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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

セミナー「子供のスポーツ」
スポーツの変革に挑戦してきた人びと
第86回
「スポーツ=学校教育」からの脱却に寄与したボウリング界

赤木 恭平

日本スポーツ界の発展に奔走され、日本オリンピック委員会(JOC)の名誉委員でもある赤木恭平さん。特にボウリングにおいては、世界テンピンボウリング連盟会長を務められるなど、国際的にも活躍され、国際オリンピック委員会(IOC)のファン・アントニオ・サマランチ元会長とも親しい間柄で知られています。

また、笹川スポーツ財団の設立にも深く関わられ、笹川スポーツ財団理事も務められました。現在は日本ワールドゲームズ協会会長を務めるなど、幅広い競技の普及・発展のために活動されています。今回は、赤木さんに今後のスポーツ界の進むべき道などをうかがいました。

インタビュー/2019年8月9日  聞き手/佐野 慎輔  文/斉藤 寿子  写真/遠藤 利明・フォート・キシモト

新スポーツの道を開拓したボウリングの存在

パッカード

パッカード

―― 赤木さんはレジャーとみられていたボウリングのスポーツ化をはじめ、日本のスポーツ界の変革、進歩にとってなくてはならない存在であることは周知のとおりですが、そもそもスポーツとの関りはどのようなことから始まったのでしょうか。

私は高校時代は柔道部に所属していました。ただ選手としてではなく、その頃からマネジメントの方に携わっていたんです。高校卒業後は1950年に早稲田大学に進学したのですが、いろいろなクラブに籍を置いていました。なかでも主に活動していたのは、自動車部。これは自動車の免許を取ることが目的で、実際に大学3年の時には大型免許を取得しました。また、慶應義塾大学の自動車部とは、よくラリーをしていましたね。当時はガソリンの供給が少なかった時代で、街ではタクシーやバスなども薪や木炭の釜を背負った自動車が走っていました。慶大はヨーロッパ製の高級車に乗っていましたが、我々早大はアメリカ製の12気筒エンジンの大きなパッカードに乗っていました。

青山にあった東京ボウリングセンター

青山にあった東京ボウリングセンター

―― 自動車部だった赤木さんが、ボウリングに関わるようになったきっかけは何だったのでしょうか?

私が大学3年だった1952年に国内初の民間のボウリング場である「東京ボウリングセンター」が青山にできました。ここはまだ手動式で、お客が倒したピンをレーンの裏手でピンボーイが手で並べていました。開場当初は会員制で会費も高く、当時ボウリングセンターによく来ていたのは、映画俳優などの裕福な方が多かったのですが、大学生だった私も何度か遊びには行ったことがありました。東京ボウリングセンターは、現在の秩父宮ラグビー競技場に隣接する土地に建てられましたが、実はそこは国有地であり、当時ボウリングがまだ社会的に十分に認知されていなかったこともあり、営業許可を得るのが大変だったようです。そこで、GHQ(連合国軍最高司令部)や全米ボウリング協会などの協力を得て、ようやく開場に至ったわけです。私自身は、大学卒業後は自動車メーカーに就職をしたので、しばらくボウリングとは無縁の状態でした。その後、ボウリングと関わりを持つようになったのは、東京オリンピックが開催された1964年に、当時の全日本ボウリング協会会長だった参議院議員の迫水久常氏、終戦時の内閣書記官長ですが、その迫水氏から「赤木くん、全日本ボウリング協会を財団法人にしたいから、君、手伝ってくれ」と言われたのが最初でした。そして1960年代後半になると、日本ではボウリングブームが巻き起こります。全国に次々とボウリング場がつくられ、最終的には4000カ所を超える数にまで膨らみました。そして1973年に財団法人になることが出来ました。

赤木恭平氏(インタビュー風景)

赤木恭平氏(インタビュー風景)

―― 政界の重鎮であった迫水氏と赤木さんは、どのようなお知り合いだったのでしょう?

私は岡山県出身なのですが、地元の高校時代の友人が議員の秘書をしていまして、その友人が東京都ボウリング連盟の会長を務めていたんです。その友人から「赤木、ちょっと手伝ってくれないか」と声をかけられたのがきっかけで、迫水氏からも依頼を受けたわけです。私たちが財団法人化と同時に、もう一つ目標としていたことがありました。それはボウリングを国民体育大会の実施競技にすることでした。そのために、まずは財団法人日本体育協会(現公益財団法人日本スポーツ協会)に加盟しようと。当時、日本体育協会に加盟するためには厳しい条件がありまして、47都道府県の3分の2の体育協会に加盟しなければ、許可されなかったんです。当時すでに47都道府県すべてにボウリング連盟がありましたが、それらをすべて各体育協会に加盟させるのに、結局約10年かかりました。財団法人化したのは1973年ですが、全日本ボウリング協会が日本体育協会への加盟が実現したのは1983年でした。国民体育大会の正式競技にするためには、もう一つ、前年の大会で必ず公開競技として実施されなければいけないとう不文律の条件がありましたので、まずは1987年の沖縄国体で公開競技として行い、翌1988年の二巡目の京都国体から正式競技となりました。

協会創立20周年記念祝賀会(後列右/1983年)

協会創立20周年記念祝賀会(後列右/1983年)

―― 各都道府県でボウリング連盟を体育協会に加盟するのに10年を要したということは、反対も含め、相当なご苦労があったのではないでしょうか。

当時は「スポーツ=学校体育」という考えが常識であり、スポーツが今とはまったく違う捉え方をされていました。そのためにレジャーとして考えられていたボウリングは、スポーツではない、という意見が大半を占めていたんです。そのために、なかなか各都道府県の体育協会がボウリング連盟の加盟に同意してくれなかったんです。ある県では、ボウリング場には必ず煙草の自動販売機があって、場内で自由に喫煙できることがスポーツとして問題だと指摘されました。そのために京都国体では正式競技とはなったものの、青年の部のみの実施でした。そこで、ボウリング場の経営者と話し合いを重ねました。経営者側からすれば当然「煙草が吸えなければ、客が減る。営業妨害だ」ということで最初は聞く耳を持ってくれませんでしたが、「これはボウリングのスポーツとしての価値を高めるためのことなので、協力してください」と説得をしました。例えば40レーンあったら半分の20レーンは禁煙にするとか、そういうことを提案したんです。その名も「スワン(吸わん)レーン」をつくろうと。

京都国体ボウリング競技会場に来られた皇太子殿下(現今上天皇/中央左)のお出迎え(右から二人目)(1988年9月)

京都国体ボウリング競技会場に来られた皇太子殿下(現今上天皇/中央左)のお出迎え(右から二人目)(1988年9月)

そういうことで全国のボウリング場にご協力をいただきまして、それでようやく1989年の北海道国体から少年の部も実施されるようになりました。いろいろと苦労することも多くありましたが、私としては新しいスポーツであるボウリングが、日本のスポーツ界の旧態依然の考え方を変えなければいけないという使命感がありました。それで、私も全国津々浦々を奔走しました。

最近では「eスポーツ」が登場して話題となっていますが、身体的な限界への挑戦というよりはエンターテインメント要素が多く含まれ、「これもスポーツなの?」という新しい競技がたくさん出てきて、新しい概念でスポーツを見られるようになってきたと思いますが、その最初のきっかけがボウリングが国体の正式競技となり、スポーツとして認知されたことにあったと思います。

後に国際卓球連盟の会長を務めた荻村伊智朗

後に国際卓球連盟の会長を務めた荻村伊智朗

―― ボウリング及び日本スポーツの発展のために奔走されてきた赤木さんは、1995年に全日本ボウリング協会の会長に就任されました。また、1992年に世界テンピンボウリング連盟の第一副会長に就任し、1995年からは会長を務められました。日本人が国際連盟(IF)のトップに就かれるというのは大変珍しいことだったと思います。

その通りです。日本人でIFの会長を務めたのは、日本発祥の柔道を除いて、それまで国際卓球連盟の荻村伊智朗会長しかいませんでした。その荻村さんも1994年にお亡くなりになられていたので、私が就任した時はIFの会長は私一人でした。当時、日本のIFに対する考え方はまったくの低調で、IFの会長や執行役員になろうという考えの人は、あまりいませんでした。なぜかというと、莫大な費用がかかるからなんです。当時、日本はアメリカに次いで2番目にボウリングの競技人口が多い国だからということで、私は1992年に第一副会長に就任しました。さらに1995年に会長に選ばれたわけですが、もちろんすべての理由ではないにしても、例えば日本で国際会議を開いた際には、費用を捻出して、それまでやっていなかった会議後の食事会を全日本ボウリング協会主管で開いたりしたことも、会長就任には少なからず関係していたとは思います。

FIQ(国際柱技者連盟/現:世界ボウリング連盟)総会に出席(中央/2011年)

FIQ(国際柱技者連盟/現:世界ボウリング連盟 国際オリンピック委員会が承認するボウリング競技の世界組織)総会に出席(中央/2011年)

JOCの理解が必要なワールドゲームズの価値

ジャカルタアジア大会ボウリング競技(2018年8月)

ジャカルタアジア大会ボウリング競技(2018年8月)

―― 現在、ボウリングはオリンピックの正式競技の採用を目指していますが、1988年のソウルオリンピックでは一度、ボウリングが公開競技として行われました。しかし、それ以来、オリンピックの舞台には上がれていない状況が続いています。

ソウルオリンピックで公開競技として実施できたのは、まずはアジア競技大会でボウリングが第7回大会(タイ)から正式種目となっていたことも大きかったと思います。それともう一つは私が当時のIOCのサマランチ会長と接する機会が非常に多かったというのもありました。なぜ、私が動いたのかと言いますと、オリンピックの開催都市が決定するのは開催の7年前ですから、正式競技にするためには早めに動かなければならないわけです。ところが、当時世界のボウリング界を牛耳っていたアメリカがまったく動こうとしなかった。そこで私が動くしかないということになったわけです。

それこそ、サマランチ会長が出席する理事会や総会がある時には必ず私も出席しまして、ご挨拶をしました。そうすると、サマランチ会長も「やぁ、ミスター・ボウリング」と言ってくれるようになりましてね(笑)。そうしたロビー活動もあって、ソウルオリンピックでは公開競技として実施されました。その後、今度は正式競技にしようということで精力的に動いたわけですが、最も大きなチャンスだったのは1996年アトランタオリンピックでした。

アトランタオリンピック開会式(1996年7月)

アトランタオリンピック開会式(1996年7月)

その4年前の1992年バルセロナオリンピックの時には、選手村の中にボウリングレーンを18レーンつくりまして、始球式の時にはサマランチ会長も選手村に来てくれました。サマランチ会長は、ボウリングに非常に理解を示してくれていたんです。次のアトランタオリンピックではテンピンボウリング発祥の国でありながらアメリカの組織が動かなかったのですが、なんとしても正式競技として実施したいということで、私は日本の業界とともに現地に行きました。市長から何から主要人物に全員に会って話をしたところ、非常にうまく話が通るようになりまして、途中までは順調に進められていたんです。世界テンピンボウリング連盟は6億円を用意しまして、「この土地にボウリング会場を建てよう」と見当をつけていた現地に視察に行くというところまでいっていました。
ところが市長が心臓病で倒れてしまいまして、代わって就任した次の市長に「財政が厳しいので、13億円を出してくれないか」と言われたんです。良く聞くと、アトランタにはキング牧師(マーティン・ルーサー・キング・ジュニア。アフリカ系アメリカ人公民権運動の指導者)の生家があって、アトランタオリンピックで予定していたマラソンコースをその生家前を通るコースに変更しなければならなくなった。アトランタがあるジョージア州もいくらか出してくれることになっているけれど、まだまだ資金が不足して困っているから、ボウリング場を建てることを許可するかわりに、その分も一部負担してくれないか、ということだったんです。会議で話し合いをしましたが、「いやいや、話が違う。それは無理だ」ということになって、その話は頓挫してしまいました。

長野オリンピック時に開かれたボウリング大会でのサマランチIOC会長(当時/1998年2月)左端が赤木氏

長野オリンピック時に開かれたボウリング大会でのサマランチIOC会長(当時/1998年2月)左端が赤木氏

―― いまや高齢者から子供たちまでプレーできるボウリングは国民スポーツといってもいいと思いますが、ボウリングをオリンピック競技の正式競技にするためには、今後、どんなことが必要になってくるでしょうか。

大きなチャンスは、2028年に開催が決定しているロサンゼルスオリンピックでしょう。ボウリングはアメリカが発祥の地で、世界最大の「ボウリング大国」なわけですから、やはりアメリカで行われるオリンピックで実施される可能性が高いと思います。1996年アトランタオリンピックでは、先述した通り、財政的な問題等も絡んできて、結局は正式競技に入れることができなかった。これは大失敗だったと思います。当時、私は世界テンピンボウリング連盟の第一副会長として、ジョージア州の知事にも、アメリカの主要銀行の頭取にも会って話を進めようとしましたが、結局、アトランタ市長が「13億」なんて破格の金額を言うものだから、何も進まなかった。やはり、アメリカのボウリング連盟が精力的に動いてくれないとというところはありますので、日本としては、どうアメリカにアプローチしていくか、早急に対策を練らなければいけないと思っています。

―― 赤木さんはボウリング競技を通して「第2のオリンピック」と言われている「ワールドゲームズ」にも、赤木さんは深く関わりを持ってこられました。また2018年より日本ワールドゲームズ協会の会長も務めておられます。ワールドゲームズの意義とはどんなところにあるでしょうか。

今、IOCが徐々に財政面の肥大化に歯止めをかけるなどの理由から、参加人数、競技数の制限など大会規模の縮小の道を進み始めていますが、そういう意味では、同じ4年に一度のワールドゲームズというのは、既存の施設を活用することを運営の基本にしているので、オリンピック・パラリンピックのいいモデルになると思います。国際ワールドゲームズ協会(IWGA、本部はスイス)は、IOCに承認された競技で組織されている団体ですが、1981年に第1回大会がアメリカ・サンタクララで開催されました。2001年には秋田で21世紀最初の第6回ワールドゲームズ大会が開催されましたが、それほど経費は膨らまず、予算を下回ったと聞いています。もう一つは、日本でのワールドゲームズの価値を高めていくことも必要です。日本ではワールドゲームズの認知度が高くありませんが、バドミントンやソフトボール、トライアスロン、さらに来年の東京オリンピックで初めて実施される空手、スポーツクライミング、サーフィン、スケートボードなど、オリンピック競技の中には、もともとはワールドゲームズで行われていたものも少なくありません。つまり、ワールドゲームズを経て、オリンピック競技に採用されるというルートが世界のスポーツ界で出来上がっているわけです。そういう意味でも、ワールドゲームズのような広範囲にわたってスポーツの受け皿となっている国際大会が、スポーツ界の発展に寄与してきた部分は非常に大きい。IOCも国際ワールドゲームズ協会を後援しています。

左 第6回ワールドゲームズ秋田大会(2001年8月)<br>右 第8回ワールドゲームズ高雄大会(2009年7月)

左 第6回ワールドゲームズ秋田大会(2001年8月)右 第8回ワールドゲームズ高雄大会(2009年7月)

ですから、日本でもワールドゲームズの価値が理解され、JOCがワールドゲームズを取り仕切っても良いはずです。しかし、JOCは関心を示さず、距離を置いています。例えば、ユニフォーム一つとっても、他国では同じ代表としてオリンピックとおそろいのデザインのユニフォームが支給されるのですが、日本ではそうではありません。ワールドゲームズは日本スポーツ協会でという考えもありますが、現在、日本スポーツ協会はジュニアの育成に注力しています。そうすると、単に日本スポーツ協会が育成した選手を選考して、オリンピックに送り込むことだけがJOCの役割かということになってしまいます。現在、笹川スポーツ財団も日本ワールドゲームズ協会の事務局として支援してくれていますが、JOCは日本スポーツ界のトップ組織なわけですから、オリンピックにも深く関わっているワールドゲームズは、やはりJOCが統括すべきだと考えます。

2020東京大会1年前イベントで挨拶するIOCバッハ会長(2019年7月)

2020東京大会1年前イベントで挨拶するIOCバッハ会長(2019年7月)

―― 来年には2回目の東京オリンピック・パラリンピックが開催されます。オリンピック・パラリンピックの今後については、どのようにお考えでしょうか?

世界最大のスポーツイベントであるオリンピックの方は、もう都市型開催では限界にきているのではないでしょうか。オリンピックと同じ「世界三大スポーツ」であるサッカーやラグビーのワールドカップは、国が開催となっていますが、オリンピックもやはり国で受けるべきじゃないかなと思います。あるいは、あくまでも都市型というのなら、一つの都市ではなく、複数の都市で行うゾーン型にしなければ財政問題や会場問題などで、開催することは難しくなってきていると思います。実際、東京オリンピック・パラリンピックの競技会場は東京都以外の都市でも行われるわけですから、今後はそのやり方が立候補しやすくなるのではないでしょうか。

―― 2026年冬季オリンピック・パラリンピックは、今年6月24日のIOC総会で開催都市が決定しましたが、イタリアのミラノとコルチナ・ダンペッツオと二都市での開催となりました。

IOCも憲章を変えて、そのように柔軟にやっていかないと、もう立候補する都市はなくなってしまいます。

IF人事に不可欠な国からのバックアップ

赤木恭平氏(インタビュー風景)

赤木恭平氏(インタビュー風景)

―― 日本スポーツ界全体の問題として、赤木さんのようにIFの重要なポジションに就くような人材を日本からもどんどん輩出していかなければいけないと思いますが、なかなか出てこないのが現状です。

一つは費用の問題があると思います。私も実際に行いましたからよくわかるのですが、ロビー活動には莫大な費用がかかります。ですから、これは国からのバックアップがないとダメだと思いますね。例えば、2017年から国際体操協会の会長を務めている渡邊守成さんは、関係機関から財政的にもバックアップがあったから活動できたのでしょう。韓国や中国など、他国はどこも基本的には国が費用を負担してくれて、優秀な人材をIFに送り込んでいます。日本もそうしなければ、この先、IFの会長など主要なポジションに就く日本人は出てこないでしょう。私の時もまったく国からの支援はありませんでしたから、全日本ボウリング協会に基金を創設しまして、そこで積み立てたお金をもとにして活動資金に充てていました。それこそ日本は、何度もオリンピック・パラリンピックを開催しているアジアで唯一の国なわけですから、もっと世界に人材を送り込まなければいけません。ところが、今では韓国や中国、それに東南アジアよりも遅れています。国際会議に出席するのにさえ各競技団体が負担しなければならないというのは、あまりにもサポートがなさすぎます。

―― 2011年にスポーツ基本法が制定されて、2015年にスポーツ庁が創設されました。さらに今年のラグビーワールドカップを皮切りに、2020年には東京オリンピック・パラリンピック、2021年にはワールドマスターズゲームズ2021関西と、日本では「ゴールデン・スポーツイヤーズ」がスタートします。日本が世界に人材を送る非常にいいチャンスが訪れたと思いますが、今後はどのようなことが必要となるでしょうか?

やはり国やJOCなどのスポーツ組織がきちんとサポートをしていく体制がまずは必要になってくると思います。そうした中で、今後の日本スポーツ界を担う人材を養成し、将来JOCをどのようにしていくことが日本スポーツ界の発展につながるのか、そうした先を見据えたプランを、今から準備していくことも重要でしょう。何か有事の際に国内がバタバタしていては、世界に人材を送り込むことはできないだろうと思います。

日本オリンピックミュージアムオープニングセレモニー(2019年9月)

日本オリンピックミュージアムオープニングセレモニー(2019年9月)

―― これからのJOCについてはいかがでしょうか?

JOCは日本スポーツ界全体のトップ組織であるわけですから、やはり広く多くの競技団体から人材を送り、競技同士で意見を言い合える、より風通しのいい組織として発展していってほしいと思います。

―― 赤木さんはこれまで日本スポーツ界の発展に寄与されてきましたが、今後の日本スポーツ界はどうしていくべきだと思っていますか。

私は、人間とスポーツというのは今や切っても切り離せない関係になっていると思います。スポーツをすることで、競技力の向上だけでなく、人を大きく成長させてくれる夢や目標ができる。人間性を磨いてくれるところに、スポーツの価値があると思っています。もちろん、オリンピック・パラリンピックのように最高峰レベルを目指す競技も必要ですが、やはり底辺を広げていくことが何より大事。老若男女、障がいの有無にかかわらず、スポーツを楽しめる環境をつくることが求められていると思います。

森喜朗東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長(左)と(2019年)

森喜朗東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長(左)と(2019年)

それこそ健康寿命を延ばすことができれば、医療費問題の解決策にもなる。そういう意味では、2021年に関西で開催されるワールドマスターズゲームズのような大会は非常に大切です。スポーツ庁はオリンピック・パラリンピックのようなエリート競技だけでなく、国民がスポーツを通じて健康で元気に明るく生活を過ごすことができるような環境もつくっていかなければいけません。日本は「長寿大国」ではあるけれども、スポーツを通じた健康づくりという点では世界に遅れていると思います。今後はエリート競技だけではなく、健康維持・増進のための健康スポーツ産業にも日本は国をあげて注力していかなければいけません。

―― 最後に、これからどのような活動をして、何を後世に残していきたいと思っていますか。

日本のスポーツ界は今、ちょうど転換期を迎えていると思います。2015年にスポーツ庁が創設されて、今年で5年目を迎えたわけですが、鈴木大地長官も頑張ってくれていますが、もう少しスポーツ庁に権限を与えた方がいいのではないかと思います。日本の各競技団体は今、過去の風習や縛りといった古い体質からの脱皮を試みているところ。ボクシングしかりレスリングしかり。そういう中で新しい理念を確立させて、それらをJOCが取りまとめる。そしてスポーツ庁が財政的な問題も含めて、どういうふうにしていくか指針を出していく。そういうふうになっていけば、日本のスポーツ界はより発展していくと思います。

  • 赤木 恭平氏 略歴
  • 世相

1912
明治45

ストックホルムオリンピック開催(夏季)
日本から金栗四三氏が男子マラソン、三島弥彦氏が男子100m、200mに初参加

1916
大正5

第一次世界大戦でオリンピック中止

1920
大正9

アントワープオリンピック開催(夏季)

1924
大正13
パリオリンピック開催(夏季)
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の入賞となる6位となる
1928
昭和3
アムステルダムオリンピック開催(夏季)
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の金メダルを獲得
人見絹枝氏、女子800mで全競技を通じて日本人女子初の銀メダルを獲得
サンモリッツオリンピック開催(冬季)

  • 1931 赤木 恭平氏、岡山県に生まれる
1932
昭和7
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
南部忠平氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
1936
昭和11
ベルリンオリンピック開催(夏季)
田島直人氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
織田幹雄氏、南部忠平氏に続く日本人選手の同種目3連覇となる
ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック開催(冬季)
1940
昭和15
第二次世界大戦でオリンピック中止

1944
昭和19
第二次世界大戦でオリンピック中止

  • 1945第二次世界大戦が終戦
  • 1947日本国憲法が施行
1948
昭和23
ロンドンオリンピック開催(夏季)
サンモリッツオリンピック開催(冬季)

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951日米安全保障条約を締結
1952
昭和27
ヘルシンキオリンピック開催(夏季)
オスロオリンピック開催(冬季)

  • 1954 赤木 恭平氏、早稲田大学を卒業し、日本造機株式会社に入社。その後、取締役に就任。
  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
メルボルンオリンピック開催(夏季)
コルチナ・ダンペッツォオリンピック開催(冬季)
猪谷千春氏、スキー回転で銀メダル獲得(冬季大会で日本人初のメダリストとなる)

1959
昭和34
1964年東京オリンピック開催決定

1960
昭和35
ローマオリンピック開催(夏季)
スコーバレーオリンピック開催(冬季)

ローマで第9回国際ストーク・マンデビル競技大会が開催
(のちに、第1回パラリンピックとして位置づけられる)

1964
昭和39
東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
円谷幸吉氏、男子マラソンで銅メダル獲得
インスブルックオリンピック開催(冬季)

  • 1964東海道新幹線が開業
1968
昭和43
メキシコオリンピック開催(夏季)
テルアビブパラリンピック開催(夏季)
グルノーブルオリンピック開催(冬季)
1969
昭和44
日本陸上競技連盟の青木半治理事長が、日本体育協会の専務理事、日本オリンピック委員会(JOC)の委員長 に就任

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
  • 1971 赤木 恭平氏、日本造機を退社し、協成工業取締役社長に就任
1972
昭和47
ミュンヘンオリンピック開催(夏季)
ハイデルベルクパラリンピック開催(夏季)
札幌オリンピック開催(冬季)

  • 1973オイルショックが始まる
1976
昭和51
モントリオールオリンピック開催(夏季)
トロントパラリンピック開催(夏季)
インスブルックオリンピック開催(冬季)
 
  • 1976ロッキード事件が表面化
1978
昭和53
8カ国陸上(アメリカ・ソ連・西ドイツ・イギリス・フランス・イタリア・ポーランド・日本)開催  

  • 1978日中平和友好条約を調印
1980
昭和55
モスクワオリンピック開催(夏季)、日本はボイコット
アーネムパラリンピック開催(夏季)
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
ヤイロパラリンピック開催(冬季) 冬季大会への日本人初参加

  • 1982東北、上越新幹線が開業
1984
昭和59
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
ニューヨーク/ストーク・マンデビルパラリンピック開催(夏季)
サラエボオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

  • 1987 赤木 恭平氏、日本スポーツ協会理事に就任
1988
昭和63
ソウルオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
鈴木大地 競泳金メダル獲得
カルガリーオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

  • 1990 赤木 恭平氏、JAPAN FRP株式会社顧問に就任
  • 1991 赤木 恭平氏、笹川スポーツ財団理事に就任
1992
平成4
バルセロナオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて日本女子陸上選手64年ぶりの銀メダル獲得
アルベールビルオリンピック開催(冬季)
ティーユ/アルベールビルパラリンピック開催(冬季)

1994
平成6
リレハンメルオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 1995 赤木 恭平氏、世界ボウリング連盟会長、日本ボウリング協会会長に就任
  • 1995阪神・淡路大震災が発生
1996
平成8
アトランタオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて銅メダル獲得

  • 1997香港が中国に返還される
1998
平成10
長野オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 1998 赤木 恭平氏、日本ワールドゲームズ協会理事に就任
  • 1999 赤木 恭平氏、世界ボウリング連盟終身名誉会長に就任
2000
平成12
シドニーオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
高橋尚子氏、女子マラソンにて金メダル獲得

2002
平成14
ソルトレークシティオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2002 赤木 恭平氏、国際オリンピック委員会よりIOCオーダー受章
       日本オリンピック委員会名誉委員に就任
2004
平成16
アテネオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
野口みずき氏、女子マラソンにて金メダル獲得
2006
平成18
トリノオリンピック・パラリンピック開催(冬季)
2007
平成19
第1回東京マラソン開催

2008
平成20
北京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
男子4×100mリレーで日本(塚原直貴氏、末續慎吾氏、高平慎士氏、朝原宣治氏)が3位となり、男子トラック種目初のオリンピック銅メダル獲得

  • 2008リーマンショックが起こる
2010
平成22
バンクーバーオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2011東日本大震災が発生
2012
平成24
ロンドンオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催決定

2014
平成26
ソチオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2016
平成28
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催(夏季)

2018
平成30
平昌オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2018 赤木 恭平氏、日本ワールドゲームズ協会会長に就任