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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

知る学ぶ
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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

オリンピアンかく語りき
第4回
重量挙げで五輪4連続出場

三宅 義信

今夏のロンドンオリンピックの体操競技で、田中和仁、理恵、佑典(ゆうすけ)の3兄弟が話題になったのは記憶に新しい。このうち、和仁選手と佑典選手は男子団体総合で銀メダルを獲得し、兄弟メダリストとなった。
これが、個人種目での同一大会同一種目の兄弟メダリストとなると、日本では一例しかない。1968年のメキシコオリンピック、ウエイトリフティング男子フェザー級の三宅義信選手(金メダル)と義行選手( 銅メダル)である。兄の三宅義信選手は、64年東京オリンピックでも優勝しており、連覇となった。
オリンピックに4大会連続出場したほか、世界記録を何度も書き換え、重量挙げの世界で一時代を築いた三宅義信さんに、ウエイトリフティングへの情熱、後進の育成、スポーツ行政への要望などについてお話を伺った。

聞き手/西田善夫  文/山本尚子  構成・写真/フォート・キシモト

新聞配達:雪でも雨でも遅れないように

筋骨隆々の上半身

筋骨隆々の上半身

―― 三宅さんは宮城県柴田郡村田町のご出身ですが、ウエイトリフティングが盛んな土地だったのですか。

重量挙げ自体を知りませんでしたので、盛んだったかどうかもわかりません。話せば長いのですが、まず私は7人兄弟の5番目、三男坊です。

―― 義行さんは、すぐ下の弟さんでしたよね。

はい、すぐ下といっても、6歳違います。村田町は農村で、食っていくのに精一杯という苦しい毎日でしたので、田畑の仕事や弟の子守など両親の手伝いをよくしました。小学校5年ぐらいから新聞配達も始めました。笑顔で人と接するなど、子ども心ながらにどうしたら新聞を多くの人にとってもらえるか考えました。 「信頼される人間になるために、絶対に時間に遅れるな」というのがおふくろの教えでした。だから前日、ラジオで天気予報を聞くわけです。 「明日は雨」「雪が降る」「吹雪になる」など、それに合わせて新聞をぬらさないよう、1~2時間早く起きて準備したものです。おふくろに少しでも給料を多く渡したい、と言う気持ちで頑張りました。

―― 機転を利かせて、相手の身になってものごとを考えると いうことを早くも学んでいたのですね。

新聞を待っているおじいちゃん達の笑顔と、「よく来たな」という言葉が励みになりました。「囲炉裏で手を温めて行け」とか、ときどきくれるサツマイモや飴といった心遣いもうれしかったですね。

親父を喜ばせたい

トレーニングに励む

トレーニングに励む

―― お父さまはどんな方でしたか。

力自慢の頑固者でした。「警察のお世話になるな」「人を殴るな」「ケンカはしてもよいが家には泣いて帰 ってくるな」、親父からは、この3つを教わりました。小柄なのに腕っぷしが強く、親父が65歳になるまで 腕相撲ではかないませんでした。やっと勝てるようになったのは、東京オリンピックのころでした。

―― ということは、ローマオリンピックで銀メダルを取ったときでも、三宅さんはまだ勝てなかったということですね。

とてもじゃないけど歯が立たなくて。おふくろは内助の功で親父に尽くす、そんな両親の背中を見ながら育ちました。 「この親父に喜んでもらうにはどうしたらいいんだろう」というのはよく考えましたね。

トロッコを持ち上げて力比べ

―― はじめは柔道をされていたそうですね。

中学に入るとクラブ活動がありました。でも私はアルバイトをしなければならなかったので、正式なクラブ活動はできませんでした。ただ柔道が好きだったので、暇を見付けては練習をし、県大会にも出ていました。中学3年の時のこと。校庭の隅の倉庫に置いてあった、重さ13貫目(約45キロ)のトロッコの車輪で力比べをしました。男子生徒が60人ほどいる中で、上まで持ち上げられたのは3人ほど。私はその中の一人でした。小柄なのに力持ちということで、周囲の人にはインパクトを与えていたと思います。

脱臼がきっかけで ウエイトリフティングの道へ

―― 置かれた環境の中から、三宅さんという人物が自然と根付いてきたのですね。では、ウエイトリフティングに取り組み始めたのは大河原高校に入学してからですか 。

いや、高校2年のときに柔道でケガをしたんですよ。有段者の人と手合わせをして、右腕を脱臼してしまったのです。いつかその人に勝ちたい、力をつけるには何をしたら良いか、を考えました。その時に友人に「 柴田農林高校にバーベルがあるよ」と教えられました。頭を下げて、重量挙部で練習をさせてもらえることになり、監督の坂口政史先生からアドバイスを受けました。そんなとき、たまたまラジオでメルボルンオリンピックの実況を聞いたのです。重量挙げのバンタム級で、福島県の高校生、古山征男選手が8位になったと。同じ高校生なのにこの差はなんだろうと思いました。重量挙げの面白さを感じ始めたころで、東北大学に体育心理が専門のマーチン先生という人がいると紹介されて、訪ねていきました。

―― 柔道のためのトレーニングのはずがメインになっていったのですね。マーチン先生からはどんなお話がありましたか。

裸になりなさいと言われてね、「胸は丸っこい。足は短い。胴は長い。おまえさんはダックスフンドだな」 と、日本語で。それはつまりどうなんですか、と聞いたら、「最高にウエイトリフティングに向いている」 と。

―― お墨付きをもらったのですね。

それ以来、何度もマーチン先生の指導を受けました。

国体で優勝し初めて父に褒められた

宮城県大会で3位になった私は、北海道でのインターハイに出場しましたが、初めての船旅ですっかり体調を崩し下痢になってしまい、力が入らずに5位でした。その失敗が悔しくて、次に臨んだのが静岡県清水市 (現・静岡市)の第12回国民体育大会でした。結果、高校の部のフライ級で優勝。その新聞記事を親父が見て、「おまえ、こういうものをやっていたんだ」と驚きながらも、初めて褒められました。

―― 一つ目標がクリアできたのですね。それから、法政大学に進学されましたね。

大学に行く頭もない、カネもない。就職しようと思っていたのですが、重量挙げをやれる企業がなかったんですよ。高校の校長であった猪股琢磨先生をはじめいろいろな方々に相談し、重量挙げの強い大学を探し、 あこがれていた木暮茂夫選手のいる法政大学に決めました。文学部に合格したものの、問題は5万円の入学金でした。

―― 当時の5万円はそうとう高額ですよね。

はい、公務員の月給が8,000円くらいだったころです。兄貴に半分の2万5,000円を工面してもらい、残り半分はアルバイトで稼ぎました。ウエイトのトレーニングも兼ねられるバイトを探し、後楽園のホットドッグ売り、電車の保線区、海苔工場、バルブ工場などで働きました。いちばん金になったのは、船とはしけの間で荷物の上げ下ろしをする沖仲士でした。その間つらかったのは、満足にものが食えないことでした。今川焼きを1個食って、水を1升飲んでは腹をふくらませていました。

法政大学3年でローマオリンピック銀メダル

筋骨隆々の上半身

日本選手金メダル第1号に輝く
(1964東京オリンピック)

―― そんなご苦労をしながら、大学3年のとき、ローマオリンピックに出場されました。

大学に入学したときに、3年次のオリンピックには必ず出場する、と目標を定めたんですよ。大学ではまず 、「おはようございます」「こんにちは」「こんばんは」「ありがとうございます」「お先に失礼します」 、このあいさつをきちんと実行する。その他に、今までのやり方に加えて、独自のものを見出していかなけ ればといろいろ開拓していきました。例えば、バーベルを握る前に、指を這わせて握り位置を決める動作を 、今だれもがやっています。あれは私が、夜の練習でバーベルがよく見えないから始めたことなんですよ。

―― そうだったんですか。

そういう意味があっての行為なんです。あと苦しかったのは、「練習するな」と言われたことです。先輩は私に追い越されることを恐れたのでしょうか。

―― そのような境遇を乗り越えて、ローマ大会の男子バンタ ム級で銀メダルを獲得されたわけですね。 「敵」を単なる敵としてとらえて終わりではなく、創意工夫して、己にも敵にも克つということをされてきたのですね。

「我慢」「プライド」「自分に対する責任」を、しっかり持つことが大事なのです。


東京オリンピックまでの1460日間の過ごし方

ローマが終わって、4年後の東京オリンピックでは何としてでも金メダルを取ろうと決意しました。そのた めには1460日間で何をなすべきか、どういう勉強・練習をすべきか、精神面はどうしたらいいかなど自分なりに取り組んでいきました。体重のコントロールがありますから栄養摂取、疲労、医科学の知識、精神力の充実、プログラムの作り方等の勉強をし、ライバル選手たちの情報収集も行いました。

―― どなたかに頼んだのですか。

いいえ、韓国・中国、ヨーロッパなどの情報を、日本体育協会国際部の方々のご支援を得て、専門家の先生を訪ねながら調べ集めていきました。

外国勢に勝つためにスナッチを強化

―― ウエイトリフティングにはプレス、スナッチ、クリーン&ジャークの3種類があるのですよね。どのように違うのですか。

最初のプレスは「押し上げ」です。バーベルを肩幅に握り、鎖骨のところまで持ってきて、審判の合図で、ぐーっと腕の力だけで頭の上まで挙げて、しっかりと手を伸ばします。2番目に行なうスナッチは「引き上げ」です。プレスの手の幅よりも広く握って、一気に頭上に引き上げます。3番目のクリーン&ジャーク( ジャーク)は「差し上げ」です。肩幅に握ったバーベルを鎖骨のところへ持ってきたあと、足腰の反動を使 い前後開脚で一気に頭上に差し上げるのです。以前はこの3種類のトータルでしたが、プレスは1973年から 廃止されました。

―― 選手によって、それぞれ得意・不得意があるのでしょうね。

プレスは、ともかく力がいります。スナッチとジャークは引き上げる動きなので、プレスとは筋肉の使い方 が全く違います。スナッチはテクニックと器用さが必要で、外国勢が苦手としていました。胴が長くて足の 短い体型、つまり日本人のほうが有利ということもある。そこで私は考えました。スナッチを集中的に強化しようと。最初のプレスでは無理に1位を目指さず、トップとの差を10キロ以内と設定しました。スナッチ の強化を図っていくと、ジャークの記録も自然に伸びていきます。だからプレスでは10キロ以内の差でおさめ、スナッチで15~20キロ取り返すようにする。そしてジャークはもともと得意でしたから、相手の様子を見て勝負していく。

東京オリンピックで念願の金メダル

―― これは興味深い話ですね。ライバル選手の動向を読みながら、綿密に自分のプランを立てていく。そして1964年10月10日、ついに東京オリンピック開幕となるわけですね。

日本代表選手団の第1号メダルは、10月11日、ウエイトリフティングのバンタム級、一ノ関史郎選手の銅でした。フェザー級の私の試合は翌12日で、これが金メダル第1号となりました。試合プランは予定どおりにいきました。最大のライバルは、バーガー選手(米国)でしたが、最初のプレスで、彼と同じ122.5キロで トップに並びました。この時点で、私の作戦はもう成功したも同然でした。練習を重ねてきたスナッチでライバルに10キロ差をつけ、ジャークでトータル15キロ差に広げ、397.5キロの世界記録で優勝したのです。

―― 私は東京オリンピックのときは一番下のアナウンサーでしたが、あのとき先輩の水越アナウンサーが「東京オリンピック初のメダルを、三宅が取りました。おまけに世界新記録というお土産もついていました」と実況したのを覚えています。勝ったあとの心境はいかがでしたか。

東京オリンピックがすべてだととらえていましたから、「ああ、終わった」と。もうそれしかないよね。それから、5キロの減量をしていたので「これで腹一杯メシが食えるな」 「練習をしなくて済む」「自由に遊べる」などと考えました。

メキシコオリンピックでは兄弟メダル

兄弟でメダル獲得(1968メキシコオリンピック)

兄弟でメダル獲得
(1968メキシコオリンピック)

―― 4年後の1968年のメキシコ大会では、三宅さんは連続金メダル、さらに弟の義行さんが銅メダルで、そっくりなお二人が一緒に表彰台に上がりましたね。

メキシコのころ、弟は法政大学を卒業したばかりで、どんどん伸びて強くなっていく時期でした。

―― 義行さんの指導をしたりは?

いや、あいつは兄貴をなんとか負かそうと、いつも私のことをよく観察していましたから、そんなに教えることはありませんでした。あれはプレスを一生懸命練習していて、ジャークも強かったんだけど、スナッチが下手だったんだよね。弟は、72年のミュンヘン大会のプレ大会で優勝して金メダル候補だったんです。でも直前にケガをして、出場できませんでした。本当に残念だった。オリンピックの年の体調管理がいかに難しいかをつくづく感じました。

姪の三宅宏美選手が銀メダル

ロンドンで銀メダルを獲得した三宅宏美

ロンドンで銀メダルを
獲得した三宅宏美

―― 今年のロンドンオリンピックでは、弟さんの長女である宏美さんが、女子48キロ級で銀メダリストになりましたね。

オリンピック前に、韓国の元金メダリストを呼んで指導してもらったんですよ。私はその練習を見に行って 、「ああ、これは大丈夫だ、メダルは間違いないだろう」と安心しました。なぜかというと、若干アレンジされていましたが、私の練習法に沿った指導だったんです。その宏美が銀メダルを獲得したから、日本ウエイトリフティング協会も「ああ、三宅の練習は正しいんだ」と納得してくれましたし、私も次のリオデジャネイロ大会(2016年)では、男子にメダルを取らせようという気持ちになれました。

―― 宏美さんは、リオも目指していくということでしたね。

宏美もね、私から見ると、まだスナッチが「ヘタクソだな」と感じるわけですよ。宏美が金を取りたいなら 、まずライバルをつくることです。もう一つはスナッチの強化です。今スナッチが87キロ、ジャークが110 キロかな。できればスナッチを98まで伸ばしたい。そうすればジャークは自動的に5~10キロ伸びるので大記録を出せます。
でも26歳ですから故障も心配で、これからは効率よく、科学的に取り組む必要があります。

躍進する自衛隊体育学校

自衛隊体育学校校長時代

自衛隊体育学校校長時代

―― 話は戻りますが、ミュンヘン大会が終わったあと、三宅さんは引退されたのですね。その後は自衛隊体育学校で後進の指導にあたられた。

はい、法政大学を卒業した1962年、東京オリンピックを目指しトレーニング時間を確保したいと考えていたところ、自衛隊体育学校の中にオリンピック選手育成部門ができるということで入隊しました。現役を引退するときに、その自衛隊を辞めるかどうするか悩んだ時期がありました。でも私は、ウエイトリフティング 以外に能がない。女房にも、「あなたには好きなこの道しかないでしょ」と言われました。そこで、自分の能力を、世のため、人のため、社会のために活かしていこうと、自衛隊体育学校の教官として、自分のノウ ハウを後輩たちに伝えることにしたのです。

―― 1993年3月には校長になられたのですね。今年のロンドンオリンピックでは、自衛隊体育学校所属の選手が活躍しました。レスリングの小原日登美選手と米満達弘選手が金メダル、ボクシングの清水聡選手とレスリングの湯元進一選手が銅メダルを獲得しました。

私は「花を咲かせるのは皆さんです。」と言って、1997年3月に退きました。ロンドンでは、その花を全部 咲かせてくれました。夢をかなえてくれた選手の皆さんに、心から御礼を申し上げたい。今は「NPO法人ゴ ールドメダリストを育てる会」を設立し、トップアスリート・ジュニアの国際競技力向上と、スポーツ普及 ・振興のための活動をしています。

ドーピングには厳罰を

―― オリンピックのたびに、ドーピングが問題になるのは悲しいことですね。

オリンピックは本来、聖なる神に捧げるために行われていたものです。本当に強い選手が集まり、優れた技能を競うべきものなのに、薬に頼るなんてとんでもない。人間対人間が体を張って競い合うところが、真のオリンピックではないでしょうか。そういうルール違反は恥ずべきものだと考えます。ですから、違反をした人、違反をした国に対してもっと厳しいペナルティーを科すべきです。IOC、コーチ、選手、一般の人などが幅広く意見を出し合い、どうしたら良いかを考えるべきだと思います。

今でも毎日トレーニング

トレーニング中の三宅選手

トレーニング中の三宅選手

―― 三宅さんは、今でもバーベルを挙げられますか。

少しずつですが、練習はしていますよ。といっても、パワーリフティングです。これは3種類の挙げ方があ り、ベンチに横たわって挙げるベンチプレス、床に置いたバーベルを引き上げながら上体を起こしていくデッドリフト、バーベルを肩の後ろなどで支えた姿勢で膝の曲げ伸ばしをするスクワットです。毎日、30分程度、お風呂で体を温めてから、バーベルを握るというスタイルでやっています。

―― ほう、体は大丈夫ですか。

足腰は痛いですよ。でも夢は持ち続けたいので、75歳になったらマスターズ大会に出ようと思っています。 それと、選手を指導するのにバーベルをつかむ必要があるからね。


早くスポーツ省(スポーツ庁)を

―― 次のリオ大会のウエイトリフティングも期待していいでしょうか。

リオ大会では、女子の48キロ、58キロ級あたりがメダルを狙えると思っています。そして男子もメダルに届く可能性があります。しかし、ウエイトリフティングはまだマイナースポーツです。大学時代はいいのですが、やはり卒業後の選手を抱えられる企業がなかなかない。そのあたり、日本オリンピック委員会(JOC) に、ジュニアの時代からなんらかの方策をうっていただけたらと思いますね。オリンピックには二つの大きな意義があるんですよ。一つはオリンピック競技大会で勝つことです。もう一つはスポーツを通じて道徳的 な教育・啓蒙という側面もあります。電車に乗ると、今は若者が我先にと座席に腰を掛ける。シルバーシートにも平気で座る。私たちの時代は、空いていても滅多に座らなかったものです。そういう道徳的な教育というのは時間がかかることですし、今の文部科学省ではなかなか現場の指導までは難しいのではないかと感じています。だからスポーツを通じて、清く、正しく、明るく、責任感を持った人生を過ごす。そして国民の体力向上のためには、スポーツ省、あるいはスポーツ庁が必要になるだろうと考えます。

国民体育大会・インターハイの存在意義を見直す

―― 昨年、スポーツ基本法が50年ぶりに改正されました。今 後の日本のスポーツ界の在り方を考えていくと、三宅さんはまずはどこから対策を打っていくべきだと思いますか。

国民体育大会とインターハイでしょう。国体は何のためにあるのかというと、もともとは、国民の体力増強 や地方の街づくりの活性化のためという目的があったはずなのです。それが徐々に姿を変え、フェスティバル的要素が強くなってきています。少子化の時代、20年後、50年後を考えた場合に、今のままで本当にこれでいいのか、これは日本体育協会に早急に見直しを計ってもらいたい。 またこの件でもスポーツ省・庁が必要になってきます。

オリンピアンのセカンドキャリア

―― ほかには何か?

メダリストの処遇でしょうか。オリンピックのために努力をし、頑張ったアスリートは、国民の皆さんにたくさんの感動や勇気や笑顔をもたらしたはずです。でもそんなオリンピアンたちが、いざオリンピックが終 わってみると、仕事がない、職場に居場所がない、そういう事態に直面するケースがあるようです。メジャースポーツとマイナースポーツで、報酬の面などで差があるのは、寂しいことですよね。そこでスポーツ省 (スポーツ庁)があれば、オリンピアンの培ってきた経験やスキルをその後の人生でもっと活かしていける ようなプログラムを、きめ細かく整備していくこともできるのではないでしょうか。

―― なるほど。金メダリストからの意見として、非常に重みのある提言ですね。

もっと大規模なナショナルトレーニングセンターを

―― では、国際競技力の向上、セカンドキャリアを含めた人 材の養成・活用を考慮して、今後、スポーツ環境をどのように整備していくべきと考えますか。

西が丘に味の素ナショナルトレーニングセンター(味トレ)がありますが、あれよりもっと大規模のものをどーんとつくれるといいですね。今のままの味トレでは、なかなか利用しづらい競技団体があります。それ を30~40階規模にして、それこそ全競技団体の事務所もそこに入り、練習、合宿、ジュニアの育成、試合ま でできるといいと思います。一時的に資金はかかっても、長い目で見ればね。それと今は宿泊施設を使うと 、一部を協会等が負担しなければなりません。しかし、「ナショナル」とうたうのなら、国の全額負担が望ましい。そうすればもっと利用率も上がるはずです。私たちのころは、東京オリンピックの前に米軍の施設を借りて、各競技団体が合宿をしました。そこで他競技の選手とも顔なじみになることができました。 お互いに励まし合いながら、共に東京オリンピックを乗り越えたのです。

2020年東京オリンピック招致、国がもっと積極的にかかわる

―― 三宅さんの出場された東京オリンピックからかれこれ半世紀、2020年の夏季オリンピック大会に、東京が立候補しています。東京、トルコのイスタンブール、スペインのマドリードの3都市に絞られ、来年9月には決定します。

9月7日と聞いています。個人的に思うのは、オリンピックは国ではなく都市で開催するものとはいえ、やは り東京都だけではなく、国・政府がもっと積極的に名乗りをあげて政策的に取り組んでいかなければと思い ます。イスタンブールがライバルと見られていますが、オリンピック開催の支持率は、イスタンブールは85 %ぐらいだとか。

―― 日本の場合、アンケートで「まだ決められない」など曖昧な言い方をよくしますよね。思慮深い国民性を表していると思いますが、それがあの調査では、全部「NO 」の扱いになってしまう。それで47%ぐらいだったのが、ロンドン大会の盛り上がりでようやく66%まで上 がってきたようですね。

メダリストのパレードなど、大きなムーブメントがあれば国民の関心も上がるということを示していますが 、まだ66%ですよね。そこはもっと政策的に、強烈に内外にPRをしていかないと。例えば「復興のために」 というのは日本の論理ですよ。そこは、世界から見た東京オリンピック開催のメリットを考えていかなければならない。日本が誇るハイテク技術を駆使して、デジタルやITでもっと世界に貢献できるはずですよ。これはオリンピックだけの問題ではなく、経済全体に言えることですが。

―― なるほど、日本の持つ能力を広く知ってもらい、スポー ツの枠を超えて、もっと国際的に発信すべきということですね。どうもありがとうございました。

  • 三宅義信氏略歴
  • 世相
1934
昭和9
国際基準のバーベルが日本に到着
1936
昭和11
第1回全日本選手権開催、日本重量挙競技連盟結成
1938
昭和13
全日本選手権、フェザー級(以下Fe級)南寿逸が世界記録を樹立

  • 1939三宅義信氏、宮城県に生まれる
1941
昭和16
日本重量挙競技連盟解散

  • 1945第二次世界大戦が終戦
1946
昭和21
日本ウエイトリフティング協会として再結成

  • 1947日本国憲法が施行
1950
昭和25
国際連盟に加盟

  • 1950朝鮮戦争が勃発
1951
昭和26
第1回アジア競技大会(ニューデリー)、Fe級井口幸男・ライト級(以下L級)窪田登が3位

  • 1951安全保障条約を締結
1952
昭和27
ヘルシンキ五輪、 バンタム級(以下B級)白石勇参加 

  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
メルボルン五輪L級大沼賢治4位、Fe級白鳥博義5位、B級南部良雄6位
1957
昭和32
世界選手権初参加
1958
昭和33
第3回アジア競技大会(東京)、B級木暮茂夫優勝
1959
昭和34
  • 1960第14回東京国体、B級三宅義信・L級山崎弘が日本人初の世界記録

1960
昭和35
  • 1960ローマ五輪、B級三宅義信が五輪初の銀メダル獲得

1962
昭和37
  • 1962世界選手権、B級三宅義信が日本初の金メダル獲得

1963
昭和38
第1回全日本社会人選手権開催
1964
昭和39
  • 1964 東京五輪、Fe級三宅義信が金、B級一ノ関史郎・ミドル級(以下M級)大内仁が銅メダル獲得

  • 1964東海道新幹線が開業
1966
昭和41
  • 1964 世界選手権、Fe級三宅義信が金、弟義行も銅メダル獲得

1968
昭和43
メキシコ五輪、Fe級三宅兄弟が金・銅、M級大内仁が銀メダル獲得

  • 1962三宅義信氏、メキシコ五輪で2度目の金メダル
1969
昭和44
世界選手権、Fe級三宅義行ライトヘビー級大内仁金メダル獲得

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1972
昭和47
国際連盟がプレス種目廃止を決定

  • 1973オイルショックが始まる
1974
昭和49
社団法人認可

1976
昭和51
モントリオール五輪、B級安藤謙吉、Fe級平井一正銅メダル獲得
          
  • 1976ロッキード事件が表面化
1977
昭和52
世界選手権、56kg級細谷治朗金メダル獲得 (この年から「kg級」に階級名称変更)

  • 1978日中平和友好条約を調印
1980
昭和55
第1回全日本ジュニア選手権開催
1982
昭和57
90kg級砂岡良治が日本人初の200kgに成功

  • 1982東北、上越新幹線が開業
1983
昭和58
第1回アジアジュニア選手権を埼玉県で開催

第1回全日本マスターズ選手権開催
1984
昭和59
ロサンゼルス五輪、52kg級真鍋和人、56kg級小高正宏、82.5kg級砂岡良治が銅メダル獲得

  • 1984香港が中国に返還される
1986
昭和61
第1回全国高校選抜開催
1987
昭和62
第1回全国中学生選手権開催
第1回全国女子選手権開催
第1回世界女子選手権に派遣
1990
平成2
第11回アジア競技大会(北京)、44kg級斉藤さと美67.5kg級長谷場久美が銀メダル獲得
1993
平成5
第1回日韓中大会を群馬県で開催 (この年から男子10・女子8階級となる)

  • 1993三宅義信氏、自衛隊体育学校校長に就任(~1997)
  • 1995阪神・淡路大震災が発生
1997
平成9
日本ウエイトリフティング協会創設60周年
1998
平成10
男子8・女子7階級となる           
2000
平成12
+105kg級吉本久也が日本初のトータル400kg        
2005
平成17
最小増量単位が1kgとなる

  • 2008リーマンショックが起こる
2009
平成21
第1回全日本女子選抜選手権開催
2012
平成24
日本ウエイトリフティング協会一般社団法人に移行
ロンドン五輪、女子48kg級 三宅宏美が銀メダル獲得