Search
国際情報
International information

「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

知る学ぶ
Knowledge

日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

22. オリンピック聖火リレーと最終点火者 -聖火リレーの歴史-

【オリンピックの歴史を知る】

2020.02.10

オリンピックの聖火リレーは1936年ベルリン大会から始まり、それ以降毎回欠かさず行われている(冬季大会は1952年オスロ大会から)。

聖火リレーの発案者は、ベルリン大会組織委員会事務総長でスポーツ学者のカール・ディーム。古代ギリシャの「たいまつ競走」を再現するという歴史的意味、国を超えて協力することのすばらしさ、オリンピックの芸術的意義をアピールする、などさまざまな意義をかかげた。だが、そこにはナチスドイツが自国のプロパガンダのために、「自分たちがギリシャ人と同様、優れた民族であるアーリア人の末裔である」ことを強く印象付ける狙いがあった。ただ、この思想は、ナチスのユダヤ人差別~虐殺に結びつく危険なものであった。

1936年初めての採火式

1936年初めての採火式

ベルリン大会の聖火は1936年7月20日、古代オリンピア遺跡のヘラ神殿前で太陽光から凹面鏡で採火され、オリンピックスタジアムまで、3075kmを3075人の聖火ランナーの手によって運ばれた。そのルートは、バルカン半島を北上し、ブルガリア、ユーゴスラビア、ハンガリー、オーストリア、チェコスロバキアを経由し、ドイツのベルリンに向かった。そして聖火は、開会式前日の8月1日にオリンピックスタジアムで聖火台に灯された。

第二次世界大戦でドイツは、このルートを逆にたどりながら侵攻していった。

その後の2大会・1940年東京大会と1944年ロンドン大会は戦争のため行われず、次に実施されたのは1948年ロンドン大会だった。

戦争の被害いまだに生々しいロンドンで、世界各国からの協力により開かれた「友情のオリンピック」では、ナチスのプロパガンダとして始められた「聖火リレー」を実施するか否かについて、国際オリンピック委員会(IOC)委員の間で大きな議論が巻き起こった。
「危険な思想のもとに行われたイベントを継承するべきではない」
「オリンピックを盛り上げるためにはよいイベントだ。目的を変えればいいのではないか」

結局、聖火リレーは「平和のため」のイベントとして存続させることが決定した。そして1948年の採火式では「戦争を捨てて平和へ」を意味するパフォーマンスが行われた。

1948年ロンドン大会の聖火リレー。後ろに見えるのはウィンザー城

1948年ロンドン大会の聖火リレー。後ろに見えるのはウィンザー城

第一走者として登場したギリシャ陸軍のディミトリウス伍長が着ていたのは軍服で、手には銃があった。伍長はその銃を地面に置き、軍服を脱ぎ捨てて、スポーツウェア姿になる。そして聖火を受け取り、走り出した。この瞬間、聖火リレーはナチスの呪縛から逃れ、平和の象徴となった。

内戦のためギリシャ国内のリレーは一部ルートを変更しておこなわれ、スイスのローザンヌでは、近代オリンピック創設者のクーベルタンが眠る墓地に立ち寄り、そののち、イギリス・ロンドンのウェンブリースタジアムまで運ばれた。ちなみにこのスタジアムは「サッカーの聖地」と呼ばれ、2012年のロンドンオリンピックではサッカーの決勝が行われている。

ここから、オリンピックの各大会(夏季大会)において、聖火リレーがどのように行われたかを開催順に見ていこう。

1952年ヘルシンキ大会の開会式に登場したパーヴォ・ヌルミ

1952年ヘルシンキ大会の開会式に登場したパーヴォ・ヌルミ

1952年ヘルシンキ大会の聖火は、初めて空路を使ってアテネからデンマークまで運ばれ、そこからはランナーの足によってリレーされた。聖火はストックホルムのオリンピックスタジアムを経由して、ヘルシンキのオリンピックスタジアムまで運ばれた。

開会式では、1920年のアントワープ大会からオリンピック3大会で9個の金メダル、3個の銀メダルに輝いた地元フィンランドの英雄パーヴォ・ヌルミから4人のサッカー選手によって運ばれ、最終点火者のハンネス・コーレマイネンの手に渡った。コーレマイネンは1912年ストックホルム大会と次のアントワープ大会で金メダル4個と銀メダル1個を獲得した選手。フィンランドの元祖スポーツの英雄「フライング・フィン」だ。「フライング・フィン」は、フィンランドが世界に誇るスポーツ選手を称える意味で呼ぶ愛称である。

1956年メルボルン大会は初めて南半球で開催されたオリンピックであり、聖火リレーが始まって以来、初めてヨーロッパを離れて行われた。そのためオリンピアで採火された聖火は、おもに空路を使い7カ国を経由して20470kmにわたるリレーが行われた。

オーストラリア国内では、まず北部のダーウィンに降り立った聖火は空路で運ばれ、北東部クィーンズランド州のケアンズからランナーの足によってイーストコーストを移動し、シドニー、キャンベラを経由してメルボルンにたどりついた。

この大会では動物検疫の関係で、馬術だけスウェーデンのストックホルムで行われた。こちらの聖火は、アテネから空路でデンマークのコペンハーゲン近郊に到着し、その後はすべてランナーが馬に乗って運ぶというユニークなものになった。ストックホルムに到着した聖火は、騎馬で開会式会場に入場したスウェーデン騎兵隊長ハンス・ウィクネの手で聖火台に灯された後、馬蹄形をした2つの塔にも灯された。

1960年ローマでは、古代文明が栄えたアテネとローマ、そして古代と現代のオリンピックの関係が強調されることになる。聖火リレーは古代遺跡や古代オリンピックゆかりの地を経由して行われた。

イタリア海軍のアメリゴ・ベスプッチ号でイタリアに上陸した聖火は、古代ギリシャの植民地があったイタリア南部の沿岸地方を巡り、アッピア街道を通ってローマに到達。カピトリーノの丘の一夜を照らした聖火は、翌日、オリンピックスタジアムの開会式に姿を現した。

1964年東京大会。8月23日にアテネを発った聖火リレー特別機「シティ・オブ・トウキョウ号」はイスタンブール、ベイルート、テヘラン、ラホール、ニューデリー、カルカッタ、ラングーン(現在のヤンゴン)、バンコク、クアラルンプール、マニラ、香港、台北を経由し、香港での悪天候により当初の予定を1日オーバーする18日間をかけて9月7日に沖縄に降り立った。

当時、沖縄はアメリカの占領下にあり日の丸の掲揚は禁止されていたが、このときだけ日の丸を掲げることを黙認され、沖縄の人々は沖縄本島を北上する聖火ランナーを日の丸の小旗を振って見送った。聖火は名護市で1泊したのち、本土へと空輸された。

1964年10月10日、皇居桜田門を出発した聖火

1964年10月10日、皇居桜田門を出発した聖火

そこから日本本土の聖火リレーが始まった。聖火のルートは、鹿児島県、宮崎県、北海道の3つに分かれ、北海道から出発した火は青森県でさらに太平洋側と日本海側に分かれる合計4ルートで東京を目指した。開会式の前日にあたる10月9日に東京の皇居前で4つの聖火が合流し、翌日10月10日に国立競技場へと運ばれた。

中東から東南アジアを通り、台北から沖縄へ向かう国外ルートを考案したのは、当時の組織委員会事務総長であった田畑政治。彼がオリンピック招致時に「アジアのオリンピックとして開催する」とアジア各国に宣言して東京への投票を依頼したこと、そして太平洋戦争で日本が被害をもたらしたアジア諸国への謝罪行脚の意味が、このルートにはこめられていた。

国内では高校生を中心とした10万人を超えるランナーが聖火を運んだ。

開会式聖火台に点火した最終ランナーは、1945年8月6日、広島に原爆が投下された日に広島県三次市で生まれた19歳の坂井義則。聖火最終ランナーが若者に任されたのも、アメリカの悪感情をあおるという批判を跳ね返して原爆投下日に生まれた最終点火者が選ばれたのも、田畑の強い意向が活かされたものだった。

1968年メキシコシティ大会では、コロンブスの新世界発見航路をたどるルートで実施された。ギリシャからコロンブス上陸の地であるバハマのサンサルバドルに到着した聖火は、17人の水泳選手によるリレーなどを経てメキシコシティに到着。聖火台への最終点火者は、初めて女性のエンリケタ・バシリオが選ばれた。

1972年ミュンヘン大会の聖火はギリシャを発った後、過去の冬季オリンピック開催地であるオーストリアのインスブルックとドイツのガルミッシュパルテンキルヘンを経由してミュンヘンに到着した。開会式では、最終点火者のギュンター・ツォーンが、アフリカ、アメリカ、アジア、オセアニアというヨーロッパ以外の4大陸のランナーを伴って走った。このときのアジアのランナーは、3年前のメキシコシティオリンピックのマラソンで銀メダルを獲得した君原健二である。

1976年モントリオール大会の聖火は、オリンピアからアテネに到着した後、イオン化された粒子を第1回アテネ大会の会場だったパナシナイコスタジアムからカナダのオタワまで衛星を介して送り、オタワで放物面鏡が反射したレーザー光線で炎におこすというユニークな手段を使用した。聖火はその後も船や車、徒歩、自転車、カヌーなどさまざまな手段でカナダ国内を運ばれ、オリンピックスタジアムに届けられた。

1980年モスクワ大会の聖火は、ブルガリアで主要な記念碑やブルガリア初の宇宙飛行士ゲオルギ・イワノフの住居を通るなど、89の都市と村を巡り、モスクワに到着。最終点火者はバスケットボール選手のセルゲイ・ベロフ。

1984年ロサンゼルス大会のジーナ・ヘンフィル

1984年ロサンゼルス大会のジーナ・ヘンフィル

1984年ロサンゼルス大会では聖火がアテネから空輸され、アメリカ国内ではニューヨークからリレーを開始。ジェシー・オーエンスの孫娘であるジーナ・ヘンフィル、ジム・ソープの孫であるビル・ソープ・ジュニアの2人がリレーをスタートさせた。オーエンス、ソープはともに、金メダルを獲得したにもかかわらず差別に苦しんだ黒人選手である。その後、アメリカの東西を横断した聖火は、開会式で再びジーナ・ヘンフィルの手に戻り、1960年ローマ大会の陸上十種競技金メダリストのレイファー・ジョンソンによって聖火台に点火された。ジョンソンは1960年ローマ大会で、黒人選手として初めて開会式で旗手を務めたアメリカ選手である。

1988年ソウル大会では、聖火はアテネからバンコクを経由して韓国の済州島に降り立った。国内のリレーは2人の少年少女によってスタート。1988年生まれの12人の赤ちゃんをもつ母親たちの手でソウルに到着した。開会式では1936年ベルリン大会のマラソンで日本選手として金メダルを獲得した孫基禎が、最終聖火ランナーのひとりとなった。

1992年バルセロナ大会。聖火はオリンピアからアテネに運ばれ、ギリシャ最大の港・ピレウス港からスペイン海軍のフリゲート艦にのせられた。スペインでは、かつて地中海貿易の拠点となったカタルーニャ海岸のアンプリアスに到着。開会式では、パラリンピックのアーチェリー選手、アントニオ・レボージョが、聖火のついた矢を放って聖火台に点火した。

1996年アトランタ大会の聖火は、オリンピック大会100周年を祝い第1回アテネ大会が行われたパナシナイコスタジアムに点火された後、空路アテネを発ってロサンゼルスに降り立った。過去2回(1932年大会と1984年大会)のロサンゼルス大会のメインスタジアムとなったメモリアルコロシアムを起点に、アメリカ国内のリレーをスタートさせた。聖火はアリゾナからグランドキャニオン、ラスベガスを経由し、ソルトレイクシティ、デンバー、カンザスシティ、オクラホマシティ、ダラスなど、80以上の都市をまわってアトランタに到着した。開会式では、パーキンソン病を患うモハメド・アリがふるえる手で聖火台に点火した。

2000年シドニー大会で聖火台に点火したキャシー・フリーマン

2000年シドニー大会で聖火台に点火したキャシー・フリーマン

2000年シドニー大会の聖火は、まずアテネから太平洋のグアムに運ばれた。そこから、パラオ、ミクロネシア、ナウル、ソロモン諸島、パプアニューギニア、バヌアツ、サモア、クック諸島、トンガ、ニュージーランドなど太平洋の国々を経由し、グレートバリアリーフでの史上初めての「海中リレー」を行った。オーストラリア大陸内での第一ランナーは先住民のアボリジニである1996年大会女子ホッケー金メダリストのノバ・ペリスで、ウルル(エアーズロック)から出発した。最終点火者のキャシー・フリーマンもアボリジニの女性アスリート。この大会の陸上女子400mでは金メダルに輝いた。

2004年アテネ大会では、世界5大陸の連帯を聖火リレーで表現するため、ギリシャから5大陸すべてを回ってギリシャに戻る「国際聖火リレー」が実施された。アテネからまずシドニーに向かい、そこから78日間をかけて27か国34都市をリレー。ヨーロッパ主要都市、南北アメリカではニューヨーク、ロサンゼルスなど7都市、アフリカではカイロとケープタウン、オーストラリアではシドニーとメルボルン、そしてアジアでは東京、ソウル、北京、デリーとリレーされた。聖火ランナーには福原愛、長嶋一茂、サッカーのペレや陸上のカール・ルイスなど有名アスリートが参加。その後ギリシャに戻った聖火は国内を36日間リレーされ、開会式で聖火台に点火された。

2008年北京大会で、アテネを発った聖火はいったん北京に運ばれた後、シルクロードに沿ってアジアを中心に回りながら4年前の大会と同様、世界5大陸でリレーを実施。しかし、当時中国政府が行っていたチベット民族への弾圧や言論統制への抗議として各地で妨害活動がおこなわれ、大きな混乱が生じた。日本では長野で機動隊に囲まれながらリレーが行われた。この混乱が原因となり、IOCはこれ以降の大会での国際聖火リレーを禁止した。

2012ロンドン大会。イギリス国内での聖火リレーはコーンウォールからスタートし、ウェンロック、ストーンヘンジ、ウィンザー城、ドーバーなどを経由し、イギリス空軍のヘリコプターによってロンドンに運ばれた。開会式では16歳から19歳までの7人のアスリートが最終点火者となった。

2016年リオデジャネイロ大会の聖火は、スイスのジュネーブとローザンヌを経由してブラジルに入り、国内ではイグアスの滝などの名所を含む300以上の都市や町を通過。人口の90%が沿道に見に来ることができるルートを走って、開会式会場のマラカナンスタジアムに入った。最終点火者はバンデルレイ・デ・リマ。2004年アテネ大会の男子マラソンで銅メダルを獲得し、同年、ブラジル最優秀スポーツマン賞を受賞している。

1936年ベルリン大会でナチスが始めた聖火リレーは、1948年ロンドン大会からは平和の象徴として生まれ変わった。現在では、開会式における聖火台への点火とともに、オリンピックの美的価値を高め、大会に華を添える存在として、大きな意味をもつようになっている。

関連記事

スポーツ歴史の検証
  • 大野 益弘 日本オリンピック・アカデミー 理事。筑波大学 芸術系非常勤講師。ライター・編集者。株式会社ジャニス代表。
    福武書店(現ベネッセ)などを経て編集プロダクションを設立。オリンピック関連書籍・写真集の編集および監修多数。筑波大学大学院人間総合科学研究科修了(修士)。単著に「オリンピック ヒーローたちの物語」(ポプラ社)、「クーベルタン」「人見絹枝」(ともに小峰書店)、「きみに応援歌<エール>を 古関裕而物語」「ミスター・オリンピックと呼ばれた男 田畑政治」(ともに講談社)など、共著に「2020+1 東京大会を考える」(メディアパル)など。