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希望の道を進めるか、2020の聖火

佐野 慎輔(尚美学園大学 教授/産経新聞 客員論説委員/笹川スポーツ財団 理事)

ギリシャ・オリンピア市にあるヘラ神殿跡で行われた聖火採火式

2020年東京オリンピック競技大会の聖火は、無事に国立競技場の聖火台にたどりつくのだろうか。昨今の新型コロナウイルス感染の世界的な広がりに開催の「中止、延期論議」が起きているいま、息を凝らしながら見守るしかない。

3月12日、前例に則りギリシャ西方にあるオリンピアの遺跡、ヘラ神殿前で古代の巫女に扮した女優によって、太陽光を集めた凹面鏡から第32回大会の聖火が採火された。いつもなら見物の人々であふれる採火式。しかしこの日、立ち入りが許されたのはごく限られた関係者に過ぎなかった。

やがて桜をモチーフにした東京大会のトーチに聖火が移され、リレーがスタートした。第1走者は2016年リオデジャネイロ大会射撃の金メダリスト、ギリシャのアンナ・コロカキさん。史上初めての、女性による聖火第1走者である。古代オリンピックが開かれたスタディオン(競技場)を後にした聖火は、近代オリンピックを創始したピエール・ド・クーベルタンの心臓が納められた記念碑に詣でた後、第2走者となる2004年アテネ大会マラソンで金メダルを獲得した日本の野口みずきさんに引き継がれた。

2004年アテネ五輪女子マラソンで金メダルに輝いた野口みずきさんによるトーチ・キス(2020.03.12)

いつもの大会と変わらぬ光景、だが、鈴なりになるはずの沿道に人の姿は見えない。トーチからトーチに聖火を引き継ぐことを「トーチ・キス」という。このトーチ・キスが幾度も繰り返されてギリシャから日本に聖火が届く。そして、全国46都道府県を巡って、開催地・東京に届けられる手はずであった。

しかし、ギリシャ国内をめぐるリレーは中止された。トーチ・キスは濃厚接触になるとの判断だ。19日、日本からオリンピック3連覇をはたした男女ふたりのオリンピアン、柔道の野村忠宏さんとレスリングの吉田沙保里さんが参加し、1896年第1回近代オリンピックが開催されたアテネのパナシナイコ競技場で行われる予定の聖火引継ぎ式も見送りとなった。新型コロナウイルス感染拡大の余波である。

聖火が採火された同じ12日、スイス・ジュネーブでは世界保健機関(WHO)が感染の広がりを「パンデミック」と認定した。そして米国ワシントンで記者会見したドナルド・トランプ米大統領は「個人の見解だが」と前置きし「1年間、延期したほうがよいかもしれない」と語った。国際的な影響力を持つ人物の発言は瞬く間に世界中に報じられ、結果的に「中止、延期論」を煽る形となった。

大会組織委員会の森喜朗会長、東京都の小池百合子知事、橋本聖子五輪相、そして安倍晋三首相までもが「7月24日開催に変更はない」と改めて言明した。しかし、一向に論議は収束にむかわず、むしろ「延期は1年後か、2年後か」との議論が表にでている。

そうしたなか聖火は20日にアテネから空路、宮城県の航空自衛隊松島基地に到着。宮城、岩手、福島と2011年の東日本大震災でとりわけ大きな被害をうけた被災3県で2日間ずつ「復興の火」として展示され、26日、福島県の双葉、楢葉町に広がる「Jヴィレッジ」をスタートし全国をリレーされる。

国内第1走者は2012年ロンドン大会女子サッカー銀メダルの「なでしこジャパン」澤穂希さん。被災3県と複数競技種目の開催地である埼玉、千葉、神奈川、静岡の4県は3日ずつ、15日間かける開催都市・東京をのぞく39道府県はそれぞれ2日。計121日かけて全国をリレーされる。

しかし、それぞれの主要都市で華やかに実施されるはずの聖火を迎える歓迎式典、セレブレーションは規模の縮小を余儀なくされ、沿道での歓迎も「自粛」が呼びかけられている。いや、そのリレー自体が滞りなく実施できるか、保証はどこにもない。

1964年 東京オリンピックの聖火最終ランナーは、広島に原爆が投下された日に広島で生まれた坂井義則だった

私は前回1964年大会当時、小学4年生だった。住まっていた北陸の中規模都市にも聖火リレーの熱狂は届いた。自宅近くに住む慶應義塾大学剣道部に在籍していた人が聖火ランナーに選ばれて、彼が掲げるトーチに沿道で口をあんぐり開けて見入っていたことをいまも鮮明に覚えている。長じてオリンピックと関わりを持つようになったのは、あれが遠因であったのかもしれない。

市川崑監督のメガフォンになる記録映画『東京オリンピック』はそうした聖火リレーと沿道の群衆の興奮ぶりを余すところなく伝えてくれる。今回はもちろん当時とは意識も異なり、挙国一致のオリンピック・パラリンピック開催というわけにはいかないが、それでも聖火に託す思いは格別である。「復興五輪は政治利用」と批判する人もいる一方、大会を祈るような思いで待つ被災者も少なくない。

今回のオリンピックの聖火リレーのコンセプトは「Hope Lights Our Way/希望の道をつなぐ」である。

多くの人々が希望を託す聖火リレーに中止や中断があってはならない。しかし、WHOの「パンデミック」宣言、それに続く国際オリンピック委員会(IOC)トーマス・バッハ会長の「WHOの勧告に従う」との発言は何を意味しているのだろう。

オリンピック、パラリンピックは日本だけの大会ではない。世界206の国と地域がかかわる地上最大のイベントである。すべての国・地域から安心して参加できてこそ、オリンピックの精神に適う。「希望の火」はリレーされ、つながれていかなければならないが、冷静に対処しなければならない事態も起こりうる。ただただ、無事に走り継がれていくことを祈りたい。

  • 佐野 慎輔 佐野 慎輔   Shinsuke Sano 尚美学園大学 教授/産経新聞 客員論説委員
    笹川スポーツ財団理事/上席特別研究員
    報知新聞社を経て産経新聞社入社。産経新聞シドニー支局長、外信部次長、編集局次長兼運動部長、サンケイスポーツ代表、産経新聞社取締役などを歴任。スポーツ記者を30年間以上経験し、野球とオリンピックを各15年間担当。5回のオリンピック取材の経験を持つ。日本スポーツフェアネス推進機構体制審議委員、B&G財団理事、日本モーターボート競走会評議員等