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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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1964東京大会を支えた人びと
第64回
「不正スタート対策」に奔走した陸上競技スターター

野﨑 忠信

27歳という若さで、1964年東京オリンピックの陸上競技スターター補助役員に抜擢され、パラリンピックではスターターを務めた野﨑忠信氏。

オリンピックの歴史的瞬間として語り草となっている男子100mで「10秒0」の世界新記録が樹立された背景には、1956年メルボルン大会、1960年ローマ大会とオリンピックで相次いだ「不正スタート」(通称:フライング)の対策に尽力したスターターたちの並々ならぬ努力があったと言います。その一員として役割を果たした野﨑氏に、大成功に終わった東京オリンピック陸上競技の舞台裏についてうかがいました。

聞き手/佐塚元章氏  文/斉藤寿子  構成・写真/フォート・キシモト

 徹底された「位置について、用意」の海外選手への認知

国立競技場スタンド通路にて

国立競技場スタンド通路にて

―― 1964年、東京オリンピックが開催された時は、野﨑さんはどんな役割をされていたのでしょうか?

当時、私は27歳で、普段は教員として高校に勤務していました。しかし、東京オリンピック期間中の約1カ月間は職免ということで、日本陸上競技連盟から打診を受けるかたちで、陸上競技の今で言う「スターター」、当時は「出発合図員」と呼ばれていましたが、その補助役員を務めました。

―― オリンピック競技の中でも、陸上競技は多種目にわたって行なわれますから、それだけ審判員の数も多かったと思います。実際、どのくらいの人数で編成されていたのでしょうか?

全国47都道府県から、それぞれ優秀な審判員を動員しまして、全国規模で審判員が編成されました。補助役員を含めると、400人体制という大掛かりなものでした。そのなかでも、当時の東京陸上競技協会(以下、東京陸協)には、優秀な審判員が沢山いて、東京オリンピックの陸上競技において、主要なポストはほとんどが東京陸協関係者から選ばれていました。

スターターの任務を終えての退場(右から2人目が野崎氏)

スターターの任務を終えての退場(右から2人目が野崎氏)

―― 本番に備えての準備というのは、いつ頃から始まって、どのような研修を受けられたのでしょうか?

開幕1年前に行なわれたプレオリンピックの時には既に準備が始まっていて、開幕までの間、研修はもう数え切れないほど受けました。毎日のように実際に競技を行ない、それをもとにして分厚いハンドブックが作られたんです。私自身はハンドブックの製作には直接は関わっていませんが、本当に細かく書かれてあって、これを作るのは相当大変な作業だったと思います。

―― 海外選手への対応については、例えば語学研修などがあったのでしょうか?

語学は、それほど意識してはいなかったですね。開幕の1カ月前頃から続々と海外選手が来日して、選手たちが練習をするわけです。その際、陸上競技のスターターは毎日練習に立ち会いました。なぜかというと、「我々日本のスターターは、こういうふうにしてスタートの合図をするんだよ」ということを選手に理解してもらいたかったからです。当時のIAAF(国際陸上競技連盟、以下IAAF)の規則としては、「開催国の言語で、スタートの合図をして良い」とされていました。ですから、日本語では「位置について、用意」だということを選手に覚えてもらうために、開幕の3週間前から毎日、午前と午後、スターターと補助役員は、東京体育館にあったサブトラック、東京大学、織田フィールド(代々木公園陸上競技場)の3会場に分かれて選手の練習に立ち会いました。来る日も来る日も、「On Your Mark」は「位置について」で、「Set」は「用意」だということを海外選手に伝え続けたんです。

選手村でアメリカの陸上選手と記念撮影

選手村でアメリカの陸上選手と記念撮影

―― すぐに覚えてもらえましたか?

それが面白いもので、どの国においても、外国語で一番最初に覚えるのは数字のようで、海外の選手たちは「イチ、ニ、サン、シ、ゴ……」という日本語はわかっていたんですね。そうすると、「位置について」の「位置に」を数字の「イチ、ニ」と理解し、「オーケー。『ワン、ツー、スリー』だね」と、すぐに覚えてくれる選手が多かったですね。

―― 当時のスーパースターで、実際に東京オリンピックでは男子100mで金メダルに輝いた、ボブ・ヘイズ(アメリカ)の練習にも立ち会ったのでしょうか?

実は、ヘイズはなかなか練習会場に現れなかったんです。私の恩師でペアを組ませていただいていた「スターターの神様」こと佐々木吉蔵先生は、ヘイズが来るのをとても楽しみにしていて、毎日のように「今日も来なかったなぁ」とつぶやいておられました(笑)。それで、確か開幕の5日前になって、ようやく現れたわけです。私が最初に彼の姿を発見したものですから、佐々木先生に「ヘイズが来ましたよ!」と伝えたのですが、その時の佐々木先生の喜んだ顔は、今でも忘れることができません。

東京大会男子100m金メダリストのボブ・ヘイズ(アメリカ)

東京大会男子100m金メダリストのボブ・ヘイズ(アメリカ)

―― ヘイズは、「位置について、用意」という合図をすんなりと受け入れましたか?

はい。佐々木先生が立ち会って、7、8回、スタートの練習を行なったのですが、すぐに理解してくれました。それと、彼はやっぱり頭がいいなぁと思ったのは、その7、8回の練習を、すべて違うタイミングでスタートを切っていたんです。早く飛び出してみたり、ゆっくりと飛び出してみたり……。つまり、佐々木先生がどういうスタートの時に、どういう撃ち方をするのかということを確認していたんだと思います。そして、練習が終わった後に、佐々木先生に「あなたが本番も撃つんだろう?」と聞いてきたそうです。佐々木先生が「私が打ちますよ」と答えると、「これでオレは、安心してスタートを切ることができるよ」と先生と握手をして帰っていきました。彼は自信を持って本番に臨んだと思います。

 「スターターの神様」佐々木氏に抜擢

岡山国体・教員の部400mに出場(1962年、右端が野崎氏)

岡山国体・教員の部400mに出場(1962年、右端が野崎氏)

―― そもそも野﨑さんがスターターを務めるようになったきっかけは何だったのでしょうか?

私自身は、現役時代は200m、400mの短距離ランナーでした。私が東京学芸大学に入学した時の4月に、佐々木先生は同大学から文部省(現文部科学省)に転勤になったんです。ですから直接指導は受けていませんでしたが、関東のインターカレッジなどの大会になると、スターターを務めながら、母校の選手たちを見てくださっていました。そこで私がそこそこの活躍をしていたので、気にかけてくださっていたんでしょうね。大学を卒業後、審判員の資格を取得した私に、佐々木先生が「君はスターターをやりなさい」と勧めてくださったんです。いきなり言われて驚きましたが、「あぁ、学生時代から私のことを見てくれていたんだなぁ」と思って、嬉しかったですね。

―― きっかけは、佐々木さんだったんですね。

そうなんです。ですから、佐々木先生には非常にかわいがっていただきました。当時は審判員の資格というのは、第3種、第2種、第1種、終身第1種となっていたのですが、まだ2種になりたての私を東京オリンピックの補助役員に指名してくださったんです。

東京大会で主任スターターを務めた恩師佐々木吉蔵氏

東京大会で主任スターターを務めた恩師佐々木吉蔵氏

―― 「スターターの神様」と呼ばれていた佐々木さんとは、どんな存在だったのでしょうか?

佐々木先生は、現役時代には陸上競技で1932年ロサンゼルス、1936年ベルリンと2大会連続でオリンピック日本代表に選出された方でしたから、私が学生の頃はそれこそ雲の上の存在でした。まさか身近に接することができるようになるとは、まったく想像していませんでした。ロサンゼルス大会は残念ながらケガで出場することができなかったのですが、ベルリン大会では100mに出場されました。その一次予選では、決勝で金メダルを獲得したジェシー・オーエンス(アメリカ)と同じ組で、しかも隣同士だったんです。それでスタートの時に、佐々木先生がちらっとオーエンスの方に目をやると、彼の手がじりじりと前に出てきていたというんです。スタートラインというのは5cmの白いラインが引かれているわけですが、通常はそのラインの手前に手をつくのに、オーエンスは少しずつ5cmラインの前方に手を伸ばしていたというんですね。疑問に思った佐々木先生はレース後に1920年のアントワープオリンピックに出場した野口源三郎さんら、現地にいた陸上関係者の重鎮に「5cmラインのどこからがスタートで、どこまでがフィニッシュなのか」と聞いたのですが、当時は国際ルールに規定されていなかったんです。

戦後になってようやくIAAFのルールに規定されました。それによると「スタートのラインは100mの中に含まれ、フィニッシュのラインは含まれない」と。つまり、スタートラインに手をかけてはいけないということなんですよね。佐々木先生は、ベルリン大会以降、ずっと悩んでいたようで、ルールで規定されたのを確認してようやくすっきりされたそうです。そんなエピソードを先生から伺いましたが、それほどルールに対して厳格な方でした。ですから、スターターとしても妥協は一切ありませんでした。しかし、その一方で、「スタートが切りやすいスターターでなければいけない」と選手に対しては優しかったですね。私がよく言われたのは、スターターは選手が気持ち良くスタートを切ることができる雰囲気づくりを心掛けなければいけないということでした。進行が遅れる状況になった時、選手に対して「命令調に早くスタートラインにつきなさい!」などと、厳しく注意する人がいるのですが、そうではなくて、「レースに不慣れな初心者の選手ほど丁寧に扱いなさい。そうやって選手とスターターの信頼関係を築いていくんですよ」と、常に佐々木先生から教わったことを心掛けながら、私もスターターを務めるようにしてきました。

―― その佐々木先生から指名をされ、アジア初開催のオリンピックにご自身が関わることができるとなった時のお気持ちはどんなものだったのでしょうか?

いやぁ、自分が東京オリンピックに関われるのかと思うと、本当に嬉しかったですよ。大学を卒業してまだ5年で選んでいただいたんですからね。当時、20代の若さで補助役員を務めたのは、少なかったと思います。

東京オリンピック開会式で電光掲示盤に表示された“オリンピックの精神”を説いたクーベルタン男爵の言葉

東京オリンピック開会式で電光掲示盤に表示された“オリンピックの精神”を説いたクーベルタン男爵の言葉

―― 当時、東京オリンピックに向かう日本というのは、野﨑さんの目にはどんなふうに映っていましたか?

まずはオリンピックを招致するという段階から、次々とあちらこちらで工事が始まったんです。競技施設はもちろんですが、高速道路、新幹線の開通と、まさに突貫工事でしたよね。今思うと、50年、100年先を見て、東京の街をどうしていくのかということを考えなければいけなかったのではないかと思いますね。でも、当時は近代化の波が押し寄せて、そんなことを考える余裕はなかったのだと思います。まさに「オリンピック景気」にわいていました。

東京大会のために改装された国立競技場の空撮

東京大会のために改装された国立競技場の空撮

―― 開会式と陸上競技が行なわれた国立競技場も、東京オリンピックのためにリニューアル工事が行なわれたんですよね。

はい。国立競技場は1958年に東京で開催されたアジア競技大会のために造られたのですが、東京オリンピックに向けて、新たにバックスタンドが増設されました。2020年東京オリンピックに向けては、結局取り壊されてしまいましたが、これもまた、今思うと、100年先にも使用できるように考えて造っておけば良かったんじゃないかなと思うわけです。新国立競技場には常設のサブトラックがないということで、オリンピック後は陸上競技の国際大会は行なえないわけですが、1964年の時に東京体育館の脇にあった300mトラックをサブトラックにするのではなく、きちんと400mのサブトラックを造っておけば、今のような問題は起こらなかったのかなと、少し残念ですね。

 忘れられない「円谷銅メダル」に流した織田氏の涙

東京大会マラソンで銅メダルを獲得した円谷幸吉(左)

東京大会マラソンで銅メダルを獲得した円谷幸吉(左)

―― 当時、日本の陸上競技界というのは、世界の中でどのような位置づけにあったのでしょうか?

男子は100mに10秒1の日本記録を持っていた飯島秀雄がいましたし、800mにも森本葵という注目選手がいました。森本はドイツに留学をしていて、1分47秒台という好記録を出していましたから、おそらく入賞はできるだろうと期待されていました。そして何といっても、円谷幸吉、君原健二、寺沢徹の3人がいたマラソンが、注目度としては一番高かったと思います。

―― 女子の方はいかがでしょうか?

女子の中では、やはり80mハードルの依田郁子でしたね。飯島と同じ指導者の下でやっていて、依田も飯島もそろって決勝に行くだろうと期待が寄せられていました。結局、依田は決勝に残って5位入賞しましたが、飯島は残念ながら準決勝敗退でした。

―― 陸上競技で日の丸を揚げたのは、マラソンで銅メダルを獲得した円谷ただ一人でした。

はい、そうです。しかも、円谷は陸上競技の初日に10000mで6位入賞を果たしているんです。当時「入賞」は8位ではなく、6位まででしたから、まさにギリギリで入ったということになりますが、日本男子のトラック競技としては戦後の初の入賞でしたから、大健闘だったわけです。さらに最終日のマラソンでも銅メダルを獲得したんですからね。今考えると、よく走ったなと思いますよ。

円谷は国立競技場に入ってからイギリスのヒートリーに抜かれた

円谷は国立競技場に入ってからイギリスのヒートリーに抜かれた

―― 日の丸が掲揚された時の感動というのは、どういうものでしたか?

よく覚えていますよ。最終日でしたから、審判員と補助役員は全員、国立競技場にいたんです。審判員の控室はダッグアウトにあったのですが、円谷が2位で競技場に入ってくることはテレビ中継でわかっていました。その日まで陸上競技で日の丸が一度も揚がっていませんでしたから、陸上競技のヘッドコーチを務めていた織田幹雄さん(1928年アムステルダムオリンピック三段跳びで日本人初の金メダルを獲得)が、競技場に現れた円谷の姿に「これでようやく日の丸が揚がる」ということで、ボロボロ涙を流されていたんです。  私はその姿が衝撃的で、円谷よりも織田さんを見ていたくらいです。途中で、円谷がベイジル・ヒートリー(イギリス)に抜かれた時には、悲鳴があがりましたが、それでも国立競技場のポールに初めて日の丸が揚がったわけですから、織田さんをはじめ、審判員も全員、感慨ひとしおだったと思います。

 高さ、位置、声のタイミング、音量……緻密に図られた「不正スタート」対策

インタビュー風景

野﨑忠信氏インタビュー風景

―― さて、スターターのお話をお伺いしたいのですが、当時はどういう技術のもとで行なわれていたのでしょうか?

1956年メルボルン大会でも1960年ローマ大会でも不正スタートが相次いだということもあって、佐々木先生にはすべてのレースにおいて不正スタートをせず一発でスタートをさせたいという思いが一番にありました。そのために文部省を退職して、日本体育大学に移ったんですから、まさに執念ですよね。

準備の段階で行なわれたのは、まずはスターターが立つスタート台を、直走路と曲走路の種目とでそれぞれどの高さにすべきかということが検討されました。曲走路の場合はスタートの位置が階段状になっていますから、横一線の直走路の場合よりも少し高くしないと選手全員が見えないんです。それで、さまざまな高さのスタート台を作って試してみた結果、直走路は30cm、曲走路は80cmとなりました。それからスターターが立つ位置。どの位置に立てば、スターターの目から選手が一番見やすいのかということで、これもまたいろいろと実験が行なわれました。実は、オリンピックでは1960年のローマ大会までは6レーンだったのですが、東京大会からは8レーンとなったんです。わずか2レーン増えただけと思われるかもしれませんが、スターターにとっては大変なことでした。6レーンだった時には、曲走路の場合、各スタートラインから等距離の位置に立てば、全員を一度に見ることができたんです。ところが、8レーンになった途端に、見なければいけない範囲が2レーン分広範囲になったことで、等距離の位置では両端の1レーンと8レーンの選手が視野から切れてしまって見えなくなってしまったんです。そこで、1レーンのスタートラインから10m後方に下がってみたところ、きちんと見えることがわかりました。ところが、それでは1コースと8コースとではスターターとの距離に差異が出てしまい、音の伝達速度に平等性が保てないという問題が浮上しました。つまり、スターターに最も近い1レーンには速く伝わって、アウトレーンになればなるほど遅く伝わってしまうわけです。実際、ピストルを撃つと、1レーンから順に階段状になってスタートが切られました。これでは公平なレースができません。

現在は8レーンが使われている

現在は8レーンが使われている

そこで本番ではどうしたかというと、各スタートラインに置くレーンナンバーボックスの中にスピーカーを設置したんです。そこからピストルの音を聞かせるということにしたわけです。ところが、スピーカーから聞こえてくるピストルの音は実際の「ドン」ではなく、「ガー」という音しか出てこない。ほぼ同時に伝わる1レーンはいいのですが、アウトレーンになればなるほど、「ガー」という音の後に、遅れて「ドン」という音が聞こえて、2回音が伝わってしまうんです。そうすると、ランナーは不正スタートがあったと誤解をして走るのを止めてしまうことがありました。そこで対策として、「遅れて『ドン』という音が聞こえるけれども、それは無視をして、とにかく最初にスピーカーから聞こえてくる『ガー』という音でスタートを切りなさい」ということを、本番では予選から出発係を通じて全選手に徹底的に伝えるということをしました。その結果、ひとつのトラブルもなく、事なきを得ました。一方、直走路の場合には、スターターの立つ位置をスタートラインから3m、1レーンから4m後方の位置にしました。スタートの動作は、一番最初に足が動くんですね。ですから、8人全員の足の動きがよく見ることができるということで、その位置になりました。

東京大会男子4×100mR決勝で撃った薬莢

東京大会男子4×100mR決勝で撃った薬莢

―― 裏ではそういったご尽力があったというわけですね。

実はもうひとつ、不正スタート対策として、佐々木先生が行なったことがありました。それは、「位置について」から「用意」、「用意」から号砲まで、ピストルを撃つまでのタイミングです。佐々木先生の指示で、私は4人のスターターがそれぞれどのくらいかかっているかをストップウオッチで測りまして、どの位のタイミングだと不正スタートが起こりやすくて、どの位のタイミングだときれいにスタートすることができるのか、というデータを1年前から取りました。東京オリンピックのスターターは4人いたのですが、その平均値は2秒でしたので、1.8~2.0秒が一番スタートを切りやすいという結果を佐々木先生に伝えました。それと、言い方も非常に重要で、例えば「用意!」と大きな声で言ってしまうと、その声に反応してパッと出てしまう傾向があるんです。逆にちょっと声を低くして優しく「用意」と言うと、腰を上げ静止することができるんですね。そうすると、選手は落ち着いて腰を上げて待っていられるので、全員が静止したのを確認してからピストルを撃つというふうにしていました。

―― 佐々木さんのスタートにかける強い思いが伝わってきますね。

はい。しかも佐々木先生は、スターターに何かあった場合に即座に対応できるようにと、もうひとり予備のスターターを配置するという体制をとりました。実は、この予備スターターをつけたことに着目したIAAFのITO(国際テクニカルオフィシャル)がいまして、「これはいい制度だ」ということで、東京オリンピックの2年後に正式に国際ルールとして導入されたんです。つまり、今でいう「リコーラー」が導入されたきっかけをつくったのは、東京オリンピックだったんですね。

―― ちなみに本番で使用されたピストルは、本物だったのでしょうか?

東京大会男子100m決勝、右端がボブ・ヘイズ

東京大会男子100m決勝、右端がボブ・ヘイズ

警視庁から38口径ニューナンブのピストルを4丁借りてきまして、実砲で撃ちました。もちろん実弾ではなく、火薬を詰めて空砲で撃っていたわけですが、難しかったのは火薬の量で音量が異なることでした。そこで、どれくらいの火薬の量を詰めた時が最も適した音の大きさなのかということで、ずいぶんと実験しましたよ。それで、「この量」というのが決まって、本番に臨んだわけです。そして、私の仕事は毎日競技が終わった後に4丁のピストルを磨くことでした。もう、毎日ピカピカに磨き上げましたよ。

 2020年大会が「Sports for All」のきっかけに

―― そうしたスターターの並々ならぬ努力もあって生まれたのが、男子100mでヘイズが出した「10.0秒」という世界新記録でした。

あの時のことは、よく覚えています。私自身は、スタートラインの後方約20mのスタンド下の場所でスタートタイミングの計時をしていましたので。ファイナリスト8人は、一次予選、二次予選、準決勝ときて、決勝で4度目のレースでしたから、スターターの佐々木先生の撃ち方というのはもうわかっていたと思います。ですから、佐々木先生が「位置について~用意」と言った時、準決勝までバラバラだった腰の上がるタイミングが、決勝では8人全員がパッときれいに上がって静止したんです。そこからは、動きませんでした。
  それで、佐々木先生も「これ以上待ったら動いて不正スタートになる」というギリギリのところで撃ったと思うのです。そのタイミングは「用意~号砲」まで1.6秒でした。いつもよりは少し早かったのですが、きれいに一発で8人が出ました。私は後ろから見ていて、「よし、一発で出た!」とほっとしていました。そしたら佐々木先生がスタート台から下りてきて、「もう俺の役目は終わった」とおっしゃったんです。実際は、陸上競技の2日目でしたから、まだまだレースはありました。ただ、一番の花形競技である男子100mを一発でスタートさせたことに、安堵の気持ちがあったのだろうと思います。

大会前に開催されたスターター講習会。右から4人目がメルボルン大会でスターターを務めたでパッチング氏。右端が野崎氏。(国立競技場)

大会前に開催されたスターター講習会。右から4人目がメルボルン大会でスターターを務めたパッチング氏。右端が野崎氏。(国立競技場)

―― もう、あとは誰が勝ってもいいというくらいのお気持ちだったんでしょうね。

本当にその通りだったと思いますよ。それで、気付いたらヘイズが優勝していたという感じでした。しかも、10秒0という世界新記録を出しましたから、競技場は大興奮でした。

―― 不思議だったのが、通常は準決勝のタイム順で決勝のレーンが決まりますから、ヘイズは真ん中のレーンになっていたはずですが、あの時は1レーンでした。何か理由があったのでしょうか?

現在は、準決勝の上位4人が抽選で3~6レーンの真ん中を走り、下位の4人が1,2と7、8の端のレーンを走ることになっているのですが、当時は8人全員で抽選をするというルールだったんです。それで、ヘイズは1レーンを引いたんです。

―― 東京オリンピックではアクシデントというようなものはあったのでしょうか?

いえ、アクシデントと呼べるものは記憶にないですね。というのも、織田さんをはじめ、1936年ベルリンオリンピックで棒高跳び銀メダリストの西田修平さんなど、陸上競技関係者には錚々たるメンバーがいらっしゃる中で、「失敗はひとつも許されない。完璧にやらなければ成功にならないんだ」と言われていました。審判員は全員、そのことを肝に銘じていたと思います。ですからミスというものは皆無で、完璧にやり遂げたと思いますよ。おかげでIAAFの方からは「東京大会は、これまでのオリンピックの中で最高の大会だった。今大会の審判団は素晴らしい」と、お褒めの言葉を頂戴しました。

オリンピックに続いて行われたパラリンピックのポスター

オリンピックに続いて行われたパラリンピックのポスター

―― 東京オリンピックの1カ月後には東京パラリンピックが開催されましたが、こちらはいかがでしたでしょうか?

おそらく1964年の東京パラリンピックの記憶がある人は、ほとんどいないと思いますね。陸上競技は国立競技場ではなく、織田フィールドで行なわれました。競技プログラムも事前に用意されていなくて、当日受付で手書きの進行表や日程表、出場者リスト(ガリ版刷りや青焼き)をもらった記憶があります。種目数も今のように多くはなく、とても少なかったですね。競技場にいたのは、ほとんど関係者で、観客といっても選手の身内ばかりでした。報道もほとんどされていなかったと思いますので、開催されていること自体を知っている人たちが少なかったと思います。

―― 野﨑さんご自身は、どのような立場で関わられたのでしょうか?

パラリンピックの審判団は、オリンピックの審判団の中で、比較的若い人たち、それも東京陸協の人たちで編成されていました。ですから、27歳だった私もパラリンピックではスターターを務めました。

野﨑忠信氏インタビュー風景

野﨑忠信氏インタビュー風景

―― 1964年の東京オリンピックとパラリンピックを経験した野﨑さんからすると、2020年はどんな大会になってほしいと思われますか?

正直に言えば、2011年に起こった東日本大震災の被災地、特に未だに原発問題が解決されていない福島県のことを考えると、2020年に東京オリンピック・パラリンピックを開催することよりも復興を優先すべきではないかという気持ちもあるんです。ですから、2020年については手放しで喜ぶことは未だにできないところがあります。

ただ、もう開催することは決定したわけですから、やるのであれば、やはり将来につながる大会になってほしいなと思います。そのためには選手強化も大事ですが、「いつでも、どこでも、誰でも、安心して」スポーツができる環境が必要だと考えています。例えばドイツやイギリスをはじめヨーロッパではそういった施設が整備された環境の中で、スポーツが行われています。日本の場合はまだそのような環境に至っていません。現在有望な選手に対しては、資金を投入して重点的に育成をしていますが、それが底辺拡大にまで大きな役割を果たすようになってほしいと思います。よく「Sports for All」という言葉を耳にしますが、早くこの言葉が実現できるようになって欲しいと願っています。東京オリンピック・パラリンピックの開催が、その大きなきっかけになることを期待したいですね。

  • 野﨑 忠信氏とオリンピック 年表
  • 世相
1912
明治45

ストックホルムオリンピック開催(夏季)
日本から金栗四三氏が男子マラソン、三島弥彦氏が男子100m、200mに初参加

1916
大正5

第一次世界大戦でオリンピック中止

1920
大正9

アントワープオリンピック開催(夏季)

1924
大正13
パリオリンピック開催(夏季)
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の入賞となる6位となる
1928
昭和3
アムステルダムオリンピック開催(夏季)
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の金メダルを獲得
人見絹枝氏、女子800mで全競技を通じて日本人女子初の銀メダルを獲得
サンモリッツオリンピック開催(冬季)
1932
昭和7
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
南部忠平氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
1936
昭和11
ベルリンオリンピック開催(夏季)
田島直人氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
織田幹雄氏、南部忠平氏に続く日本人選手の同種目3連覇となる
ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック開催(冬季)

  • 1937 野﨑 忠信氏、東京都に生まれる
1940
昭和15
第二次世界大戦でオリンピック中止
1944
昭和19
第二次世界大戦でオリンピック中止

  • 1945第二次世界大戦が終戦
  • 1947日本国憲法が施行
1948
昭和23
ロンドンオリンピック開催(夏季)
サンモリッツオリンピック開催(冬季)

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951日米安全保障条約を締結
1952
昭和27
ヘルシンキオリンピック開催(夏季)
オスロオリンピック開催(冬季)

  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
メルボルンオリンピック開催(夏季)
コルチナ・ダンペッツォオリンピック開催(冬季)
猪谷千春氏、スキー回転で銀メダル獲得(冬季大会で日本人初のメダリストとなる)

1960
昭和35
ローマオリンピック開催(夏季)
スコーバレーオリンピック開催(冬季)

  • 1962 野﨑 忠信氏、東京都陸上競技協会普及強化コーチに就任
  • 1963 野﨑 忠信氏、東京都高等学校定時制体育連盟 陸上競技部 副部長に就任
1964
昭和39
東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
円谷幸吉氏、男子マラソンで銅メダル獲得 
インスブルックオリンピック開催(冬季)

  • 1964 野﨑 忠信氏、東京オリンピック・パラリンピック陸上競技スターター補助役員を担当
      野﨑 忠信氏、東京パラリンピック陸上競技スターターを担当
  • 1964東海道新幹線が開業

  • 1967 野﨑 忠信氏、ユニバーアシード東京大会陸上競技会スターターを担当
1968
昭和43
メキシコオリンピック開催(夏季)
テルアビブパラリンピック開催(夏季)
グルノーブルオリンピック開催(冬季)
1969
昭和44
日本陸上競技連盟の青木半治理事長が、日本体育協会の専務理事、日本オリンピック委員会(JOC )の委員長に就任

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1972
昭和47
ミュンヘンオリンピック開催(夏季)
ハイデルベルクパラリンピック開催(夏季)
札幌オリンピック開催(冬季)

  • 1973オイルショックが始まる
1976
昭和51
モントリオールオリンピック開催(夏季)
トロントパラリンピック開催(夏季)
インスブルックオリンピック開催(冬季)
 
  • 1976ロッキード事件が表面化
1978
昭和53
8カ国陸上(アメリカ・ソ連・西ドイツ・イギリス・フランス・イタリア・ポーランド・日本)開催  

  • 1978日中平和友好条約を調印
1980
昭和55
モスクワオリンピック開催(夏季)、日本はボイコット
アーネムパラリンピック開催(夏季)
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
ヤイロパラリンピック開催(冬季) 冬季大会への日本人初参加

  • 1982東北、上越新幹線が開業
1984
昭和59
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
ニューヨーク/ストーク・マンデビルパラリンピック開催(夏季)
サラエボオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

1988
昭和63
ソウルオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
鈴木大地 競泳金メダル獲得
カルガリーオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

  • 1989 野﨑 忠信氏、東京都陸上競技協会普及強化コーチに就任
      野﨑 忠信氏、第3回世界陸上競技選手権 東京大会スターター主任に就任
1992
平成4
バルセロナオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて日本女子陸上選手64年ぶりの銀メダル獲得
アルベールビルオリンピック開催(冬季)
ティーユ/アルベールビルパラリンピック開催(冬季)
1994
平成6
リレハンメルオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 1995阪神・淡路大震災が発生
1996
平成8
アトランタオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて銅メダル獲得

  • 1997香港が中国に返還される
1998
平成10
長野オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2000
平成12
シドニーオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
高橋尚子氏、女子マラソンにて金メダル獲得

  • 2001 野﨑 忠信氏、日本オリンピックアカデミー理事に就任
2002
平成14
ソルトレークシティオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2003 野﨑 忠信氏、財団法人日本陸上競技連盟 競技運営委員会審判部・公認審判員制度検討 小部会長に就任
2004
平成16
アテネオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
野口みずき氏、女子マラソンにて金メダル獲得
2006
平成18
トリノオリンピック・パラリンピック開催(冬季)
2007
平成19
第1回東京マラソン開催

2008
平成20
北京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
男子4×100mリレーで日本(塚原直貴氏、末續慎吾氏、高平慎士氏、朝原宣治氏)が3位とな り、男子トラック種目初のオリンピック銅メダル獲得

  • 2008リーマンショックが起こる
2010
平成22
バンクーバーオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2011東日本大震災が発生
2012
平成24
ロンドンオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催を決定

2014
平成26
ソチオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2015 野﨑 忠信氏、ユニバー日本陸上競技協会総務委員会委員に就任
     野﨑 忠信氏、 NPO法人関東パラ陸上競技協会顧問に就任
2016
平成28
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催(夏季)