Search
国際情報
International information

「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

知る学ぶ
Knowledge

日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

プロスポーツのカリスマたち
第37回
時代を熱狂させた「868」

王 貞治

甲子園に春夏4回出場し、2年生の春には全国優勝。
卒業後に読売ジャイアンツに入団。
投手から内野手に転向、レギュラーに定着。
恩師・荒川博コーチの薫陶(くんとう)の下、一本足打法で打撃開眼。
長嶋茂雄とともに「ON」と呼ばれ、ジャイアンツの不滅のV9に貢献。
通算ホームラン数868本、通算安打数2,786本、通算打点数2,170の金字塔を打ち立て現役を引退。
ジャイアンツ、ホークスで監督として指揮を()り、リーグ優勝4度、日本一に2度輝く。
2006年の第1回WBC世界大会で日本代表監督として日本チームを初代王者に導く。
その野球人生を、草野球時代から現在の球団監督としての夢まで一気に語った。

聞き手/山本浩氏  文/白鬚隆幸  構成・写真/共同通信社、川口俊幸、フォート・キシモト

 

野球の普及を思い、草の根活動を始めて25年

野球の普及活動に尽力する

野球の普及活動に尽力する

―― 世界少年野球推進財団の活動は、ずいぶん長くやっていらっしゃいますね。

ちょうど25年です。1990年からですから。1988年まで現役でやってきましたので、ユニフォームを30年着ていました。ぱっとユニフォームを脱いでさて何をやろうかと迷ったのですが、商売を始めても武士の商法になってしまうと思い、野球で子どもたちを育てていこうと始めました。

―― 少年に対する野球の普及というものが大切であると思われたわけですね。

私も野球で育てられた1人ですし、勝ったり負けたりも大切ですが、喜んだり悲しんだりもするものですから。そこに行くまでの「よし、やってやろう」みたいな盛り上がり、高まりというものが大切ですね。身体も鍛えられたし、子どもたちにそのようなことを伝えることも良いのではないかと。多くの人に参加してもらい、野球の面白さ、楽しさを知ってもらおうとスタートしたのです。

―― その子どもたちにとって、シーズン開幕が待ち遠しくなりました。

昨年は、ホークスが日本シリーズまで行き、シーズンが長かった。ずっとシーズンが続いている感じです。野球はどんな人でも楽しめる。身体の大きい人、小さい人、足の速い人、遅い人でも楽しめる。これからも野球というのは幅広い方から支持されるスポーツです。多くの人に触れ合ってもらいたいスポーツですね。

―― ホークスのポスターを拝見すると、試合を観てみたくなる気分が高まってきます。

プロ野球ですから、お客さんが観てみたいという野球を選手がプレーしないといけませんね。もちろん勝ち負けもあるのですが、やはり期待に応える試合をしたい。そういう意味では、工藤公康監督をはじめ良いメンバーがそろったと思います。

4歳のころ

4歳のころ

ジャイアンツ一色だった東京の下町に生まれる

―― 王さんが野球に最初に関われたころは、どんな感じだったのですか?

プロ野球は戦後間もなく、昭和21年には復活していましたが、当時はテレビがなくてラジオでしたね。スポーツ新聞もなく、新聞報道も運動面だけ。生まれ育ったのが東京の下町だったので、スポーツというと野球と大相撲。読売新聞の専売所でモノクロの巨人軍の雑誌を買ってきて、家で読み、学校へ持って行って友だちと読み、ともかく周りは99%ジャイアンツのファンでした。「よし、いつかはジャイアンツの選手になるぞ」と思いながら育ちましたね。

―― 私も子どものころは「YG」のマークが帽子に付いていないと仲間はずれにされました。そんな時代でしたね。

車が通らないうちに道路で野球をやっていましたね。ルールも人数によって決まる。まあ、野球ごっこですね。球を追いかけて捕った人が次に打てるので必死にボールを追いかけたものです。

―― 三角ベースですか?

そう、人数はそんなに集まらないから広い場所じゃなくてもいい。ボールは軟式テニス(ソフトテニス)のボールで、バットはその辺に転がっている棒でしたね。グローブなんてなくて、素手でやっていた。

―― 野球漬けの子ども時代ですね。

授業を終えて学校から家に帰るとランドセルを置いたらすぐ神社の境内に集合ですよ。

―― ベーゴマとかメンコなんて遊びはしなかったですか?

そういったものは室内の遊びで、雨の日は室内でやりましたが、天気が良ければ外で野球です。外で走り回るのが性に合っていたのでしょうね。

―― 野球が上手い子どもだったのですか?

まあそうですね。理屈は分かりませんが、上手く出来たんじゃないですか。4番でピッチャーというのが役回りでしたから。

―― 足も速かったのですか?

いや、足は速くなかったです。

―― 他の運動能力はどうでしたか?

球をバットで捕らえる能力は高かったと思います。陸上競技や卓球もやっていました。家の近所に卓球場があって、そこで子どものころは遊んでいました。卓球もそこそこ上手だったので中学は卓球部でした。

―― 中学は卓球部ですか?

東京の下町の中学校は、校庭が狭く野球部がなかったのです。野球は大人の草野球チームでやっていました。それから陸上競技もやっていて走り幅跳びとか砲丸投げもやっていました。砲丸投げは区大会で優勝して都大会にも出場しました。

―― 野球は大人の人に交じってやっていたのですか?

工場の職人さんのチームに入れていただき少し年上の人とやっていました。そういう意味では1つのスポーツに縛られることなく幅広くスポーツをやっていました。

高校野球で全国的に有名になる

―― 早稲田実業には野球で引っぱられたのですか?

他の学校に入れなかったので早実に行った、というのが本当のところです。野球は、それなりに評価されていたのですが、父親が「野球なんかやっていてもケガでもしたらおしまい」という考えで、「しっかり勉強して手に職をつけろ」というのが我が家の方針でした。兄も医者の道を進んでいたし、私は電気か機械のエンジニアになろうと思っていました。そこで行きたい学校があったのですが、そこに入れなくて、早実に行ったというのが本当のところです。

―― でも、当時の早実は野球が強かったですね。

強かったですね。甲子園にも行っていましたし。

―― ということは、早実に入学されて当然、野球部に入られた?

まあ、早実に行く以上は、野球部に入ろうかとは思っていました。

―― そうすると早実の野球部も王さんの実力は認めていたわけですね。

草野球で3歳、4歳上の人たちとやっていて力に遜色(そんしょく)なかったのですね。それなりに自信もあったし、結果がすぐ出ますからね。きちんとした野球を、それなりのところでやり、自分を評価してもらいたかった。

1957年 夏の甲子園2回戦でノーヒット・ノーランを達成

1957年 夏の甲子園2回戦でノーヒット・ノーランを達成

―― ピッチャー希望ですよね。

はい。ピッチャーをやろうと思いました。草野球でも4番でピッチャーでしたから。

―― 1年生からレギュラーになれましたか?

最初の1週間から10日ほどは見習い期間でボール拾いをやらされましたが、しばらくしたら「投げてみろ」と言われ、試合に出してもらえるようになりました。1年の夏の甲子園はベンチに入れましたが、やはり高校1年と3年では身体が違いますから、1年生は私を含め2人だけでした。夏の甲子園が終わって3年生が引退してからですね。レギュラーになれたのは。

―― 4番でピッチャーというと現在の大谷翔平みたいな選手ですね?

いや、そこまでの選手ではなかったです。投手といってもスピードは135km/hがやっとでしょう。どちらかというとコントロールがあるカーブピッチャーでしたね。バッティングは1年の夏までは打順7番くらいだし、センターを中心に打ち返すバッターでした。

―― それでは今でいう、打たせて取るピッチャーで、打つ方は中距離バッター?

そうです。大谷君とはタイプが違いますね。

―― 甲子園は、4回出ていますね?

2年の春、優勝しました。2年の夏に延長11回ノーヒットノーランを記録したのですが、ピッチャーの調子としては、ここがピークでした。なぜか分かりませんが、3年のときは投げる方は調子が良くなかったですね。打つ方は春に2試合連続ホームランを打つなど調子が上がっていたのですが。

1957年 早実優勝オープンカーで出迎え

1957年 早実優勝オープンカーで出迎え

―― やはり、ピッチャーの方がやり甲斐があったのですか?

やはり一番主導権を握れるのがピッチャーなのですよ。バッターの嫌いな所にボールを投げられるでしょ。野球の選手だったら、誰でもピッチャーが一番面白いと思っていますよ。

―― 打率は良かったのですか?

打率は良かったです。3割は打っていましたから。

―― 王さんは最初右打ちだと聞いたのですが?

もともと左利きだったのですが、中学校2年まで右で打っていました。それを草野球を見に来て下さった荒川さんから「左利きなんだから左で打ってみろ」とアドバイスされ左利きにしました。

―― ホームランは打とうと思っていましたか?

ホームランは、狙って打てるものではありません。中学の草野球時代から高校まで、そんなには打てなかった。ただ、チームメイトに比べるとボールを遠くに飛ばす才能は、あったかもしれません。

―― 当時の高校野球の練習は厳しかったですか?

高校時代は、野球漬けの生活でしたね。自宅が墨田区の外れで、早実のグラウンドが練馬区の武蔵関でしたから通うのが大変でした。朝早く家を出て、早稲田の学校に行き、授業が終わったらグラウンドまで行き、暗くなるまで練習。それから帰宅して、風呂に入って食事して、寝るだけですからね。家に帰って布団の上でスライディングの練習をして、布団を破ってしまいお袋にはよく怒られました。

―― 早実の練習は厳しかったですか?

厳しかったですよ。土日もなく毎日野球という生活でした。クラスメイトから土日に何をやったかを聞くのが月曜日の楽しみでした。早実は日帰り遠征も多く、福島、栃木、名古屋なんかも遠征していましたし、遠征のない週末は、朝から夜まで練習でした。

―― よく高校野球の選手は、忙しくてプロ野球のテレビ中継も観られないって聞きますが本当ですか?

もう自分たちのことで目一杯で、テレビなんか観ている暇はなかったですね。練習が終わって家に帰る途中で、電気屋さんや駅の街頭テレビで試合の終わりころを観るくらいでしたね。

―― 青田さんや大下弘さんのころですか?

いや、もう少し後ですね。

―― 川上哲治さんは観ましたか?

川上さんは観ましたね。でも、同じ人間とは思えないプレーぶりでした。そういう選手はいるけど、別世界の人かと思っていました。

―― 王さんの身体が大きくなったのは、いつごろでしたか?

小学生のころは小さかったですね。大きくなったのは中学生のころですね。早実に入ったときは175cmでジャイアンツに入ったときは177cmでした。

1958年 巨人入団発表(右は品川主計球団社長)

1958年 巨人入団発表(右は品川主計球団社長)

―― 当時は、プロ野球のスカウトという人はいましたか?

いましたけど、数は少なかったですね。学校とかに見に来られた方はいなかった。神宮球場の大会には来ていたと思います。

―― では、王さんがスカウトに目を付けられたのは、甲子園に出てからですか?

甲子園に出てからでしょうね。

―― 新聞なんかに載るようになったのはいつごろですか?

新聞記者の人たちが、プロ野球のスカウトから取材して、それからでしょうね。

―― そのころは、自分の記事とか読んでいたのですか?

高校に入ったころは、そうでもないですね。やはり甲子園に出て、2年の春に優勝したわけですが、そのころからでしょう。うちは姉がスクラップをしてくれていて、今もミュージアムに展示されていますが、自分たちは野球をやることに集中していたので、思われているほど自分の記事は読んでいないですよ。

―― お父さんは、甲子園で優勝しても、エンジニアになることを望んでいらっしゃいましたか?

野球をやることは許してくれていましたが、勉強もしっかりやりなさいといっていました。さすがに甲子園に4回行ったあとは、勉強、勉強と言わなくなりましたが。私は最悪の場合、家業を継げばいいや、くらいに気楽に考えていました。

憧れの巨人に入団

インタビュー風景

インタビュー風景

―― 王さんご自身が、プロ野球に進もうと強く意識されたのは、いつごろのことですか?

4回甲子園に行けて、当然3年の夏も行けるものだと思っていたのですが、東京都の決勝戦、明治高校との試合で、変な負け方をして甲子園に行けなかったのです。始めての挫折でした。それが悔いに残って、そのときまでは大学に進もうと思っていたのですが、もう一度野球というものにチャレンジしてみたいな、と思ったのです。

―― その変な負け方というのは、王さんに責任があるのですか?

延長11回までいって、12回の表に早実が4点取ったのです。その裏で3アウトを取れれば甲子園に行けたのに、2人ランナーを出してしまった。僕は交替してリリーフピッチャーに勝利を委ねたのですが、そこから5点を奪われ逆転負けです。
実際に打たれたのはリリーフのピッチャーでしたが、僕が3人抑えていたら5回連続で甲子園にいけたのです。今から思えば、僕の人生の大きなターニングポイントでしたね。

―― そこで、この仇はプロ野球で、みたいな気持ちだったのですか?

すぐには、そういう気持ちになりませんでした。考えてみれば、ずっと野球漬けの生活でしたからね。夏が終わると3年生はやることがない。とにかくショックでした。ちょっと立ち直れないな、みたいな。大好きな野球ができなくなってしまったわけですから。これからどうしよう。初めて将来の進路について悩みました。進学かプロ入りか。両親に相談したら最終的には自分で決めなさいと言われ、プロ入りを決意し、ジャイアンツにお世話になることにしました。

―― 当時は、ドラフトという制度もないし、何チームくらいから誘われましたか?

ジャイアンツには高校2年のときに声をかけられていました。熱心だったのは甲子園がホームの阪神タイガース。それと中日、阪急あたりから誘っていただきました。

―― 王さんはスカウトの人とは交渉しなかったのですか?

両親と兄ですね。僕は挨拶をした程度でした。まあ、兄が代理人みたいな感じです。当時の高校生は、そんなものでしょう。

―― ジャイアンツに決められたのは、何が決め手になったのですか?

兄から「どこでやりたいんだ」と聞かれ、小さいころからの憧れなんかもあったので「ジャイアンツでやりたい」と言ったら、「じゃあ、ジャイアンツにしよう」ということになりました。兄もジャイアンツでやってほしいと思っていた感じでした。

―― 契約書にサインしたのは、いつでしたか?

10月4日だったと思います。

―― 夏に負けたあと、翌年の春までボールは握らなかったのですか?

いえ、10月にジャイアンツの秋季キャンプが多摩川であって、そこに参加しました。まだジャイアント馬場さんとかがジャイアンツにいたころです。

―― 当時の監督は水原さんですね。

水原さんは1軍の監督で、直接指導してくれたのは2軍の千葉茂さんでした。西鉄と日本シリーズで戦う直前でしたね。

―― ジャイアンツに入団したときは、投手で契約したのですか?打者で契約したのですか?

いや、そういう区別はなくただのプレーヤーという契約でしたね。

―― 千葉監督には、最初どのように声を掛けられたのですか?

「よく来たね。噂は聞いているよ。頑張ってね」と言われました。ただ、千葉さんは、そのシーズンを限りに近鉄バッファローズの監督になられて移籍されたのです。その記念試合を日生球場でやったのですが、その試合はライトを守りました。

―― ピッチャーはだめという引導(いんどう)を渡されたのはいつごろで、誰からだったのですか?

新シーズンから宮崎キャンプが始まり、2週間後に明石キャンプに移ったときです。水原さん(監督)、川上さん(打撃コーチ)、中尾碩志さん(投手コーチ)の3人に呼ばれて「明日からピッチャーはしなくていい」と言われました。このお三方から言われては仕方ないな、という感じでした。

―― ショックは無かったですか?

甲子園でもずっとピッチャーでしたからね。これで二度とマウンドには立てないんだ、と思いました。でも、プロのピッチャーを間近で見て限界を感じていたのも事実です。

―― 開幕はスタメンでしたか?

ファーストで打順は7番でした。僕が幸運だったのは、ちょうど川上さんが引退されたシーズンで、そのポジションがあいていたことです。国鉄スワローズが相手でピッチャーは金田正一さん。2三振、1四球というデビューでした。

―― ファンからの期待も大きかったでしょうね。

まあ、甲子園で優勝した早実の王、みたいな期待はあったと思います。でも、なかなか打てなかったですね。少なくとも順風満帆(じゅんぷうまんぱん)とはいきませんでした。ファンの方からも、「王、王、三振王」なんて野次(やじ)られましたからね。

―― 荒川さんの前の打撃コーチはどなただったのですか?

川上さんでした。川上さんは現役時代から練習の虫といわれた人でしたからね。ただマンツーマンで練習することもなかった。グラウンド以外で宿舎とかでも練習しなかった。早実の方が練習は厳しかったですね。

―― 当時は、バッティングマシンも無かったですし、練習はどんな感じでしか?

ピッチャーの球を打ったり、素振りするくらいですね。ティーバッティングもありませんでした。

―― そうすると練習も単調ですね。

だから練習時間も短かったですね。後は、走ることが多かったです。練習が終わった後は、ランニングをしていましたね。

ジャイアンツが荒川氏をバッティングコーチに招請(しょうせい)。打撃開眼!

荒川博の指導をうける

荒川博の指導をうける

―― そうすると、ジャイアンツといえども、荒川さんが来るまでは旧態依然(きゅうたいいぜん)という感じだったわけですね。

川上さんが監督になってからは、いろんな意味で厳しくなりましたね。2年目までは成績も良くない割には、しんどくなかった。

―― 荒川さんとは中学時代から一本足打法の完成まで関わりは深かったですね。

荒川さんは、3年目まで毎日オリオンズの現役選手でしたからね。引退されて広岡達朗さんがジャイアンツのバッティングコーチに推薦したと聞いています。それから練習が一変して、毎日午後9時になると大広間に集められて素振りをするようになりました。

―― プロ野球のトレーニング方法が、劇的に変わるころでもありましたね。

どんどん変わりましたね。量的なもの、質的なもの、方法論も変わったし、マシンも出てきたし、雨天用の室内練習場もできました。

―― 荒川さんがジャイアンツのコーチになり、野球観も変わりましたか?

僕の2年目は、ホームラン17本、打率ベスト10に入り、打点も4位に入るなど上向きでした。ところが3年目は少し落ち込んでしまった。荒川さんが入って来て口癖の「なんだ、そのスイングは」というところから始まり、そこからマンツーマンで指導されました。早実の先輩だったし、荒川さんと僕が同じタイプの選手だったのでしょう。ずっと親身になって朝から晩まで指導してもらいました。毎朝タクシーで、荒川さんのお宅を訪ねてスイングを見てもらい、荒川さんの車で後楽園球場に行く。試合を終えてから再び荒川さんのお宅へ行きスイングを見てもらう。夕食をご馳走になりタクシーで帰宅する毎日でした。だから荒川さんの奥様にも、ずいぶんお世話になりました。

―― 荒川さんは、コンディショニングに関しては、どんな指導をされましたか?

「とにかく走れ」と口酸っぱく言われました。だからランニングはよくしましたね。おかげで足腰が鍛えられ、ケガをすることもなかったし、ホームランを打つ(いしずえ)を築くことができました。

―― その効果は、すぐに現れましたか?

いや、9月から年が変わって6月までの9カ月間打てませんでした。

―― 何か理由はあったのですか?

やはりボールとの距離感が、どうしても取れなかったですね。いくら良いスイングをしていても芯でボールを捕らえられないとボールは飛びません。そこが一番難しいところでした。スイングもいろいろ試行錯誤しましたが、結局始動するポイントが掴めない。あるとき、荒川さんが「ピッチャーが足を上げたらお前さんも右足を上げろ。足を降ろしたらお前さんも足を降ろせ。そうやってタイミングを取ってみろ」と一本足打法の原型みたいなものを作った。そうすると距離感が取れるようになって、ボールを遠くへ飛ばす天性も蘇ってきた。4月から6月までで9本しか打てなかったホームランが、7月から3ヵ月間で27本も打てたのです。結果が出れば、荒川さんとのトレーニングにも身が入る。やればやるほど結果は出る。4年目、5年目、6年目とだんだん面白くなっていきました。

V9 強さの秘密、選手たちは決して仲良くなかった

―― ジャイアンツでいうとV9の時代に入って行くわけですね。

V9というのは、選手にとってはあまり関係がないのです。選手たちは自分の仕事をするだけです。もちろん勝ちたいですけど、勝つことは監督やコーチ陣、会社の人たちの仕事で、選手たちは自分の役割を果たすだけです。そう思っていたので、バントシフトとか外野からホームへの中継とか、本当に意識が高まり集中してできましたね。アウトとセーフの違いは、ほんの小さな差なんです。それを職人気質の選手たち、柴田勲、土井正三、黒江透修、高田繁、末次民夫、キャッチャーの森昌彦さん、ピッチャーの堀内恒夫、高橋一三らがいて、本当に他チームの選手とは意識が違いました。

―― 当時のジャイアンツを見ていると、本当に個性が強い選手が多かったですね。

チームの中でも喧嘩していましたからね。まあ、僕と長嶋さんは別でしたが、柴田、土井、黒江、末次あたりは年代的にも近くて、「ああでもない、こうでもない」とやっていましたよ。堀内は負けん気の強いピッチャーだったし。だからそういう力が、試合のときはスーッと集まって最高のモノを出す。普段はてんでばらばらだったのに。

―― 個性の強いものが集まると、まとまったときは爆発的な力を発揮するんですね。

サッカーの日本代表もそうですが、それぞれのポジションに日本一の力の選手がいて、勝つためにプレーするわけですから強い。団体競技はなんでもそうです。

―― 当時の口に出るのは、いわゆる「ON」ですよね。王さんから見た長嶋さんは、どんなプレーヤーでしたか?

僕も含め職人気質のプレーヤーが多かったジャイアンツで、長嶋さんだけは別格でしたね。入団時から大騒ぎされ、1年目からホームラン王と新人王と華々しい。残りの8人は、野球で結果を出すことだけ考えているメンバーの中で、長嶋さんだけエンターテイナーでした。自然に人を魅ひきつけることが出来る人でしたが、後で聞いたらすべて考えてやっていたそうです。敵わないな、と思いました。

―― 川上さんは、どんな監督でしたか?

勝負に徹していましたね。人がどう思うかなんて考えていない。面白くない野球、とも言われましたが、ともかく結果を出すことだけを考えていました。V9時代のジャイアンツが強いといっても紙一重なのですよ。毎年の日本シリーズではパ・リーグのチームが強いという下馬評でした。そこを9年連続で勝ったのですから。

―― あの時代、1対1の対決も注目されましたね。

どこのチームもローテーションなど無視でジャイアンツに挑んできましたからね。今みたいに中6日は絶対守るとか、毎週日曜日しか投げない、なんてピッチャーはいませんでした。金田VS長嶋、村山実VS長嶋、江夏豊VS王などが特に注目されていました。

1977年 本塁打世界新記録更新となる756号を放つ

1977年 本塁打世界新記録更新となる756号を放つ

―― 私の記憶では、王さんの通算ホームラン756号とか800号なんていうのは野球の世界の話だけではなく、社会現象でしたね。あのときの達成感はいかがでしたか?

756というのは、自分の野球人生のピークでしたね。実際にプレーしているときは、まったく意識していないわけです。600のときは、誰も騒がなかった。それが700を超すころからメディアを中心に周りが騒ぎ出す。やはり野球選手といえども人の子ですからね。だから756を超えたときは、次は何を目標にするか困りましたね。

―― すると756というのが、ずっと引っぱってきてくれたのですね。

結局、それを目標にしてやってきて超えてしまうと、目標がなくなってしまうのですよ。でもその後も何とか野球に集中することができました。思えば、野球人生の中で、家のことはなんでも女房任せでした。家計も子育てもなにもかも。野球人は皆そうかもしれませんが、まったくタッチしなかった。

―― 目標を超えると、孤独な戦いになってしまう。

達成感はありました。でも、それだけではないですからね。僕は、あと現役を3年くらい続ける体力的な自信はありました。1000本くらいは行けたかもしれません。でも、当時のジャイアンツの4番は、大相撲の横綱みたいなもので、力が衰えてくると引退しかないのです。川上さんも長嶋さんも、そして僕も引退という道しかなかった。まあ、それがジャイアンツの4番を打った者の宿命でした。

現役を引退。指導者の道に入って行く

ソフトバンク監督時代

ソフトバンク監督時代

―― 現役を退かれてジャイアンツの助監督をされますね。そのあたりのことは、いかがでしたか?

水原さん、川上さん、長嶋さんの下で選手をやってきて、その立場にならないと分らないこともありますね。助監督のとき、もう少し監督のことを勉強しておけば良かったと思いました。いったん外れて違う視点で見ることがあった方が良かったかもしれません。

―― その後、ジャイアンツの監督もされました。

やはりジャイアンツの監督は、常に優勝することを求められます。それが選手、助監督、監督と自然に行ってしまいましたからね。そのころは、ドラフト制度で各チームの実力は拮抗(き っこう)しているし、平均化していますからね。長嶋さんや僕がジャイアンツの監督をやったころは、そういう意味で勝つということが厳しかったですね。

―― それでもジャイアンツで結果を出されました。

僕も5年やりましたから。

―― 達成感はどうでしたか?

そんなもんありませんよ。監督の達成感はないですね。勝ったら選手のおかげ、負けたら監督の責任。1試合1試合もそうですし、シーズンを通してもそうです。監督が光ることは良いことではない、と思います。

―― そして根本陸夫さんに引っぱられて九州に渡られました。

6年間ユニフォームを脱いでいましたから。野球界の輪から外れると、物凄い疎外感があるのです。ユニフォームを着ていると、しんどさはあるのですが、やはり野球人は皆、着ていたときのときめきを求めているんですよ。

―― ホークスの監督になられて、昔のジャイアンツのような個性的な選手を集められましたね。

99年に優勝して、2003年、2011年、2014年と4回日本一になりました。それまで20年Bクラスにあったチームを、常に優勝争いをするチームにしたことは、我ながら良くやったと自負しています。

―― ホークスに来て一番選手に求められたのは何ですか?

何のために野球をするか考えてみよう、ということですね。チームの勝利と自分たちの技術をあげること。そして自分たちの生活を豊かにすること。それをはっきりさせることを求めました。

―― ということは、小さな技術ではなく、もっと根本的なことを求められたのですね。

全員、勝ちたい、打ちたいと思っている。給料だって、たくさんもらいたい。じゃあ、そのためにはどうしたら良いか。20年以上優勝していないチームをどうするか。弱いことが当たり前だったチームをどうするか。3、4年時間はかかりましたよ。

―― 胴上げのシーンも何度もありましたね。

ダイエーの中内功さんから、「とにかく勝てるチームにしてくれ」と言われ、時間もかかりましたが、中内さんを胴上げできて良かったです。ビールかけも一緒にできたし。

―― いってみれば、パ・リーグの中のジャイアンツに相当するようなチームをつくることだったのですね。

そうですね。平均的にお客さんも入ってくれるしパ・リーグ6チームの立ち位置としてはそうですね。でも12球団の中でトップに行くのが我々の目標です。

―― セパ両リーグじゃなく、パセ両リーグですか?

オーナーの孫正義さんは、自分のビジネスで世界一を目指しています。我々はワールドシリーズのチャンピオンチームと戦うことを目指します。クラブ・ワールドチャンピオンですね。ワールドシリーズのチャンピオンと日本シリーズのチャンピオンの対決が夢です。日本一は、富士山でいえば1合目か2合目です。日本一で満足してはいけません。秋山幸二監督から工藤監督に代わり、松坂大輔も帰って来たわけですからファンの関心も高い。何億円ももらう選手はそれだけの役目を果たさないといけないと思います。

東京オリンピック・パラリンピックに期待するもの

東京オリンピック招致イベント

東京オリンピック招致イベント

―― 王さんは早くから世界を視野に入れてタイトルを獲られてきました。そして2020年東京オリンピック・パラリンピックでも重要なポストに就かれていますね。

どういう役をやっているのか、僕は知らないのですが(笑)オリンピックは施設もそろうし、海外から多くのお客さんが来ると思います。僕は油断しないように皆で盛り上げていかなければいけないと思っています。

―― 日本のスポーツを作って来たのは、間違いなく興行としての野球だと思うのですが、スポーツ庁も秋にできるということになっています。

僕は、野球というのは日本ではナンバーワンのスポーツだと自負していますからスポーツ庁ができてどういうふうに向かっていくのか楽しみです。その中でも、常に野球が先頭に立って引っぱる。プロ、アマが1つになって牽引して行くのが大きな課題になるでしょう。スポーツ庁ができたら、リーダーシップを取って行く。それくらいの気持ちがないといけません。

―― そのスポーツ庁と共に、野球がオリンピックに復活することが決まるかもしれません。

それは来年に決まるのですね。スポーツ庁は今年ですね。

―― 10月と言われています。どうでしょう。日本の球界の人の多くは、王さんが、もう一度ユニフォームを着てくれないかと祈っているといいますが?

いや、もうユニフォームは着ませんよ(笑)。私は外から支えることに徹します。大いに御神輿は担がなければいけないと思っています。ユニフォームは、もっと若い人に着てもらいましょう。

―― 野球が復活したら、金メダルをぜひ取ってもらいたいですね。

正式競技になった瞬間から、それは求められますね。プレッシャーも大変でしょう。でも今の侍ジャパンの選手は、“ジャパン”という意識も高いので、2017年のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)、2020年の東京オリンピックと進歩してくれると思います。

―― 世界で日本が、そしてソフトバンクがさらに活躍されるように祈っています。

工藤監督も張り切っているので、彼がやりやすいような体制を作ってバックアップしたいですね。

―― どうもありがとうございました。

  • 野球・王貞治氏の歴史
  • 世相
1873
明治6
開成学校(東京大学の前身)にて、ホレエス・ウィルソン教師の指導の下、日本で初めて野球の試合が行われる
1877
明治10

アメリカから帰国した平岡煕氏によって、国内初の野球チーム、新橋アスレチック倶楽部が誕生

1882
明治15
東京都品川区の工場近くに国内初の野球専用グラウンドが設立される
1894
明治27
中馬庚氏によって「Baseball」が和訳され、「野球」という言葉が生まれる
1903
明治36
第1回早慶戦が行われる。これが後の東京六大学野球の発祥とされる
1915
大正4
全国中等学校優勝野球大会(現、全国高等学校野球選手大会)が開催される
1920
大正9
日本で最初のプロ野球チーム、日本運動協会(芝浦協会)が創設される
1923
大正12
日本運動協会と、日本で2番目のプロ野球チームである天勝野球団が対戦し、これが史初のプロ野球チーム同士の対戦となる
1931
昭和6
読売新聞社の主催でメジャーリーグ選抜チームを招き、日米野球が初開催される
1934
昭和9
大日本東京野球倶楽部(現、読売ジャイアンツ)が創設される
1935
昭和10
大阪タイガース(現、阪神タイガース)が創設される
1936
昭和11
名古屋軍(現、中日ドラゴンズ)、東京セネタース、阪急軍(現、オリックス・バッファローズ)、 大東京軍、名古屋金鯱軍が創設される
日本野球連盟が創設される

  • 1940王貞治氏、東京都に生まれる
  • 1945第二次世界大戦が終戦
  • 1947日本国憲法が施行
1949
昭和24
2リーグ制が発足される
1950
昭和25
2リーグが分裂する

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951安全保障条約を締結
  • 1954王貞治氏、一歩足打法の生みの親である荒川博氏と出会う
1955
昭和30
南海ホークス、日本プロ野球史上最多記録の99勝でリーグ優勝
         
  • 1955日本の高度経済成長の開始
  • 1957王貞治氏、夏の甲子園(寝屋川高校戦)でノーヒットノーランを達成
1958
昭和33
長嶋茂雄氏、鮮烈デビュー

  • 1959王貞治氏、読売ジャイアンツ入団
1961
昭和36
稲尾和久氏、シーズン最多の42勝を記録
権藤博氏、「権藤・権藤・雨・権藤」という流行語が生まれるほど、連日投げ、新人記録の35勝を記録 
1962
昭和37
阪神タイガースと東映フライヤーズが初のリーグ優勝を果たす 

  • 1962王貞治氏の代名詞である一本足打法が誕生
1963
昭和38
西鉄ライオンズ、史上最大14.5ゲーム差大逆転優勝を果たす 
1964
昭和39
村上雅則氏、日本人として初めてメジャー登板を果たす

  • 1964王貞治氏、168号ホームランを打ち、シーズン55本目の日本記録
  • 1964東海道新幹線が開業
1965
昭和40
野村克也氏、戦後初の三冠王に輝くドラフト制度がスタートする
阪急ブレーブス、球団創立32年目で初優勝

1969
昭和44
金田正一氏、日本プロ野球史上唯一の通算400勝を記録

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1970
昭和45
張本勲氏、史上最高打率.383を記録

1971
昭和46
江夏豊氏、9者連続三振の大記録を達成
読売ジャイアンツ、史上初の7連覇

  • 1973オイルショックが始まる
1974
昭和49
長嶋茂雄氏、現役引退

1975
昭和50
赤ヘルブーム到来、広島カープ球団創立26年目で初優勝

  • 1976王貞治氏、715号ホームランを打ち、ベーブ・ルース(米)の記録を抜く
  • 1976ロッキード事件が表面化
  • 1977王貞治氏、756号ホームランを打ち、世界記録となる
     王貞治氏、国民栄誉賞を受賞
1978
昭和53
ヤクルトが球団創立29年目で初優勝

  • 1978日中平和友好条約を調印
1980
昭和55
張本勲氏、通算3000安打を記録 

  • 1980王貞治氏、生涯最後のアーチとなった868号ホームランを打つ
  • 1981王貞治氏、読売ジャイアンツの助監督に就任
  • 1982東北、上越新幹線が開業
1984
昭和59
プロ野球創立50周年福本豊氏、通算1000盗塁を記録 

  • 1984王貞治氏、現役引退。
     その後読売ジャイアンツの監督に就任
 
1985
昭和60
阪神タイガースが21年ぶりの優勝 
1986
昭和61
清原和博氏、新人タイ記録の31号ホームランを打つ
1987
昭和62
衣笠祥雄氏、2131試合連続出場を果たす

  • 1987王貞治氏、監督4年目で初のリーグ優勝
  • 1988王貞治氏、読売ジャイアンツ監督を退任
 
1990
平成2
野茂英雄氏、デビュー
1992
平成4
野村克也氏率いるヤクルトスワローズが、3年目でリーグ優勝
1993
平成5
FA制度スタート、ドラフト逆指名導入
1994
平成6
イチロー氏、210安打で大ブレーク
1995
平成7
野茂英雄氏、村上雅則氏以来31年ぶり2人目の日本人メジャーリーガーとなる

  • 1995王貞治氏、福岡ダイエーホークス監督に就任
 
  • 1995阪神・淡路大震災が発生
  • 1997香港が中国に返還される
1999
平成11
松坂大輔氏、デビュー

  • 1999王貞治氏率いる福岡ダイエーホークス、 リーグ優勝、日本一となる
  • 2000王貞治氏、リーグ連覇するも日本シリーズ初のON対決で読売ジャイアンツに惜敗
2001
平成13
イチロー氏、メジャーリーグにて新人王・MVPを獲得

  • 2003王貞治氏、リーグ優勝、日本一となる
2004
平成16
イチロー氏、メジャーリーグにて安打記録を更新

  • 2004王貞治氏、監督通算1000勝を記録
2005
平成17
プロ野球交流戦がスタート
プロ野球に東北楽天ゴールデンイーグルスが参入

  • 2005王貞治氏、福岡ソフトバンクホークス監督に就任
     王貞治氏、ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)日本代表監督に就任
2006
平成18
第1回WBC開催。日本が優勝を果たす

2007
平成19
セ・リーグもプレーオフを導入

  • 2008王貞治氏、監督通算1300勝を記録
  • 2008リーマンショックが起こる
2009
平成21
第2回WBCにて、日本が連覇を果たす

  • 2009王貞治氏、第2回WBC日本代表監督顧問を務める
     王貞治氏、福岡ソフトバンクホークス球団 取締役会長に就任
  • 2011東日本大震災が発生
2013
平成25
田中将大氏、24連勝無敗で東北楽天ゴールデンイーグルスを初の日本一へ導く