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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

スポーツの変革に挑戦してきた人びと
第92回
経営者の手腕で日本スポーツ界に寄与してきた半世紀

堤 義明

学生時代から「スポーツ」と「観光ビジネス」を融合させた発想で、日本のスポーツ観光産業の先導役を果たしてきた堤義明さん。日本体育協会(現・日本スポーツ協会)の理事や副会長などを歴任し、1989年に日本オリンピック委員会(JOC)が独立した際には初代会長を務め、1998年長野オリンピックの招致、大会成功に大きく貢献されました。

また、西武鉄道や国土計画にアイスホッケー部を創設し、オーナーを務めた西武ライオンズを名実ともにプロ野球を代表とする球団へと導きました。常に先見の明を持ち、豊かな発想で日本スポーツ界の発展に寄与されてきた堤さんにお話をうかがいました。

聞き手/佐野慎輔  文/斉藤寿子  写真/フォート・キシモト  取材日/2020年1月31日

JOC独立のきっかけとなった"モスクワ五輪ボイコット"

モスクワオリンピック参加を涙で訴える高田裕司選手(1980年)

モスクワオリンピック参加を涙で訴える高田裕司選手(1980年)

―― いよいよ今年は東京オリンピック・パラリンピックイヤーということで、これからさらに機運が高まっていくことが予想されます。東京で2度目のオリンピック・パラリンピックを開催することができるのも、日本におけるオリンピックのトップ組織であるJOC(日本オリンピック委員会)が、日本体育協会から独立したことが大きいと言えます。その初代会長を務められたのが、堤さんでした。

もともとJOCは日本体育協会(以下、日体協)内の特別委員会として発足したものでした。それが、1989年に日体協から独立をして「財団法人日本オリンピック委員会」(2011年より公益財団法人)となったわけですが、ことの発端は、1980年のモスクワオリンピックのボイコット(1979年12月にソビエト連邦〈現・ロシア〉のアフガニスタンへの軍事侵攻に抗議するため、当時ソ連と冷戦状態が続いていたアメリカがモスクワオリンピックへのボイコットを提唱。日本も全面不参加を決定し、日本選手団の派遣を中止した)にありました。アメリカのジミー・カーター大統領(当時)からの呼びかけに応じて、日本政府から日体協に「モスクワオリンピックには選手を派遣しないでほしい」という要請を受けたのです。当時、私は日体協の理事とJOCの委員を兼任していたのですが、JOC側としては納得がいかず、猛反発しました。それに対して説得をされたのが、当時日体協会長で参議院議長を務められていた河野謙三先生でした。

「あなた方がオリンピックに行きたいというお気持ちはよくわかります。しかし、官邸からこのような要請を受けたのだから」と。というのも、当時のJOCには自分たちで予算を賄う機能はまったくなく、すべて政府の補助金で賄われていました。言ってみれば、唯一のスポンサーである政府からの頼みを無下に断るわけにはいかないということだったんです。結局JOCも不参加することに同意するほかありませんでした。

左:青木半治氏 右:松平康隆氏

左:青木半治氏 右:松平康隆氏

しかし、その後もJOCにはその時の出来事がずっとくすぶっていたわけです。そこへIOC(国際オリンピック委員会)から「いつまでも政府の外郭団体ではいけない。どこからも干渉されない独立した組織として法人化することがIOCとしては望ましい」という要望を受けたことをきっかけに、独立への機運が高まっていきました。そして、独立するにあたっては世代交代をしたほうがいいということで、当時日体協およびJOCの要職に就かれていた青木半治さん(早稲田大学競走部出身で戦前に砲丸投げ選手として活躍。JOC総務主事、日本陸上競技連盟会長、日体協会長などを歴任。1968年メキシコシティーオリンピック、1972年ミュンヘンオリンピックでは日本選手団団長を務めた)や柴田勝治さん(日本大学ボクシング部出身。1952年ヘルシンキオリンピックではボクシング日本代表監督を務めた。

その後、JOC総務主事や日本ボクシング連盟、アジアボクシング連盟の会長を歴任)、藤田明さん(早稲田大学水泳部出身。日本が水球で初めて出場した1932年ロサンゼルスオリンピックでは、コーチ兼主将として出場。日本水泳連盟会長、日体協理事、JOC常任委員などを歴任)らから私に「我々は日体協に残ってバックアップするけれども、新しいJOCからは身を引き、君に任せる。だから、しっかりと財団法人を設立してくれ」という話があったんです。
それで、私が独立したJOCの初代会長を務めることになりました。まず私が要望したのは、JOCの役員をアスリート出身者に務めてもらうことで、具体的な人選はすべて青木さんと柴田さんにお任せいたしました。これは良かったと思います。JOCの内部の人間ではなく、お二人のように外部の方のほうが、利害関係を考えずに公正な視点で選べますからね。

それで選ばれたのが、バレーボールの松平康隆さん(慶應義塾大学出身。全日本男子バレーボール監督として、1968年メキシコシティーオリンピックで銀メダル、1972年ミュンヘンオリンピックで金メダルに導く)、水泳の古橋廣之進さん(日本大学出身。何度も世界新記録を樹立_するなど、戦後の日本水泳界の大エースとして活躍。「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた。日本水泳連盟会長、JOC会長などを歴任)、レスリングの笹原正三さん(中央大学出身。1956年メルボルンオリンピックではレスリング・フリースタイル62kg級で金メダルを獲得。日本レスリング協会会長、国際レスリング連盟副会長、JOC副会長などを歴任)ら15人のメンバーでした。

初代日本オリンピック委員会会長に就任(1989年)左は古橋廣之進氏、右は岡野俊一郎氏

初代日本オリンピック委員会会長に就任(1989年)左は古橋廣之進氏、右は岡野俊一郎氏

―― 堤さんは、1977年に日体協の理事に就任し、1983年から1990年までは副会長を務められました。日体協に関わるようになったきっかけは何だったのでしょうか?

ある日、当時日体協の専務理事だった飯沢重一さんが河野先生の言伝で私の元へ来られまして、「どうしてもあなたに日体協の理事をやってほしい」と言われたんです。その理由を聞くと、「日体協は破産寸前で、どうにもならない状態です」と言うんです。聞けば、政府からの予算で選手強化や大会派遣などは賄われているけれども、事務的なことなど協会を運営するための費用は予算では拠出できず、困り果てていると。そこで私に「日体協の経営再生をお願いしたい」というお話でした。

しかし、実際に中に入ってわかったことですが、日体協には外部から予算をもってくる機能がなく、私の会社から出すことも、財閥組織から寄付を募ることも不可能な状態だったんです。そこでどうしようかといろいろと調べてみたところ、経営再生の道は意外にも簡単なところにありました。当時、日体協は各地域にスポーツ施設を持っていたんです。それをすべて各都道県に無償で寄付することにしまして、多額の固定資産税を支払わずに済むようにしたところ、早急に経営状態は改善されました。その件で、みなさんからの信頼を得ることができまして、副会長に就任することになったんです。そしてそれが、JOC独立の際に、青木さんや柴田さんが、私を会長に推してくれた理由でもありました。経営を再建した私なら日体協の人たちも説得し、スムーズにJOCが独立できるだろうということだったんです。

私にとって運が良かったのは、当時の文部大臣(現・文部科学大臣)が、私が親しくしていた西岡武夫さんだったことでした。私が直接西岡さんにJOCの独立について何かお願いをしたわけではなかったのですが、西岡さんのほうから「文部省からきちんと独立の許可を出します」というお話がありました。ご理解のあった西岡さんが文部大臣だったからこそ、日体協からの独立がスムーズに進みました。

堤一家。前列中央が父・康次郎氏、後列左が本人

堤一家。前列中央が父・康次郎氏、後列左が本人

―― 堤さんを筆頭に、さまざまな方々のご理解とご尽力があって、1989年にJOCが日体協から独立を果たしました。JOCが独立したことが、2年後の1991年に開催が決定した長野オリンピック招致活動の成功にもつながっていったのではないでしょうか。

そうですね。長野オリンピックの招致活動は、面白いご縁がありましてね。当時アディダスの会長を務めていたレネ・イエギさんは、私と同じ早稲田大学(以下、早大)の出身で、柔道部に所属していたんです。実は私の唯一のスポーツ歴は、柔道なんです。父親(堤康次郎、西武鉄道創業者、衆議院議長)が柔道家だったものですから、自宅には道場がありまして、小学生から高校まで柔道の家庭教師に稽古をつけてもらっていました。あの時、柔道ではなく、英語の家庭教師でもつけてくれていたら、もっと賢くなっていたと思うんですけどね(笑)まあ、これは冗談ですが、そんなことで大学入学時には三段でして、早大の柔道部に籍だけは置いていたんです。実際には自分で立ち上げたサークル「観光学会」のほうで活動をしていたのですが、名簿上では私はイエギさんにとって早大柔道部の先輩にあたるわけです。
そんな縁があって、長野オリンピックの招致活動をしていた時に、イエギさんが私を訪ねてきまして、IOCのファン・アントニオ・サマランチ会長(当時)を紹介してくれたんです。こちらとしては、これからどのようにして長野オリンピックを招致したらいいか模索していた時でしたので、本当にいいタイミングでした。

オリンピック・ミュージアムのオープニングセレモニーで挨拶するサマランチIOC会長
(当時)(1993年/ローザンヌ)

オリンピック・ミュージアムのオープニングセレモニーで挨拶するサマランチIOC会長(当時)(1993年/ローザンヌ)

その後サマランチ会長と食事をすることになったのですが、そのころ、IOCはオリンピック・ミュージアムの建設を計画していまして、聞けば、総工費が40億円かかると。IOCはその経費を集めるために寄付を募っていて、サマランチ会長は私にも依頼してきたんです。当時の日本は、非常に景気が良かったですし、企業イメージの向上にもつながるだろうということで、総工費の半分を寄付することにしたんです。一口が約1億4000万円でしたから、20口を引き受けました。とはいえ、会社のお金を寄付するわけにはいきませんでしたから、私は個人で寄付しましたが、あとは知り合いの企業の経営者などに依頼し、なんとかお金を集めました。それでIOCは開館に漕ぎ付けたのです。

サマランチ会長からは大変感謝されました。サマランチ会長自身も個人で何口かを寄付したので、ローザンヌ(スイス)に建てられたオリンピック・ミュージアムに行きますと、寄贈のところに世界中の企業名や団体名が並ぶなか、私とサマランチ会長だけは個人名が刻まれているんです。そういうこともあって、サマランチ会長は長野オリンピックの招致やその他日本のスポーツ界の諸問題について親身になってサポートしてくれたのだと思います。長野オリンピックの開会式の数日前に、IOCの理事たちを軽井沢のプリンスホテルに招待してパーティーを開いたのですが、その席でもサマランチ会長はオリンピック・ミュージアムの建設に関する貢献について謝意を述べられました。

長野オリンピック招致&開催の成功秘話

長野オリンピック招致活動中、千葉から長野までの特別列車の社内にて。右から
サマランチIOC会長、吉村午良長野県知事(何れも当時)、本人(1991年)

長野オリンピック招致活動中、千葉から長野までの特別列車の社内にて。右からサマランチIOC会長、吉村午良長野県知事(何れも当時)、本人(1991年)

―― 1998年に開催された長野オリンピックは、準備段階で環境問題などいろいろなことがありましたが、日本選手の活躍やボランティアの協力などで成功裏に終わりました。

長野県の吉村午良知事(当時)の存在が非常に大きかったと思います。吉村さんはオリンピックを何が何でも招致したいという強い情熱をお持ちでした。というのも、1 9 8 2年に上越新幹線が開業してからというもの、同じ雪国で昔から肩を並べていた新潟県に、すっかり遅れをとってしまったと感じられていたようなんです。そこで長野県にオリンピックを招致して、新幹線開通をそのレガシーにしたいと考えておられました。実際、オリンピックの開催にともなって長野新幹線が開業し、県民の皆さんは非常に感謝していますし、その後の北陸新幹線の開業にもつながりましたから、富山県、石川県、福井県の方々にとっても大きなレガシーとなりましたよね。
東京オリンピック・パラリンピックにおいても、よく「無駄に費用がかかりすぎる」という指摘がありますが、大会のためだけにかかる費用というのは、主に運営費と仮設施設の費用の2つ。そのほか、スポーツ施設をつくったり、交通網を整備したりするというのは、なにもオリンピック・パラリンピックのためだけではありません。たとえば、長野県への新幹線開通はなにも長野オリンピックのためだけのものではないですよね。オリンピックはきっかけに過ぎないんです。ですから運営費とインフラ整備のためにかかる費用とを混ぜこぜにして考えてはいけないと私は思います。

長野オリンピックで滑降等が行われた白馬・八方尾根スキー場(1998年)

長野オリンピックで滑降等が行われた白馬・八方尾根スキー場(1998年)

―― 長野オリンピックでは環境問題が大きなテーマとなり、アルペンスキーの滑降コースが変更になりました。本来は志賀高原の岩菅山に世界に誇れるコースを新設する計画があったのがとん挫してしまいました。

当時の報道にもありましたが、自然保護団体から反対の声があがったんです。それで白馬村の八方尾根で行われたわけですが、ありがたかったのは白馬の関係者たちが非常に協力的だったことでした。

当初、長野オリンピックのスキー競技の会場は、志賀高原、白馬、野沢温泉の3地域が候補にあがっていまして、白馬はアルペン競技を望んでいました。しかし、アルペンは志賀高原で行うことが決まり、白馬はノルディック・スキーの会場になったんです。それで白馬は、長野オリンピックのために立派なジャンプ台を創設してくれました。さらに、結果的に志賀高原でできなくなったアルペンのほうも急遽お願いすることになったわけですが、気持ちよく受け入れてくれて、白馬の人たちの心の広さを感じました。

オーストリアのアルペンスキー選手カール・シュランツ(中央)(1972年/札幌オリンピック選手村にて。
この後追放になった)

オーストリアのアルペンスキー選手カール・シュランツ (中央)(1972年/札幌オリンピック選手村にて。この後追放になった)

―― 長野オリンピックは財政的な面でも非常に成功しました。その重要な役割を果たしたのがJOCが中心となって出資して創設した「ジャパン・オリンピック・マーケティング」(JOM)という部門。これをJOCに創設し、長野オリンピック記念グッズを販売するショップを東京にもオープンさせたりするなどのマーケティング戦略が成功しました。そのおかげで51億円の黒字となり、オリンピック後に広く活用されました。

その背景には、プロ選手がオリンピックに出場することが容認されたことが非常に大きかったと思います。ご存じの通り、もともと「オリンピック憲章」(IOCによって採択されたオリンピズムの根本原則などを成文化したもの)にはアマチュア規定があり、参加はアマチュア選手に限られていました。しかし、1972年に札幌で開催された冬季オリンピックの時に、こんな事件が起こりました。アルペンスキーのオーストリア代表で出場するはずだったカール・シュランツ選手が広告への写真提供によって収入を得ていることが、開幕数日前にアメリカのメディアで報道されたんです。アマチュアリズムに強いこだわりを持っていたアベリー・ブランデージIOC会長(当時)はこれを問題視しまして、IOC委員による投票の結果、シュランツ選手の参加は認められませんでした。アマチュア選手だけが出場を認められていた当時、オリンピック選手はスポーツを利用してお金を得ることは許されていなかったんです。この事件を受けて、私と旧知の仲である国際スキー連盟のマーク・ホドラー会長(当時)は「今すぐにIOCを改革しなければ、オリンピックは金持ちだけが参加できるということになってしまう。こんなバカな話はない」と憤っていました。
彼は当時IOCの理事も務めていて、会計担当もやっていて、IOCのなかでも非常に力がありましたから、IOC改革の中心的役割を果たしたと思います。実際、2年後の1974年にはオリンピック憲章から「アマチュア」という文字が削除され、プロ選手の参加については各国際競技連盟に一任されるようになったんです。

そして、1980年にサマランチさんがIOC会長に就任したことで、全面的なプロ選手のオリンピック出場が容認されることになりました。しかし、そうした世界的な流れの中、日本は後れをとりました。当時の日体協にはアマチュア委員会がありまして、アマチュアリズムが根強く残っていたんです。ようやく日体協の「アマチュア規定」を廃止して、「スポーツ憲章」を制定し、スポーツは「人間が運動を自ら楽しみとして求めることによって成立してきた人類共通の文化」であると位置づけられたのは1986年。これ以降、日本でもプロ選手のオリンピック参加が認められていくようになったんです。

―― 1986年のスポーツ憲章制定が大きな意味をもちますが、年配の方たちの中には、アマチュアリズムに強いこだわりを持っていらっしゃる方たちが大勢いたはずです。アマチュア規定の廃止にもっていくためには、特にプロ容認の旗振り役として大きな責務を負われた堤さんは相当なご苦労があったのではないでしょうか。

世間一般的には知られていませんが、水面下では本当に大変でした。ただ、すでに世界がプロ化の道を進み始めていましたから、「プロ選手の出場を容認しないと、どんどん日本は世界に後れをとってしまいます」ということが言えたのは説得力がありましたね。

長野オリンピック・アイスホッケー決勝チェコ対ロシア戦(1998年)

長野オリンピック・アイスホッケー決勝チェコ対ロシア戦(1998年)

―― そうした世界的な流れの中、長野オリンピックではアイスホッケーにはNHL(ナショナルホッケーリーグ:北米プロアイスホッケーリーグ)の選手たちがアメリカやカナダの代表として出場しました。NHLの現役選手がオリンピックに出場したのは、この時が初めてでしたから、世界的な話題となり、アイスホッケーの試合は大盛況でした。

長野オリンピックの開催が決定した後、私とサマランチ会長とでは「NHLの現役選手をオリンピックに参加させよう」という話をしていました。そこでサマランチ会長と旧知の仲であったIIHF(国際アイスホッケー連盟)のルネ・ファゼル会長にも協力してもらいまして、オリンピックのために史上初めてレギュラーシーズンを中断する「オリンピック・ブレイク」を設け、オリンピック出場が可能となったんです。

長野オリンピック組織委員会としても、NHLの選手たちも参加しやすいように条件を整えました。まずは予選リーグと決勝ラウンドで選手の入れ替えを許可するルールにしました。また、NHLの選手たちにとっては本来であればリーグ戦真っただ中の時期ですから、なるべく短期間で終えられるようにと、シード国(6チーム)と非シード国(8チーム)に分け、NHLの選手が多くいる強豪国をシードとし、決勝ラウンドから参加すれば良いようにしました。さらにギャランティが発生しない代わりに、選手とその家族の分のファーストクラスの航空チケットとホテルを用意するというVIP扱いにしました。

初めてNHLの現役選手がオリンピックに参加して結成された"ドリーム・チーム"同士の試合は予想以上の人気を博しまして、チケットは完売し、放映権料も高騰しました。これは嬉しい"誤算"。これほどすごいことになるとはまったく予想していませんでした。51億円もの黒字は、アイスホッケーのおかげでした。

就任会見に臨む日本オリンピック委員会山下泰裕会長(2019年)

就任会見に臨む日本オリンピック委員会山下泰裕会長(2019年)

―― 長野オリンピック以降のオリンピックでは、財政的に厳しい状況が続いています。

確かにスポンサー集めには苦労しているかもしれませんね。2008年の「リーマン・ショック」(アメリカの投資銀行リーマン・ブラザーズが破産申請したのを契機に起こった世界的な金融危機)で景気が悪化したことも大きく影響したのではないでしょうか。

しかし近年、日本の景気は上向き状態にありますし、昨年JOCの新会長に就任した山下泰裕さん(全日本柔道選手権9連覇。1984年ロサンゼルスオリンピックでは柔道無差別級で金メダルを獲得。全日本柔道連盟副会長、東海大学副学長、味の素ナショナルトレーニングセンター長などを歴任)は世界的なアスリートでしたから、その山下さんがJOCの顔になったということも大きいと思いますね。山下さん自身、リーダーシップもありますし、表現力豊かで話もうまい。そういう意味では、企業からのサポートを受けて、財政的にも良いサイクルを生み出していくのではないかと期待しています。

西武ライオンズが生み出した プロ野球の慣習

堤義明氏

堤義明氏

―― 堤さんご自身は早大の学生時代には「観光学会」というサークルをつくったり、在学中に軽井沢にスケートセンターをつくって人を呼び込んだりと、「スポーツ」と「観光ビジネス」をうまくマッチさせてきたと思います。今では「スポーツツーリズム」(スポーツイベントとその開催地周辺の観光とを融合させ、人々の交流促進・拡大や経済への波及効果などを図る取り組み)という考えも浸透しつつありますが、以前は日本にはそういう概念がほとんどなかった中、堤さんはどのようにしてそのような発想に至ったのでしょうか。

今から50年ほど前、私が学生のころは軽井沢には避暑地というイメージしかなく、夏に利用する別荘しかなかったんです。父親から軽井沢の開発を任された際、どうすれば軽井沢の別荘に夏以外にももっと人を呼び込めるかを考えたんですね。その時に思ったのが「冬の寒さを活かしたものができれば、もっと人が来るようになるのでは」と思いまして、何がいいかを考えた結果、スケート場にたどり着いたわけです。そしたら大当たりで、最盛期には夏にも負けないほどの人が冬に軽井沢に行くようになりました。
ところが、最初はうまくいっていたのですが、そのうちに同じような施設が周りに次々とできてしまいまして、来場者がどんどん減っていってしまったんです。それで若い年代に人気のスケートではなく、もう少し高い年齢層の人たち向けに何かないかなと思いまして、そしたらスキーにたどり着いたと。軽井沢には雪は積もりませんから、それで群馬県の万座温泉のほうにスキー場をつくったわけです。

そうした成功を機に、「スポーツ」と「観光」というものを融合させて考えるようになったんです。もともと不動産を家業とする家で育ってきていますけれども、先代も都心にビルを建てるというようなことよりも、リゾート開発に注力していました。子どものころ、先代についていっていろいろと見ていく中で、その地域にあった「付加価値」を考えるようになったのだと思いますね。それが「スケート」「スキー」「ゴルフ」「テニス」というスポーツだったということなんでしょうね。それとちょうど時代的にも、生活にゆとりが出てきて、スポーツを楽しむようになってきていたということもあったと思います。

プロ野球 西武対オリックス戦(1999年/西武球場)

プロ野球 西武対オリックス戦(1999年/西武球場)

―― 堤さんの功績として欠かすことができないのが、西武ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)です。1978年、経営難に陥っていたクラウンライターライオンズを、西武グループの国土計画が買収し、「西武ライオンズ」が誕生しました。
当時、盟主を自認していた巨人でさえ多摩川の河川敷で練習し、小さなピッチング練習場しか所有していなかった時代に、西武のオーナーに就任した堤さんは、メジャーリーグのドジャースタジアムをモデルとしたすばらしい新球場を建設し、さらに球場付近には第一、第二グラウンドや室内ピッチング練習場、選手寮までつくられました。それに応えて、球団創設3年目の1982年には24年ぶりの日本一を達成しました。

実は、あれほど早く優勝するとはまったく予想していなかったんです。それまでライオンズは最下位が定位置というくらいの球団でしたから、私は日本シリーズで対戦するセ・リーグの6球団もあわせて、11年かけて日本一になればいい、と長期計画で考えていました。ですから即戦力の選手を集めるのではなく、チームスポーツなのだから、個人的な能力よりもチームワークを大切にしてコミュニケーションを図れるような選手たちを集めなさいと指示していました。殺伐とした雰囲気ではなく、みんなで一致団結をして明るい雰囲気で優勝をめざすようなチームづくりをテーマに掲げていたんです。

―― 今ではプロ野球では一般的になりましたが、選手が移動の時にスーツを着るというのも西武ライオンズが始めたことでしたし、ライオンズの公式マスコット「レオ」のピンバッジを選手がみんな胸に付けるというのも画期的なことでした。そうしたこともすべて「一致団結」を意味していたんですね。

最初にライオンズの選手たちを見た時に、あまりにもバラバラだったんですね。例えば、高校野球とかアマチュアの選手はきちんと整列したり、そろえるのが当たり前ですよね。ところが、プロはそうではなかったんです。それで、服装などをそろえたらチームに団結力が生まれるのではないかと思いまして、それで始めたことでした。

根本陸夫氏

根本陸夫氏

―― 他球団も西武ライオンズに追随していって、今ではどこの球団もやるようになりました。また、チームづくりにおいても、前年に最下位だったクラウンの監督である根本陸夫さん(元プロ野球選手。引退後、コーチ、監督、ゼネラルマネジャー〈GM〉を歴任。特にGMとしての手腕に優れ、西武ライオンズやダイエーホークス〈現・福岡ダイエーホークス〉の黄金時代を築いた)に権限を持たせ、3年目の1981年に広岡達朗さん(巨人の遊撃手として活躍し、現役引退後は監督としてヤクルトスワローズ〈現・東京ヤクルトスワローズ〉、西武を日本一に導いたプロ野球界屈指の名将)を監督に抜擢したというのも、さすがでした。

根本さんは監督としての能力はとても高いとは言えませんでした(笑)
クラウン、西武の監督を務めた3シーズンの成績は、リーグ5位、6位(最下位)、4位でしたからね。しかし、有望新人選手の獲得などチーム編成やフロント業務のGMとしての能力は非常に高いと思っていましたから、正解でしたね。広岡さんを監督にした背景には、実は川上哲治さん(戦時中から戦後にわたって巨人で強打者として活躍。引退後、コーチを経て1961年に巨人の監督に就任。14年間で日本一11回を誇り、特に1965年から1973年までの日本シリーズ9連覇達成は「巨人V9時代」として今も語り草となっている)からの助言がありました。

周囲には絶対に気づかれないように、あるテレビ局の応接室をお借りしまして、川上さんにお会いしまして「あなたの思想を最も受け継いでいる人を紹介してもらえませんか」と言ったところ、広岡さんの名前が出てきたわけです。おかげで球団創設4年目、広岡さんが監督就任1年目の1982年にはリーグ優勝、日本一を達成しました。あんなに早く優勝できたのは99%、広岡さんの力でした。

東京オリンピック・パラリンピックは 心を豊かに体を健康にするきっかけに

第72国民体育大会開会式(2017年/愛媛)

第72国民体育大会開会式(2017年/愛媛)

―― 日本スポーツ界の発展に幅広くご尽力されてきた堤さんは、今後、日本スポーツ界がさらに発展していくためには何が必要だと思われますか?

まずJOCですが、リーダーシップがあり、国際的にも顔が広い山下泰裕さんが昨年に新会長に就任したことは、非常に良かったと思っています。あとはマーケティング部門に適任の人材を持ってこられるかということだと思います。山下さんが全幅の信頼をおける方にお任せして、財政面をきちんとできれば、あとは選手強化に対しては山下さんはご専門ですから、うまくまわっていくと思います。

―― 日本スポーツ協会(以下、JSPO)が主要事業としている国民体育大会(以下、国体)ですが、今、その開催意義が問われています。国体をさらに発展させるためにはどうしたらいいでしょうか?

参加数を減少させて縮小化することで、自分たちで首を絞めている状態だと思います。縮小化は経費の問題が理由だというけれども、そもそもなぜ国体はすべての競技をひとつの都道府県で開催しなければいけないのでしょうか。たとえば「北海道」「東北」「関東」「東海」「北陸」「近畿」「中国」「四国」「九州」と9地域にわけるとかね。近隣の複数の府県が協力しあってやればいいわけですよ。そうすれば、経費の負担も減らすことができますし、これまで仲が悪かった地域同士が仲良くなって新たな交流が生まれて活性化につながると思いますよ。

―― 今、日体協を前身にもつJSPOとJOCを再び合併したほうがいいのではないか、という話もありますが、堤さんはどのようなお考えでしょうか?

それはとんでもない話で、まったく意味のないことです。そもそも何の為に合併の必要性があるのか、私にはまったくわかりません。JSPOとJOCとでは、それぞれ違う役割があるわけですから。JSPOにとって最大の主要事業は、国体ですから、トップアスリートを育成、強化するのではなく、幅広くスポーツを普及させることが最大の役割なんです。それに対してトップアスリートを世界へ送り出すのがJOCの務めなわけです。そういうふうにまったく異なる役割であるJSPOとJOCを、いったい何の為に合併させようとしているのかなと思いますね。そもそもJOCはIOCの下部組織なわけで、オリンピック憲章にも「各国のNOCは独立した組織でなければならない」というふうになっているんです。

―― 何か問題が起きた時に、日本スポーツ界として取りまとめるトップの存在が必要ということはないでしょうか。

お互いに話し合えば済むことではないかと思いますよ。というのも、JOCの理事のひとつはJSPOの会長となっていますし、逆にJSPOの理事のひとつはJOCの会長となっていて、双方の関係性が築かれているわけです。ですから何かあった時には理事会を開けば意見の交換ができることになっています。それで十分ではないかと思います。

コクドアイスホッケーチーム(2005年)

コクドアイスホッケーチーム(2005年)

―― 堤さんが注力してこられた冬季スポーツの衰退も深刻化しています。例えばアイスホッケーですが、1966年にスタートした日本アイスホッケーリーグは、チームの廃部が相次ぎ、2005年を最後に休止に追い込まれました。現在は、日本、韓国、ロシアの「アジアリーグ」が行われていますが、いずれにしても難しい状況が続いています。

2017年に中部電力の水野明久会長が日本アイスホッケー連盟の会長に就任し、基盤づくりを進めてくれていますので、まずは一安心というところですね。アイスホッケーの場合は、選手強化よりもまず先に組織の体制を強化していくことが先決です。そういう意味ではアイスホッケー選手の出身者で、なおかつ経済界でご活躍されている水野さんというすばらしい方が引き受けてくれましたので、大丈夫だと思います。

また、全日本スキー連盟も北野建設の北野貴裕氏が会長に就任後、改革を進めて非常にうまくまわっています。私はすでにスポーツ界から身を引いたわけですが、安心して見ていられるなという気持ちでいます。

ウィルチェアーラグビー(2016年/リオデジャネイロ・パラリンピック)

ウィルチェアーラグビー(2016年/リオデジャネイロ・パラリンピック)

―― いよいよ目の前に迫ってきている2度目の東京オリンピック・パラリンピック開催の意義については、どのように感じられていますでしょうか?

世界最高峰のスポーツの祭典であるオリンピックというのは、人が見て「こんなにすごいことができるんだ」と感動するものだと思うんですね。それによって、多くの人たちがスポーツに関心を持つこと。それが大切だと思います。パラリンピックも同じではないでしょうか。障がいがあって、これまでは自宅にいることが多かった人たちが、パラリンピックを見て、「自分ももっと外で動いてみよう」というふうに思えるきっかけとなればいいなと思います。

―― 未来の日本に託したいこととは何でしょうか?

スポーツの最大の役割というのは、人の心を豊かにすることだと思います。いきいきとした人生を送ること、つまり娯楽性に富んだものなんですね。ですから、スポーツには生産性はないのだけれども、その生産性のあることに従事している人たちに刺激を与えることだと思います。

今、オリンピックやパラリンピックで勝つことだけがフォーカスされていますが、本来の目的というのは国民がスポーツに関心を寄せて親しんでもらい、それによって心が豊かになり、体が健康になる、そのきっかけになることだと思います。
そういう本来の目的を忘れてほしくないなと思います。

  • 堤 義明氏 略歴
  • 世相

1912
明治45

ストックホルムオリンピック開催(夏季)
日本から金栗四三氏が男子マラソン、三島弥彦氏が男子100m、200mに初参加

1916
大正5

第一次世界大戦でオリンピック中止

1920
大正9

アントワープオリンピック開催(夏季)

1924
大正13
パリオリンピック開催(夏季)
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の入賞となる6位となる
1928
昭和3
アムステルダムオリンピック開催(夏季)
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の金メダルを獲得
人見絹枝氏、女子800mで全競技を通じて日本人女子初の銀メダルを獲得
サンモリッツオリンピック開催(冬季)
1932
昭和7
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
南部忠平氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)

  • 1934 堤 義明氏、東京に生まれる
1936
昭和11
ベルリンオリンピック開催(夏季)
田島直人氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
織田幹雄氏、南部忠平氏に続く日本人選手の同種目3連覇となる
ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック開催(冬季)

1940
昭和15
第二次世界大戦でオリンピック中止

1944
昭和19
第二次世界大戦でオリンピック中止

  • 1945第二次世界大戦が終戦
  • 1947日本国憲法が施行
1948
昭和23
ロンドンオリンピック開催(夏季)
サンモリッツオリンピック開催(冬季)

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951日米安全保障条約を締結
1952
昭和27
ヘルシンキオリンピック開催(夏季)
オスロオリンピック開催(冬季)

  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
メルボルンオリンピック開催(夏季)
コルチナ・ダンペッツォオリンピック開催(冬季)
猪谷千春氏、スキー回転で銀メダル獲得(冬季大会で日本人初のメダリストとなる)

  • 1957 堤 義明氏、早稲田大学商学部を卒業し、国土計画興業(後のコクド)代表取締役を務める
1959
昭和34
1964年東京オリンピック開催決定

1960
昭和35
ローマオリンピック開催(夏季)
スコーバレーオリンピック開催(冬季)

ローマで第9回国際ストーク・マンデビル競技大会が開催
(のちに、第1回パラリンピックとして位置づけられる)

  • 1960 堤 義明氏、西武鉄道取締役に就任
1964
昭和39
東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
円谷幸吉氏、男子マラソンで銅メダル獲得
インスブルックオリンピック開催(冬季)

  • 1964東海道新幹線が開業
  • 1964 堤 義明氏、伊豆箱根鉄道社長に就任
1968
昭和43
メキシコオリンピック開催(夏季)
テルアビブパラリンピック開催(夏季)
グルノーブルオリンピック開催(冬季)

1969
昭和44
日本陸上競技連盟の青木半治理事長が、日本体育協会の専務理事、日本オリンピック委員会(JOC)の委員長に就任

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1972
昭和47
ミュンヘンオリンピック開催(夏季)
ハイデルベルクパラリンピック開催(夏季)
札幌オリンピック開催(冬季)

  • 1973 堤 義明氏、日本アイスホッケー連盟会長に就任
      堤 義明氏、西武鉄道社長に就任
  • 1973オイルショックが始まる
1976
昭和51
モントリオールオリンピック開催(夏季)
トロントパラリンピック開催(夏季)
インスブルックオリンピック開催(冬季)
 
  • 1976 堤 義明氏、プリンスホテル社長に就任
  • 1976ロッキード事件が表面化
  • 1977 堤 義明氏、日本体育協会(現・日本スポーツ協会)理事に就任
1978
昭和53
8カ国陸上(アメリカ・ソ連・西ドイツ・イギリス・フランス・イタリア・ポーランド・日本)開催  

  • 1978 堤 義明氏、西武ライオンズオーナーに就任
  • 1978日中平和友好条約を調印
1980
昭和55
モスクワオリンピック開催(夏季)、日本はボイコット
アーネムパラリンピック開催(夏季)
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
ヤイロパラリンピック開催(冬季) 冬季大会への日本人初参加

  • 1982東北、上越新幹線が開業
1984
昭和59
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
ニューヨーク/ストーク・マンデビルパラリンピック開催(夏季)
サラエボオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

  • 1986 堤 義明氏、全日本スキー連盟会長に就任
  • 1987 堤 義明氏、世界長者番付で1位となる
1988
昭和63
ソウルオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
鈴木大地 競泳金メダル獲得
カルガリーオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

  • 1989 堤 義明氏、日本オリンピック委員会会長に就任
      堤 義明氏、西武鉄道会長に就任
1992
平成4
バルセロナオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて日本女子陸上選手64年ぶりの銀メダル獲得
アルベールビルオリンピック開催(冬季)
ティーユ/アルベールビルパラリンピック開催(冬季)

  • 1992 堤 義明氏、アルベールビルオリンピック日本選手団長を務める
1994
平成6
リレハンメルオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 1995阪神・淡路大震災が発生
1996
平成8
アトランタオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて銅メダル獲得

  • 1997 堤 義明氏、日本オリンピック委員会名誉会長に就任
  • 1997香港が中国に返還される
1998
平成10
長野オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2000
平成12
シドニーオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
高橋尚子氏、女子マラソンにて金メダル獲得

  • 2000 堤 義明氏、国際オリンピック委員会栄誉委員に就任
2002
平成14
ソルトレークシティオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2003 堤 義明氏、日本アイスホッケー連盟名誉会長に就任
2004
平成16
アテネオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
野口みずき氏、女子マラソンにて金メダル獲得

2006
平成18
トリノオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2007
平成19
第1回東京マラソン開催

2008
平成20
北京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
男子4×100mリレーで日本(塚原直貴氏、末續慎吾氏、高平慎士氏、朝原宣治氏)が3位となり、男子トラック種目初のオリンピック銅メダル獲得

  • 2008リーマンショックが起こる
2010
平成22
バンクーバーオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2011東日本大震災が発生
2012
平成24
ロンドンオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催決定

  • 2013 堤 義明氏、日本オリンピック委員会名誉顧問に就任
2014
平成26
ソチオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2016
平成28
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催(夏季)

2018
平成30
平昌オリンピック・パラリンピック開催(冬季)