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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

大松博文と松平康隆
オリンピックを身近なものにした

【オリンピック・パラリンピック 歴史を支えた人びと】

2019.02.20

世界一のオリンピック好きといわれる日本人。多くの国民をそこまでひきつけた要因のひとつには「バレーボール」があるように思う。1964年の東京大会で女子が、1972年のミュンヘン大会で男子がそれぞれなし遂げた初優勝は、それまでスポーツにさほど関心を持たなかった人々をも熱狂させ、オリンピックという存在を一気に身近なものとした。多くの人々は、バレーボールを通じてオリンピックの魅力を知ったのである。

2つの金メダルをもたらした原動力がすぐれた指導者にあったのはよく知られている通りだ。東京女子の大松博文。ミュンヘン男子の松平康隆。タイプも手法も異なってはいたが、独自の創意工夫で新たな道を切り開き、それによって世界の壁を乗り越えたところは共通していた。戦後の国際化が急速に進む中で、そこが多くの共感を生み、感動を呼んで一大ブームを巻き起こしたのだろう。2人の代表監督は、そうしてオリンピック人気を飛躍的に高める役割までも果たすことになったのだった。

1964年東京オリンピック、試合前の大松監督

1964年東京オリンピック、試合前の大松監督

大松博文といえば、著書のタイトルにもなっている「なせば成る」「おれについてこい」の言葉が思い浮かぶ。1954年に実業団の日紡貝塚監督に就任して強豪チームに育て上げ、1958年には国内主要タイトルを独占。日紡貝塚のメンバーがそのまま主力となった日本代表チームでも1962年に世界選手権優勝を果たし、「東洋の魔女」と呼ばれる快進撃で東京の金メダルまで突っ走った。その栄光の足跡を貫いていたのが、まさしく「できないことはない」「おれについてくれば、必ず勝てるんだ」の思いだったのだ。本人も著書で「おまえたちは、なにも心配しないでいい。勝つことはわしが考える。わしのいうとおりにやれば勝てるのだ」と選手に言い聞かせていたと記している。

その強烈な自負を支えていたのが、チームの代名詞ともなっている回転レシーブを生み出したハードトレーニングだった。それは質量ともに並外れており、時に深夜、未明にまで及んだ。体力の限界ぎりぎりまで追い込んでいく壮絶な練習。あまりの厳しさに「女性の敵」と批判されたエピソードはよく知られている。

そうした手法から、大松は精神主義・スパルタ主義の権化のように思われがちだ。が、ただ単に根性論を振りかざして猛練習を強いたわけではなかったように思う。その指導は、勝つために何が必要なのかを考え抜いたうえでの明快な結論に裏づけられていた。ひとつは、体格とパワーで上回るライバルに勝つためのチームづくりだ。

「ひと口にいえば、比類のないチーム=ワークです。勝つことの唯一最大な条件は、このチーム=ワークだったかもしれません」
「六人が、ガッチリと精巧な歯車のようにかみ合い、強固で美しい"一個の芸術品"になっているのです」
「どこと当たっても、臨機応変の処置ができ、コート上の動きのどんなことでも、どこより強いプレーができるようにするのだ」

オリンピックを前にした厳しい練習

オリンピックを前にした厳しい練習

著書に書き残しているように、監督はコート上の6人が完璧なまとまりをもってひとつの有機体のように機能する戦い方を選択し、それを極限まで磨き上げようとしたのである。それまで世界の頂点にあったのは、個々の圧倒的なパワーを前面に押し出してくるソ連。小柄で細く、パワーに欠ける当時の日本女子が高い壁を乗り越えるには、まったく新たな道を開かねばならない。それが、チーム総体としての力で勝ち抜くという方向性だった。そして6人の結びつきを徹底的に磨き抜くためには、極限までの猛練習が欠かせなかったというわけだ。

ただ、その理想のチームが完成したとしても、それだけで十分とは言えない。理想通りにチームを機能させるには、選手個々に絶対の自信を持たせねばならない。監督は選手にこう言い切ったと著書にある。

「練習にしても、おまえたちほど激しくやったチームは、世界のどこを捜してもないだろう。これは世界一だ。だから、どんなときでも、この練習時のプレーを試合で発揮することだ。そうすれば、オリンピックに必ず勝てる。おまえたちには、もう、調子が悪くて力が出せなかったなどというようなことは起こらない」

こうした考えのもとに、大松は「鬼」とまで呼ばれる存在となり、比類のないハードな練習を選手に課したのだ。

「苦労をかけた選手たちに金メダルを取らせてやるには、こうするしかない」と思いきわめて、監督はあえて「鬼」になったのである。

こうした状況を見ると、選手は鬼を怖れて唯々諾々と服従していたようにも思われるが、そうではない。限界に迫る練習に苦しみながらも、自分自身で考え、工夫しながら大松流のトレーニングをこなしていった様子は、彼女たちの発言や文章に残っている。時には面と向かって意見を言ったり、冗談で言い返したりといったこともあったようだ。金メダルを手にするにはこの道しかないのを、選手の方も十分にわきまえていたのだろう。

「けがをしたりしても、自分で考えて、自分で克服しました。先生はオレについてこいと言ったけど、私たちも(ただ従うのではなく)自分で考えてついていったんです。先生が一生懸命なのを見ていたから、私たちもその一生懸命さにこたえてついていった。やめようなんて思ったことは、誰にもないと思います」

大松監督と河西キャプテン

大松監督と河西キャプテン

チームの大黒柱、キャプテンの河西昌枝はのちにそう語った。「みんな、結婚するなら先生のような人がいいと言っていた」という言葉からは、師弟の間に熱い情が通い合い、固い信頼の絆があったことがわかる。「なせば成る」は監督のみならず選手全員の思いでもあり、また「おれについてこい」は「あなたを信頼しているから、ついていく」でもあったというわけだ。

戦争が終わって間もない時代。情報は少なく、科学的なバックアップも乏しい。だが、人と人とのつながりは濃密だった。そんなころのことだ。監督と選手は、そうした中でできる限りのことをやった。そのひたむきな努力が、多くの人々にスポーツの、オリンピックの魅力を伝えたのである。

1972年ミュンヘンオリンピックの松平監督

1972年ミュンヘンオリンピックの松平監督

東京オリンピックからミュンヘンまでは8年。短い期間とはいえ、社会が一気に大きく動いていったころだ。高度成長で国力は飛躍的に高まり、一方で国際化もますます進んでいた。スポーツの世界も大きく変わりつつあった。そこで今度は松平康隆が頂点を目指した。その軌跡もまた、さらに多くの国民をオリンピックへとひきつけることになる。

東京で日本男子は銅メダルを獲得した。9人制からの移行期にあったことを考えれば大健闘と言っていい。が、東京でコーチを務め、大会後に日本代表監督に就任した松平は、銅メダルの実績はすべて忘れ、土台からチームをつくり変えようと決意した。あえてゼロからの新しい路線へと切り替えたのである。監督は著書でこう表現している。

「本格的な金メダル・ビルを建設するために、銅メダルの建物をこわしてサラ地にし、基礎枠を打ち込んで、その上にビルを建てるしかない、と考えたのだ」

トップの層が厚い世界の男子バレー。そのうえ、戦略・戦術もトレーニング方法も大幅に進化してきている。勝ち抜くためには、それまでの常識を捨て、まったく新たな道を進むしかないというのが新監督の考えだった。「非常識な、革命的な発想を強行」するしかないと覚悟したのである。東京で銅メダルを取った時、世間やバレー界が女子の金ばかりもてはやして、男子は一顧だにされなかったという屈辱の思い出も、「いまに見ていろ」の思いをいっそう燃え上がらせたようだ。

松平は8年計画を掲げた。すなわち、ミュンヘンで金メダルを取るという計画である。

革命的な改革の最大の柱は、当時としては超大型の選手をそろえることだった。190cmを超える選手を発掘し、それによってチームを編成しようという考えは、まさに常識を覆す発想だった。「ウドの大木」の言葉があるように、欧米に比べて小柄な日本では、大型の選手は動きが悪く、大成は望めないというのがスポーツ界の常識だったのだ。

とはいえ、大型の体を支えるだけのしっかりした筋肉をつけ、鋭く素早い動きに耐えられるようにすれば、訓練によっておのずと自在なプレーができるようになると松平は考えた。その結果、中心選手となったのが森田淳悟、大古誠治、横田忠義といった面々だ。190cmを超える長身ながら、軽々とアクロバティックな動きをこなすようになった彼らは、まさしく「革命的な」発想を具現化した存在だった。競技の最も土台となる部分で、松平はまず常識を覆してみせたのだった。

ミュンヘン大会決勝、日本対東ドイツ

ミュンヘン大会決勝、日本対東ドイツ

松平の改革は続く。長身とすぐれた運動能力とを兼ね備えた選手をそろえたところで、次は、日本人がもともと持っている機敏性やスピードを生かして、誰もやっていない新技術をつくり出すことに力をそそいだ。「何でもいいから、新しい技をみんなで考えろ」と監督は選手たちにハッパをかけた。そこで次々と出てきたアイディアに磨きをかけてつくり上げたのが各種のクイック攻撃や時間差攻撃だ。代表例は森田が考案した一人時間差。新技術を駆使したスピード感あふれるコンビネーションバレーが、こうして完成した。パワーだけではない。技術やうまさだけでもない。双方を含んだ新たなバレーの出現。松平は著書でこれを「ファンタスティックなバレー」と表現している。

もうひとつ、このことも忘れてはならない。チームの知名度を高め、人気を集めて追い風とするために、松平はテレビをはじめとするメディアへの露出を重視していた。ミュンヘン大会の年に、実写とアニメを組み合わせたテレビ番組「ミュンヘンへの道」が放映され、男子代表チームの人気が爆発的に高まったのも松平の仕掛けだったという。チームづくりだけでなく、男子バレーを取り巻く環境についても革命を引き起こしたというわけだ。

つけ加えておけば、この監督はプレー以外のところでも特色を発揮していた。「バレーしか知らないのではいけない」と、選手にさまざまなことを学ばせたのである。英語などの語学はもちろん、海外遠征に出るとなると、遠征する国の政治、経済、文化、宗教などを出発前にこと細かに調べさせ、行った先では時間をつくって美術館や名所旧跡を訪ねさせた。テーブルマナーも厳しく教えた。選手としてすぐれているだけでなく、社会人としても国際人としても一流でなければ頂点には立てないと考えていたのだろう。スポーツ文化の意識もしっかりと持っていた、稀有な現場指導者だったと言っておきたい。

アベリー・ブランデージIOC会長(当時)と握手する松平監督

アベリー・ブランデージIOC会長(当時)と握手する松平監督

すべての面で新たな方向性へと突き進んだ決断は大輪の花を咲かせた。ミュンヘン大会の金メダルで8年計画はみごとに完結した。ゼロから始めた革命が成就したのである。現場の指揮官の枠を超え、いわばバレー発展プロジェクトの総合プロデューサーとして日本男子を牽引してきた男は、狙った通りに頂点に立ち、それによってバレー人気を沸騰させ、国民のオリンピック熱をも高めてみせたのだった。

金メダルの夢を実現したのちは、日本協会の中枢に入って専務理事、会長を務め、バレー人気の盛り上げに腕を振るった。国際バレーボール連盟の副会長ともなり、世界のバレー振興にも尽力した。国際舞台でこれほどの存在感を示したスポーツ人は他にほとんど見当たらないと言っていいだろう。いまは、その後半生の方がよく知られているかもしれない。

日本でも世界でも組織のトップをきわめた人生。国内でも国外でも、バレー界では畏敬をもって仰ぎ見られる地位にいた。ただ、当の本人としては、どんなに高い地位にいても、常に第一線で陣頭指揮をとりたいと思っていたのではないだろうか。

「ミュンヘンは私の人生のすべて」といつも語っていた。選手やコーチと力を合わせ、知恵の限り、体力の限り、努力の限りを尽くして夢をかなえた8年。協会のトップとなり、バレー界全体を統括する立場についても、競技に向き合い、仕事をこなしていく毎日の気分は、ミュンヘンを目指していた日々とまったく同じだったのではないか。会長時代はその剛腕、辣腕ぶりが毀誉褒貶相半ばするところもあったが、「バレーを盛り上げたい」という情熱は最後まで純粋なままだったように見える。組織のトップにいても、思いは常に現場のコートにあったに違いない。この人物はまさしく「ミスター・バレーボール」だった。

大松博文と松平康隆。日本バレーの発展期に現れた偉大な指導者。二人はそのまま歴史であり、伝説であり、また、後に続く者たちが進むべき方向を見定めるためのひとつの指針ともなっている。

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スポーツ歴史の検証
  • 佐藤 次郎 スポーツジャーナリスト

    1950年横浜生まれ。中日新聞社に入社し、同東京本社(東京新聞)の社会部、特別報道部をへて運動部勤務。夏冬6 回のオリンピック、5 回の世界陸上選手権大会を現地取材。運動部長、編集委員兼論説委員を歴任。退社後はスポーツライター、ジャーナリストとして活動。日本オリンピック・アカデミー(JOA)正会員。ミズノ・スポーツライター賞、JRA馬事文化賞を受賞。著書に「東京五輪1964」(文春新書)「砂の王 メイセイオペラ」(新潮社)「義足ランナー 義肢装具士の奇跡の挑戦」(東京書籍)「オリンピックの輝き ここにしかない物語」(東京書籍)「1964年の東京パラリンピック」(紀伊国屋書店出版部)など。