者さんから過激なスポーツは禁止されています」と言ってみました。そこで頭ごなしに「許さねえ!」とでも言われていたら、ケンカして辞めたのでしょうが、「おまえ四国に行ったんやから何とか辞めんといてくれ」と哀願されて、ずるずる続けているうちに面白くなり出したのです。

―― 四国のお陰ですな。

そう、四国のお陰。高校3年の全国高校サッカー選手権ではベスト8までいき、新聞で「超高校級FW(フォワード)」と書かれたのがうれしくて、未だにスクラップしてとってありますよ。

吉岡たすく先生と出会い高校2年まで演劇活動も

小学6年生。劇「海の子」で主人公を務める(中央)

小学6年生。劇「海の子」で主人公を務める(中央)

―― 川淵さんは演劇少年でもありましたよね。

小学校4年生のときに吉岡たすく先生が高石小学校に赴任してこられ、そこで演劇と出合いました。NHKラジオの放送劇に出ていたのです。高校2年まで続けました。
当時は全部生放送で、高2のときにようやく録音放送になりました。「今日の午後、僕が出演するドラマがあるから、サッカー練習のあとみんなで聞くぞー」と近所のパン屋さんへ集まりました。そしてラジオから流れてくる自分の声を初めて聞いてもうガックリでしたよ。

―― 想像していた声と違いましたか。

自分ではもっと男らしくてシャキッとしたいい声だと思っていたの。だからとにかくショックで、みんなの前でカッコ悪くてね。それで辞めました。

―― 男らしくよく響くいい声をされていますけどね。

いやいや。ま、私にとって自分の一生の輪郭を描き出してくれた人生の恩師といえる方は二人いて、一人はサッカー指導者のクラマーさん(ドイツ)。もう一人が吉岡先生です。
吉岡先生は教え込むというより、いろいろな工夫をこらして、遊びや実践を通じて指導してくださった。頭ごなしに怒るなんてこともなかったですね。僕は吉岡先生に、理想の父親像を重ねていました。
演劇のお陰で人前でしゃべるのが平気になり、広い会場でマイクを使わずに鍛えていたので、家で話していると女房に「何人を相手にしゃべっているの」とからかわれます。

―― あ、僕と同じだ。

浪人中に志望校を早稲田に変更

早大時代、日本代表としてワールドカップチリ大会予選に出場。対韓国(ソウル)

早大時代、日本代表としてワールドカップチリ大会予選
に出場。対韓国(ソウル)

―― 高校卒業後は2年の浪人時代を経て、早稲田大学へ進学されました。大学はどこを受験していたのですか。

阪大(大阪大学)です。そのぐらいは入れるだろうと……。日本代表になりたいなんて夢は全然なく、サッカーは大学とは関係ないと思っていましたから。

―― サッカーは趣味、と。

そう。浪人中は、サッカーが好きで楽しくてしょうがなかった時期なので、予備校にも行かず、高校へ行っては毎日、後輩とボールを蹴っていましたね。当然のように2浪に突入。でも後輩たちは全国大会に出場できて、「川淵さんが指導してくれたお陰です」なんて感謝してくれるんです。僕は自分が楽しみたいから行っていただけなのに。
僕も「三国丘クラブ」の一員として、都市対抗サッカー大阪府予選に出場して決勝まで勝ち進み、大阪サッカークラブに0-1で惜敗しました。

―― 大阪サッカークラブですか。

ベルリンオリンピック(1936年)代表の名選手・川本泰三さんが設立したクラブで、当時は岩谷俊夫さん、生駒友彦さんといった新旧の日本代表が5~6人いた強いチームでした。代表クラスの選手と初めてプレーしてみて、「これなら僕も日本代表になれるかもしれない」という気持ちが起きたんです。
川本さんには「早稲田大学にぜひ推薦したい」と言われ、それがきっかけで当時サッカーが一番強かった早稲田に志望校を変更しました。

―― 浪人してサッカーをしていたからこそ、それらの出会いがあり、ご自身の夢を描き直すことになったのですね。浪人生に励みになる話です。

早大サッカー部では1年からレギュラー、2年で日本代表入り

―― 早大サッカー部では、即レギュラーでしたか。

そうです。それも珍しかったと思いますね。サッカーのエリート選手ばかりのレベルの高いチームで、いきなりFWでレギュラーなんて。いかに浪人時代に勉強せずサッカーばかりやっていたかの証明みたいなものですが。当時、八重樫茂生さんが主将で、同期には宮本征勝がいました。

―― 成績はどうでしたか。

1年生のときは関東大学リーグで優勝、東西大学王座決定戦では関西学院大学を2-0で下し、僕も1点入れました。そして2年でもう日本代表に選ばれましたから。関東大学リーグは3年生のときに立教に敗れたものの、4年間で3回優勝しました。

早大の先輩であり、日本代表のキャプテンを務めた八重樫茂生氏(対ソ連戦)

早大の先輩であり、日本代表のキャプテンを
務めた八重樫茂生氏(対ソ連戦)

―― 八重樫さんはいい先輩だったのでしょう。

はい、もう選手としても素晴らしいですしね。技術・戦術、体力・精神力を含めて抜群でナンバーワンの選手でした。うまくて速くて最後まで頑張れる、僕の理想とする選手でした。早稲田は他の大学と違い、キャプテンが率先垂範するという伝統があります。八重樫さんはいつも最後までボールを蹴り続けていましたね。
寮では同部屋でした。「川淵は2浪していて遊び人だろうからキャプテンの部屋に入れておけ」ということだったらしいですよ。

―― なるほど。

練習が終わると、くたびれ果てた八重樫さんは、すぐに布団を敷いて精根尽きたかのように眠ってしまう。そんな毎日で本当にストイック。尊敬を通り越してとても勝てないという感じでした。宮本もそう。その点、僕はカワブチサボロウでした。

名将クラマーさんは日常生活から鍛え上げてくれた

―― 謙遜されているのだと思いますが、1964年の東京オリンピックに向けて、日本代表の強化はどのように図られたのですか。

約50日間の欧州遠征と、ドイツ協会へのコーチ派遣要請です。

―― ああ、“日本サッカーの父”と言われるデットマール・クラマーさんですね。

恩師デッドマール・クラマーコーチ(検見川)

恩師デッドマール・クラマーコーチ
(検見川)

クラマーさんと吉岡たすく先生、恩人が2人もいる僕は本当に幸せ者です。
僕は大学4年になっていまして、欧州遠征はドイツのデュイスブルクで始まりました。クラマーさんは当時35歳。技術指導も素晴らしいのですが、サッカーのことだけでなく日常生活の指導まで徹底していました。スリッパは脱ぎ捨てない。風呂は後に入る人のことを考える。ドアやふすまを閉めるときは音をしないようにする……。

―― 細かいですね。

そう、ありとあらゆるところまで。それはつまり常に仲間のことを思いやって動けということにつながる指導なので、受け入れやすかった。
頭ごなしに怒ることは決してしない人です。合宿所は禁煙なのに隠れて吸う選手がいるわけですよ。夜、部屋の窓を開けてふーっと煙を吐き出したら、そこにクラマーさんが立っていたとかね。それでも彼は怒らない。ただ悲しい顔をする。僕が東南アジア遠征で発熱して寝ていたときは、頭ではなくて足を冷やせと。

―― ドイツ流ですか。

ええ、冷やした箇所に熱が集まるので、「冷たい水も飲んではいけない」と言われました。でも何となく氷をぱくっと口に入れちゃったら、そこになぜかクラマーさんが入ってきてまた悲しそうな顔をする。

―― クラマーさんを悲しませることは二度とやっちゃいけないという心持ちになる……。

そうなんですよ。いや、本当に素晴らしい指導者でした。

東京オリンピックのアルゼンチン戦、勝利を呼ぶダイビングヘッド

―― 日本代表のポジション争いは大変だったのではないですか。

1964年になって、新人・釜本邦茂が出現して、センターFWだった僕はポジションを追いやられてしまいました。右のウイングにまわったのですが、そこは宮本輝紀のポジションでした。彼がまた八重樫さんに輪をかけたようなテクニシャン。ところが、足はあまり速くなかったので、その点だけが僕のアドバンテージでした。レギュラーを取るには、彼をしのぐ技術を身に着けなければならない。そう考えて、正確なボールコントロールを手始めに輝紀の研究をずいぶんしましたよ。輝紀の技を盗みたくて必死でね。

―― 人からいろいろ吸収する闘争心が強かったのですね。

輝紀に勝たない限り補欠ですから。最終的に右ウイングのポジション争いには勝って、輝紀はボールキープ力があったので中盤のポジションになりました。

東京オリンピック選手村でクラマーコーチの話を聞く(左から三人目)

東京オリンピック選手村でクラマーコーチの話を聞く
(左から三人目)

―― それらの競争が、チームを活性化させ、東京オリンピック初戦のアルゼンチン戦(10月14日)でのあの有名なヘディングシュートを生み、さらにベスト8という成績につながったのでしょうね。

僕はあれだけでしたけどね。

―― いやあ、後半36分、1-2とリードを許している状況で、釜本選手の左サイドからのクロスに合わせ、地をはうようなダイビングヘッドの同点弾。川淵さんのあの一撃で試合の流れが変わって、3-2でアルゼンチンを下したのでした。
南米の強豪に勝利したという事実は、日本代表選手団全体へ、ひいては日本国民への大きな励ましとなりましたよ。またあの大会が土台となったからこそ、次のメキシコ大会で銅メダルを獲得できたのでしょう。

あのころ、サッカーはまだマイナースポーツでしたからね。代表選手はみな一様に、「このオリンピックを通じて何とかメジャースポーツにしたい」という使命感を持っていました。それはなでしこジャパンの状況と似ていますね。男子に比べて女子サッカーは全然目立たなかった。それを何とかメジャーにしたいと長い時間をかけてコツコツ築き上げた成果が、2011年のFIFA女子ワールドカップ優勝につながりましたから。

大学卒業後、古河電工へ

日本サッカーリーグ、古河電工の中心選手として活躍

日本サッカーリーグ、古河電工の中心選手として活躍

―― 前後しますが、川淵さんは1961年に早稲田を卒業し、古河電気工業に入社されました。その経緯を教えてください。

当時は、実業団がどんどんサッカー部の強化を進めていた時代でした。田辺製薬、湯浅電池が強く、東洋工業、八幡製鐵あたりが追走して、日立製作所、三菱、古河電工にも代表クラスの選手がいました。大学1年のときに僕を4年だと勘違いしたらしく東洋工業に誘われたこともありました。4年になって日立に声をかけられ、行くつもりでいました。みんな、僕をつかまえれば宮本征勝がくっついて来ることを知っていたわけですよ。

―― そういうことですか。

そのあとに、古河電工がどうしても取りたいと言ってくれていると。長沼健さんが監督兼選手でいらして、八重樫さん、平木隆三さんといったそうそうたるメンバーがいて、日本代表仲間も多かったので入ることにしました。1期下には、その後、国際サッカー連盟の理事になった小倉純二がいて、サッカー部のマネジャーをしてくれました。

仕事とサッカーの両立

―― 川淵さん、オリンピックは東京が最後ですよね。

はい、僕はメキシコへは行っていません。膝も腰も限界に来ていましたから。東京オリンピックの最終試合、ユーゴスラビア戦のあとに、クラマーさんに「これでサッカーを辞めて仕事に専念します」と伝えました。

日本サッカー殿堂掲額式でクラマー氏に記念品を授与

日本サッカー殿堂掲額式でクラマー氏に記念品を授与

―― クラマーさんは受け入れてくれましたか。

「そんなにすぐに辞めるな。きみには、長時間かけてレベルアップしてきたことをきちんと後輩に伝える仕事がある」と諭されたというか怒られました。

―― クラマーさんは川淵さんの中に、頭脳的な理論派である部分や指導力があることを見抜いていたのでしょうね。

うーん、どうかな。のちに話したことがあるのですが、少なくともそんなに頭が悪いとは思っていなかったんでしょうね。クラマーさんの通訳代わりは岡野俊一郎さんでした。
僕は英語はペラペラではありませんが、でも例えば新聞記者へ「都合が悪くなったからアポイントを変更してくれ」などと告げたいときに、僕なら上手に連絡・調整してくれると思われていたようです。かなりいろいろな話をしてくれましたね。

―― クラマーさんの言葉で東京オリンピック直後の引退を翻意した川淵さんは、1970年に33歳で現役を退かれました。仕事との両立はどのようにされていたのでしょうか。

日本代表にいると遠征や合宿で職場を離れることが多いのですが、優秀な人材の多い同期には負けたくないと思って、一生懸命働きましたよ。代表引退後は、古河電工サッカー部のコーチや監督を務めながら、ビジネスマンとして仕事もしっかりとやりました。

新たな転機、JSL総務主事に

日本サッカーリーグ、古河電工の中心選手として活躍

日本サッカーリーグ、古河電工の中心選手として活躍

―― その時代に学ばれたことが、Jリーグや日本サッカー協会(JFA)での仕事に活かされたのでしょうね。日本のサッカーをこうしていきたいとかJリーグを興すという構想は、どこから出てきたのですか。

JFAの強化部長として日本代表チームを見たこともありますが、ロサンゼルスオリンピック(1984年)の予選でこてんぱんにやられて、そこでいったんサッカーから離れました。だから常にサッカーにのめり込んでいたのではなく、客観視していた時代がある。そこが僕の強みだととらえています。
僕は会社の中である程度偉くなれると思っていました。買いかぶり過ぎでしたが。名古屋支店勤務の1988年5月、東京へ異動の辞令が出ました。それは本社へではなく、関連会社への出向だったのです。一度出向すると、もうその先は自ずと見えてしまうわけですよ。

―― 会社内での自分の将来の姿ですね。

このまま終わってしまうのではあまりにも夢がないなと。何かやれることはないか、進むべき道を変えられないかと思ったのが51歳のときでした。
そんな折り、日本サッカーリーグ(JSL)の総務主事の話が舞い込んできました。当時、JSLはプロ化に向けて少しずつ動き始めていました。新しい世界に生きるなら、やはりサッカーしかない。サッカーは世界中で愛されているスポーツなのだから、日本でも可能性があるはずだ、というのが僕の信念のよりどころでした。プロ化はともかくとしても、日本のサッカーを本気で立て直したいという気持ちで、再びサッカー界に飛び込みました。

Jリーグ開幕セレモニー・プラチナチケットを手に喜ぶ子どもたち(国立競技場)

Jリーグ開幕セレモニー・プラチナチケットを手に喜ぶ子どもたち
(国立競技場)

「大きな夢」の実現に向けて

―― その後、Jリーグ開幕までの5年間は「走りながら考える」時間だったと思います。1991年3月にJリーグの初代チェアマンに就任された川淵さん は、ついに古河電工を退社。Jリーグをスタートさせるにあたっての最大のヒントは何でしたか。

僕らの中にあった理想像です。現役のときに何度もヨーロッパに遠征し、ドイツの「スポーツ・シューレ」など、各コミュニティに地域に根ざしたスポーツクラブがあり、老若男女、だれもがいつでも多彩なメニューのスポーツを楽しんでいる姿を見てきました。そこにはプロのクラブもあって、アスリートは人々から注目を集める存在であり、みんなが尊敬し応援していた。これらは日本には存在していなかった仕組みです。いつかそういう場所を日本にもつくりたい。Jリーグのプロ化を通じて、その夢を実現させるチャンスが来たのではないかと。

―― ああ、「大きな夢の実現に向けて」というのはそういうことでしたか。Jリーグには3つの理念がありましたね。

「日本サッカーの水準向上及びサッカーの普及促進」、「豊かなスポーツ文化の振興及び国民の心身の健全な発達への寄与」、「国際社会における交流及び親善への貢献」です。

―― サッカーのプロ化と、地域に根ざしたスポーツクラブの普及と、二つを重ね合わせてしっかりとした理念をつくりあげたところに今日の成功があるのでしょうね。
プロ化を進めるにあたって、各企業チームとの交渉も大変だったのではないですか。

そうですね。ほとんどのトップの方は、赤字の垂れ流しの会社をなぜつくるのだ。前例がないのに成功するわけはないと言いました。日本サッカー協会のトップの人ですら「時期尚早」と週刊誌にコメントしていましたからね。だからかえって失うものは何もない、ある意味、恐いものなし状態でしたよ。

Jリーグ初年度開幕戦。ヴェルディ川崎対横浜マリノス(国立競技場)

Jリーグ初年度開幕戦。ヴェルディ川崎対横浜マリノス
(国立競技場)

―― 前例、時期尚早……、味方はサッカーファンだけでしたね。

それも当時は数が少なかったですからね。今、Jには40クラブあります。(J1が18、J2が22)各クラブの年間予算の合計は約700億円。日本サッカー協会とJリーグの予算が約300億円で、1000億円を超えています。携わっている人数は選手、監督、コーチ、クラブの従業員など3,000人はいて、さらにマスコミの方などの数を考慮すると、一大産業を誕生させたのと同じ。あらためてすごいことだったと思います。

―― 本当にそうですね。日本の経済状況においてもタイミングがよかった。

そう、あの時期以外、成功するタイミングはなかったでしょうね。

ナベツネさんとの論争はアピールのチャンスだった

―― 何か迷ったときに相談する相手はだれかいらしたのですか。

いや、僕はあまり人に相談することはないですね。

―― そう言えば、Jリーグ発足当時、読売新聞の渡辺恒雄社長といろいろやり合っていましたよね。読売相手に挑戦する人はそういないというのに。

いろいろ言われましたからね。「地域に根ざすなんて空疎な理念」とか、「川淵がいる限りJリーグは潰れる」とかね。
でも私はナベツネさんを恩人だと思っているのですよ。

―― ほう、それはなぜ?

当時、テレビ朝日の「ニュースステーション」という番組で、キャスターの久米宏さんがJリーグをとても応援してくれていました。ナベツネさんと何か問題があると、必ず呼んでくださったんです。僕はナベツネさんへの反論を通じて、Jリーグについてしっかりと理論武装してアピールする機会をいただけました。

―― 「これは演出だ。ナベツネさんと川淵チェアマンは裏でできている」という噂がありましたよね。

いやあ、それだけはない。もういいかげん勘弁してくれ、という気持ちでしたよ。

2002年W杯共催決定で幻になったプレゼンテーション

ワールドカップアメリカ大会アジア最終予選。“ドーハの悲劇”

ワールドカップアメリカ大会アジア最終予選。“ドーハの悲劇”

―― プロ化の大切な目的に、W杯に常時出場できるよう日本代表をレベルアップさせるということがあったと思います。その甲斐あって、日本代表は1998年のフランス大会で、悲願の初出場を果たしました。
2002年には紆余曲折があって韓国との共催にはなりましたが、W杯大会を開催し成功させました。その裏話を少しお聞きしたいのですが、1994年アメリカ大会の出場を目指していた日本代表は、イラク戦のロスタイムで同点ゴールを決められ初出場を逃すという「ドーハの悲劇」に見舞われました。もしあのとき、日本がW杯に出場していたら、2002年は単独開催できていたのではないかということですが。

ああ、それはもし日本が出場権を取っていたら、出場できなかったのは韓国です。そうなっていれば、韓国サッカー協会の鄭夢準(チョン・モンジュン)会長が国際サッカー連盟の理事選挙に出ることはなかった。そうすれば、間違いなく日本の単独開催になっていたはずなのです。

―― 1996年6月1日に開催国が発表されるはずが、1日前倒しで5月31日に共催が発表されてしまったのですよね。

予定では決選投票前に30分のプレゼンテーションをやることになっていましてね、僕は最後の5分間を担当することになっていたんです。英語の発音をバイリンガルの女性にそれはもう徹底的に仕込んでもらいました。それが急転直下、共同開催が決定したので、1カ月以上の努力が水の泡に……。悔しいなと思っていたら、指導してくれた女性の結婚披露宴に招待されたんです。そこで、「祝辞の代わりに、教わったプレゼンテーションをここで披露します」と言って、招致活動のクライマックスになるはずだった迫力あるプレゼンをやりました。

日本サッカー協会会長就任記者会見

日本サッカー協会会長
就任記者会見

―― 忘れないうちに披露宴があってよかったですね。

そうそう、丸暗記していましたからね。

後ろは振り向かない

―― 2002年7月、川淵さんはJリーグチェアマンを退任し、日本サッカー協会の会長(キャプテン)に就任しました。考えてみると川淵さんは、サッカー界の人にさえ「あの若造が何言ってるんだ」と非難されたり、相当攻撃された時代があったのではないでしょうか。

ええ、ありました。

―― 人の批判は気にならないほうですか。

いや、それは気になりますよ。なるけれどもやらざるを得ないので、振り切って前へ踏み出していくしかない。僕は「後ろを振り向かない」ということを、常に自分に言い聞かせてきました。同時に周囲にも、「泣き言を言わない」「弱音を吐かない」と公言していましたね。

天皇杯決勝で「JFA2050宣言」を発表(国立競技場)

天皇杯決勝で「JFA2050宣言」を発表(国立競技場)

―― 公言したのはなぜですか。

人間だからつい愚痴をこぼしたくなることはあります。でもそんなときに本当に口に出してしまうと、「みっともないな」と思われる。そう見られたくないから、我慢するじゃないですか。
そんなことで常に前を向いてきたことが、僕としてはよかったと思いますね。あれは嫌だとか、前向きのエネルギーをそんなことに奪われたらもったいないですからね。

―― まさに「我が道を行く」ですね。

夢先生を派遣する「JFAこころのプロジェクト」

JFAこころのプロジェクト。母校で“夢先生”を務める(高石小学校)

JFAこころのプロジェクト。母校で“夢先生”を務める(高石小学校)

―― 日本サッカー協会(JFA)では、2007年4月から「JFAこころのプロジェクト」をスタートさせています。その内容について教えてください。

以前から「フェアプレーを指導することで子どもたちの道徳心を育てたい」とは考えていたものの、ノウハウの決定打が見つかっていませんでした。子どもたちの人間性を育むためにサッカーは何ができるのか? そんなとき、2006年でしたが、石原慎太郎都知事(当時)と「東京ビッグトーク」というイベントでパネルディスカッションをしたんです。自殺の連鎖、不登校、いじめの問題など教育問題がテーマでした。
その日を契機に検討を始めて、プロジェクト化することができました。アスリートを生きた教本にし、教壇に立ってもらう「夢先生による夢の教室」です。基本的には、小学校の授業2コマ(35分+55分=90分)で実施します。前半が実技の時間、後半がトークの時間というパターンです。

―― キーワードは“夢”ですね。

その通りです。人は夢があるからこそ強くなれる。JFAでも、理念を実現させるために「JFA2005年宣言」を策定しています。中期ビジョンは「2015年には世界のトップ10に入る」。長期ビジョンは「2050年には日本でW杯を開催して優勝する」。この二つの夢を掲げています。「夢の教室」後半のアスリートの実体験を話す授業では、どのような夢を持ち、途中でこんな挫折があり、それをどのように努力して乗り越えてきたかという夢曲線を描いてみせ、子どもたちに自分たちの夢を語り合ってもらいます。子どもたちにはアスリートのサクセスストーリーよりも、挫折の部分のほうがインパクトがあるようです。

アスリートのセカンドキャリアとしても

JFAこころのプロジェクト。  子どもたちから感謝のメッセージ

JFAこころのプロジェクト。 子どもたちから感謝のメッセージ

―― どのような方が講師になっているのでしょうか。

夢先生はJリーガーだけではなく、各競技のアスリートにお願いしています。大相撲の貴乃花親方、プロ野球の三浦大輔投手(DeNA)、競泳のオリンピックメダリストの中村真衣さんなど、人数は6 0 0人を超え実施時間はのべ2000時間以上になっています。
この「こころのプロジェクト」が素晴らしいのは、課外授業ではなく、正規の授業の中で行われるところです。教育委員会がこのカリキュラムを認めてくれているのです。
2011年3月の東日本大震災のあと、日本体育協会の張富士夫会長と連絡を取り、体協、日本オリンピック委員会、日本トップリーグ連携機構の4団体がタッグを組んで、「東日本大震災復興支援 スポーツこころのプロジェクト 笑顔の教室」を始めました。toto(スポーツ振興くじ)の助成も受けながら、スポーツ界挙げての取り組みに発展しています。

―― アスリートの方は有償ですか。

はい。体協さんとのプロジェクトはボランティアでもいいかとも思いましたが、やはりアスリートの方にも生活があるので、セカンドキャリアとして成り立つよう配慮しています。日本サッカー協会は2012年4月から公益財団法人になり、税制面で優遇措置を受けられるようになったので、その分を回せるかと。1回の派遣ではクラスを変えて90分の教室を2回実施することが多いのですが、金額の目安は10万円と割と満足できるレベルになっています。

草の根スポーツの振興で子どもの運動能力低下に歯止めをかけたい

―― スポーツ基本法の改正に伴って、今後、日本のスポーツ振興はどのように進めていくべきでしょうか。

1911年に嘉納治五郎氏が大日本体育協会を設立し、初代会長となりました。その設立趣旨は、「国の盛衰のもとは国民の精神の充実度にある。精神の充実度は体力に大きく関係する。我が国のスポーツ振興体制は欧米諸国に比べ著しく劣っており、青少年の体格も劣弱の状況である。体系的に国民のスポーツ振興を図ることが急務であり、組織・体制を整備するために大日本体育協会を創立する」ということでした。
しかし、この状況は100年経った今の日本にもまだあてはまるわけですよね。トップアスリートについてはナショナルトレーニングセンターが整備されるなど、昔にくらべれば環境はよくなっています。ただ草の根の部分、とくに子どもたちですが、そのスポーツ振興が一番大事だと僕は思っています。

―― 子どもたちの体力・運動能力の低下が心配されていますね。

近年子どもたちの体力低下が顕著となっている

近年子どもたちの体力低下が顕著となっている

今の子どもたちは、想像以上に運動能力が落ちています。幼稚園前の子どもにボールを投げさせてみると、30年前と比べて、どう投げていいかわからない子どもが多いのだそうです。要するにふだん体を動かして遊んでいないので、自分の体の使い方がわからないんですね。反射的に手を出したり目をつぶることで大ケガを回避することもできなくなっている。大人からすると、信じられない子どもがいっぱいいるんですよ。

―― 生活が便利になり過ぎて歩く機会さえ減ってしまった……。

そう。底辺からのスポーツ振興とトップアスリートの育成は車の両輪です。両輪がバランスよく機能して初めてスポーツ文化が醸成していきます。多くの人にスポーツの楽しさを知ってもらうことは、すなわち、人生を豊かにすることにつながるはずです。でも日本はまだこの部分がいびつなので、そのような環境整備、指導者の養成・育成も含めてより積極的に進めていってほしいと思います。
さらに、僕は日本のスポーツ界はもっと一体感を持って融合してくべきだと考えています。各競技団体が縦割りの壁を乗り越え、手を携えて日本のスポーツ界全体の発展のために活動をする。極論すれば、子どもたちのためにもっと一致団結して、健全な子どもを育てるようにみんなで努力していきたい。これが僕の一番の願いです。

今こそオリンピック・ムーブメント

2020年オリンピック・パラリンピック招致出陣式で乾杯の音頭をとる(都庁)

2020年オリンピック・パラリンピック招致出陣式で
乾杯の音頭をとる(都庁)

―― 2020年の東京オリンピック・パラリンピック開催は、スポーツ振興に大きな影響を与えますね。

日本でオリンピック・パラリンピックが開催されれば、身近に大きな目標設定ができますからね。トップを目指すモチベーションやエネルギーがより高まるでしょう。さらに7年後を目指して、国民全体がスポーツだけでなく文化活動でも経済活動でも、共通の大きなベクトルへ、前向きに精力的に進んでいけるようになりますね。

―― 川淵さんは、1988年の夏季オリンピック大会に名古屋市が立候補してソウルに敗れたとき、名古屋在住だったそうですね。

そうなんですよ。1981年9月に招致失敗が決定したあと、名古屋市はスポーツ振興のために何一つ動かなかった。それまでは、スポーツの価値を唱え、スポーツ施設が必要で、オリンピック招致はそれらの課題をかなえる手段の一つであったはずなのに。オリンピックが招致できなくても、何らかのスポーツ活動や施設の充実は継続して行われるべきだったのに、それをしなかった。

―― オリンピック・パラリンピック招致の本来の目的をはき違えないように、ということですね。

そうです。招致の成否にかかわらず、スポーツ振興の方向性は何も変わりません。日本人の結束力と底力を示して、引き続き前へ進んでいくだけですよ。

  • 川淵三郎氏略歴
  • 世相
1921
大正10
大日本蹴球協会創立
初代会長に今村次吉が就任
1925
大正14
大日本体育協会に加盟
1929
昭和4
国際サッカー連盟(FIFA)に加盟(1950年~再加盟)
1931
昭和6
協会旗章「3本足の鳥」を制定

  • 1936川淵三郎氏、大阪に生まれる
  • 1945第二次世界大戦が終戦
1946
昭和21
第1回近畿国体に参加

  • 1947日本国憲法が施行
1950
昭和25
国際サッカー連盟(FIFA)に日本蹴球協会として再加盟 

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951安全保障条約を締結
1954
昭和29
FIFAワールドカップ(スイス大会)の地域予選に初出場 
                            
アジアサッカー連盟(AFC)創設(5月)と同時に加盟(10月)

  • 1955日本の高度経済成長の開始
1958
昭和33
市田左右一常務理事(当時)が、日本人初のFIFA理事に就任。
以降1969年に野津謙会長(当時、第4代)、2002年に小倉純二副会長(当時、現・会長)が就任
1960
昭和35
日本初の外国人指導者、デットマール・クラマーコーチ(当時、西ドイツ)が来日。
基礎技術を重視した指導で日本代表を強化

  • 1961川淵三郎氏、古河電工に入社
1964
昭和39
日本代表、東京五輪出場。アルゼンチンに勝利しベスト8進出を果たす

  • 1964川淵三郎氏、東京五輪に出場
  • 1964東海道新幹線が開業
1965
昭和40
実業団8チームが参加し、日本サッカーリーグ(JSL)が開幕
1968
昭和43
日本代表、メキシコ五輪に出場。3位決定戦で地元メキシコに勝利し銅メダル獲得、
同年FIFAが新設した「FIFAフェアプレー賞」を受賞
1969
昭和44
第メキシコ五輪日本代表が、ユネスコの1968年度フェアプレー賞を受賞

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1972
昭和47
天皇杯全日本サッカー選手権大会の参加資格をJFA全加盟チームに開放、予選大会として地域で大会が実施される

  • 1973オイルショックが始まる
1974
昭和49
財団法人化。(財)日本サッカー協会(JFA)に名称変更
          
  • 1976ロッキード事件が表面化
1977
昭和52
全国から優秀な選手を集めた教育制度、セントラルトレーニングセンターをスタート

  • 1978日中平和友好条約を調印
1979
昭和54
FIFAワールドユース・トーナメント(現・FIFAU-20ワールドカップ)を日本で開催

  • 1980川淵三郎氏、ロサンゼルス五輪 日本代表監督に就任
1981
昭和56
欧州と南米クラブの王者が世界一の座をかけて対決する「トヨタヨーロッパ/サウスアメリカカップ」開催
日本女子代表チームを初めて編成し、第4回アジア女子選手権(現・AFC女子アジアカップ)(香港)に臨む

  • 1982東北、上越新幹線が開業
  • 1984香港が中国に返還される
1986
昭和61
プロ選手の登録を認める「スペシャルライセンスプレーヤー制度」を制定    
1987
昭和62
高円宮憲仁親王殿下がJFA名誉総裁に就任される   
                         
  • 1988川淵三郎氏、JFA理事に就任
1989
平成1
日本オリンピック委員会(JOC)に加盟
日本女子サッカーリーグ(現・なでしこリーグ)が開幕。第1回大会は6チームが参加
2002年、FIFAワールドカプの開催国として正式に立候補を表明
1991
平成3
日本女子代表、第1回FIFA女子ワールドカップ(中国)に出場

(社)日本プロサッカーリーグ設立、初代チェアマンに川淵三郎氏が就任

  • 1991川淵三郎氏、Jリーグ初代チェアマンに就任
1992
平成4
第10回アジアカップを広島で開催し、日本代表は決勝でサウジアラビアに勝利し、アジア初制覇
1993
平成5
日本初のプロサッカーリーグ「Jリーグ」、10チームが参加して開幕。1999年には 1・2部制導入
1995
平成7
日本女子代表、第2回FIFA女子ワールドカップ(スウェーデン)出場、ベスト8となり、アトランタ五輪の出場権獲得

  • 1995阪神・淡路大震災が発生
1996
平成8
U-23日本代表、28年ぶりにアトランタ五輪出場権を獲得。
五輪はアトランタ大会から女子サッカーが正式種目
アトランタ五輪に男女共に出場。男子代表がブラジルを下し、「マイアミの奇跡」として歴史に刻まれる
1997
平成9
日本代表、イランとのアジア地区第3代表決定戦(プレーオフ)を制して、 初のFIFAワールドカップ出場を決定
1998
平成10
日本代表、FIFAワールドカップ98(フランス)本大会に出場
横浜国際総合競技場(現・日産スタジアム)が開場。西田善夫氏が初代場長に就任
1999
平成11
U-20日本代表、FIFAワールドユース選手権(ナイジェリア)出場、準優勝
日本女子代表、第3回FIFA女子ワールドカップ(アメリカ)に出場
2000
平成12
日本代表、第12回AFCアジアカップ (レバノン)に出場し、2度目の優勝            
2001
平成13
FIFAコンフェデレーションズカップ (日韓共同開催)で準優勝            
2002
平成14
2002FIFAワールドカップを韓国と共同開催。32試合を日本で開催し、ブラジルの優勝で閉幕。
日本代表はベスト16進出。世界が”笑顔のワ―ルドカップ”と賞賛
2002FIFAワールドカップを成功させたとして、日本と韓国にFIFAフェアプレー賞が授与される
                             
  • 2002川淵三郎氏、JFA第10代会長に就任
2003
平成15
日本女子代表、第4回FIFAワールドカップ(アメリカ)出場
JFAハウス(東京都文京区)に日本サッカーミュージアムをオープン
2004
平成16
日本代表、AFCアジアカップ(中国)に出場し2大会連続で3回目の優勝を決める       
2005
平成17
日本サッカーの発展に尽力した功労者を称える、「日本サッカー殿堂」創設

2006
平成18
日本代表、2006FIFAワールドカップ(ドイツ)出場            
2007
平成19
日本女子代表、FIFA女子ワールドカップ(中国)出場

2008
平成20
47全ての都道府県サッカー協会が法人化
U-23日本代表、なでしこジャパン(日本女子代表)ともに北京五輪に出場。なでしこジャパンが4位

  • 2008川淵三郎氏、JFA名誉会長に就任
  • 2008リーマンショックが起こる
2010
平成22
U-17日本女子代表、FIFAU-17女子ワールドカップ(トリニダード・トバコ)に出場し、準優勝に
第16回アジア競技大会(広州/中国)で、U-21日本代表、なでしこジャパン共に初優勝を飾る
2011
平成23
日本代表、AFCアジアカップ(カタール)出場、大会最多の4度目の優勝を果たす
なでしこジャパンがFIFA女子ワールドカップで初優勝。日本はFIFAフェアプレー賞を受賞
2012
平成24
ロンドン五輪でなでしこジャパンが銀メダル獲得

  • 2012川淵三郎氏、JFA最高顧問に就任/li>