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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

次世代の架け橋となる人びと
第54回
日本ラグビー界に訪れている最大のチャンス

岩渕 健輔

昨年のラグビーワールドカップ(RWC)では初戦で南アフリカを撃破し、今年のリオデジャネイロオリンピックでは男子(7人制)がニュージーランドから勝ち星を挙げるなど、躍進が続いている日本ラグビー界。

その先頭に立って強化を図っているのが、2012年からゼネラルマネージャー(GM)を務めている岩渕健輔氏です。現役時代に海外でプレーした経験によって得た幅広い人脈と視野を持つ岩渕氏。

2019年にアジアで初めて開催されるRWC、そして2020年東京オリンピックに向けて、着実に成長している日本ラグビー躍進の背景と、今後の課題について伺いました。

聞き手/山本浩氏  文/斉藤寿子  構成・写真/フォート・キシモト

危機感を感じたリオ五輪での結果

リオオリンピックから加わった男子7人制ラグビー。日本は初戦で強豪ニュージーランドを破る金星を挙げ4位に入った。(2016)

リオオリンピックから加わった男子7人制ラグビー。日本は初戦で
強豪ニュージーランドを破る金星を挙げ4位に入った。(2016)

―― リオデジャネイロオリンピックでは、男子7人制ラグビーがベスト4進出という活躍を見せてくれました。2019年RWC、2020年東京オリンピックに向けて、昨年のRWCから日本ラグビー界には今、追い風が吹いているという感じがしますが、いかがでしょうか。

昨年、南アフリカを破って話題となったRWCは、ラグビーだけの大会でしたから、現在の日本ラグビーにとってその勝利がいかに歴史的快挙だったか、その一点に集中されていました。

しかし、オリンピックとなると、他の競技と同じく、メダルを獲れたかどうかという視点でのみ見られるんだなということに、リオから帰国して改めて感じました。
7人制ラグビーがオリンピックに採用されたことで、注目される大きなチャンスを与えてもらったと同時に、他の競技と比較される、そういう厳しいステージに上がっているという強い危機感を感じました。

勢ぞろいしたリオデジャネイロオリンピック7人制ラグビー男女日本代表(2016)

勢ぞろいしたリオデジャネイロオリンピック7人制ラグビー男女日本代表(2016)

―― 確かにあと一歩のところでメダルは逃しましたが、1次リーグ初戦では強豪ニュージーランドを破る大金星を挙げました。これで昨年のRWCは奇跡などではなく、本当に日本のラグビーのレベルが上がっているという証明になったのではないでしょうか。

ラグビー関係者や、過去を知っているラグビーファンの方々は、温かいお声をかけてくださいます。しかし、ラグビーをあまりご存知でない方々は、そもそも南アフリカやニュージーランドがどれほど強いのかご存知ありません。

今回のリオでニュージーランドから挙げた勝利は、日本ラグビー界にとっては前向きな出来事ではありましたが、日本選手団全体で史上最多の41個のメダルを獲得したオリンピックという枠の中で考えると、「団体競技の中では頑張ったね」というくらいのものでしかありませんでした。

専門性が求められている指導者

―― 岩渕さんは2012年にGMに就任されましたが、どんな役割が求められたのでしょうか。

私の前任者は、男子15人制の日本代表を専門に見ていました。ところが、私がGMに就任してからは、オリンピックに7人制ラグビーが採用されることが決定し、男子のみならず女子ラグビーにも注目が置かれるようになりましたので、各カテゴリーを統括して見ていくことになりました。ですから、就任した時にきっちりと役割が決められていたというよりは、さまざまな変化とともに、GMがすべき役割というものを整理していきました。

岩渕健輔氏インタビュー風景

インタビュー風景(2016年)

―― 現役時代はスタンドオフ(SO:「司令塔」的存在で、フォワード(FW)とバックス(BK)の間を結ぶ攻撃の組み立てにおいて中心となるプレーヤー)として活躍されました。そこで得たものが、GMの仕事につながっているということはあるのでしょうか。

SOに求められるものは細かくは各チームによって異なるとは思いますが、役割のひとつとして、全体を見ながらどう試合を進めていくかということが挙げられます。

そういう意味では、15人制あり、7人制あり、そして男女があり、という中で、日本ラグビー界全体を見ながら、どういう方向性に持っていくかを決めるという点においては、現役時代の経験が活かされているとは思います。

―― SO出身の人は、指導者やGMには適しているように思います。岩渕さんも、GM就任への打診があった際には「よし、自分がやるぞ」という気持ちで引き受けられたのでは?

おっしゃる通り、確かにかつては平尾誠二さんや本城和彦さんなど、日本代表でSOとして活躍された方が、実業団や日本代表の指導者をされるということが多かったと思います。しかし、今はトップリーグを見渡してみても、SO出身者の指導者は決して多くはありません。それはなぜかと言えば、今は現役時代のポジションに関係なく、きちんと専門的に勉強された方がラグビーの指導者になっている傾向にあるのだと思います。
それは世界的に言えることで、例えば昨年RWCで日本代表を率いたエディ・ジョーンズ(現イングランド代表HC)はフッカー(HO:スクラムの中心的存在。最前列中央に位置し、スクラムをコントロールしたり、スクラムハーフ(SH)が投げ入れたボールを足でかき出す役割をもつ)でした。そういう意味では、ここ10年ほどで、指導者の様相もだいぶ変わってきていると思いますね。

衝撃を受けた香港セブンズ

日本代表、日本代表監督等を務め日本のラグビーをけん引してきた平尾誠二氏。

日本代表、日本代表監督等を務め
日本のラグビーをけん引してきた平尾誠二氏
2016年10月に53歳の若さで逝去

―― 子どもの頃から、スポーツが好きだったんですか?

そうですね。小学3年からラグビーを始めてはいましたが、練習は週に1回でしたし、夏合宿でもなぜか午前中はソフトボールをやったりしていて、特にラグビーだけに熱中していたという感じではありませんでした。普段も、バスケットボールをやったり、テニスをしたりして遊んでいました。

―― その中で最終的にラグビーの道に進んだ理由は何だったのでしょうか?

附属の学校だったので、小学校から高校までほとんど同じメンバーだったんです。だから「みんなで同じものをやる」というのが、自然な流れとしてあったんですね。確かに、中学校、高校と上がるにつれて、ラグビーから他のスポーツに転向する友人はいたのですが、私が仲良くしていた友人のほとんどはラグビーを続けていたので、なんとなく自分も、という感じでした。
ただ、高校でもラグビー部に入ったのには、ちょっとした理由がありました。中学3年の最後の大会で負けた相手が、外国人コーチが指導していた学校だったんです。実業団や大学でも外国人選手、指導者は少人数しかいなかった時代でしたから、相手の学校に外国人コーチがいるとわかった時点で、私たちは気持ち的に負けていました。つまり、あまりいい終わり方ではなかったんです。それで友人たちとの間で、「高校でもやろうよ」と皆でまとまりました。その敗戦がなければ、高校で続けていたかどうかはちょっとわからないですね。

高校生ラガーマンの憧れの聖地、東大阪市花園ラグビー場。

高校生ラガーマンの憧れの聖地、東大阪市花園ラグビー場

―― 高校では、どこまで行ったんですか?

未だにですが、私の高校は一度も花園(花園ラグビー場で行われる全国高校ラグビー大会)に出場していないんです。ですから、とにかく花園への気持ちはとても強かった。練習時間も環境も限られた中で工夫して練習し、2年の時には都大会準決勝、3年の時には決勝まで進みましたが、いずれも國學院久我山に負けてしまって、残念ながら花園には一度も行けませんでした。

―― 大学からの誘いもあったのでは?

はい、そうですね。自分の中でも、ラグビーとは別に、他の大学を受験するということも考えていたんです。しかし、2年の時に準決勝で負けて悔しい思いをしていて、さらに3年の時には準決勝、決勝の時期と、他大学の入試の日程が重なっていることが早くからわかっていましたので、だったらこのまま附属の青山学院大学に進もうというふうに決めました。もし2年の時に花園に出ていたら、他の大学を受験していたかもしれないですね。

―― その頃、どんな将来の道を描いていたんですか?

実は、高校2、3年の時に、海外の大学を受験することも考えていたんです。というのは、小学生の時から海外のラグビーを見て育ってきましたし、関わった指導者も海外のラグビーを参考にしていましたので、海外の大学に行って、ラグビーをやりながら勉強もしたいという思いがありました。しかし、両親と話し合った結果、日本の大学を卒業してから海外の大学に行った方がいいという結論に至りまして、それで日本の大学に進むことにしたんです。ですから、その時から大学卒業後は海外に行くということは決めていました。

―― 将来はラグビーで生計を立てるというふうに考えていたのでしょうか?

いえ、全く考えてはいませんでした。当時はまだ日本にプロはなく、昼間は働き、仕事を終えて暗くなってから練習をして、試合の翌日には出勤というのが普通の時代でしたから、自分がラグビーで生計を立てるという考えはありませんでした。ただ、子どもの頃から海外には関心があったんです。きっかけは小学5年の時に家族で香港セブンズという7人制ラグビーの国際大会を観に行ったことでした。

毎年3月に香港で開催されるワールドラグビーセブンズシリーズの一つ香港セブンズ(2011年)

毎年3月に香港で開催されるワールドラグビー
セブンズシリーズの一つ 香港セブンズ(2011年)

―― わざわざ香港にまで、7人制ラグビーを観に行くというのは、当時にしてみれば、非常に珍しいことだったはずです。それほどラグビー愛の強いご家族だったんでしょうね。

そうですね。ラグビー経験者ではありませんでしたが、父親は非常にラグビーが好きで、また仕事柄、海外出張が非常に多かったということもあって、父にとっても家族で海外に行くということが、それほど特別なことではなかったんだと思います。

―― 子どもの岩渕さんにとっては、海外で試合を観たというのは、相当大きな出来事だったのでは?

はい、そうでしたね。テレビでは「5カ国対抗戦」が放映されていて、私はそれを見て海外に憧れを抱いていました。しかし、当時のラグビーというのは、例えばイングランド代表を見ても、キックが多くて、ボールが動くという感じではなかったんです。ところが、私が初めて直接見た香港セブンズは7人制でしたから、いろいろなところからボールが出てきて、見ていてとても面白かった。また、片手でボールを投げたり、拾ったりと、当時の日本ラグビーでは「絶対にやってはいけない」と言われていたプレーを、海外の選手たちがやっているのを見て、大きな衝撃を受けたのを覚えています。

ずっと心に決めていた海外でのチャレンジ

ラグビーワールドカップで、試合前にマオリ族の戦い前の踊りで有名なハカを見せるニュージーランド代表。(2015年)

ラグビーワールドカップで、試合前にマオリ族の戦い前の踊りで有名なハカを見せるニュージーランド代表。(2015年)

―― 当時の日本ラグビーには、どんな印象を持っていましたか?

当時、日本ラグビー界に語り継がれていたことと言えば、1968年のオールブラックスジュニアから挙げた勝ち星、1971年のイングランドとの接戦、1983年のウェールズ戦での惜敗。そして1989年、宿澤広朗監督時代のスコットランド戦での勝利でした。
つまり、実際に日本が勝ったのは、オールブラックジュニア戦とスコットランド戦くらいでした。一方、1995年のRWCでは、ニュージーランドに17-145の大敗を喫していました。当時の日本は、それこそ米国にも負けていて、アジアの中においても、韓国が強い時代でしたし、香港にはニュージーランド出身の選手が結構いましたので、RWCに出場することも簡単ではありませでした。まだプロ化もされていませんでしたから、日本ラグビーがどうのというよりは、「ここにいたのでは、世界に勝つことはできない」という考えが、私の中には早い時期からありました。

―― では、大学卒業後、日本の実業団に行くという選択肢はなかったと。

はい、実業団は全く考えていませんでした。でも、当時の日本ラグビー界では日本人選手が海外でプレーするということが想定されておらず、日本代表でプレーするためには日本のチームに所属していなければいけないという規約があったんです。当初はそのことを知らずに、実業団からのお誘いをお断りして、海外に行くと決めていたのですが、それでは日本代表でプレーできないということで、最後まで熱心にお誘いいただいた神戸製鋼に所属させていただきました。

―― 当時の日本ラグビー界は、アマチュア精神を大事にしていて、例えば元日本代表監督の宿澤さんがテレビのゲスト解説する時も、出演料はもちろん、交通費さえも協会に入れなければいけなかった時代でしたからね。

はい、そうですね。世界では1995年にプロ化されたのですが、日本では朝から夕方まで働いて夜に練習するというのが、少し緩くなってシーズン中は15時とか少し早めに上がって練習できるようになったばかりでした。世界とはだいぶ差がありました。

―― そんな中で海外に行こうとした理由は何だったのでしょうか?

まずは、やはり小学生の時に見た香港セブンズの試合ですね。あの時に「海外でやってみたい」という気持ちが芽生えたのが最初のきっかけでした。ただ、ラグビーで生計を立てるという発想はありませんでしたから、高校、大学と上がるにつれて、海外でラグビーをするだけでなく、しっかりと勉強をして学位を取得し、現役引退後は、それを活かした仕事に就こうと考えていました。

存在を認めてもらうところからのスタート

―― ケンブリッジ大学に留学したわけですが、いかがでしたか?

当時はまだインターネットがそれほど一般に普及されていませんでしたから、ほとんど海外の情報がありませんでした。ラグビー専門の雑誌に少し海外のことが載っていたのですが、そこに書かれてあることと言えば「ニュージーランドの選手は、週に2回、わずかな時間しかチーム練習を行わない」というようなことだったんです。でも、実際に行ってみると、もうそうではなくなっていて、朝7時から厳しい練習をしているわけです。ですから、国内ではよく「日本人はパスの技術が巧く、練習量も多いのでフィットネスにおいても上」ということが言われていたのですが、全くそんなことはありませんでした。練習量も意識の高さも全く違っていて、正直、「これでは日本人が勝てるわけないな」と思いました。

岩淵健輔氏インタビュー風景(2016年)

インタビュー風景(2016年)

―― ケンブリッジ大学のラグビー部には、希望すれば入れるものなんですか?

いえ、入れません。日本の大学もそうだと思いますが、入りたいという学生を全員受け入れていたら多すぎて練習ができませんから、やはりある程度の実力が認められないと入ることはできません。セレクションで40人ほどに絞られます。

―― 岩渕さんは、どうだったんですか?

学校は9月から始まるのですが、その前にキャンプが行われたんです。そこで何度か練習試合をした中でなんとか認めてもらえて、40人のセレクションには合格しました。ただ、SOをやらせてはもらえませんでした。既に日本代表に選ばれてはいましたが、当時海外の人にとって日本のラグビーと言えば、ニュージーランドに145点を喫したというイメージしかなかったんです。
ですから、もう端から「SOはないよね」という感じで見られていて、当時のラグビーでは英語でのコミュニケーションの影響がなさそうなウイング(WTB:基本的にフォーメーションの両翼に位置し、チームがつないだボールをトライに持っていくのが役目で、スピードが求められる)といった端の方のポジションをやらされました……。まずは存在を認めてもらうというところからスタートしました。

―― 同じ学生スポーツでも、日本と英国とでは何か違いはありましたか?

全く違いましたね。ケンブリッジというのは、オックスフォードと並んで、英国の中でも非常に特殊な大学だと思うんです。当時、既にイングランドではラグビーがプロ化されていましたから、本当にプロとしてラグビーで生計を立てていこうという選手は、高校卒業してすぐにプロに行くわけです。その中で、ケンブリッジやオックスフォードに進学する選手というのは、ラグビーは続けたいけれど、将来はパブリックスクールの教師や金融界で働きたいという人が多い。実際、私の同級生で大学卒業後もラグビーを続けたというのは、ごく少数でした。

―― 逆に言えば、野望の持ち主が多いと。

はい、そうなんです。だからこそ、純粋にラグビーの実力だけでは決まらないことが多くありました。
向こうでは、キャプテンがメンバーを決めるという文化が根強くあるんです。そうすると、ケンブリッジとオックスフォードの定期戦に出場した選手だけが与えられるブルーの称号を得た人が、エリートのパブリックスクールの教師になれるということもあって、みんな何とかしてキャプテンに気に入られようとするわけです。キャプテンがどこの国の出身なのか、どの派閥に所属しているのかということにも関わってくるのですが、日本人の私なんかは当然少数派でしたから、大変でした。でも、私以上に、南アフリカ出身の選手などはとても厳しい状況にあったと思います。

来日した国際親善試合で日本代表と戦うケンブリッジ大学(1975年)

来日した国際親善試合で日本代表と戦う
ケンブリッジ大学(1975年)

―― いわゆる人種差別的なものがあるわけですか?

はい。日本ではちょっと考えられないことが、往々にしてあったりしましたね。表面上はスマートですが、実際は良くも悪くも、したたかです。でも、例えばRWCの招致におけるロビー活動の重要性も言われていますが、そういう政治的な要素も必要であることは確かだと思います。

―― そんな厳しい中でもまれながら、岩渕さんは日本人で初めてブルーの称号を得ました。

本当に幸運なことが重なったおかげで定期戦に出場できたと思っていますし、その時に出会った人たちとは今もつながっています。さまざまな組織やチームで活動されている方が多いので、ケンブリッジで得た人脈というのはとても大きいですね。

海外でプレーすることの充実感と悩み

―― ケンブリッジを卒業後の進路については、どんなふうに考えていたんですか?

日本に帰国しようとは考えていませんでした。留学した当初から、海外の大学でプレーをして、その後はそのまま海外で、と思っていたんです。留学先を英国にしたのも、実際に行けるかどうかは別として、とにかく卒業後はプレミアシップに挑戦すると決めていたからでした。私がケンブリッジを卒業する頃、ちょうど日本でもプロ化の話が出てきていまして、個人的にプロとして契約する選手も少しずつ出てきてはいました。
私も、国内の実業団チームからプロ契約で来ないかというお誘いをいただいてはいたのですが、自分の中ではプロとしてやっていくというよりも、とにかく世界トップの舞台で挑戦したいという気持ちの方が強くありました。当時は、世界においてもまだプロとしての環境が整備されていない状況でしたから、実際にプロで生活できるかどうかはわからなかったんです。ですから、ラグビーはあくまでもチャレンジの場であって、将来は他の仕事で生計を立てるんだと考えていました。

12チームが参加して行われるイングランドのトップリーグプレミアシップ

12チームが参加して行われるイングランドのトップリーグ
“プレミアシップ”

―― プレミアシップでやってみて、いかがでしたか?

自分として手応えは感じていました。しかし、わずか2人という外国人枠が高いハードルとなっていました。当時、同じチームにはオーストラリア代表としてRWCに2回出場経験のあったティム・ホランなど、世界的な選手がいました。そういう選手が出場すると、違うポジションでも同じ外国人枠の私にはなかなか出番が回ってこないんです。本当に、どうやって出場のチャンスを得られるのか、悩みましたね。

―― 海外でプレーするという気持ちにブレは生じませんでしたか?

ブレることはなかったです。試合に出られなくて悩んではいましたが、レベルの高いところでやれているという充実感はありましたので、迷いはありませんでした。

―― 日本でやるのとでは、どこに違いを感じていましたか?

当時は、全てが違っていたと思います。練習量ひとつとっても、向こうでは朝7時から、一日3部練習するのが普通でしたし、試合も年間40ほどありました。一方、日本では練習も夜に2、3時間で、試合もおそらく20もできていなかったと思います。それでいて、選手のレベルも違うわけですから、日本は海外のチームに絶対にかなわないなと感じていました。

―― 突然、首を切られるということもあったりするのでしょうか?

はい、すごくシビアでした。よく、メジャーリーグでも突然解雇を言い渡されて、その日のうちにロッカーを片付けるなんていう話をよく聞きますが、ラグビーの世界も同じでした。

―― トレーナーなど、サポート体制においては、日本との違いはありますか?

その部分では、間違いなく日本が世界のトップだと思います。それは日本のいい部分ではあると思いますが、一方で、十分すぎる環境が危機感を薄めている要因になっているとも言えると思います。

人生観を変えたフランスラグビーの影響

国旗の三色でフェイスペインティングをするフランスサポーター

国旗の三色でフェイスペインティングをする
フランスサポーター

―― その後、何度か移籍していますが、最も影響が大きかったのはどのチームですか?

フランス南西部にあるコロミエというチームですね。フランスのラグビー界では、1部リーグのトップチームでプレーするような選手も、引退する前に故郷のチームに戻って、そこで恩返しとして、貢献して辞めるというのがごくあたり前でした。私が所属したコロミエにも、隣町のトゥールーズという強豪チームに所属していた選手が何人か戻ってきてプレーしていました。
フランスでのラグビーというのは、それまでイングランドで触れてきたラグビー観や人生観とは違っていて、リラックスしてラグビーをしているような感じを受けました。そういう中で、海外でラグビーを終えて、その後は全く違うことをやるんだ、という自分の考えは、なんだかかっこつけているに過ぎないのかなと思えてきたんです。考えてみれば、自分はラグビーをやってきたからこそ、海外に行って、いろいろな人と知り合って、多くの経験をすることができたわけです。だったら、最後は何らかの形で日本のラグビーに携わって終わるというのも一つの選択肢としてあるんじゃないかな、と考えました。

―― 現役最後を日本で迎えたというのは、そういう理由があったんですね。

はい。フランスのラグビーに触れたことは、私のラグビー人生にとって、ひとつのターニングポイントになったと思います。ちょうどフランスのコロミエに所属していた時に、7人制ラグビーの日本代表コーチ就任のお話をいただいたんです。本当は、もう少し海外でプレーしたかったのですが、家庭の事情もあって、日本に帰国することになり、1年間セコムに所属しながら、7人制の兼任コーチをさせていただきました。翌2009年からは日本ラグビー協会のハイパフォーマンスマネージャーに就任しました。

―― 2009年というと、ちょうどラグビー界がいろいろと動きがあった年ですね。

はい、そうなんです。ちょうどその頃に、2019年RWCの日本開催や、7人制ラグビーがリオオリンピックの追加種目に決定しました。さらに、2013年には2020年東京オリンピックの開催が決定し、ラグビー界が取り巻く環境が次々と変わっていきました。

―― つまり、日本ラグビーの激動の時代の中で、日本代表の強化に携わってこられたわけですね。

2019年の前に、日本は一度RWCの招致に失敗しているんです。それでももう一度手を挙げたということで、私は日本協会が本気なんだなと感じていました。というのは、RWCを招致するということは、日本代表は出るだけでは済まされない。勝てるチームにしなければいけないわけです。日本が真剣に勝負しようとしている中で、自分が強化に携われるというのは、とても光栄でしたし、喜びを感じました。

日本に必要だったエディ・ジョーンズ

2012年~2015年まで日本代表のヘッドコーチを務めたエディ・ジョーンズ(オーストラリア)

2012年~2015年まで日本代表のヘッドコーチを務めたエディ・ジョーンズ(オーストラリア)

―― 2012年には、GMに就任されました。これは、予測はされていたのでしょうか?

いえいえ、全く想像していませんでした。2011年のRWCを終えて、日本代表のHCもジョン・カーワンから替わるという中で、突然GM就任の話が来たのですが、正直驚きました。年齢的にも30代半ばでしたから、まだそういう立場ではないと考えていました。 ただ、協会に入る際に、自分の中でRWCやオリンピックで日本を勝たせるというところで勝負したいという気持ちがありましたので、強化の責任者であるGMをやらせていただけるというのは、とてもありがたいことだと思いました。

―― 日本のラグビー界というのは、伝統があるからこそ、例えば日本協会と地域との連携が難しいなど、さまざまな問題が山積していたと思います。GMとして、どのようにしていこうと考えていたのでしょうか。

そういう意味では、2019年にRWCが開催されるということが非常に大きかったなと思います。2019年にRWCを開催するからには、そこで日本代表が勝つ姿を見せなければいけません。そのためには、多くのことを変えていかないとダメだということは誰の目から見ても明らかでした。
ですから、2019年RWCがあることによって、目指す方向は一致していました。それが、昨年のRWCや、今年のリオでの躍進につながったのだと思います。

―― GMとしての最初の重要な仕事として、カーワンの次のHCを誰にするかということだったと思いますが、エディ・ジョーンズに白羽の矢を立てたのは、何が決め手となったのでしょうか?

私の中では、2019年に日本でRWCがあることを考えると、その前の2015年のRWCでは必ずベスト8に入らなければいけないという強い思いがありました。そこで、HC選びのポイントとして考えていたのが「世界のトップチームでの実績があること」「世界とのネットワークがあり情報収集の能力に長けていること」「日本のラグビー事情を理解していること」の3つでした。

―― ほかにも候補者はいたのでしょうか?

何人かリストには挙がっていましたが、私の中では最初から「エディ・ジョーンズしかいない」と思っていました。その大きな理由としては、私自身がエディの下で実際にプレーした経験があったことにありました。私が19歳で、初めて日本代表に選出された時、実はエディが1年間だけコーチをしていたんです。その時のイメージと、周囲から聞いた話を加味して、「エディしかいない」と考えたのです。

岩淵健輔氏インタビュー風景(2016年)

インタビュー風景(2016年)

―― 交渉はスムーズに進んだのでしょうか?

そうですね。いろいろと条件はありましたが、エディ自身も前向きに考えてくれていましたから、特に難航することはありませんでした。本当に大変だったのは、就任後、どのようにしてチーム強化を進めていくか、その過程においては苦労の連続でした。というのも、エディは非常に気性が激しい性格でしたし、自分の考えをしっかり持っている分、絶対に曲げないわけです。それはオファーをする前の段階で、以前彼が在籍していた世界中のチームの関係者から聞いていました。
「ラグビーの指導者としては間違いなく優秀であって、必ず結果を出すだろう。だが、長くは続かない。おそらく4年間は無理だよ」と、みんなに同じことを言われていたんです。ですから強化については心配していませんでしたが、4年間もたせるのは相当大変だろうなということは覚悟していました。実際は予想以上に大変で、特に周囲のスタッフの苦労は相当でした。私自身も、何度彼と口論になったことか……。
ただ、それはすべて日本を強くするため、勝つためということは一致していましたから、彼を選んで間違いだったと思ったことは一度もありませんでした。

―― エディが日本代表に求めたものとは何だったのでしょうか?

まずは世界一の練習です。そして、もうひとつは世界一のマインドを持つこと。サントリーや日本代表で指導した経験のあるエディは、日本のラグビー事情をよく知っていました。日本人選手がいかに恵まれた環境でやっているのか、そこに慣れてしまって外に出て行こうとしない甘さがあることもわかっていましたし、世界に対してどこかで「負けても仕方ない」という考えがあることも見抜いていました。それでは勝つことはできない。
だからこそ、嫌われ役になってでも厳しく指導にあたっていたんです。エディは「ダメだ」とは言っても、褒めることはほとんどしませんでした。そんな中で、選手もスタッフも、本当によく耐えたと思います。RWCで1勝もしていない日本が強くなるには、それくらいギリギリのところまでやらなければいけなかったんです。

2015年ワールドカップで好成績を上げ、帰国記者会見に臨む日本代表。左が岩渕健輔日本代表。右がエディ・ジョーンズ/ヘッドコーチ

2015年ワールドカップで好成績を上げ、帰国記者会見に臨む
日本代表。左が岩渕健輔日本代表GM。
右がエディ・ジョーンズ/ヘッドコーチ

―― 日本が変わった時期というのは、いつ頃だったのでしょうか?

これまでは、世界のトップチームとは試合をする機会がほとんどありませんでした。RWCで強いチームといきなり当たっては大敗を繰り返してきたわけです。それでどうやって勝つんだ、というのが選手には正直あったと思います。ですから、まずはRWCまでに世界のレベルを感じながら、少しずつ自分たちが成長しているということを実感できる場を用意しなければいけないと考えました。
それで2013年にウェールズが来日して試合をしたわけですが、そこで勝つことが、我々の最初のミッションでした。実はそこで勝てなければ、私はエディと一緒に辞職しようと考えていたんです。それくらいの覚悟を持って臨んだ試合でした。選手もウェールズに勝ったことで、「これだけきついことをやれば、勝てるようになるんだ」と思えたと思います。そこでもし負けていれば、選手もエディの厳しさに耐えられなかったかもしれませんね。
それと、ニュースにもなりましたが、その年の秋、エディが脳梗塞で倒れて入院してしまって、約半年、チームを離れました。その間、選手もスタッフもすごく心配しましたし、彼の指導がいかに自分たちの成長を促しているのかということを実感もしたと思います。だから翌シーズンにエディが復帰した時、チームは非常にいい雰囲気になりました。さらにその年イタリアに勝って、勢いに乗っていけた。今振り返ると、日本にとって2013年は大きなターニングポイントだったのかなと思います。

大金星をもたらしたキャプテンの判断

―― 結果として、昨年のRWCでは優勝候補の南アフリカに勝つという大金星を挙げました。

初戦が南アフリカと決まってから、その試合をターゲットにしてきました。とにかくそこで勝とうということで、南アフリカ戦に特化した戦略をずっと詰めていったんです。

―― 南アフリカに勝つには、何が一番重要とされたのでしょうか?

我々スタッフが最も懸念していたのは、選手たちが本当に勝てると思えるかどうかでした。確かに4年間、世界一と言えるほどのハードな練習をし、ウェールズやイタリアに勝つという実績も挙げて、自信を掴んできました。でも、日本ラグビー界には、RWCで勝った歴史がないわけです。そんな中で、優勝候補の南アフリカに心の底から勝とうと思えるかどうか。それは、試合が始まる最後の最後まで、わかりませんでした。

2015年ワールドカップのアメリカ戦で勝利し喜ぶ日本代表

2015年ワールドカップのアメリカ戦で勝利し喜ぶ日本代表

―― 南アフリカ戦の最後、ペナルティを得て、日本はキックではなく、スクラムを選択してトライを狙いにいきました。つまり、同点ではなく、勝ちにいったわけです。あのシーンにこそ、4年間の成果が表れていたのではないでしょうか。

あの時、私は勝負に行ってほしいという気持ちでした。だからトライを狙いに行くとわかった時、「あぁ、選手たちは本当に勝とうとしているんだな」とわかり、とても嬉しかったですし、勝利を確信しました。エディはキックで狙えという指示を出していましたから、キャプテンのマイケル・リーチがスクラムを選択したことに、実は非常に怒っていたんです。裏を返せば、あれだけ「勝つんだ」と言い続けてきたエディでさえも、あの状況で南アフリカに勝つとは思えなかったわけです。同点でいいと思ったからこそ、キックの指示を出したんだと思います。同点でも、日本にとっては快挙でしたからね。

2015年ワールドカップでは強豪南アフリカを24年ぶりに破る殊勲をあげた

2015年ワールドカップでは強豪南アフリカを24年ぶりに破る殊勲をあげた

ところが、選手たちはそのエディの指示を覆してでも勝ちにいった。あとで聞いた話ですが、試合当日の朝、リーチはエディから「最後はあなたが判断しなさい」と言われていたそうです。ですからリーチは自分で判断して、スクラムを選択したと。
実は1年ほど前に、リーチに「エディに物を言えるくらいにならないと、本当の意味でチームは強くならないよ」と言ったことがあったのですが、彼のキャプテンとしての成長があの勝利をもたらした一つの大事な要素だったと思います。

―― GMとしても、ミッションをクリアしたと言えるのではないでしょうか。

目標としていたベスト8に届かなかったわけですから、結果を出したとは言えません。もちろん、南アフリカに勝ったことについては、選手やスタッフに感謝したいと思っていますし、日本の誇りだと思っています。
しかし、GMとしては反省しかありません。それはRWCもそうですし、メダルを獲得できなかったリオオリンピックにおいても、同様です。まだまだ私自身の覚悟が足りなかったなと思いました。

2015年ワールドカップの南アフリカ戦の後、日本のサポーターに挨拶する日本代表

2015年ワールドカップの南アフリカ戦の後、
日本のサポーターに挨拶する日本代表

50年、100年後につながる大会へ

―― 2019年RWCでの目標はどこに置かれているのでしょうか?

日本協会としては、まだ正式には発表していませんが、私個人としては「ベスト4」に置くべきだと考えています。過去のRWCでの成績を考えれば、2勝や3勝でも非常に価値のあることです。しかし、同じプロである野球界ではワールド・ベースボール・クラシックで2度も優勝し、またサッカーでは女子がW杯で優勝、ロンドンオリンピックでは銀メダルを獲得しています。そんな中で、ラグビーだけが自国開催の大会で2勝や3勝を目標とするわけにはいきません。やはりベスト4を目指すくらいの気概を持って、取り組んでいかなければいけないと思っています。

2015年ワールドカップでの日本のサポーター

2015年ワールドカップでの日本のサポーター

―― そのために必要なこととは?

以前から考えていたのは、RWCが終わった後、強化を進めながら、新しいHCが来た時には、既に土台ができているようにしたいなということです。
そこで選手強化が継続して行われるようなシステムを構築しようと取り組み始めたのが、スーパーラグビー(2~7月に行われる国際リーグ戦。2016年シーズンは、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、アルゼンチン、日本から計18チームが参加)へのチーム派遣です。

―― まだまだ課題はあると思いますが、2019年RWC、2020年東京オリンピックと2年連続で国際大会を日本で開催するというのは、日本ラグビーにとって大きなチャンスであることは間違いありません。

はい、おっしゃる通りです。こんなチャンスは、もう100年はないでしょう。そう考えると、この3、4年で、その後の50年、100年につながる歴史を作るというくらいの気概と覚悟で臨みたいと思っています。

ラグビー・岩渕健輔氏の歴史

  • 岩渕健輔氏略歴
  • 世相

1899
明治32
慶應義塾大学の教授でケンブリッジ大学のラグビー選手でもあったクラーク氏と、同大学の選手
でもあった田中銀之助氏に よって慶應義塾大学でラグビーの指導が始められる
1919
大正8
第1回日本フットボール大会(現・全国高等学校大会)開催
1924
大正13
関東ラグビーフットボール協会創設
1926
大正15
関西ラグビーフットボール協会創設
日本ラグビーフットボール協会が、関東ラグビーフットボール協会と、関西ラグビーフットボール協会の統一機関として創設
1928
昭和3
高木喜寛氏、日本ラグビーフットボール協会の初代会長に就任
第1回東西対抗ラグビー、甲子園球場にて開催
1929
昭和4
近鉄花園ラグビー場完成
1930
昭和5
日本代表、カナダで初の海外遠征を行う(6勝1分)
1942
昭和17
日本ラグビーフットボール協会、大日本体育大会蹴球部会に位置づけられる

  • 1945第二次世界大戦が終戦
1947
昭和22
秩父宮雍仁さま、日本ラグビーフットボール協会総裁に就任
九州ラグビー協会(現・九州ラグビーフットボール協会)創設
東京ラグビー場(現・秩父宮ラグビー場)竣成

  • 1947日本国憲法が施行
1949
昭和24
第1回全国実業団ラグビー大会開催
1950
昭和25
第1回新生大学大会開催
「全国大学大会」の名称となる

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951安全保障条約を締結
1952
昭和27
全国実業団ラグビー大会、第5回から全国社会人ラグビー大会に改称
1953
昭和28
田辺九萬三氏、日本ラグビーフットボール協会の2代目会長に就任
東京ラグビー場、秩父宮ラグビー場に改称

  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
香山蕃氏、日本ラグビー蹴球協会の3代目会長に就任
1961
昭和36
第1回NHK杯ラグビー試合(現・日本選手権)開始
1962
昭和37
秩父宮ラグビー場、国立競技場に移譲
1963
昭和38
日本代表、戦後初の海外遠征(カナダ)を行う
1964
昭和39
第1回日本選手権試合開催

  • 1964東海道新幹線が開業
1965
昭和40
第1回全国大学選手権大会開催
1968
昭和43
湯川正夫氏、日本ラグビーフットボール協会の4代目会長に就任
1969
昭和44
第1回アジアラグビー大会開催
日本は全勝で優勝を果たす

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1970
昭和45
横山通夫氏、日本ラグビーフットボール協会の5代目会長に就任
1971
昭和46
第1次・高校日本代表のカナダ遠征
1972
昭和47
椎名時四郎氏、日本ラグビーフットボール協会の6代目会長に就任
1973
昭和48
全国高校選抜東西対抗試合開始

  • 1973オイルショックが始まる
1975
昭和50
  • 1975岩渕健輔氏、東京都に生まれる
          
  • 1976ロッキード事件が表面化
  • 1978日中平和友好条約を調印
1979
昭和54
阿部譲氏、日本ラグビーフットボール協会の7代目会長に就任

1982
昭和57
代表キャップ制度を発足

  • 1982東北、上越新幹線が開業
1987
昭和62
第1回ワールドカップ開催
1990
平成2
磯田一郎氏、日本ラグビーフットボール協会の8代目会長に就任
1992
平成4
川越藤一郎氏、日本ラグビーフットボール協会の9代目会長に就任
1993
平成5
第1回ジャパンセブンズ開催
1995
平成7
金野滋氏、日本ラグビーフットボール協会の10代目会長に就任


  • 1995阪神・淡路大震災が発生
  • 1997香港が中国に返還される
1998
平成10
  • 1998岩渕健輔氏、神戸製鋼入社後にケンブリッジ大学に入学
1999
平成11
  • 1999岩渕健輔氏、ワールドカップ日本代表選手となる
2000
平成12
IRBワールドセブンズシリーズ日本大会開催

  • 1999岩渕健輔氏、イングランドプレミアシップのサラセンズ入団。日本人初のプレミア出場を果たす
2001
平成13
町井徹郎氏、日本ラグビーフットボール協会の11代目会長に就任
2002
平成14
女子ラグビーが日本協会に加入
第4回女子ワールドカップに初参加
2003
平成15
ジャパンラグビー トップリーグが社会人12チームで開幕
2005
平成17
森喜朗氏、日本ラグビーフットボール協会の12代目会長に就任
2006
平成18
ジャパンラグビートップリーグチーム数は12チームから14チームへ増加
2008
平成20
  • 2008岩渕健輔氏、7人制日本代表選手兼任コーチに就任
  • 2008リーマンショックが起こる
2009
平成21
U20世界ラグビー選手権(IRBジュニアワールドチャンピオンシップ2009)開催
2019年開催の第9回ラグビーワールドカップの日本招致成功

  • 2009岩渕健輔氏、日本協会ハイパフォーマンスマネージャーに就任
2010
平成22
2019年ラグビーワールドカップ日本開催組織委員会設立準備始まる

  • 2011東日本大震災が発生
2012
平成24
  • 2012岩渕健輔氏、日本代表のゼネラルマネージャーに就任(7人制、15人制、女子)
2013
平成25
日本ラグビーフットボール協会、公益財団法人へ移行
2015
平成27
岡村正氏、日本ラグビーフットボール協会の13代目会長に就任