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スポーツ 歴史の検証

次世代の架け橋となる人びと
第57回 支える「みんな」が満足できるパラリンピックに
マセソン 美季
マセソン 美季

アイススレッジスピードレースの日本代表として出場した1998年長野パラリンピックで、金3、銀1の計4個のメダルを獲得し、日本のパラリンピアンの礎を築いたマセソン美季さん。

大学卒業後は、「障がい者スポーツの先進地」である米イリノイ大学に留学し、競技力向上を目指す傍ら、指導者としての専門知識を学びました。その経験を活かし、現在は住まいのあるカナダと日本を行き来しながら、「パラリンピック教育」に奔走しています。

自らパラリンピックを経験し、引退後も従事してきたマセソンさんに、2020年東京パラリンピックのあるべき姿、そして日本と海外との障がい者スポーツ事情の違いについてうかがいました。

聞き手/山本浩氏  文/斉藤寿子  構成・写真/フォート・キシモト





アクシデントがきっかけとなったアイススレッジスピードレース



リレハンメルオリンピックのISSに出場した土田和歌子(1994) リレハンメルオリンピックのISSに出場した土田和歌子(1994)
—– マセソンさんと言えば、「松江(旧姓)美季」時代、1998年長野パラリンピックでの活躍があげられます。
マセソンさんが3つの金メダルを獲得したアイススレッジスピードレース(スケート)は、1994年リレハンメル大会で初めてパラリンピックの正式競技となったわけですが、当時はこの競技をご存知でしたか?

私は、大学1年だった1993年に交通事故に遇って、入院中にリレハンメルパラリンピックのことを知りました。実は偶然、私の主治医の先生が、当時スピードレースで活躍していた土田和歌子ちゃんの主治医と同じ方だったんです。
それで先生から「ちょうど美季と同じくらいの子が、今度パラリンピックという大会に出るんだよ」というのを聞いていました。

—– 当時は、パラリンピックの報道というのはほとんどなかったですよね。

ほとんどありませんでしたね。新聞に小さい記事が出ていればいい方で、それもスポーツとしての扱いはまったくなかったですからね。
 
—– 初めてアイススレッジスピードレースを見た時には、「これだ!」という感じでしたか?

いえ、正直そんなふうには思いませんでした(笑)。
当時は、1998年に長野パラリンピックの開催が決まっていて、大会に向けて選手を増やさなければいけなかったんです。ちょうど今、2020年東京に向けて選手発掘をしているような感じですよね。特に日本では冬季競技の競技人口が少なかったので、あちこちで発掘事業が行われていたんです。
私もケガをする直前まで柔道をやっていましたので、スポーツをする体も根性もあるだろうというふうに思われたんでしょうね。「やってみないか」と声をかけられました。



長野オリンピックISS1500mでも金メダルを獲得(1998) 長野オリンピックISS1500mでも
金メダルを獲得(1998)
それで、まずは富士急ハイランドのリンクで練習をしている所に見学に行ったのですが、もう寒くて寒くて(笑)。
それまでスケートと言っても、ちょっと神宮球場のリンクに行って、遊んで帰ってくるというような感じでしたから、防寒をしていくという発想が全くなかったんです。だから寒くて仕方ないし、ただぼーっと練習を見ていてもつまらないしで、本気で「帰りたい」と思っていました。でも、帰るわけにはいかないので、じゃあ体を温めるにはどうしようかと。もう動くしか選択肢がないんですよね。

それで特にやりたかったわけでもないのに、監督に「見ているだけではもったいないので、ぜひ私にもやらせてください!」と頼み込んだんです(笑)。そしたら「そうか。じゃあ、やってみろ」ということになって、用具を貸してもらってやってみたんですね。そしたら、全然できないんです。それまで私にとって、スポーツというのはそれほど頑張らなくてもできてしまうものでした。走れば速いし、ボールを投げれば遠くまで飛ぶしで、体育の授業はいつも目立つ存在だったんです。
ところが、アイススレッジは、真っすぐ滑ろうとしても、すぐに転んでしまって進むことさえもできないわけです。それで、もう悔しくて、一生懸命に練習しました。

そしたら2時間くらいの練習が終わる頃には、なんとか転ばずに滑れるようになったんですね。それで「見てください!こんなに速く滑れるようになったんですよ!」と言って、みんなの前で思い切りスピードを上げて滑ったんです。そしたらみんなが「うわぁー」って言い始めて、最初は「え!?何?」と思っていたんですけど、そのうちに気付いたんです。「あ、私、止まり方知らないんだ」って(笑)。

野外のリンクだったので、壁で仕切られているのではなく、リンクの先はアスファルトになっていたんです。それでそのままリンクから勢いよくアスファルトに出てしまって、1本20万円もするスケートの刃を、見事にボロボロにしてしまいました(笑)。
自分の中では「もう二度とやるもんか」と思っていたのですが、帰りがけに監督に「オマエ、この刃がいくらするか知っているか?もう、このままやめるわけにはいかないよな(笑)」って言われて、思わず「はい」と言ってしまったのが、スピードレースをするきっかけでした。


G7伊勢志摩サミットの関連イベントにて(2016) G7伊勢志摩サミットの関連イベントにて(2016)
—– それまで車椅子スポーツはされていなかったんですか?

最初に「やっぱりスポーツっていいなぁ。私も何かやりたいな」と思ったのは、車椅子バスケットボールでした。入院中、施設内の体育館でプレーしている姿を見て、「あぁ、かっこいいなぁ」と。それまで障がい者にはネガティブな印象しかなく、私も車椅子で生活すると、周りの人にはネガティブなイメージで見られるようになるのかと思うと、それが辛かったんです。

でも、彼らを見て「あ!あんな人たちもいるんだ!私もかっこいい障がい者になればいいんだ」と、嬉しくなったのを覚えています。それで、何かスポーツをやりたくて、「一人でもやれるスポーツはないかなぁ」と探していた時に出合ったのが車いす陸上でした。何度かハーフマラソンや大分国際車いすマラソン(ハーフの部)などの大会にも出て、ある程度の成績も出していました。それが長野パラリンピックの関係者の目に留まったのだと思います。

—– 陸上をやっている時は、パラリンピックを目指そうというお気持ちはあったんですか?

はい。いつかはパラリンピックに出てみたいとは思っていましたし、おそらく続けていれば狙えるだろうという位置にはいた選手だったと思います。

 

パラリンピック直前、突然の「開花」



ロンドンパラリンピック閉会式、パラリンピック旗の引き渡し(2012) ロンドンパラリンピック閉会式、
パラリンピック旗の引き渡し(2012)
—– 実際に、スピードレースでパラリンピックを目指すことになったわけですが、練習はどこでどんなふうにされていたんですか?

私は東京に住んでいたのですが、練習ができるのは山梨か長野だったんです。だから日中は都内の大学に行って、夜中に自分で車を運転して山梨か長野に行って練習をして、また自宅に戻って、明け方少し寝て、また大学に行って……というのを週に3回ほどやっていました。そのほかの日は、陸上のレーサーに乗ってロードワークでスタミナをつけたり、ウエイトトレーニングしたりしていました。

—– そんなハードな生活を続けられたということは、やっていくうちにスピードレースが面白くなってきたんでしょうね。

うーん、面白くなってきたというよりも、初めてできなかったスポーツだったので、ある程度、自分が納得するところまでできるようになりたいという気持ちが強かったですね。そうしてやっているうちに、世界選手権に出られるかもしれないという話を聞いて、「じゃあ、もっと頑張ろう」と思ったりして、少しずつのめりこんでいった感じでした。


マセソン美季インタビュー風景 インタビュー風景
—– 生まれつきの負けず嫌いが発揮されたと。

負けず嫌いと、頑固さですね(笑)。

—– 初めて出場したレースのことは覚えていますか?

覚えています。国内大会のジャパンパラで、500mと1000mに出場したのですが、結果は良くありませんでした。隣のレーンの選手が少しどころか、ずっと前を行くような感じでしたから、「惨敗」でした。

—– それでも続けられたのは何があったからだったんでしょうか?

悔しかったからだと思います。それとその時、自分がトップギアで走っていれば、「あぁ、これはかなわないな」と思って諦めたかもしれませんが、ギアが上がりきらずに力を出せないまま終わってしまったというふうに感じていたんです。

 
—– 500m、1000mといえば、その後、長野パラリンピックで金メダルに輝いた種目ですから、当時から得意としていたんでしょうね。

いえ、実は私はもともと短距離を得意としていたんです。



インタビュー風景 インタビュー風景
—– それが長野では、500、1000、1500mという種目でいずれも金メダル。ご自身が開花したというのは、いつ頃だったのでしょうか?

長野の直前でした。パラリンピックに向けての最終合宿で、コーチが「あれ?」って驚くほどタイムが伸びたんです。なぜ、そこで開花したかは、自分でもちょっとわからないですね。それこそ、まさに「ある日、突然」という感じでした。ゾーンに入ったのかもしれませんね。

自分でも滑っていて「あれ、何か今までにないくらいいい感じだな」というのは感じていました。ライン取りや重心の移動、スピードの上げ下げなど、すべてが自分が思い描いていた通りにできるようになっていたんです。

—– じゃあ、自信を持ってパラリンピックに臨んだわけですね。

いえ、国内では良くても、世界でどれほどなのかは全くわからなかったので、正直、どういう結果が出るのかは予測できていなかったんです。

 

長野オリンピックISS1000mで金メダル
を獲得し声援に応える(1998) 長野オリンピックISS1000mで金メダル
を獲得し声援に応える(1998)

夢の中ですりかわった銀メダリストから金メダリストへ


—– 当初、パラリンピックでメインとしていた種目は短距離だったんですか?

はい、そうです。周囲も自分も、「メダルを取れるとすれば、100mだろうね」という感じでした。

—– 注目度はどれくらいだったんでしょうか?

私はほとんど注目されていない選手でした。それこそ、開会式の映像を見ると、私なんかは顔が切れたところで終わって、すぐに和歌子ちゃんのアップになる、みたいな感じでしたから(笑)。
練習の時も、カメラマンに「ちょっと、そこの黄色いシャツの子、どいて!」と言われたりして「どいてじゃないでしょ。こっちだって、練習しているだから!」なんて、心の中では思ったりしてました(笑)。でも、そんなんだったからこそ、気持ち的に楽だった部分はあったと思います。
 



長野オリンピックISS500mで金メダルを獲得し声援に応える(1998) 長野オリンピックISS500mで金メダルを獲得し声援に応える(1998)
—– いざ、本番を迎えて、コンディションはどうだったんですか?

とても良かったと思います。ただ、いざとなったら、やっぱり緊張したんでしょうね。メインだった100mは、競技初日の1レース目だったのですが、スタート地点について、そこからどうやってゴールしたのか、レース中のことは全く記憶にないんです。それまで一度も緊張なんかしたことなかったのに、初めて緊張したのが、パラリンピックのレースでした。ずっと1年以上もかけて、100mのたかだか20秒ほどのことにフォーカスして、「こういうふうにスタートして、ここではこういう滑りをして、こうゴールする」ということをイメージしながらメンタルトレーニングなんかもしていたんです。それなのに、気付いたらゴールしてしまっていて、「あれ?終わってる……。もう一度レースさせて!」と思いました。

—– 後で自分の滑りを映像で見て、どうだったんですか?

選手村に帰ってから映像を見たのですが、決して悪くない滑りでした。ずっと練習してきて体に染み込んでいたものを自然と出すことはできていたなと。でも、その染み込ませたものを操るはずだった自分自身が、その場にいなかったという感じでした。何より悔しかったのは、表彰式だったんです。金メダルを取ったノルウェーの選手が、国歌を歌いながら、私の方を見て、にんまりと笑ったんです。もう、それが悔しくて悔しくて(笑)。「こんなにも、金と銀とでは差があるんだなぁ」と思いました。


長野オリンピックアイススレッジスピードスケート(ISS)500m。会場に入場。(1998) 長野オリンピックアイススレッジスピードスケート
(ISS)500m。会場に入場(1998)
—– その後、3種目残っていたわけですが、すぐに気持ちの切り替えはできましたか?

その日、500mのレースも控えていたんです。でも、100mの表彰式を終えて控え室に戻ったら、みんなから「お疲れさん。あとは気楽にいけばいいから」と言われました。私自身も「もう戦いは終わった。あとは楽しむだけ」みたいな気持ちになっていました。500mのレースまでは2、3時間あって、他の選手たちはウォームアップをしたり音楽を聴いて気持ちを高めたりと、レースに向けての最終調整をやっているのに、私はそこでお昼寝をしたんです(笑)。



リオデジャネイロパラリンピック選手村にて。(前列右。後列左は山脇JPC委員長)
(2016) リオデジャネイロパラリンピック選手村にて。
(前列右。後列左は山脇JPC委員長) (2016)
—– 横になっていただけではなくて、本当に眠ったんですか?

はい、ぐっすり眠りました(笑)。トレーナーが「時間だから起きなさい!」とあわてて呼びに来るまで。でも、私にとってはそのお昼寝が良かったんです。というのも、実際のレースとは違って、思い描いていた通りのレースをして金メダルを取った夢を見たんです。

ですから、起こされた時には、自分の中では「金メダリスト松江美季」になっていました。それで、「私は金メダリストだから大丈夫」という自信があって、すごく落ち着いて500mのレースに臨むことができたんです。100mの時には舞い上がっていたのが、500mのスタート地点に立った時には、どこに誰がいるかわかるほど周りが見えている状態でした。

そして、実際に理想通りの滑りができて、優勝したんです。あの100mで金メダルを取って、私ににんまりした彼女は3着だったので、日本の国歌を歌いながら、私も彼女を見ましたよ(笑)。さらに、さっきまで「そこの子、どいて」と言っていたカメラマンたちが、私を撮りに集まってきたわけです。もう、それで気持ちが一気に高まって、「あと2種目もいけるかもしれない!」と思いました。

—– 結果的に、その後の1000m、1500mも金メダルを取ったわけですが、何が要因していたと思いますか?

気持ちだったと思いますね。数時間や数日で、私の体力や技術的なことが上がるわけは決してないですから、おそらく気の持ちようだったんじゃないかなと思います。実際は、それだけの実力があったのに、自分で勝手に限界をつくってしまっていたのかもしれません。いずれにしても、気持ちって本当に大事なんだなぁと思いましたね。今、学校に講演にうかがう時は、この時の話をして、自分の力を出すのも殺すのも気持ち次第と伝えています。


イリノイで感じた日本との大きな違い



長野オリンピック会期中に行われた記者会見に臨む(1998)  長野オリンピック会期中に行われた記者会見に臨む
(1998)
—– パラリンピックで金メダルを獲得したことで、その後、周囲の反応も変わっていったのでは?

そうですね。それまではなかなか自分たちの話を聞いてもらえなかったのが、金メダルを取った途端に、私の話に耳を傾けてくれるようになったんです。だったら、これを活かさない手はないなと思いました。例えば、障がい者がスポーツをする環境が整っていないことなどを、私たちメダリストは伝えていけるんじゃないかと。「できる役割」が増えたんじゃないかなと思いました。

—– 競技自体の次へのモチベーションはいかがでしたか?

次に向けてという気持ちはありました。ただ、4年後の2002年ソルトレイクシティ大会では、残念ながらスピードレースは行われないということだったので、それならばと夏季競技である陸上に転向することに決めました。

—– 大学を卒業後は、アメリカのイリノイ大学に留学されました。

イリノイ大学は「障がい者スポーツの先進地」と言われていて、陸上競技と車椅子バスケのチームがあるんです。そこには全米の選手だけではなく、各国からパラリンピック代表に選ばれるようなエリート選手が集まってくる。そんな恵まれた環境は他にないので、行ってみたいと思いました。

—– 当時の将来設計はどんなものだったんですか?

競技者としていられる年数というのは、たかが知れていると思っていましたので、将来は指導者になることが自分の役割なんじゃないかなと考えていました。ですから、イリノイ大学で勉強をして、そこで得たノウハウを日本に持ち帰ってきたいと思っていました。



小学校低学年のころ母と4人姉妹(前列右から2番目) 小学校低学年のころ母と4人姉妹(前列右から2番目)
—– もともと「人に教える」という職業には関心があったんですか?

幼稚園の頃から「将来の夢」は教師でした。みんながおままごとをしている時に、私は先生ごっこをしていたんです(笑)。妹たちをつかまえては、黒板に字を書く真似をしたりして。それこそ、先生以外は考えたことがありませんでした。

—– 実際に、留学生活はいかがでしたか?

今考えると、自分でもよくやったなぁと思うのですが、まず最初にアパート探しをしなければいけなかったんです。最初の1週間だけホテルを取ってもらっていたので、その間に国際免許をアメリカの免許に切り替えるために現地の教習所で筆記と実技の試験を受けました。それから自分で運転をしてアパートを探したんです。それまで日本でも一人暮らしなんか一度もしたことがなかったですし、海外に一人で行くこともなかったのに、なぜか「できる」と思っていたんですよね(笑)。

—– ゼミの学生からも「留学したい」という相談を受けることがあるのですが、よくあるのが「英語が話せないから」という理由で断念するんです。マセソンさんは、そういう不安はなかったですか?

不安がなかったと言えば嘘ですが、どうしてもエリートアスリートたちと一緒に練習できる環境に身を置いて、さらに学業にも取り組みたいと思っていましたので、その気持ちが先行していました。言語は道具ですから、使い込めば上手くなります。不安は可能性を遠ざけてしまいますが、情熱があれば運を引き寄せて、可能性が広がると信じているので、「言葉ができない」という言い訳で諦めてほしくないなと思います。


インタビュー風景  インタビュー風景
—– 一方で、トレーニングはいかがでしたか?

大学のキャンパスの中で、誰もが自由に施設を使用していいんです。だから、私のように車椅子だからってできないことはなくて、ありとあらゆることが何でもできちゃう環境でした。日本では、障がい者がスポーツをする場合は、「障がい者スポーツセンター」を案内されますよね。ですから、私はイリノイ大学に行った当初、「私が使用できる障がい者スポーツセンターはどこにありますか?」って聞いたんです。そしたら「そんなものはない」と言われて驚きました。「この大学には、障がい者スポーツの選手たちがたくさんいるのに?もしかしたら、私の英語は通じていないんだろうか?」と思って、何度も聞いてみたのですが、誰に聞いても同じ答えが返ってくるんです。それで「じゃあ、とにかく私がトレーニングできるところに連れていってほしい」と言ったら、結局、ほかの学生たちがトレーニングをしているジムに案内されて、「あなたもここを使える」と言われたんです。「あぁ、そういうことか」と。逆に、大学の人には「なんで、わざわざ健常者と障がい者を分けるような面倒なことをするんだ?」と言われました。「あぁ、なるほど。こういうところから日本とは違うんだなぁ」と思いましたね。

—– イリノイ大学で学んだことで、印象に残っているものはありますか?

ある先生に「君は前例がどうだったということばかりを気にして、結論を導こうとしているけれど、それでは障がい者スポーツは無理だよ」と言われました「今までにない考え方でも結論を出せるような創造力とか適応力がないと、障がい者スポーツの指導者には絶対になれない」と言われたのは大きかったですね。それこそ障がいの種類や程度は千差万別で、車椅子に乗っているからこうというテンプレートもお手本もないということに気付かされました。

 



「Jキャンプ」は質のいい選手育成の「種まきの場」


G7伊勢志摩サミットの関連イベントにて。(左端。左から4人目は安部首相夫人。)(2016) G7伊勢志摩サミットの関連イベントにて。
(左端。左から4人目は安部首相夫人)(2016)
—– イリノイ大学を卒業後の2001年には、カナダのアイススレッジホッケーの選手だったご主人と結婚されました。

初めて主人と会ったのは、1998年長野パラリンピックの時だったのですが、その後に再会したんです。

—– その年に設立された車椅子バスケの「NPO法人Jキャンプ」にも関わったわけですが、これはどういうきっかけがあったのでしょうか?

イリノイ大学時代、夏休みには全米から来た100人単位の子どもたちのお世話をするという体験をしたんです。それこそ朝起こして身支度をさせて、というところから始まって、スポーツの指導をして、夜寝かせるところまで、すべて学生がやるんですね。それが1週間続くのですが、そうすると、親がいない生活の中で、子どもたちがガラリと変わるんです。来た時には、親に荷物を持ってもらっていたのが、帰る時には「自分で荷物を持つから手は出さないで」というふうに9、10歳の子どもたちが成長した姿を見せてくれるんです。

それを見た時に、「スポーツって、こんなにも人を成長させてくれるんだ、変えてくれるんだ」ということに気付いて、「これこそ、日本に必要だな」と思いました。それが「Jキャンプ」立ち上げのきっかけでした。

—– 立ち上げの頃の「Jキャンプ」では、どんなことが行われていたんですか?

私たちスタッフがお世話になったイリノイ大学のコーチや仲間たちに日本に来てもらって、キャンプをやったんです。最初は小さな規模で始まったのですが、参加した選手にとっては「あれ、スポーツってこんなふうに楽しんでいいものなんだ」「楽しいから上手くなるんだ」ということに、初めて気づかせてくれた場になったと思います。

—– プログラムの内容としては、どんなものだったのでしょうか?

基本を大事にするというコンセプトのもとで行なわれているキャンプなので、「チェアワーク」と言って、車椅子の操作から始まり、ボールのハンドリングといった基礎を徹底的に詰め込むんです。シュートまでもっていくフォーメーションもいくつかあって、それを試合の中で完全に再現できるようにしたりもします。

—– どのくらいの年齢の選手を対象としているんですか?

年齢で分けているわけではないのですが、ベテランではなく、車椅子バスケを始めて間もない選手を対象としています。

—– 最終日には、やはり見違えた姿が見られるのでしょうね。

一番は、みんなが笑顔でプレーするようになることですね。はじめ来た時には、みんな知らない人同士だったのが、各チームが団結していく姿が見られるのが、とってもいいんです。最後には選手から「こんなに楽しいとは思わなかった。また来たいです」というような言葉を聞くことが多いですね。

—– 帰る頃には、スポーツの楽しさを知って、生き生きとした姿が見られるわけですね。

はい。また、キャンプでは、楽しさを感じる中で、例えば水分補給の重要性を伝えるために、きちんと休む時間をつくったり、あるいは褥瘡を防ぐためにはどういうスキンケアをした方がいいのか、といった「スポーツ教育」も組み込まれているんです。質のいい選手に育っていってくれるような「種まき」の役割になっていると思います。


ムーヴメントに必要な教育プログラム



ロンドンパラリンピック閉会式(2012)  ロンドンパラリンピック閉会式(2012)
—– カナダに住んでいる中では、障がい者スポーツへの関わりというのはどんなふうに広がっていったのでしょうか?

カナダには、主に脊髄損傷者のスポーツ活動を支援している団体がありまして、そこで受傷して間もない方や、その家族に、どうすれば日常生活が楽しいと思えるかということに対して、スポーツの価値を伝え、スポーツを通して社会復帰してもらおう、というようなピアカウンセラー的な活動をしてきました。

—– そういう活動の中で、日本との違いを感じたことはありましたか?

もちろんカナダでも、最初は障がいということに対してマイナスに考えたり、スポーツに対してためらうような人たちもいますが、全体的には日本と比べて、障がい者と健常者との間にある「壁」がとても低い気がします。スポーツに対しても、すんなりと受け入れてくれるケースが多いですね。

例えば、一般のスポーツセンターに車椅子の子どもを連れて行って、「ここでスポーツをしたいんだけど」と言うと、そこにいるトレーナーたちが、特に専門の知識を持っていなくても、その子がやれることを一緒に考えてくれるんです。当然のように受け入れてくれる体質が、カナダにはしっかりと根付いているんですね。ですので、障がい者がスポーツをする初めの一歩が踏み出しやすい。また、特別な用具や器具を使ってスポーツをしていても、周囲が変な目で見るようなことはまずないので、心の負担が少ないと思うんです。

日本では、未だにジロジロと見られたりしますよね。そういう部分では、カナダとは大きく違うなぁと感じています。
 
—– 現在は、日本財団でプロジェクトマネージャーとして活動されているわけですが、主にどんなお仕事をされているのでしょうか?

パラリンピック・ムーヴメントの推進役です。さまざまなアイディアを出したり、一般の方々にわかりやすく説明をしたりして、パラリンピックに関心を持ってもらえるように引っ張っていく役割を担っています。

2020年東京オリンピック・パラリンピックに向けた競技会場の視察として、昨年のリオデジャネイロパラリンピックの期間中はずっと現地にいて、選手村に寝泊まりしながら各競技会場をまわりました。

そういった競技会場についても携わっていますが、なかでも今一番力を入れて手掛けているのは、「パラリンピック教育」の教材作りなんです。ですから「競技現場」よりも「教育現場」に行くことの方が多いですね。
 
「パラリンピック教材発表」記者会見にて。教材制作に携わる。(2017)  「パラリンピック教材発表」記者会見にて。教材制作に携わる。(2017)
—– 具体的にどんなことを手掛けているのですか?

全国の小中学校に配布する教材作りをしているのですが、それを使って、子どもたちにパラリンピックに対する知識を学んでもらって、興味を抱いてもらうというものです。その教材作りのきっかけとなったのが、2012年ロンドンパラリンピックなんです。

ロンドン大会では史上最多の270万枚ものチケットが完売したということが話題となりましたが、そのムーヴメントを呼び起こしたものが「ゲット・セット」というプログラムだったんです。実は、270万枚のチケットのうち、4分の3が家族連れでした。つまり、子どもたちが興味を持つと、その子どもたちが親を連れてくるわけですね。

親の世代でもパラリンピックを知らない人たちが多い中、子どもたちに教育をして、その子どもたちから親へと伝わる「リバース・エデュケーション」をすることで、空前のパラリンピック・ムーヴメントを起こしたのがロンドン大会だったんです。

また、昨年のリオデジャネイロ大会においても、「トランスフォーマー」という教育プログラムがあって、「パラリンピックを観に行こう」という流れの誘因となりました。そうしたことを2020年に向けて、東京でも行なっていこうと今、一生懸命にやっているところです。
 
—– ロンドンはもちろん、リオでのパラリンピックもとても盛り上がりましたよね。2020年東京大会では「さらに」ということだと思いますが、マセソンさんはどんな大会にしたいと考えていますか?

よく「チケットが完売して、競技場を満員にする」というふうに言われています。もちろんそれも大事だとは思いますが、私はパラリンピックに関わった人たちが、全員満足できる大会にしたいなと思っています。アスリートはもちろん、大会を支えた人たちも「やってよかった」という充実感を持ってもらえるようにしたいんです。そして、東京だけではなく、日本全体で盛り上がって欲しい。
それぞれ違う役割があって、それらが集まってみんなで支えて一つの大会を成功に導いた、ということを携わった人たち誰もが体感できたら「東京パラリンピックは素晴らしかったね。やって良かったね」というふうになると思うんですね。
もちろん、アスリートの活躍あってこその盛り上がりだと思いますので、選手たちにも頑張ってもらいたいと思いますが、それだけではなく、スポーツのフィールド以外の部分においても、みんなが「良かったね」と言えるような大会にしたいと思っています。



 


  • アイススレッジ・マセソン美季氏の歴史
  • 世相
       
1920
大正9
フィギュアスケート愛好者たちにより日本スケート会が結成
1924
大正13
スピード・フィギュア・アイスホッケーの全体的発展を目指して、全国学生氷上競技連盟が結成
1926
大正15
日本スケート会が国際スケート連盟(ISU)に加盟
1927
昭和2
学連OBを中心に大日本氷上競技連盟が創立
1928
昭和3
日本スケート会を中心に日本スケート連盟が結成
1929
昭和4
大日本氷上競技連盟と大日本スケート連盟が合流し、大日本スケート競技連盟を創立
1930
昭和5
大日本スケート競技連盟主催の第1回全日本選手権開催
1931
昭和6
大日本スケート競技連盟が大日本体育協会に加盟
1934
昭和9
第7回明治神宮体育大会にスケート競技が加えられ、スピード、フィギュアアイスホッケーの3競技を実施

  • 1945第二次世界大戦が終戦
1946
昭和21
大日本スケート競技連盟の戦後初の全国代表委員会を開催
連盟の構成単位を地域別から都道府県別に改組

  • 1947日本国憲法が施行
1950
昭和25
第1回切断者スキー大会、ドイツにて開催

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951安全保障条約を締結
  • 1955日本の高度経済成長の開始
  • 1964東海道新幹線が開業
  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1973
昭和48
日本身体障害者スキー協会設立

  • 1973マセソン美季氏、東京都に生まれる
  • 1973オイルショックが始まる
1976
昭和51
車いす使用者のためのチェアスキー開発が始まる
チェアスキー1号機の雪上テストが行われる

  • 1976ロッキード事件が表面化
  • 1978日中平和友好条約を調印
1980
昭和55
ヤイロパラリンピック開催
アイススレッジスピードレースが冬季パラリンピックにて初めて行われる
日本チェアスキー協会設立
第1回日本チェアスキー大会が開催される

  • 1982東北、上越新幹線が開業
1984
昭和59
インスブルックパラリンピックにて、日本選手団が初参加
チェアスキーがパラリンピックでデモンストレーションとして実施される

1992
平成4
ティーニュ/アルベールビルパラリンピック開催
アイススレッジスピードレースの開催が中断される

1993
平成5
日本で初のアイススレッジホッケー競技講習会が開催される
長野スレッジスポーツ協会発足

  • 1993 マセソン美季氏、交通事故で下半身不随となる
1994
平成6
リレハンメルオリンピック・パラリンピック開催
アイススレッジスピードレースが冬季パラリンピックの正式種目となる
1995
平成7
ジャパンパラリンピックアイススレッジホッケー競技大会が初開催される
アイススレッジホッケーのクラブチーム、「北海道ベアーズ」、「東京アイスバーンズ」が誕生

  • 1995マセソン美季氏、車いす陸上競技に出合う
  • 1995阪神・淡路大震災が発生
1996
平成8
アイススレッジホッケー世界選手権がスウェーデンにて行われる
日本代表は初参加し6位となる

  • 1997マセソン美季氏、長野パラリンピックのプレ大会のアイススレッジ3種目で上位入賞
  • 1997香港が中国に返還される
1998
平成10
長野オリンピック・パラリンピック開催
土田和歌子氏、アイススレッジスピードスケートにて金メダル2個、銀メダル2個獲得
アイススレッジホッケー日本代表、長野パラリンピックにて5位となる

  • 1998マセソン美季氏、長野パラリンピックに出場し金メダル3個、銀メダル1個獲得
      マセソン美季氏、毎日スポーツ人賞(感動賞)を受賞
1999
平成11
日本身体障害者アイススポーツ連盟スレッジホッケー委員会発足

  • 1999マセソン美季氏、東京ハーフマラソン車いす部門にて優勝
      東京学芸大学卒業後、イリノイ州立大学に留学
2001
平成13
日本身体障害者スキー協会、日本チェアスキー協会、日本障害者クロスカントリースキー協会の3団体を総括する日本障害者スキー連盟が設立

  • 2001マセソン美季氏、NPO法人Jキャンプを設立する(現在は名誉会員)
2006
平成18
日本身体障害者アイススポーツ連盟スレッジホッケー委員会解散
日本アイススレッジホッケー協会発足
2008
平成20
アイススレッジホッケー日本代表、アメリカ・マルボロ―世界選手権Aプールにて4位となる

  • 2008リーマンショックが起こる
2009
平成21
アイススレッジホッケー日本代表、チェコ・オストラバエ海選手権Aプールにて4位となる
2010
平成23
バンクーバーオリンピック・パラリンピック開催
アイススレッジホッケー日本代表、バンクーバーパラリンピックにて銀メダル獲得

  • 2011東日本大震災が発生
2013
平成25
アイススレッジホッケー日本代表、長野世界選手権Bプールにて2位となる

  • 2015マセソン美季氏、日本財団パラリンピックサポートセンターのプロジェクトマネージャーに就任




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