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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

ブラジルのスポーツクラブ

~エスポルチ・クルービ・ピニェイロス~ 前編

2017.10.25

ブラジルのスポーツクラブ ~エスポルチ・クルービ・ピニェイロス~ 前編

ブラジル経済の中心地サンパウロの南西部に、2016年リオデジャネイロ・オリンピック(以下:2016年リオ大会)に参加した地元ブラジル選手団456人の14%強に相当する65選手を、パラリンピックに2選手を送り出し、合わせてメダル6個を獲得した総合スポーツクラブがある。19世紀末にドイツ人移住者が創設した「エスポルチ・クルービ・ピニェイロス(Esporte Clube Pinheiros)」(以下:ピニェイロス)である。

約17万㎡(東京ドームの3.6倍強)の広大な敷地に、陸上競技用のトラック、サッカーグラウンド2面、テニスコート20面、室内プールと飛込競技もできる屋外プール、室内体育館、多目的屋外コート、トレーニングジム、更衣室、大食堂、ロッカールーム、大講堂(兼イベント会場および映画館)、パーティ会場、託児所(会員がピニェイロス内で活動している間に幼児の面倒をみている)、ミニ動物園などを備え、約4万人の会員に35種目のスポーツ(うちオリンピック種目は21、他にフットサル、フットバレー、カポエイラ、フィットネスなどがある)と13種類のアクティビティ(ボウリング、ビリヤード、チェス、ヨガなど)をプロのコーチや専門家の指導を受けながら楽しむ機会を提供している。それと共に、トップアスリートと事実上のプロ契約を結んでキャリアを支援し、将来のトップアスリートを目指す若手選手も育成しており、さらに、男子バスケットボールと女子バレーボールのプロチームも保有している(いずれも国内トップリーグに所属)。ピニェイロスは、一般市民のためのアマチュア部門と、世界のトップを目指すアスリートのためのプロ部門が共存する、南米最大の総合スポーツクラブである。現在、約2,000人の有給職員がいるが、会長以下の役員はすべて無給で、他に職業をもっている。

ピニェイロスのプール

ピニェイロスのプール

ピニェイロスの体育館(講道館):写真奥の壁中央には嘉納治五郎の写真が飾られている

ピニェイロスの体育館(講道館):写真奥の壁中央には嘉納治五郎の写真が飾られている

ピニェイロスが創立されたのは1899年で、118年の歴史を誇る。ハンブルク出身のドイツ人でサッカー愛好者だったハンス・ノビリングが、1897年に19歳でサンパウロへ渡り、2年後、ドイツ人移住者とその子弟の娯楽と親睦のために、ピニェイロスの前身となる「スポルチ・クルービ・ジェルマニア(ジャーマン・スポーツクラブ)」を設立した。当初はサッカー、陸上競技のほか、当時敷地内を流れていた川でボートと水泳を楽しんでいた。

1902年に創設された「サンパウロ・サッカーリーグ」(当時はアマチュア)には初年度から参加し、ピニェイロスは1905年と1915年に優勝した。ブラジル代表のエースストライカーだった、伝説の名選手アルトゥール・フリーデンライシが所属したこともある。しかし、1933年に始まったプロリーグには加わらず、この頃から総合スポーツクラブとしての道を歩み始め、他国からの移住者や地元の富裕層にも門戸を開き、多彩なスポーツと娯楽を楽しめる体制を整えていった。

ピニェイロス創設者であるハンス・ノビリングの写真:ピニェイロス内のミュージアムに展示されている

ピニェイロス創設者であるハンス・ノビリングの写真:ピニェイロス内のミュージアムに展示されている

1939年に第二次世界大戦が始まり、1942年8月にはブラジルが枢軸国側に宣戦布告した。これにより、政府が国内のスポーツクラブに対し枢軸国を連想させるフレーズを含む名称を禁じる通達を出したため、スポルチ・クルービ・ジェルマニアも敷地がある地区名(ピニェイロス)を使った現在の名前に改称した。以来、ドイツ人らしい質実剛健の気風を残しながらも、ブラジルらしい自由闊達さを取り入れたクラブとして発展していった。スポーツに熱心な会員が増え、やがて国内トップレベルのアスリートが出現すると、外部から経験豊かなコーチを招いて強化に本腰を入れるようになった。

1936年ベルリンオリンピックの走高跳に、はじめてピニェイロス所属の選手が参加した。以来、現在に至るまですべての夏季オリンピックに選手を送り込んでいる。

1960年ローマ大会の水泳男子100m自由形で、マノエウ・ドス・サントスがピニェイロス所属選手として初のメダル(銅)を獲得、陸上競技男子三段跳のジョアン・カルロス・デ・オリベイラは、1976年モントリオール大会と1980年モスクワ大会でいずれも銅メダルを手にした。1984年ロサンゼルス大会では、男子柔道95kg級でドグラス・ヴィエイラが銀メダルを獲得、男子水泳のグスタヴォ・ボルジェスは、1992年バルセロナ大会の100m自由形で銀メダル、1996年アトランタ大会の200m自由形で銀メダルと100m自由形で銅メダルを勝ち取った。2008年北京大会では、セザール・シエロが男子50m自由形にてオリンピック記録を更新して初の金メダルをもたらし、100m自由形でも銅メダルを手にして、クラブ関係者を熱狂させた。2012年ロンドン大会では、男子柔道100kg超級でラファエル・シウヴァが銅メダルを手にした。

体操のトレーニングの様子:充実した設備が整っている

体操のトレーニングの様子:充実した設備が整っている

開催国となった2016年リオ大会では、男子柔道100kg超級のシウヴァが2大会連続の銅メダルを、男子体操種目別ゆかで日系選手アルトゥール・オヤカワ・マリアーノが日本の白井健三(4位)、内村航平(5位)に競り勝って銅メダルを獲得した。また、パラリンピックではアンドレ・ブラジルが男子水泳で銀メダル2個、銅メダル2個を手にした。オリンピックとパラリンピックに国内スポーツクラブの中で圧倒的に多い67選手を送り込み、6個のメダルを獲得した実績が高く評価され、ピニェイロスはブラジル・スポーツクラブ委員会から2016年度の最優秀スポーツクラブに選出された。

オリンピックでは、過去19大会で12種目に延べ198選手を送り出し、金メダル1個、銀メダル3個、銅メダル8個の計12個を(これはブラジル全体の総メダル獲得数の約10%を占める)、パラリンピックでは過去2大会で3種目に延べ5選手を送り、金3個、銀4個、銅2個の計9個のメダルを獲得している。

レポート執筆者

沢田 啓明

沢田 啓明

Sports Journalist
Partner Fellow, Sasakawa Sports Foundation