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西田善夫
スポーツアナウンサー 西田善夫

山本 浩           【オリンピック レガシー 人物編】

インタビューをする西田善夫(2012年) インタビューをする西田善夫(2012年)

  西田善夫は社会派のスポーツアナウンサーだ。ことばの流れよりむしろそこにある事実を大切にする。プレーと結果との間に隠れたものをそれとなく質しにかかる。優しい口調で伝えたにもかかわらず、あるときはそれが鋭い指摘に聞こえ、ユーモアのセンスをたたえながらそれが警句に響くことがあった。

  西田がNHKに入ったのは1958(昭和33)年。およそ3カ月の研修を経て北海道の室蘭放送局に赴任すると、早速スポーツの仕事に取りかかった。着任の年に「争議とスポーツ?試合の出来ないオリンピック選手」というテーマで、労働争議のさなかにあったアイスホッケー選手の苦悩を取り上げた番組を提案しているから、その評判はすぐに広がったに違いない。地方局でスポーツアナウンサーを目指す者が自分の実況録音を中央局の上司に送ることはあっても、まだほやほやのうちからスポーツの社会問題に関わる番組提案をするのは極めて珍しい。学生時代に培ったスポーツに対する深い見識あったればこその、西田らしいスタートの切り方だった。

  戦後のスポーツアナウンサーには、艶のある声を誇る人が少なくない。しかし西田はどちらかと言えばギクシャクとしたタイプで、声を売るよりむしろストーリーとその組み立てを大切にした。野球、バレーボール、アイスホッケー。それぞれが西田独特のカラーで表現される。それは、西田の先人たちがしたような「語る」のではなくあくまで「伝える」を基調とし、「解き明かす」ことに力点が置かれていた。七五調によるでもなければ、粋なことばを用意するでもない。とことん事実の積み重ねにこだわる。疑問が解決されなければ、どこまでも追いかけていくような姿勢だったから、プレーそのものの実況よりもプレーが止まった時に西田の真骨頂は発揮されている。

  私が初めて西田に会ったのは、それから18年を隔てた1976(昭和51)年のことだ。アナウンサー研修の合間のソフトボール大会の打ち上げに姿を見せた西田の第一印象は、今でも忘れない。仕入れたばかりのオモシロ話を、口に手をかざしながら一気にしゃべりまくる。話が終わるか終わらないかのうちに自分から先に笑い声を発して、聞いている側を引きずり込んでしまう。出会って数分と立たないうちのその場の空気をすぐに変えてしまう特異な力を備えていた。

  一方で大きくて度の強そうなめがねの向こうに光る鋭いまなざしも印象的に深い。人の話を聞くときには、小さな目を更に細めながら短い質問を繰り出してくる。何か新しい発見を手にした若いアナウンサーがそれを西田に報告する際には、決まって同じフレーズを繰り返した。「そうかそうかそうか」。シンプルだが、話す側のストーリーに魅力がなければすぐにそれとわかるような間の手。誰もが、西田の前では論理、展開、その伝え方にいつも気を使っていなければならなかった。

  スポーツアナウンサーの仕事は、70年代終盤から大きな変化の時代を迎える。放送関連機材の急激な進歩、衛星放送の開始、視聴者向け機器の充実。実況中継だけでなくスタジオベースのスポーツ番組も次々に場を広げる時代が始まる。ラジオに始まって長い間アナウンサーの一人舞台だったスポーツ放送の世界が、やがてチームプレーに変わっていく。テレビスポーツの転換期に、西田は環境の変化にも敏感に対応した。スターアナウンサーたちは、実況中心で仕事が回るのをよしとする時代だったが、西田はどんな形態の番組もいとわなかった。1991年にはスポーツ担当の解説委員、さらに1993年になるとサンデースポーツのキャスターに就任。周りを取り巻く多くの人たちが西田のスポーツに対する見識に期待を寄せたのが伝わってくる。

 
1964年東京大会の開会式。整列した各国の選手団 1964年東京大会の開会式。整列した各国の選手団

  そんな西田がことのほか強い気持ちを注いだのがオリンピックだ。西田が活躍する時代には世代の近いアナウンサーに個性の強い人たちがそろっていた。北出清五郎、鈴木文弥、福島幸雄、土門正夫、杉山邦博、羽佐間正雄、向坂松彦。周りが多士済々だったことに加えて実況対象の日本選手が、話題になるメダルを取るか取らないかにも影響を受けたから、西田のオリンピック放送は万人の記憶に残るものではなかったかもしれない。

  西田の初めてオリンピックの仕事といえば、1964年の東京大会での実況に遡る。アナウンサーになってからわずかに6年で全国向けの放送に起用されたのは当時としては目立って早い。スポーツに取り組む姿勢、その伝える力の大きさが当初から図抜けていたことを物語っている。その後、札幌冬季、ミュンヘン、インスブルック冬季を経てモントリオールでは閉会式を担当。開会式はもちろんだが、閉会式をまかされるのは全体を見る目があるという評価あってのものだ。

 
 1980年レークプラシッド冬季大会のアイスホッケー、アメリカ対ソ連の試合 1980年レークプラシッド冬季大会のアイスホッケー、アメリカ対ソ連の試合

  続く1980年アメリカのレークプラシッドで行われた冬季大会で西田はアイスホッケーを担当している。メダルラウンド(決勝リーグ)でのアメリカ対ソビエトは、圧倒的な前評判の高さを誇ったソビエトに学生主体のアメリカが敢然と立ち向かい、事前の予想を覆して金メダルに近づく試合だ。札幌大会以来、冬季オリンピックの度にアイスホッケーを担当していた西田は、既にこの競技の第一人者として知られていた。試合は最後の第三ピリオド、同点に追いついたアメリカがついに勝ち越しに成功して残り時間がなくなってくるシーン。放送席の周囲が皆立ち上がってしまったため、西田も解説者ともども立って実況を続けることになった。このとき発した一言が「この際、私も立ち上がります……」(西田善夫『オリンピックと放送』/丸善1991)。大きな試合、大事な一戦のここぞという場面になると、誰もが集中してプレーにのめり込んでいく。実況者は、周囲の状況を見落とすまいと神経を研ぎ澄ませ、どこに焦点を定め何を伝えるかエンジンの回転数を最大限に上げるところだ。そんな時にプレーと関係のないことばを発するのには勇気がいる。西田はしかしあえて「私も立ちあがる」という自分の行為を描写した。高いレベルの緊張感を糸の張りを緩めないまま、聞き手の意識をプレーからちょっとだけ外す。相当に高度な、豊富な経験に裏付けられた実況法がそこにある。

  惜しまれるのは、1980年モスクワ大会を日本がボイコットしたことだろう。日本が参加して、なおNHKのスタッフにも放送のチャンスがあったならば、西田は実況アナウンサーで今とはまた違った評価を残したのではなかったか。ボイコットは、当時脂ののりきったアスリートだけではなく、放送関係者にもそれなりの傷を残している。

  桁外れの西田の能力はインタビューでも発揮された。記憶に深いのは甲子園の観客席下の選手通路。一塁側、三塁がそれぞれにお立ち台があって、NHKのインタビュアーは、勝ったチームの監督にマイクを向ける。西田は偉丈夫だったから、人混みが周りを取り囲んでいても一人だけそびえるように立っているのが見えた。遠くから眺めているだけで、聞かれる側が心の芯を揺さぶられているのがわかる。マイクの動きと表情を見れば監督がどれほど熱を持って話し、ことばがほとばしっているか想像できるのだ。そんなときに限って、西田はニコニコしながら短い間の手を繰り出しているに違いなかった。

 
FIFAワールドカップ日韓大会、表彰式後の横浜国際総合競技場 FIFAワールドカップ日韓大会、表彰式後の横浜国際総合競技場

  1998年、西田はFIFAワールドカップ日韓共催大会で決勝戦の会場となった横浜国際総合競技場の場長に就任。放送の世界から芝の養生に始まるスタジアム管理のトップに立った。おそらく、西田にとってそこは未知なる領域だったろう。しかし、研究熱心な西田はいつの間にか競技用芝の専門家になっていた。久しぶりに出会ったときに、芝生の話を蕩々とする西田には、室蘭時代に培ったスポーツ世界への探究心がまだ残されているようだった。

山本 浩

山本 浩

スポーツ評論家、元NHK エグゼクティブアナウンサー解説委員。
法政大学 スポーツ健康学部 教授

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