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始まった国立競技場の新たな歴史 Vol.2

明治神宮外苑という記憶

佐野 慎輔

明治神宮外苑という記憶

神宮外苑のいちょう並木と聖徳記念絵画館

神宮外苑のいちょう並木と聖徳記念絵画館

いまも都心に美しい緑を残す明治神宮外苑とは、そもそも何なのだろうか?

1912年7月30日、天皇睦仁親王(明治天皇)崩御。皇太子嘉仁親王が践祚され、年号が「大正」と改まった9月13日、旧青山練兵場で大喪の礼が執り行われた。東京市長の阪谷芳郎は岳父の渋沢栄一とともに「東京に陵墓を」と運動を始めていたが、明治天皇のご遺志は「京都」にあった。そこで方向転換、神宮を造営し、お祀りすることとした。

祈りの場としての明治神宮、および鎮守の森としての内苑、それとともに明治天皇の遺徳を偲び、明治を記憶に留める装置としての外苑造営が決まったのは1914年。内苑の場所は代々木御料地、外苑は旧青山練兵場とすると決定、両者は一対として裏参道(いまの北参道)で結ばれた。

内苑は国費、顕彰の場である外苑は全国からの寄付と勤労奉仕で造営された。「杜のスタジアム」が全国47都道府県の木を用いているのはまさに"記憶の発掘"と言えまいか。

その外苑に競技場建設を提案したのは嘉納治五郎。アジア初の国際オリンピック委員会(IOC)委員にして当時の大日本体育協会(現・日本スポーツ協会)会長である。

「明治天皇の如き偉大な、総ての国民が尊崇する其お方の記念のために出来た外苑において、年に1回位国民全体の競技大会が行われるようなことは結構なこと」

古くから日本には神社に相撲や演劇を奉納する伝統があり、明治天皇がスポーツの愛好家であったことにも言及している。阪谷は当時の日本にあって数少ない洋行組で、2度にわたって欧米を視察していた。憩いの場、教育の場としての公園に着目、日本YMCA幹部から米国の体育行政に関わる意見を聞き、競技場構想を練り上げたのである。

嘉納は、第2代大日本体育協会会長で日本人2人目のIOC委員となる岸清一や、東京高等師範学校の教え子にして日本初のオリンピアンである金栗四三とともに外苑予定地を視察。予定地の西北部、渋谷川沿いの窪地を競技場建設の候補地に推薦した。

建築家、小林政一が設計を担当し1919年8月に着工。途中、1923年の関東大震災の影響で工事は中断されたものの、内務大臣兼復興院総裁、後藤新平の鶴の一声で続行され、1924年10月25日、明治神宮外苑競技場が竣工した。同月30日には第1回明治神宮競技大会が開かれている。

当時、「東洋一」と称されたスタジアムは総工費726万円、5万人の観衆を収容した。鉄筋コンクリート製のメインスタンドは26段、1万5000の観客席を誇る。バックスタンドは土地の傾斜を利用した芝生席。スタンド建屋には事務室、選手控室、 記者室、食堂を完備し、掘り下げ式のグラウンド部分にはメインスタンド側に200メートルの直線コースと400メートルトラック。フィールドはサッカー、ラグビー、ホッケーでの使用も想定された。

明確だったグランドデザイン

メインスタジアムの中央席から正面に明治天皇を偲ぶ聖徳記念絵画館が仰ぎみられた。しかし、絵画館からは競技場がみえない造りになっている。外苑の中心はあくまでも絵画館で、言ってしまえば絵画館裏の円壇こそ、その芯である。明治天皇の大喪の礼の際の葬場殿址にほかならない。

競技場とともに関連団体の寄付、勤労奉仕によって野球場、相撲場(現・神宮第二球場)も造られ、スポーツコンプレックスとしての装いを整えていく。ちなみに明治神宮野球場のホームベースも絵画館を見据えていた。それこそ造営段階からのグランドデザインである。ザハ案が示された際、私が感じた漠とした不安・違和感はまさに、外苑造営構想に合致しているか否かが要因であった。「記憶の断絶」を恐れたと言い換えてもいい。

余談ながら、戦前、幻に終わった1940年東京オリンピック開催計画にあたり、大日本体育協会はここをメインスタジアムにしようと考えた。東京市は「臨海部の埋め立て地」案を主張。紛糾したあげく、駒沢に新競技場を建設することとなる。しかし、戦禍の拡大により、大会は返上。駒沢案も凍結された。

その後、スポーツの場としての本来の機能を失い、1943年10月21日、明治神宮外苑競技場が文部省学校報国本部主催の「出陣学徒壮行会」会場になったことはよく知られる。戦後は進駐軍に接収されて、「ナイル・キニック・スタジアム」を名乗り、1952年の接収解除後には保安隊(現・自衛隊)発足観閲式会場となった。

再びスポーツの場に戻るのは1958年、改築されて東京で開かれたアジア競技大会メインスタジアムとなって以来である。

1964年東京オリンピックのために改装された国立競技場の空撮(photo:フォート キシモト)

1964年東京オリンピックのために改装された国立競技場の空撮(photo:フォート キシモト)

明治神宮競技場は1957年に解体、翌年、総工費14億5000万円をかけて国立霞ヶ丘競技場が完成した。設計者の建設省技官、角田栄は外苑の景観を重視、高さを8メートルに抑え、メインスタンドからは絵画館を望むことができた。記憶は守られた。

1959年5月、1964年第18回オリンピックの東京開催決定に伴い改修工事が始まり、1963年10月に竣工。改修費約13億円は主にスタンド増設にあてられた。7万5000人収容、仮設席を加えると8万人となる大スタジアムはスタンドの外壁が23メートルにかさ上げされて、もはや絵画館は望めなくなった。"第1次記憶の断絶"であった。

  • 佐野 慎輔 佐野 慎輔 産経新聞客員論説委員
    笹川スポーツ財団 理事/上席特別研究員

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